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矢野武貞の吃音談義〈青空広場〉コミュの「吃音の謎」について〜次世代研究者の方々へお伝えしておきたいこと

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吃音学界の常識に従えば、「吃音の謎」とは「吃音という欠損DISORDERの謎」の意に他なりません。

私は、この前提的認識に異を唱え続けて参りました。


私の考えでは、吃音は、言葉という秩序ORDERの構築を志向する発話行為そのもの以外ではないのであります。


この当たり前に過ぎると思われる指摘は、吃音学の学的常識をその根底から覆すものであるため、忌避され続けて来ております。


けれど、当人のワタクシが言うのもナンですが、このままに朽ち果てさせるには、いささか惜しいアイディアである、というふうに思われます。


すなわち、次世代研究者の方々の検証にゆだねるべく、せめてもの足掛かりを遺しておきたい、と思い立った所以でありました。






コメント(318)

>>[278] 現在進行中の「本格トピ」がある場合は、こちらは自粛します。もっとも仕事が忙しくてそれどころではありませんが。
ちょうど良い機会なので長期お休みをいただきます。

「本格トピ」=『「吃音」の本質〜話行為の構造と病理』弓立社1975年
は、ただ傍観しているのではなく、書き込む機会をうかがっております。
>>[279]

メシの種のお仕事はたいせつです!まずは、お仕事第一になさってください。

YUJIさんの実質的不在は、寂しいし侘びしいけれど----
福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫

故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然ば則ち今日の異端妄説もまた必ず後年の通論常談なるべし。学者宜しく…勇を振て我思う所の説を吐くべし。
保坂和志『考える練習』大和書房

人がどう思うか、「これは人にわかんのかな」ってことはもうどうでもいい。だからいろいろ言っているけど、なんだかんだで最後に頼れるのは、つくっている最中の「自分の中に何かが生まれてくる感じ」しかない。
ジェスパー・ホフマイヤ−『生命記号論〜宇宙の意味と表象』松野孝一郎+高原美規 訳 青土社

言葉を覚え始めた子供にとって文章が単位であり、文全体が一塊で一種の単語のように捕えられ、実際の単語が文章全体の中から個別に切り出せるようになるのはもっと後になってからである。言語とは…その構成からして根本的には物語風のものである。
>>[283] しばらくの間、ホフマイヤ−『生命記号論』の存在を忘れてました。かつては熱狂したのに。

この神考察は言語学全体の底上げに貢献しますね。(吃音学にも)
近藤雄生❲ゆうき❳『吃音〜伝えられないもどかしさ』新潮社2019年

(帯文より)---離職、家庭の危機、時に自殺にまで追い込まれることさえある。自らも悩んだ著者が、80人以上に丹念に話を聞き、当事者の現実に迫るノンフィクション!

(部分引用。)どもる時に感じる苦しさは、言葉が詰まって言えないことそのもの以上に、相手に不可解に思われたり驚かれたりすることに対する恥ずかしさや怖さによる部分が大きいようにも思う。---どちらも、自分で制御することができないゆえの不安感を生み出し、それが吃音の苦しさの核心部分にあるのではないだろうか。
河野哲也『意識は実在しない〜心-知覚-自由』講談社選書メチエ

脳科学の用いている心理学的カテゴリーは、私たちの社会の価値を反映したものである。この点に無自覚であるような「客観的」研究は、現在の社会のあり方を無前提❲無批判❳に受け入れて、その上に自らの研究を進めていることになる。
ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳 作品社

真理はみずから生成するものであり、自分の終点を前もって目的に設定し、はじまりの地点ですでに目の前にもち、中間の展開過程を経て終点に達するとき、はじめて現実的なものとなる円環なのである。
山崎正和『演技する精神』中央公論社1983年

動詞の不定法---「すること」といふ表現は---それが、一面においては行動の動きを示してをり、しかも他面においては、静止的な名詞としての性格を含んでゐることだといへる。---これに対応して、そこに捉へられた行動もまた、当然、時間の点で宙吊りの状態に置かれ、行動しながらまだしてゐない行動として、あるいは、身がまへながらその姿勢を凍結した行動として捉へられてゐる。

◈調節性、予期性の吃音的発話行為。その成立の仕方への説明としても読める。
渡辺哲夫『知覚の呪縛』ちくま学芸文庫

こうして、分裂病とは何か?という問いの落とし穴が見えてくる。この疑問文の主語は一片の名詞か、あるいは、ありもしない秘密のどちらかでしかない。隠された事実などない。一切は露出している。謎は未だ発見されない分裂病なる真理にあるのではなく、露出してしまった病者の世界の途方もない背理の渦そのものにある。
お題:侮っていたド凡人・福岡伸一!

以前、stuttさんにご紹介いただいた『福岡伸一、西田哲学を読む』_生命をめぐる思索の旅(池田善昭との対話形式)を買い、少し読んで「福岡伸一は動的平衡から進歩がない。哲学者・池田善昭の文章に価値がある程度」と高を括り放置していました。実は名著だと分かり、吃音学にもかなり役立つと思い私からも推薦します。


年輪問答は最高傑作!


まず、福岡がしつこい! 池田が方便で「年輪」を語っているのを気づくべきです。ロゴスでは語りにくいピュシスを「年輪」であえて喩えているのです。
哲学を齧ったものなら、あんな福岡のような質問は誰もしません。
でも、この福岡の(ロゴス寄りの)執拗なツッコミが最高の決論を導きました。

そもそも、池田は「逆限定」を福岡がすんなり理解すると思っていました。ところがどっこい! 福岡は「動的平衡」と言いながら、実はロゴス寄りの・哲学にはあまり向いてない秀才タイプということが露呈しました。この人は、ただ文章がうまく「生命のことを分かった気にさせてくれる」ド凡人です。

一方、池田善昭の才能には惚れました! 福岡のしつこい問いに完璧に答えてます。この人を追っかけたくなりました。
この二人の化学反応が絶妙で稀にみる最高傑作を生み出しました。

____


本書の吃音学への応用

矢野理論はピュシスを対象としています。一方、学界(吃音学に限定せず全体的に)はロゴスが対象なのです。
自分の言葉でピュシス・ロゴスを定義するとこうなります。
ピュシスは、世界の最初の原動力です。「力」なのです。ロゴスは「力」によって分化・具現化した﹅結果﹅であり、単にパターン(傾向)にすぎません。

学者が全般的にロゴスに寄ってしまうので、ピュシスを語っている人間を全く理解できないのです。



矢野理論を世に広める契機

これは意外にも福岡のようなド凡人によってもたらされるかもしれません。今回の福岡は「脇役」として最高の仕事をしました。
わたしの架空の講義にJ君がいました。今後登場することがあれば、福岡のようなしつこさで先生を困らせる名脇役に仕立て上げたいです。



「先回り」

いささかロゴス寄りではあるものの、秀才(天才とは程遠い)福岡が生み出した最高のキャッチフレーズです。
本書の西田哲学「逆限定」そのものを分かりやすくイメージさせてくれます。

吃音は、発話行為でエラーが生じることを「先回り」して加わるサポート力です。エラーは織り込み済みなのです。
ピュシス(力)にとっては「全体」の遂行が最優先なのです。発話行為なら、思い浮かんだイメージを「全部言い切る」ことが最優先なのです。吃音が生じても発話自体は完遂していることに注目しましょう。

→科学は目的論になって良いと思います。

世界は「全体」を知っています!
物理の世界は実は能動的です。屈折する光の軌道は最短距離になっています。まだ進んだことのない「進むべき軌道」を既に知っています。
量子力学も不思議だらけですが、ロゴスに執着するから理解できないのであって、「目的論」を導入すれば世界の運動がシンプルなものになると思います。


____

時間論


最高傑作・年論問答で、「観測することで、はじめて時間が生じる」という考えが出ました。観測者(生命)が存在しないときは時間は無いという考えは池田清彦も大賛成でしょう。
苫米地英人が頻繁に引用する一部仏教の考え「時間は未来から過去に流れる」も真実かもしれません。観測した時点をベースに、過去が「創造」されるのです!


本書は宝の山で、また時間があるときに掘り下げましょう

❮「先回り」

いささかロゴス寄りではあるものの、秀才(天才とは程遠い)福岡が生み出した最高のキャッチフレーズです。
本書の西田哲学「逆限定」そのものを分かりやすくイメージさせてくれます。

吃音は、発話行為でエラーが生じることを「先回り」して加わるサポート力です。エラーは織り込み済みなのです。 ❯

まさに!

YUJIさんの理解力に、あらためて脱帽!


池田善昭「エピローグー生命を❬内から見ること❭において統合される科学と哲学」:『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店所収

岸壁上でのクライマーの登坂とは、従って、ピュシスの立場からすれば、「意識」「無意識」といった自己意識の次元ではまったくない。どこまでも一挙手一投足が「先回り」として働く西田❲幾多郎❳の言う「行為的直感」であると考えなければならない。
【2年の空白がありました。復活を宣言します!本トピが矢野吃音学の最前線です】



以下は、私が❬考える人が集まるコミュ❭に書いたものです。

stuttさんが気に入り「吃音談義:コ―ヒ―・ブレィク〜よもやまバナシいろいろ」#[246]に引用していただきました。

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=3774607&id=37460232



微修正して再掲します。

→【今後の理論展開に使うからです!】



_____________





トピ主さんは、

「自我が実在でなく概念だというけど自我という機能は間違いなく存在している」

と思われてますね。



わたしも「自我は実在ではない=空」だと思っていて、それでも「自我という機能は間違いなく存在している」と考えてます。後者の「自我という機能の存在」こそを強調したいです。



<10年前の私と今の私は別の私である。>

<1秒前の私と今の私は違う私である。>

<私は瞬間瞬間、変化している。 >



これは事実だけど、「私」という同一概念で括っています。

現象の正体は、ただそこに変化(無常)があるだけです。

なのに「私」という同一性があるということは、変化(無常)をより高次に統合している情報処理が存在するということです。





同一性は変化より高次の概念なのです。

変化(無常)と同一性との間には階層性があります。



下位層(低次概念)← 変化(無常)<同一性 →上位層(高次概念)





同一性とは、変化(無常)を抽象度の高いところから見て整合性(つじつま合わせ)をとる高次な情報処理なのです。



自我は存在しません。変化を一括りに統合する高次の情報処理があるだけです。



_____________



何の理論展開に使うのかと言うと「俯瞰論」です。

保坂和志『世界を肯定する哲学』はココでの必須本とします。(以前にも絶賛しました。のちに再度述べます)

「私」を俯瞰するような視点で書かれた文章の方が、「全体を見るような視点」を欠いたカフカの小説より遥かに分かりやすいのです。

映画は一般的な「大衆」に向けて、「私」を俯瞰するような視点(=全体がまず写って、その中に「私」がいる)で作られてます。



デカルトは「私がいる」ということは疑いようがない、この絶対正しい事実を元に理論を構成しようとしました。

されど「私」は常時変化します(無常)。「私」ほど不確かなものはないです。

それよりも、「私」がいくら変化しても「同一性」を保とうとする機能こそを世界の公理としたいです。



→「私」がいくら変化しようとも、「私」という同一概念で括る高次の情報処理が間違いなく存在します。

「私」という存在があるという驚き(独我論)よりも、「私」を俯瞰する高次の情報処理があるという事実の方が、【世界の根本】により近いと考えます。



・・・



空白の2年間で書きたかった一つに、スピリチュアルと科学の統合があります。

驚くべきことに、栗本慎一郎は既にそれをやってます!

栗本慎一郎のことを含めてスピリチュアル系のことを書きたかったのです。(あくまで過去形。過去形の理由は後述)



スピリチュアル用語で「ハイヤーセルフ」というのがあります。まさにそれこそが〈「私」がいくら変化しようとも、「私」という同一概念で括る高次の情報処理〉そのものだと思うのです。

「ハイヤーセルフ」は、不確かで変化する「私」を俯瞰する高次の情報処理です。

変化する「私」よりも、「ハイヤーセルフ」の方が【世界の根源】により近いと考えるのです。
2年の空白の間に「書きたい!」と思ったことが何度もある。後述する。その前に矢野吃音学の要点と今後の展望を記す。



まず、矢野吃音学を真に継承できるのは私しかいない!と自負している。

(栗本慎一郎についても同様で、クリシンの真の関心事を継承できるのは私しかいないと自負している。最近、昔の栗本コミュ仲間の一人と話した。全然ダメダメで匙を投げた)



矢野先生の要点は単純明快。

第一段階「真実」

「吃音は発話機能が十全に働いているからこそ起きる現象である」→吃音とは発話行為そのものである。

ゆえに従来の定説である「吃音は発話機能に障害が起きている」という考えは完全な誤りなのだ。





矢野吃音学には隠れた第二段階が存在する。

第二段階「期待」(裏面:当たり前のことが理解されない「失望」)

私は以前にも増して吃音=発話であることが腑に落ちている。腑に落ちれば落ちるほど、吃音の真実を人に話したいとは思わない。

矢野先生の主張はコロンブスの卵で、「卵の尻をつぶせば立つ」ことをわざわざ人に話したいとは思わない。「当たり前」のことだからである。



矢野先生の「期待」はこうだ。「吃音=発話」は当たり前のことなのだが「誰もが気づかなかった真実」である。この真実を世に訴えることによって、吃音学界が変わることを期待した。吃音学界のみならず言語学一般にも波及して、学問の新しいムーブになることを夢見た。

ところがどうだろう。「当たり前のこと」なのに無視されている。この失望感…。私にだけは語ってくれた。自分の吃音学が理解されないままなのは余りにも惜しく「無念」だと。私がココで書くのは先生の無念を晴らすためでもある。



諸君らに「期待」する!

何度も引用した、保坂和志『世界を肯定する哲学』をココの公式推薦書とする。

常人が気づかない視点が山程あり、何度読んでもインスピレーションが得られるからだ。

諸君らは矢野吃音学を理解できる人間である。先生の期待通りに、「吃音=発話」は当たり前のこととして「更に先」を目指して欲しいのだ。

諸君らは〈「誰もが気づかない真実」を訴える人間〉に敏感になれ! それにインスピレーションを得て、各々自分で考え、理論を発展させるのだ!

「自分のアンテナを敏感にし能動的に考える」を諸君らに期待する。次に書く「依存」状態をから自ら防御するためである。



続く
承前



私は独自に第三段階を主張する。

第三段階「依存」(正確には「依存」から脱却するにはどうすればよいか?が題名)

矢野吃音学が理解されない「理由」もはっきりしてきた。

矢野先生からもらった吃音者のドキュメンタリービデオでは、最初から吃音者自らが「病気」だと思っている節がある。

なんらかの「困難」があると「病気」だと思いたい世の風潮がある。年々「困難」自体のレベルが下がってる。つまりちょっとしたことで「病気」として認定され、自ら「病気」だと思う風潮になっている。



後述する「捨てられない本」=五木寛之・香山リカ『鬱の力』では、ちょっと落ち込んだ程度で「鬱」と病気診断して欲しいダメ人間が紹介されている。一人二人ではない。世の風潮としてそういう人間が増えてきたということだ。落ち込んだ鬱の気分自体は「病気」ではなく、むしろ「生きる力」そのものだと著者は言う。私も同意する。

この主張は矢野吃音学と通底する。



吃音は病気じゃなく発話の持つ作用の結果生じたもの=落ち込んだ気分自体は病気じゃなく生きる力が働いた結果生じたもの



ちょっと困難があると「病気」と認定してもらいたいのだ。困難を完全に他人に「依存」してしまう。これは他人事ではない!

風邪薬というおかしなものが平然と売っている。熱・せき・痰は病気を治そうとする正常な身体の作用である。解熱は治癒に逆行する。

私たちは安易に医者に「依存」するようになった。治癒に逆行する薬(もはや毒)を処方されて安心する始末。私たちは毒を飲み続け、肝心の身体作用=免疫を弱めている。さらに病気になりやすくなるという悪循環! まだまだある。



健康診断。血圧が基準値以上だと高血圧という「病気」が捏造される。血圧値はバランス調整が働いた結果、身体の最適解なのである。血圧を薬で抑えるという考えが既におかしい。身体はバランスで成り立つ。血圧値をバランスを崩して下げれば他の身体機能が悪化するのが目に見えている。そして高血圧とされる値が年々下がっている!

にも関わらず、「血圧値が何々以上で高血圧と認定→薬(というより毒)が処方される→何の疑問も抱かず毒を飲み続ける」を平気でやっている。



「病気」と認定して欲しい人間が増えている。それに応えるように医者は安易に「病気」を認定し、薬と称する毒を飲ませる。そこには自然治癒能力という考えはない。自ら考えること放棄し、生きることを他人に「依存」してしまってる。



「病気」と認定して欲しい人間の増加、「病気」を認定する医者、医者に「病気」を治す気はなく毒を飲ませる。本来「病気」ではないものまで「病気」として定着しまう。この・世の風潮に吃音も巻き込まれている。

吃音者は困難ゆえに自らを「病気」と認定して欲しいのだ。そして吃音を「病気」と認定する学界。この強力タッグがある限り、矢野吃音学は無視される。



以下のディストピアも冗談抜きであり得る。

吃音学界は医者という権力と結びつき、吃音という「病気」に対する特効薬を開発する。当然そんなものはない。あるとしたら発話行為にダメージを与える毒である。発話が阻害されれば吃音もなくなる。(本当にそんな薬が近々堂々と世に出てきそうで怖い)

吃音者はなんの疑問も抱かず薬(毒)を飲んでしまう!

そこまで行ったら、吃音の予防接種も出てきそう。吃音が始まる幼児期に接種すると効果的と宣伝される。打ったら発話行為自体が阻害される。それでも、白衣を着た偉そうな人物がウソのデータを使って効果があるように宣伝する。やがて人類は発話することができなくなる!



人類は何も考えない。しゃべらない。もはや生きる行為そのものを他人(権力)に全部「依存」している…。

空想話だが、昨今の風潮から本当に起きかねない!


↓ ↓ ↓
↓ ↓ ↓



「依存」は世界の根源に由来すると考えるのだ。いつものように大風呂敷だ。根源論を展開する際に詳細に述べる。

悲しいかな矢野吃音学は無視されている。この現状を逆手に取って、「新しい学問」を展開しようとする試みが第三段階の本意だ。

矢野吃音学は真実。もうとっくに学問は次の段階に入ってないとおかしいのだ。矢野吃音学が分からない人間は放って置こう。

世に蔓延っている「依存」の正体は何かを追求し、「依存」から脱却する方法を模索する。

はっきりと言ってしまおう。地球が、人類が、特に日本が危険レベルでおかしいと「依存」という言葉を使って言ったのだ。

日本がおかしくなったので何とかしようぜと言ってるのだ。

「第三段階」には2年に考えてきたことが全て詰まっている。





少し述べる。この世全体は充足してないと考える。充足してたなら何も生まない。存在の根源は不安だと思うのだ。不安だからこそ何かを生み続ける。

世界が延々と繰り返し行っているものこそ、真に世界が欲しているものと考える。

それは「赤ちゃん」プレイである。未熟で常時面倒を見続けないと死ぬ、そういう弱々しい存在を作りたかった。お母さんに完全に身を委ね甘える世界。

雛は巣立ってやがて親になり、今度は「依存」される側になるのが世の習いなのだが、人間世界では「依存」する側ばかりになってしまった。

原因は栗本慎一郎が言うX(支配者。先進知性体)にあると思う。このあたりの話をしたいが、陰謀論はstuttさんが煙たそうなので顔色を伺いながらとなる。
※矢野吃音学では、吃音は"謎”ではない。吃音は、発話機能の(潜在的に持っている)働きが顕現しただけなのだ。吃音は発話機能の内側にある。吃音は、発話の「言葉を前に押し進める」働きと同じものなのだ。私は逆説的に、矢野理論が世に理解されない&無視される理由こそを、世界を紐解く鍵としたい。

キーワードは「病気」=「依存」である。大風呂敷で、「根源論」「生命論」「快感論」を包括した統一理論を目指す。



2年の空白の間に投稿しようと思ったことがことが何度もある。

その一つが「ミナミAアシュータル」というスピリチュアル系ユニットの紹介だ。あまりにもココと異色で受け入れられないと思うので徐々に溶かして行く作戦だ。

一番下に軽く紹介文を載せる。今日は、自分がハッとした説を紹介する。

ミナミAアシュータルは、「カタカムナ」は楽譜だったと言う。あれは歌なのであって「言語」として解明しようとしても無駄なのだ。

「カタカムナ」=歌

歌を侮るなかれ。歌こそダイレクトに感情や背景が伝わるものはない。夏が来ると実感する。世界は歌で満ちている!圧倒的セミ・サウンド! 異種生物である人間にも、意味は分からなくなても生命力は伝わる。

私は、言語の前段階は(言葉をベースとしない)歌だったと確信する。カラスの鳴き声は言語というよりは、仲間の共鳴を誘う歌だと思う。

ここは「根源論」「快感論」とも関わって来るが、世界の根源は「苦」しみだと思うのだ。ヘロインを打った者は恍惚のあまり床に伏せる。ただひたすらその状態のままうずくまる。つまり、世界が「苦」だからこそ何かが生まれるのであって、世界の始まりが「快感」だったならじっとしたまま「何も生まない」ということだ。

世界の順番は、「苦」が先で「快感」が後。これは絶対そうだ。

生命も最初は「苦」しみで、後から、同じ波動を持つ仲間と共鳴すれば「快感」になると発見したのだと思う。その共鳴装置こそが「歌」なのだ。

歌の前段階は、悲鳴・「泣く」であろう。赤ちゃんの泣き声は異種生物・犬にも分かる。犬は赤ちゃんをあやしてくれる。赤ちゃんは「泣く」「あやされる」と繰り返すうちに、この世の錬金術(苦しみ→快感)を学習する。

私は以前ここで、言語の初期段階は吃音的なものでそれは「緊急事態宣言」であろうと考察した。いい線いってると思う。緊急事態という「苦」しみも、周りに共鳴してもらえれば「快感」=生きているリアリティになるのだ。



世界の根源は「苦」で、その「苦」を同じ波動を持つ仲間と共鳴することで「快感」というリアリティにすり替えた。これこそ生命の歴史だと思う。

その共鳴装置の中で最も大きな発明が歌だと思うのだ。歌のエネルギーはやがて﹅冷めて﹅言語になったと考える。言語は共鳴という点では歌に大きく劣る。



______________



※ミナミAアシュータルの紹介

アシュタールという宇宙存在を、ミナミという地球人がチャネリングして、一つの体系にして伝えているユニットである。

地球には、宇宙レベルから人間レベルまでの階級的・段階的な「支配者」がいて、庶民は奴隷にされている。

地球に「支配者」がいるのは、私には自明に思われるのだが、おそらく皆さんには「自明でない」と思われる。私の家族・職場のそうなのだ。無自覚。

「自明でない」人はもう読まなくていい。本も多数。Youtubeの動画も多数なのだが、【私は積極的にミナミAアシュータルを紹介したいと思わない】

ピンと来た人だけが辿り着いてほしい。

ミナミAアシュータルの主張は、「支配者」の作るピラミッド社会(△の社会)から脱却し、みんなが相互扶助し合う「◯い社会」を作ろうというものだ。

△から◯へがスローガン。

「◯い社会」はちょっと前の「昭和」がそうであったし、「江戸」も圧倒的勝ち組を作らないシステムであった。もっと遡って「縄文」は「支配者」すらいない自由な時代だった。縄文時代は現代の今にも滅びそうな文明とは違い万年単位で続いた。歴史教科書から「縄文」は完全に封印されている。



ミナミAアシュータルは、実際に淡路島で、「◯い社会」の雛形を作るまさに最中だ。この雛形を参考に、日本各地、ひろくは世界各地に、おのおので、自分なりの「◯い社会」を作って楽しんでねと言う。世界中に「◯い社会」が散在したら「支配者」も手が出せないという理屈だ。

私は「できるできない」ではなく、このムーブを支持する。私は究極、「支配者」とは世界の根源そのもの=「苦」の具現だと思っている。「生きること」と「苦」は背中合わせで逃れられない。なので、同じ波動エネルギーの者(要するに馬の合う者同士)が「共鳴し合う」ことしか答えはないと考えるのだ。
※ここから先は余計なひと言。

私は、アシュータルを含めてすべての宇宙存在に疑念を抱いている。おそらく、宇宙存在たちは「共鳴し合う」ことで融合し、根源=「苦」から最終解脱した存在だと思うのだ。複数の意識が融合することで恍惚した状態が持続する。また複数の意識が融合したからこそ、【名前がつけられるほどに宇宙存在の数が少ない】。チャネリング対象の宇宙存在は本当に数少ないだろ?

恍惚した状態はやがてゆっくり減退し、究極「無」に向かうと思う。地球劇場をただ眺めることこそ、宇宙存在の最大の娯楽なんだと思う。宇宙存在が地球に影響を及ぼすことは無いに等しいと考える。アシュータルは、日本人に問いかけられたから応じただけで、「支配者」からの解放など微塵も思ってないと思う。本気で思ってたら、この末期的な時代じゃなく、もっと早くから地球人を啓蒙するだろう。

リアリティを持って「生きる」ことを味わえるのは、地球という「苦」しみに満ちた場所でないと不可能だと考える。
次回予告。


死について。

兄と母を短期間で失った。世界からはみ出すインスピレーションがたくさん湧いた!

ただそれも束の間。葬式などという世俗的な茶番に付き合ってるうちにインスピレーションは冷めた。

少し思い出すとどうも、死はおろか「生」さえも、思っているよりバラバラ・ガラクタだと感じた。そのバラバラなものを必死に辻褄合わせをしている運動体・エネルギーが存在する!



捨てられない本について。

相続で大津市堅田に住む家を得た。引っ越す際に大量の本が邪魔。「捨てる」を意識すると自分にとって本当に大事なものが見えてくるという話。
>>[301] 。短期間のうちに、兄上様、母上様を見送られた由、お大変でしたね。遅れ馳せながらお悔やみ申し上げます。🤢
stuttさんお悔やみありがとうございます。[300]で一旦中断するつもりでしたが、兄と母の死[301]を書いて返信しやすくしました。stuttさんは私の狙い通りフォーマルなお悔やみをくださいました。

★「人間に意識がある」は自明と思われてますが、 実は世の中に流通している形式や作法で「人間の意識」がほとんど説明できてしまうと思います。人間の意識は、(世の中に既にある)形式や作法という処理にすぎないと言っても過言ではありません。



私がしたいのは、形式や作法から外れた「リアリティ」の源泉を探ることです。本コミュ教科書認定&私が絶対捨てない本・

保坂和志『世界を肯定する哲学』p.106より

﹅世界は言語というシステムによって考える私の処理能力から逸脱したときにだけ立ち上がる﹅。それをもたらすものを「リアリティ」と呼ぶ。



兄と母の立て続けの死は、はっきり「私の処理能力から逸脱」してました! 世界のリアリティ探るインスピレーションが湧きましたが、世間の強固な形式や作法によって馴致されました。

私は葬式が嫌いです! お金が掛かりすぎます。葬儀屋&坊主、ちゃっかり高額な料金が設定されています。私は変人なので、法に触れない最低限の死体処理でいいのです。坊主のお経や葬儀屋は必要ありません!と心の中で叫んでました。私のような変人でさえ、親族の猛反対が怖くてそんなことは言えません。結局は高い葬儀を行いました。世間の作法に屈服し、インスピレーションは霧散しました。



僅かに残ったインスピレーションを書くと

「死と性衝動ははっきりと関係がある。性は死と同様、隠しておきたいものである。死と性は世界の本性に関わっている、その事実を口外する行為は一般人は忌避される」

書いてしまうと凡庸ですが、奥を覗けば言語の外に出てしまい気が狂います。この言及は持久戦で。



*****


あとがき

「死に直面した時の作法」について

マイミクさんの死も目立つようになりました。私のことを目にかけてくれた物理学の先生が死にました。その御方の「伝言板」に、「今頃は天国で笑って散歩してるんでしょうね」に代表されるような文章がいっぱい書いてありました。私なら、死んだ人は伝言板を見ないので書きません。物理の先生は死後の世界を信じてませんでした。なのに「天国」とか平気でみんな書きます。普通の人は【書かずにはいられない】のでしょう。死というものは「処理能力を逸脱するもの」なので、それを馴致するために世間の作法が【強力に作用する】と考えます。




「死を扱う職業」について

葬式して実感しました。葬儀屋のなんと立派な建物なこと! 儲かるのです。金=権力なので、「死を扱う職業」は常に権力・発言権があったと考えられます。自動車保険のように保険料見直しとか各社が競争してないでしょ。葬儀屋は寡占です。安い値段に設定した業者がいようものなら、業界内で干されると思うのです。だからどこを選んでも高い。上記の「法に触れない最低限の死体処理」をやってくれる業者なんていないんです。斎場(火葬場)は公共施設ですが、闇の権力の集合地のように感じました。斎場は1箇所しかないんです。そこしか利用できなければ下々のものは権力の定めたルールに従うしかありません。京都の財政が苦しくても坊主から税金を取れないのは歴史的にずっと権力者だったからでしょう。「死を扱う職業」は全部権力なんです。

斎場の休みは友引ばかりです。六曜なんて普通の日本人は普段意識にすらないでしょう。つまり権力は日本の外部から来たのです。友引は外部の者が気にする習慣なんです。



栗本慎一郎が唱えた日本が近代になった理由「同じ体系(ここでは日本)の中に、2つ以上の原理が恒常的に流通している状態が続くと、その体系の発展が促進される」が素晴らしい!



日本における2つの原理を私ならこう言う。

縄文から続く「和」の社会、権力すらない丸い社会、非権力。

シュメール・中国・朝鮮と連なるピラミッド社会。儒教に代表されるように「どちらが上位かはっきりさせないと気がすまない」社会。

非権力型社会と権力型社会の恒常的対立が日本にあったのです。今も続いてます。「権力」側は、露骨に「縄文の系譜」をひれ伏したいのです。今の日本の状況がそうだと感じませんか?



「死を扱う職業」は差別されていたと習いますが、実際に虐待などしようものなら「死」に直面した際に報復されるのが目に見えてるじゃないですか。今で言う「差別」とは違う「何か」はあったでしょうが、共存はしていたと考えます。むしろ「死を扱う職業」の方が力を持っていたでしょう。
世界の根源論「意識について」その1



前回紹介したスピリチュアルユニット・ミナミAアシュタールが「根源」を語っていて私は狂喜した。「根源」を語る人は、(照れくさいのか)哲学者にすらいない。

「宇宙は無だった。突然、意識が生まれた。意識が生まれることで無はなくなり一つの波となった。自分が何者かを知るために自分(波)を分けてたくさんの波を作った。万物は波動エネルギーでできている。万物を辿ると最初の「一つの波」になる。「一つの波」を絶対無限の存在と呼ぶ(名前は何でも良い)。私たちは、生まれて(絶対無限の存在から分かれて)体験し、死んで絶対無限の存在と一つになる・を繰り返している」



ありふれた話とスルーして欲しくない。私は「一般的な人に向けて」話すなら上記の根源論をはっきりと支持する!



「意識」を最初に持ってくるところを特にだ。

「一般的な人に向けて」じゃなく、こだわりを持った私なら次のように言う。言う前にちょっと脱線して。



***



引っ越す際に、福岡伸一の本は未練なくばっさり捨てられた。生命の本質は「意」「情」「想」にあると思うのだ。「動的平衡」は重要な示唆だが生命の必要十分条件にあらず。

芸術家の友人に勧められて大鋸 一正を読んだ。『O介』など。まさしく本物、真似できない!ATMのような無機物にも生命を感じられる文章だ。福岡本とは違う理由で捨てた。「文章が生きているようで気持ち悪い」から捨てたのだ!


生命=「気持ち悪い」



絶対捨てない本・保坂和志『世界を肯定する哲学』の「ない」論は面白い。

「私は生まれてから一度も、見ず知らずの死体と一晩添い寝をする仕事があったとしても、それを仕事にしたいと思わない﹅」という例文が載っている。

筆者は本当に一度も思ったことがないことを書いたにも関わらず、読者は「本当に一度もないのか?あるからこそそんなことを書くのではないか?」と疑問に思うだろう。

→「ない」ことを純粋に言うことはできないのだ。「ない」と言った瞬間に「何か」を生んでしまうのだ。

※これを私は否定「ない」の錬金術と名付けて重視したい。世界は「ない」「ない」と否定され続けることで「何か」を生んでいると思っているからだ。



長い脱線終わり(笑)



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私なら宇宙の根源をこう語る。

「気持ち悪い」という意識が最初からあった。「最初からある」という表現を雑に感じるなら、「自然数」を考えてほしい。自然数は人間が定義したというより最初からあるものだろう。

意識=自然数と考えても良い。人間(生命)に意識があって、意識の数は人間の数に等しい。



実際に「数」は、どこまでも続いて「気持ち悪い」ものだろう。

自然数xは「気持ち悪かった」

ココ大事→「自分のことは棚に上げ」xは、自分の気に入らない自然数を「ない」「ない」と否定しまくった。否定すればするほど、それは「ある」になってしまうのだ。宇宙の錬金術的法則だ。

「気持ち悪い」から始まって「周り」を否定することで「ある」に錬金され、意識は今日まで膨張し続けた。



赤ちゃんの最初の意識は「気持ち悪い」と思うのだ。自分が何者だ?というより「自分」という意識もないだろう。「周り」母母たまに父、母母圧倒的母に対して「気持ち悪い」と思った。実際に最初から泣いている。腕を振りブンブンと嫌々をする間に徐々に「自分」という意識が生まれる。

意識生成の順番は、「気持ち悪い」→「周り」→「自分」



お前は、宇宙の根源というどうとでも書ける空想に対してなぜそんな「気持ちの悪い」という否定語を使うのだ!と非難されそうだが、ワザとやっている。

世界に対して本気思っている。

「自分のことは棚に上げ」、「周り」を「気持ち悪い」と感じ、「周り」を必死で「ない」「ない」と否定しまくっている。

これが世界の運動だと。特に「支配者」はこの運動の真っ只中であり、日本・世界がおかしいのは究極・宇宙の根源に由来すると考えるのだ。



一番言いたいこと。

既に日本・世界は末期状態であり私は価値観を共有する同士を求めている。世界は「気持ち悪い」
※今やってること

矢野理論では、吃音を発話という秩序形成の「なか」に位置づけた。発想の大転換である。吃音学界も吃音者も矢野理論を理解できない&しない。不具合があれば、猫も杓子も真っ先に秩序形成の故障=「病気」を疑う。自ら「病気」と名付けてもらいたくてしょうなく、「病気」を認定する権力に「依存」する。現代は「病気」というキーワードで括れるだろう。



栗本慎一郎その1

「病気」と言えばこの男しかいない!栗本慎一郎である。時代がやっと栗本に追いついた!

栗本は3〜40年の前の著書で、「陰謀論」「病気こそが人間の歴史を操ってきた」「ウイルス=RNA=DNAへの逆転写=遺伝子操作」を語ってきた。当時は馬鹿にする者もいたと思うが、今となっては笑えない。長引く流行り病に、皆がこぞってmRNAを体内に注入する事態に至っている。時代が栗本に追いついたが、栗本のことが完全に忘れられているのが不満だ。この現代こそ栗本慎一郎なのだ!



1991年『人類新世紀終局の選択』、文庫版は改題『人類は思考する"金魚”である』_精神世界から科学へ、科学から精神世界へ



改題の"金魚”とは、何者か(支配者・ラージX)によって金魚鉢に閉じ込められ"試されている”という喩えである。私はこの改題を大いに支持する。私も、地球が何者かに設定された"金魚鉢”であり、そこで「人類は試されている」と感じるからだ。

本書は、宇宙存在とのチャネリング・ウイルス論・『意味と生命』より上手く言えている「暗黙知理論」と、内容盛りだくさんだ。題名で敬遠されただろうが間違いなく傑作だ。

本書で今(1991年)、人類がパンツ(支配者・ラージXが設定した拘束具)を自分で洗濯できるかどうかのギリギリのところに来ていると訴えている。もう30年以上経った。私は思う【現代はもう既に手遅れ】だ。

私に「陰謀論」の匂いがして警戒した方もいるかと思う。「陰謀論」は最小限に留める。書いても・もう「手遅れ」だから。

前回「同士を募っている」と書いたのは、終末医療に近い。滅びゆく世界に対し、同士が集まって癒やされながら滅びの時を待つという感じだ。

地球一般人に好意的な宇宙存在の態度もこの30年間で何も変わっていない。つまり、滅びゆく人類に対して「積極的関与しない」という態度があからさまである。宇宙存在は救世主にあらず。何もかも手遅れ…。

本日は本書の紹介だけに留める。

栗本慎一郎その2

『パンツをはいたサル』(1981年)光文社

※新板も出てるが、私は初代光文社版を推薦する。木村しゅうじのイラストが秀逸だからだ。


今読んでも通用する大傑作だ。意外と文字数が多く、栗本「内知」の集大成だ。


メインテーマは「過剰ー蕩尽」論である。ヒトはパンツをはいて過剰を溜め込み、あるとき一気にパンツを脱ぐ(蕩尽)ことに快感を覚え、この「過剰ー蕩尽」のリズム・周期がヒトのあらゆる行動原理になっているというものだ。(パンツは自らはいたのはなく、ラージXが設定した拘束具だろう)



私は本書を中学生のとき読んだ。それ以来、あらゆることが「過剰ー蕩尽」論に当てはまるのかを考え続けてきた。結論は、ヒトのみならず生命すべてに「過剰ー蕩尽」論に当てはまると考える。


***

ことばの起源


ことばの一段階前は「歌」だと考えた。カタカムナは実は楽譜だというミナミAアシュタールの説を信じる。歌に波動エネルギーに乗せれば大抵のことは通じるのだ。優れた歌は背景・感情がぎゅっと凝縮されて伝わるのが実感できるだろう。

ことばは、話された単語に注目してるのではなく、直接エネルギーを感じるからこそ・聴いて理解できるのだ。首相の答弁は与えられた原稿を棒読みしてるだけでエネルギーを感じない。だから何を言ってるのか分からない。


(以下は『パンツをはいたサル』で読んだと思っていたが違うようだ。どこかの栗本本には必ずある。思い出しながら書く)

海を見ながら肩を抱き合い愛し合う恋人通しに言葉はいらない。一日中そうしてられる。



他の学者は小っ恥ずかしくてそんなことは書かない。言いたいことはこう!

ことばの起源は、ことば無しに通じているという事実である。なんじゃそりゃ!?と言われそうだがそうだろ?

例えば好き・嫌いは、ことばに先行して感じている。好き・嫌いはエネルギーを感じ取って一瞬で分かるだろう。第一印象は、その後じっくり付き合った後の印象と大きくは外さないだろう。



※ことば以前に既に「全体」が形成されているということだ。



栗本慎一郎が提唱した暗黙知理論は、細目(部分)を見て一瞬で「全体」が浮かび上がる作用を言うのだが、かなり修正が迫られそうだ。

「全体」は細目を介さずともエネルギーで感じ取って既に形成されている。その作用を、私たちの日常的な感覚(形式)に従うように順番を組み替えている可能性さえある。

「全体」は既に知っている→その根拠を作るために細目に注目した→細目に注目したから「全体」が分かったと時系列を我々の日常形式に組み替えた



本コミュ教科書・保坂和志『世界を肯定する哲学』p.182



 視覚や聴覚という感覚は、たとえば<白い角砂糖>を認識するときに<白><立方体><表面の粒々>……という小さい単位を合計して大きいものにまとめあげる「ボトムアップ」の作業だけではなくて、事前の知識ファイルからの検索という「トップダウン」の作業も同時になされていて、そうでないと処理速度が遅くなる〜



<白い角砂糖>という「全体」をエネルギーで感じて知っていて、それを理由づけるために「細目」を検索しているのかもしれない。

A(細目に注目)したからB(全体)が浮かび上がったという順番じゃなく、

B(全体)が最初にあって、それを理由付けるためにA(細目に注目)した。これが暗黙下で行われている本当の順番かもしれない。

苫米地英人は、時間は未来から過去へと逆に流れると言った。栗本慎一郎は時間こそが本質で、エネルギーでもあると言った。時間こそを万物の理論の単位にしなければならないと考えた。その時間の正体は、我々の感覚とは真逆だと思う。


『パンツをはいたサル』にける暗黙知理論は、まだ西洋の階梯世界観からは自由だ(少しはある)。階段を登るように「原理」が積み重なって「生命」となったのでなくて、「生命」という全体は既にあって、辻褄を合わせる工程が、人間の知覚には「層」のように見えるのだと思う。


私が言いたいのは、人間の知覚さえ、言い方は悪いが「八百長」感があるということだ。見えるもの・聴こえるもの「全体」は既に形成されている。

保坂和志は、リアリティの源泉を「夢」だと言った。夢を見ているときは真に受けているが、夢から覚めると思い出せないほどバラバラなのだ。

私はこう思う。夢を「全体」=ゴールに設定したものが私たちが「現実」と言っているものだ。「夢=全体」はそのままではバラバラなので、それをしかっり支えるために「細目」を後付けしているのだと思う。私たちが実感している時間は実は逆回しなんだと思う。


世界はバラバラで後付の理由探しという考えは、以前から抱いていたが、兄&母の死に直面して確信に変わった。
(前回を継承して)言葉の起源について

言葉が・かたどられる前に既に「全体」イメージが存在していると言ってます。
私はミナミAアシュタールを積極的に勧めたい訳じゃありませんが、最新の「超次元ライブ」は推薦です。
https://www.youtube.com/watch?v=thhg1XfRmI8
(前半は台風の動きは絶対おかしいよね?という話。気象に限らず何かされているよね)
20分以降がタイムリーな話。相棒のあつしさんが「番組のオープニングを消し欲しくない」と強く思ったら、宇宙存在とチャネリングできるミナミさんに「言う前に」伝わったのです。そういうテレパシー的なものが誰にでもあるよねと言いたいのです。

本当は言葉を介さなくても通じています。人間も動植物も。
バビルの塔の神話はこう解釈します。人は「同じ言葉を話していた」というのを、言葉がなくても通じ合っていたと捉えます。
やがて人々は別々の言葉を話して通じなくなったのですけど、神の罰じゃなくて、人は自ら言葉を話すことで、あえて通じなくしたと考えるのです。
言葉の壁は大きく、同じ言葉に参入しないとことには通じません。人は言葉を生むことで、あえて人を遠ざけたと考えます。
【言葉は、よそ者を排除するための発明】と発想の転換をします。「分かる」ために生み出したものじゃないです。「分からない」ことを生むために言葉を作ったのです。

アメリカを見ても分かります。いかに人は、よそ者とできる限り「遠ざかりたい」かということを。
言葉は、同じ価値観を共有する者だけで通じる波動エネルギーです。言葉は同族の証です。古来から人はよそ者を排除して「自分の世界」を作って(守って)きました。
今後のテーマになりますが、自分と波動エネルギーが近いものは結集し、自分の波動エネルギーと合わないものは徹底的に排除し遠ざけるという運動が、森羅万象すべてに当てはまると考えます。
現在のキーワード「病気」「依存」もこの運動の中にあります。

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「全体」は最初からイメージされている。

西洋の階梯的世界観では、下位のものからヒトそして神という上位へと段階的に上がっていかないと<気がすまない>ようです。
西洋・進化論はそういう世界観から生み出されましたが実際は違うのではないでしょうか?
鳥は最初からああいうフォルムだったと思います。トライ&エラーで段階的に鳥になったわけじゃないです。形態が「中途半端」なら「死ぬ」じゃないですか。だから最初から飛べないといけません。プロペラ状の種子も自分が飛散することを知っています。最初から!

遺伝子についても、商業的かつ西洋の階梯的世界観に洗脳されていると思ってます。生命は「全体」を知っています!
遺伝子は、設計図でもなく、また言語・暗号といった類じゃないと思います。「歌」「楽譜」に近いものと思っております。
そこに参入したものだけが「分かる」非明示的知識です。その「場」に参加することで始まる「舞踊」のようなものが形態形成です。
法隆寺のような非文字的伝承によって建てられた知識を現代人は失ってます。私が力説してもチンプンカンプンかもしれません。
言葉で語るからこそ「全体」が分からなくなるのです。「言葉からはみ出してしまうもの」これこそを語って行きたいです。
《集大成》1
矢野吃音学から派生し、宇宙の誕生から生命(秩序)の形態形成までをも語る大風呂敷!

「病気」に加えて、今後は「歌」・舞踏というキーワードを使って行く。


まず自分自身の論が、吃音学からはみ出し(過ぎ)ており、stuttさんはだだ「イイネ!」を付けて静観しているだけじゃないか?と懸念していた。[307] までの段階で、先生からお褒めいただき安心した。やっぱり「言葉で伝える」ということは人間には大事。[308]は矢野吃音学をベースに、大風呂敷も成功していると自負する!


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本トピのテーマは矢野先生の見出し通りだ。吃音学の常識ではこういう無理解が延々と続いている。

「吃音は発話メカニズムの何らかの欠損に違いない」→「一向に<欠損>は見当たらない」→「吃音は謎である」→「されど<欠損>はどこかにあるに違いない」という堂々巡りである。



矢野先生は【この前提的認識】そのものにずっと異を唱えてきたのだ。私も激しく同意する。

矢野先生はこう主張した。吃音という現象は「発話という秩序形成の現場そのもの」以外にありえないと! これは我々には自明である。分からない方はバックナンバーを参照されたし。



私はさらに大胆なことを言おう。「発話メカニズム」という西洋的な前提がそもそも間違っている! 発話の<メカニズム>自体が明示的には「ない」ものなのだ! 「ない」からこそ、もとから「欠損」しようがない!と考えるのだ。

私は西洋的な意味での「病気」は、この世にいっさい「ない」と主張したい! 東洋的に、ただバランスが崩れた状態だけが存在する。治療とはバランスを整えることである。



※私の考えに違和感を持つ人は現代の状況を振り返ってみるべし!現状、なんでもかんでもが「病気」と認定され病気名が量産されている。そして白衣を着た権威者が、その「病気」はxx遺伝子の欠損だの脳のどこそこの異常だのと診断する。そして薬やワクチンが開発され、それを接種する羽目になる。

それで「病気」は治ったのかよ! むしろ「病気」は定着し慢性化している体たらくだ。(みんなは夏にインフルエンザが流行ることを異常事態と思わないのか?)

西洋科学の「メカニズム」という言い方、並びに「故障」「欠損」という機械論的な考え方が【そもそも間違っている】と主張する。



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真実はこうだ!

(発話はもとより)あらゆる秩序形成(=生命)は、異質多動体によって自発的にもたらされる。それらが同じ場所に居合わせることで場況を生む。その場況に従って、ある運動体は「発現」し、ある運動体は「抑制」される。秩序形成のルールは、場況に従って各々の運動体が【自発的】に決めている。そのルールは単純明快!場況に合うものは「発現」し、場況に合わないものは「抑制」する。発現・抑制は運動体が自発的に行っている。私が強調したいのは、運動体が自発的に「抑制」しているという事実である。



私は運動体が自発的に「抑制」している事実を強調したが、顕著なのは「遺伝子」である。遺伝子で発現するのは数%にすぎない。全部が全部発現したら「怪物」が誕生してしまう。発現しない他の遺伝子は「無駄」「ゴミ」なのではない。

野球チームに強力なセーブ王が居たとする。そのセーブ王が居るお陰で他の投手は伸び伸び投球できる。セーブ王が試合に登板しない日(抑制)でも、立派にチームという全体に積極的に関与しているのだ。



西洋科学では「ない」とされてしまう・暗黙的かつ自発的に「発現」「抑制」が決まる力を特別に"形力”・ケイリョクと名付ける。

しつこいようだが「発現」よりも「抑制」の方が大事だ。抑制されたものは、見えない。が、「ない」のではなく、その「力」は周囲に張り巡らせている。

F=ma とうような明示的に記述できない力がある。それを"形力”と呼ぶ。





私は難しいことは言ってない。葬式で例えよう。葬式は複数の人間(異質な多動体)で同じ場所で行われる。葬式という場況においては、私のような変人でさえ、「法に触れない程度の葬儀で安くすませよう」と親族に決して言い出せない!暗黙的に強い抑制力が働いているということだ。 葬式においては、「大人しくしている」系動作郡が発現し、「騒ぐ」系動作郡は著しく抑制される。この「発現」「抑制」は自発的に行われて、強烈に強い作用を持っている!

「人を殺してはいけません」と法律に書いてあるが、「葬式で騒いではいけません」とはどこにも書いてない。葬式の暗黙的抑制力は明文化するまでもなく強烈に強いということだ。

葬式という「場」が暗黙的に逆らえない強い作法を周囲に要請している。それと全く同じことが、生命=秩序形成の現場で行われていると考えるのだ。

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《集大成》2

発話という秩序形成はこう。異質多動体(土地・人間・天体=時刻・状況)が、その場に居合わせることで、その場況にふさわしい音を要請した(この時既に「全体」イメージが形成されている)。その音は、その音自体と変化する場況と重なり合って次につらなる音を要請した。音の連鎖は暗黙的に決定される。音の連鎖は「全体」イメージが完成するまで続く。この作用は栗本慎一郎の「暗黙知」と同じものと言えよう。

音の連鎖の長い長い歴史が地層的に積み重なり、音の連鎖の発現または抑制の作法が明示化されたものが言語だろう。(同じく栗本慎一郎の「層の原理」)

発話の現場にも発話の歴史にも、西洋でいうところの<メカニズム>は「ない」のである。つまり、「ない」ものは「欠損」しようがない!



ここまで考察していくと、吃音に対して「自然言語」と強い意味を持たせたい。数学における自然数と同じくらいの強い地位だ。

我々は発話する前に全体イメージを持っている。「た」と言う前に「たまご」というゴールがある。

「た」を言ったあと、次の音の連鎖がうまく行かなかった時に一番上手なフォローは何か?→「た」をもう一度繰り返すことである。たたたたたまご・と吃っても最終ゴールには辿り着いている!

何より、いかなる吃音であれ、あとから真似して発音することが容易である事実に注目だ。(ここまで矢野先生ご自身の論による)

つまり吃音は、発話という秩序体系において実に「自然」な形態だということだ。



吃音=「自然言語」



発話<メカニズム>、<欠損>と言ってしまう機械論に汚染されている学界では思いつかない発想だろう。吃音は欠損ではなく、秩序形成においてむしろ「自然」なのだ。自分で言ってて何だが、良い考えであり、発展性があると思う。



*****



「歌」・舞踏というキーワード



秩序形成の現場を「歌」と喩える。

あなたが作曲家だとする。悲しいメロディをまさに作っている。その悲しいメロディの次に突然ウキウキなメロディを混ぜるだろうか?否。

悲しいメロディのあとには、悲しいメロディを続けるのが「自然」だ。(重複=吃音=自然言語論として発展できそう)

サビはウキウキなメロディにするとしても、今が悲しいメロディなら、ゴール(=楽しい)に向けてメロディの気分を徐々に高揚させながら接続させるだろう。

うまい例は、ベートーヴェンの運命交響曲だ。1楽章は苦闘の「歌」である。2〜3楽章で、ゴールの「勝利」に接続するように徐々に「歌」を高揚させていく。



悲しい「歌」は、【自発的に】自分の周りに悲しい「歌」だけを呼んでいる。ウキウキな「歌」を【自発的に】排除している。

ゴール(全体)がウキウキな「歌」であるとき、今悲しい「歌」なら除々に「嬉しい」に持っていくような「作法」が必ず必要になる。

「歌」が形成される時、暗黙的・非明示的にこれだけのルールを歌自身が要請している。



生命・あらゆる秩序形成は、「歌」のように外から与えられたルールはいっさい「ない」ということを強調したい。

バランスが崩れることはあっても、「病気」「欠損」というのは本来ありえないのだ!



*****



栗本慎一郎自身も西洋の機械論からの呪縛から逃れられていない。生命は機械でもあり、さらに上位の原理(生命原理なるもの)にかたどられていると記述している。

否、否、否!

生命と機械は、平行というかねじれの関係だ。生命の機械的に見える部分を人間が「抽出」して、別な場所で人工的に進化させた体系が「機械」である。

「機械」は与えられた原理があり、「故障」もするのだが、生命には自発的に獲得したルールしか持っていない。上位の原理は「ない」のだ! 生命に対しては「故障」と言って欲しくない。バランスを崩しているだけだ。この考えに反発する者とは水掛け論になろう。

機械論の象徴である現代医学、それが認定する「病気」「薬」「あの注射」が如何におかしいかということで「機械論を捨てきれない者達」への反論としたい。

↓  ↓  ↓
「2つの論理記号」

生命は「発現」と「抑制」という2つの論理記号を自発的に有し操作している。

山田正紀『神狩り』から大きなインスピレーションを得た。神の言語が発掘され、そこには「2つの論理記号」しか存在しなかった。

論理記号が2つだとまともな論理は組み立てられないはずなのだ。主人公は延々と謎解きに終始する。

これを読んで、神の言語とは、まさに生命の「発現」「抑制」という2つの自発的「行為」のことだと感じた。

生命・秩序形成とは、現場に居合わせないと決して分からない非明示的知識の集大成だろう。
異質多動体が、同じ空間に居合わせることで、自発的に「発現」と「抑制」という論理を生み出す。
そのたった2つの論理が長い長い時間の中で地層のように積み重なり、生命体やがては人間になったという物語を提唱する。
吃音は<発話という秩序形成の現場>そのものである。

秩序形成の現場監督は明示的には「いない」のだ。もともと「いない」ものは「欠損」しようがない。

秩序を構成する異種多様な構成員自らが「現場監督」となって非明示的なルールを作り出す。これが真実だ!


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《走り書き》されどド真ん中ストライクで私が言いたいこと集・パート1


自論に自信あり。自分の中では「一本の軸」がしっかり通っていると思っている。それを証明するために、じっくりゆっくり一段回ずつ積み重ねて書こうと思っていた。次は「栗本慎一郎の業績まとめ」を予定していた。こんなやり方ではちっとも筆が進まない! もう「結論」「自分の着目点」だけ抜き出して書こう。



↓伊木ヒロシさんを紹介する。この方はスピリチュアルと自己啓発を融合し、なおかつ真っ当な正論者。

そういうカテゴライズはどうでもよく、現在の日本及び世界の狂気を目の当たりにしたらこのような【危機管理・注意喚起】を行うのがむしろ【普通】だよね、と言いたいのだ。みんな呑気だよね〜。K首相が「本日をもって日本はサービス終了です」とケロっと言いかねない。それくらいレベルマックスな危機が到来している。

https://www.youtube.com/watch?v=TPAi9Q-YBbM&list=FLrD80BBE3TrGZZNOQ6w3jvA&index=2



【日本や世界の狂気】とは今後も注目せざるを得ない。

★氷河期が来る!(→私は氷河期こそが「グレートリセット」だと思う)

いわゆる陰謀論に「グレートリセット」というのが存在する。これは「支配者」が企てたものではないと思っている。

私は「この世」は仮想現実(バーチャルリアリティ)だと本気で思っていて、「この世」には本当は「重さ」がなく、エネルギー(コスト)をかけてReal Boot(それらしく現実化) しているだけだと考えている。だから世界は「想念」でなんとでもなる。この考えは後に掘り下げる。



「この世」はバランスゲームである。「支配者」=チート組vs.「輪の循環」という二項対立だ。バランスが崩れることは最初から想定済みで、「支配者」組が、最終的に「ドン」という(中国伝承の)何でも飲み込む怪物となってゲームオーバーとなる。氷河期はゲームの再メンテナンスのようなものと考えている。

「グレートリセット」は、まさに世界の根源そのものが最初から織り込み済みで企画していたと考えている。悪いものを食べたら下痢をする。しばらくはものを食べずに胃腸を整える。それくらいの感覚で「当たり前」に「何度も」起きて来たことだと考えている。



栗本慎一郎は太陽活動(特に黒点)が﹅、人間(の経済)を支配していると言っていた。私は真実は逆だと思っている。人間や地球のバランス状態が約11年のリズムを持っていて、それが﹅太陽活動に反映されると考えるのだ。仮想現実においては真実は「反転」する。写真のネガとポジのように。

人間や地球のバランスが崩れると、それが﹅太陽活動に反映され、バランス状態が最悪になったときに緊急メンテナンス(=グレートリセット)が発動する仕組みだ。太陽も仮想現実であって「想念」の反映だと思っている。




★同じく伊木ヒロシさんの動画「臨死体験」

https://www.youtube.com/watch?v=0z2ABhtCP4w&t=2s



私は「臨死体験」は錯覚ではなく実在すると思う。ただ、一般人の解釈とは【真逆】だ!

一般人は臨死体験が多幸感ゆえに、死後の世界が安らかな世界だと解釈する。

私は、「臨死体験」は「生きているときに加護していだいていた力」に他ならないと考える。



私は世界をこう考える。世界は、その誕生から今日まで常に「うじ虫」である。<自分のことは棚に上げ>徹底的に他者を引きずり下ろし、常にマウントをとろうとする醜悪な「うじ虫」=世界である。「うじ虫」はうねうねした「紐」「波」であり一個二個と数えられる「粒子」でもある。物理でいう「量子」の喩えである。「うじ虫」は終始安定せず苦しみ・のたうち回っている。

「うじ虫」は麻雀を続けている。常に手牌が「悪い」と不機嫌である。「悪い」「常に満足しない」がゆえに、不要牌を他者に押し付け有効牌を他者から強奪する。こういう「交換」を延々と続けている。この「交換」は性・食の起源であり、福岡伸一の「動的平衡=代謝回転」の起源である。現状が「悪い」「不満」だから「交換」が要請される。現状が「良い」「満足」であれば現状維持でよい。

↓  ↓  ↓
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「創発」

永遠のギャンブル中毒「うじ虫」に転機が訪れた。

一つは「チート組」。世界に階級を作り、自分の手下を作ってそこから延々にむしり取れば常に勝組=「支配者」になれると考えた。

もう一つは、ルールを自分たちで決め、ルールを共有する仲間と「交換」を高速で行えば、苦しみがマシになると悟った。高速の「交換」は、「この世」=仮想現実における「動的平衡」=生命体=肉体に具現されている。


世界は大きく2つに分かれた。

「支配者」vs.「輪の循環」



地球という仮想空間は、この大きな2つの「願い」で構成される。この二重性を学問的に栗本慎一郎の論を借りたかった。が、栗本自身学者っぽくないので(笑)後回しで良いだろう。



地球の二重原理。

1,「うじ虫」のイケてなさを他者に押し付け溜飲する。

2,「うじ虫」のイケてなさを、様々なものと「循環」することで紛らわせる。



地球生命は1の「押し付けられる側」か2の「循環」の輪に入るかを期待されている。



「うじ虫」は借金(量子力学的な喩え)してエネルギーを捻出した。エネルギーとは何か?後日詳述するが、生命の非明示的な秩序形成である「発現」「抑制」のメリハリがまさにエネルギーだ。仕事ができる人は「今一番したいこと・しなければいけないこと」に集中できる。それ以外はきっぱりと眼中から消し去ることができる。そのメリハリが明白でエネルギーが高い。逆に仕事ができない人はメリハリがなく、したいことが分散し結局何もできない!後者はエネルギーが低い。

「うじ虫」が借金して作ったエネルギーは錬金術を可能にした。「発現」「抑制」という2つの論理記号だけで仮想空間=地球=生命を作った(錬金した)。



1の下僕は、「うじ虫」が錬金術のために捻出した借金を生まれた瞬間から肩代わりさせられる。その生は常に苦しい。下僕は更に下位を作って押し付ける。

2の「輪」に加わっても、元の「うじ虫」のイケてなさからは完全には解放されない。文学や音楽が描く究極の姿は「悶絶」である。主人公はのたうち回った結果、救済か救済されてないのか分からないくらいの結末しか与えてもらえない。

私はウクライナ戦争からずっとショスタコーヴィチとバルトークののたうち回った音楽を聴き続けて来た。

はっきり言える!

2の結果、ゼロ付近マイナスであっても「救済」だと断言できる!



我々の根源は、はっきりと醜悪だと言い切る! 真・善・美はあとから「地球」で生まれたと考える。根源がマイナスだからこそ世界が回転する動力となると思うのだ。

「あの世」=根源が安らかな世界なら、そこでずっと動かなくて良いじゃないか!



長いね(笑)

でもここ大事!ここからも大事!



根源=「うじ虫」(極度にマイナスな世界)があり→ X →「うじ虫」の願望=地球がある。

その間(X)には膨大な本当に膨大なエネルギー=加護が加わっている。



人間は常時加護をいただいている。たとえ自分の感覚では「救済か救済されてないのか分からないくらい」であってもだ!

根源はもっとマイナスで、0付近のマイナスなら「生きているだけでマル儲け」と考えるべきなのだ。



エネルギーとは「発現」「抑制」のメリハリと先に言った。エネルギーを使って異種多動体である生命の「発現」「抑制」をコントロールしていた。死に際して、異種多動体の「発現」「抑制」をコントールする必要はなくなった。

するとどうだろう。今まで受けてきた加護の力だけを純粋に味わうことになる! それこそが多幸感!

多幸感は「死後の世界」なんかじゃなくて、我々が「生きているときから常時いただいていた」力なのだ!



文学者であり一流の哲学者でもあった保坂和志、『世界を肯定する哲学』での引用が最高だ。

「苦い薬を『おいしい』と味わっていた」女流棋士の逸話がそれ。大事なので次回もう一度詳述する。

筆者が言いたいことは、「生きることそれ自体」「肉体」が存在することだけで「歓び」なのだ!



「生きているだけでマル儲け」



長いので次回に続く。

「臨死体験」にはある種の憧れを抱いてしまう。私が悪魔ならその人間の心理を徹底的につけ込む!そういう話も
《走り書き》されどド真ん中ストライクで私が言いたいこと集・パート2



★【万人に共通した「世界」や「法則」は無い】
これは栗本慎一郎が『人類は思考する"金魚”である』ではっきり言っている。



私はこれこそを強調したい!(前回冒頭で言うべきであった)

※下記の固有部族は現在の差別用語かもしれない。が、こちらに差別の意識がなければ差別にならないと思う。



エスキモーは氷の上で裸で寝ていても凍傷しなかった。西洋人がやって来て「そんな所で寝ていたらヤケドしますよ」と言った。するとエスキモーは氷の上で裸では寝られなくなったのだ!



この事実を信じる! 現代の科学では「再現性が無い」ため無視されよう。



私はこう考える。「想念」こそが先で、「世界」や「法則」は辻褄合わせで後付で合成されたものと思うのだ。「思う」程度じゃなくて「そうに違いない」確信レベルである。

万人は、地球という「世界」が全存在に共通してあって、そこに人々・各生物が住んでいると思っているだろう。そして共通する法則が、地球はおろか宇宙全体を支配していると思っているだろう。真実は真逆なはずだ!



エスキモーと西洋人が出会わない世界線があれば、氷と肌が触れあえばヤケドする世界としない世界・少なくとも2つの世界&法則が地球に存在した。更には「地球」という概念も後付されたもので、万人に共通してあったものではない。遥か昔、多くの部族が存在していた頃は、「世界」も「法則」も部族の数だけ「ローカルに」存在していたと確信する。物理法則さえ部族ごとに微妙に違ったと考える。エスキモーの話は真実であり、我々の知っている「物理法則」とは相容れない。「想念」と「物理」は「同期」している。「想念」で「世界」自体がどうとでもなると考えるのだ。「同期」はこれからの論に必要で後述する。端的に言うと、「同期」は(非明示的な)エネルギーの言い換えである。



『パンツをはいたサル』より。

平和の象徴とされるブッシュマンも、縄張りが侵されると激しく闘うし、「敵」に対しては十分「残酷」であることが書かれている。

人間の本性が「残酷」であることを言いたいのではない。動物も縄張りが侵されると激しく闘う。これには別な理由があると考える。生物ごとにローカルな「世界観」があり、その世界観こそが「魂」と呼べるほど・その生物にとっての基本原理なのだ。世界観がよそ者に侵されることを防ぐために、生物は皆「残酷」なのだと考える。



再掲になるが、アメリカ人はよそ者と可能な限り離れて生活している。移動に飛行機が必要なほど遠く。アメリカではダーウィンの進化論を否定する者、我々からすると「いまだに」地球が平面だと信じ切っている者が多くいる。昔、私はそういうアメリカ人を笑っていたが謝罪する。生物進化をどう考えても良いし、神が天地生物一切を創造したでも全然OK。地球平面説もある意味真実だ。「世界」はローカルに存在するからだ!



『パンツをはいたサル』4章「神経症というパンツ」は核心をついている。ヒトは「共同幻想」によって生きている。私はヒトだけじゃなく、実は生物全部が「共同幻想」のもとで生きていると確信する。



インディアンの一部に起きる精神病が紹介されている。人の肉を猛烈に食べたくなる症状だ!これに対して栗本は正確な分析を行っている。

「これは均質な本来の未開社会(現在なら先住民というべき)に起きているのではない。なんらかの近隣部族の支配や、他の文化との混ざり合いが起こった社会で発生している」と。



生物はローカルに存在していて、ローカルな「共同幻想」こそが生きる原理となっている。少しでも他の「共同幻想」と【混じってしまう】と精神病になる。だからこそ縄張りを決めて、よそ者には容赦なく「残酷」に排除するのだ。



『パンサル』では、アメリカのおかしさのオンパレードだ。羅列しきれないほど「アホな法律」が多すぎる! 多すぎて略!

アメリカは異文化が交じるとどうなるかを我々に教えてくれる。答え_「病む」



↓Youtubeで知った。日本でのマクドナルドのCM。褐色の日本人夫婦と子供が無邪気にマクドナルドを食べる。ただそれだけの動画がアメリカで大反響となったのだ!

https://www.youtube.com/watch?v=FxLPOiaKJ1w



アメリカでは、肌の色の違い、LGBTQ、男女の比率を全部考慮してCMを作らなけれいけない。結果、誰にも響かないCMになる。日本の素朴なCMこそがアメリカの憧憬で、万人が望んでいたものだったのだ!
秩序形成の「基本」は自動運転である。「歌」であれば、現在のフレーズ(情感も含む)をコピーして次のフレーズとする。「同一フレーズを繰り返す」が「基本」となる。

言語も同様である。そう考えると、吃音の冗長性・重複性は、言語形成の基本の「キ」と言えるものではないだろうか。吃音に対して「自然言語」と特別な名を与えたい。数論における「自然数」と同じくらい「簡単なルール」なのに「奥深いもの」という意味だ。



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今日のまとめ&補筆

吃音学と大きく離れているようだが、<吃音を「病気」と考える現代こそ病んでいる>が私の論の出発点だ。「病気」がキーワードとなる。



1,世界(法則も)はローカルに存在する。すべての生物は、想念=「共同幻想」=魂と呼べる行動原理を持っている。「共同幻想」こそ世界である。

「共同幻想」は現代人の感覚から見てとても「狭い」。「共同幻想」から少しでも「ズレる」と病むのである。

先住民は基本的に病気をしない! 逆から見て、先住民の「共同幻想」の狭さが、人間にとって「病気」にならない範囲だと教えてくれる。<共同体が均質なこと>が如何に重要かが分かる。<共同体を均質に保てる>範囲は狭いのだ。



→異文化が混ざる=「共同幻想」が混ざると病む!



2,栗本慎一郎が各書で、X(エックス)と名付けた介入者は間違いなく存在する!

アメリカはXの実験だったと思う。想定通り「病気」になった。日本は「近代」でありながら、比較的「均質な共同幻想」を共有している。アメリカに比べればアホな法律も少ない。

Xの目標は、地球全部をアメリカ=病気にすることだと思う。日本は傀儡政権だから政治家自らが意味を分かってない政策・法律が多い。LGBT法案 もその一つ。移民も更に増えるだろう。日本はアメリカ化し、更に病む。

人間を「病気」にすることには目的があると考えている。



3,日本がはっきり病みだした転換期は「近代」だろう。経済人類学が近代そのものを「病」と表現するのは正しい。近代論は(時間があれば)後述する。

現代においては1970年代からのスピリチュアルブームからだと思う。私は「スピリチュアル」を「業者」と喩える。「業者」とは、この世のからくりをよく知っている悪意という意味だ。「チャネリング」とは「業者」からかかってくる電話に他ならない。あなたの家にも「業者」から電話がかかって来るだろう。「不用品買い取ります!」など。大抵は迷惑なもので警戒する。ところが「チャネリング」の場合は、ころっと信じてしまう!(ミナミAアシュタールは「業者」じゃなく「本物」だと思っているが、私は疑り深い)

日本人は「業者」にとってカモなのだ!



4,栗本慎一郎がウイルス陰謀論やXを論じ始めた時、正直引いた。私も同様で、陰謀論にドン引されていると思う。今では栗本慎一郎は「正当」なことを言い続けたと判断する。

私は前回、「この世」は夢=「うじ虫」の集合体が麻雀をしながら、更に借金をして作り上げた仮想現実だと唱えた。「この世」はある種のゲームなのである。

ゲームには常にチート行為が横行する。将棋ならソフト指し。有名な麻雀サイトの最高位でも衝撃のチート行為が行われていた!しかも何年も発覚しなかった!

「自分」のアカントを10近く作り、「自分」と対戦することで成績を上げていた。トップクラスのアカウントを10近く作れる実力とチートにかける情熱がすごい!



★「この世」がゲームならチート者は必ず出てくる! 「ゲーム」に熟知した連中だ。

Xや「陰謀論」というとダサくなるが、<ゲームのチートを暴く>であれば、ごくごく「当たり前」の指摘となる。

「当たり前」のことを当たり前と認識されない苦しさは、矢野先生が身に染みて分かってらっしゃると思う。



という訳で、これからの<ゲームのチートを暴く>シリーズよろしくお願いします(笑)



5,「この世」がゲーム(仮想現実)なら、「あの世」=夢=「うじ虫」はゲームの運営会社に当たる。当然、チート行為の取り締まりは<あらかじめ想定されている>と感じる。

X=「陰謀」=チートよりも、はるかにはるかに「運営」の方が強い! つまり安心して「生きていて良い」と考える。ただ、緊急メンテナンス=氷河期等は入ると思う。
【全てを簡潔に言うコーナー】


私が理解した矢野吃音学を可能な限り短く言うとこうなる。

秩序形成では「同一フレーズを繰り返す」が基本の「キ」となる。吃音は発話現場で基本の「キ」が行われている。


>>[314]冒頭もうまく言えていると思う。私が強調したいのは、

<秩序形成の「基本」は自動運転である>の「自動運転」のところだ。秩序形成は意外にもエネルギーが掛かっていない。我々が「話す」時、何も力を入れずに話せるだろう。発話が「自動運転」である証拠だ。

大抵は、既に存在する秩序を繰り返し・コピー・模倣して「楽」をしている。本当に新しい「創造」が行われる時にのみエネルギーが掛かっている。「産みの苦しみ」という奴だ。秩序形成は、真の「創造」を行うときだけエネルギーを掛け、通常は「自動運転」で行われる。

この比率を一創造百盗作と名付ける。一対百(%)どころか、一対百万(PPM)未満かもしれない。



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物理学は明示的な「力」「エネルギー」を定式化する。

私は "非”明示的な「力」や「エネルギー」をいろいろな言葉で言い換えてイメージ化したいのだ。今まで「形力」や《「発現」と「抑制」のメリハリ》などと表現してきた。今ならこう言う。



エネルギーとは「同期」である。



多数のメトロノームを同じ場所に設置する。大多数の向きは同じ周期で「同期」されている。ごく少数は大多数の向きと逆(大多数が最右に振れている時、少数派は最左に振れる)に設定する。するとどうだろう! 時間が経つに連れ、全てのメトロノームが同じ周期で「同期」されてしまうのだ!

私が葬式という「場」に逆らえなかったのも、これと同じ「同期力」が働いていたはずだ。



私は、食事で栄養を摂取しているのではなく、身体の「同期」を調節していると考えるのだ。飛脚は、握り飯と沢庵と水だけで信じられない程長距離を走れたという。西洋人がそれを貧弱な食事と見て肉料理を持て成すと逆に全く走れなくなったのだ。これは先のエスキモーの話と似ている。エスキモー身体は環境(氷)と「同期」しているので裸で寝ても問題ないのだ。エスキモーはやがて西洋人の砂糖や小麦粉を食べるようになって糖尿や肥満を患っている。食事は「栄養」じゃないと強調したい。

日本の食事には塩分が多い。この場合の「塩」とは自然塩のことである。日本人は体内の「塩」と生命の源である「海」と「同期」してエネルギーに変換しているに違いないのだ。食事が質素であっても「塩」さえあれば、日本人の生きる「力」になるのだ。

戦後、「塩」は化学合成された塩化ナトリウムにすり替えられた! これを「陰謀」と呼ばずに何と言う!

江戸時代に「塩抜き」という拷問があった。肉体を責めるよりも効果があったという。人間の食事から「塩」を抜かれると思考力が失われるのだ。結果、どんな悪人も「塩抜き」で自白するはめになる。

現代の日本人は「支配者」から「塩抜きの刑」を受けているに等しい。塩化ナトリウム≠「塩」なのだ。そこには海の微小ミネラルが含まれない。日本人の思考力がどんどん失われている。塩分過多も本来の「塩」であれば問題ないのだ。高血圧や塩分過多を危険視する風潮は、どちらも日本人を陥れる「陰謀」に違いない。



このコミュの人間は陰謀論を嫌うだろうから、身近で明白な陰謀を挙げたのだ。目を覚ませという警告だ。

「支配者」は世の中の真理を極めている。日本人は「彼ら」によって、今も「塩抜きの刑」に処さらされている。更に言えば、日本並びに世界中の「海」が<意図的に>放射能等で汚染されている。生命は「海」と「同期」して生きるエネルギーへと変換している。「海」が汚染されたなら…結果、分かるよな…。この事の重大さを知るべきである。



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栗本慎一郎・経済人類学の簡潔なまとめ・その1



貨幣の定義が正確で素晴らしい!

貨幣の起源は<弁済すべき債務><払い清めるべき穢れ>から来ている。貨幣で「払う」のは穢れであって、現代のプラスの意味はない。むしろ貨幣はマイナスを意味している。

経済人類学は、貨幣が「物々交換」から発展した自然発生的なものじゃないことを明らかにした。人類史上、そもそも「物々交換」が行わていた事実はないのである。

この事実は一般人には奇異に思うだろう。貨幣は「物々交換」から自然発生したとみんなが思っている。この貨幣の真実が一般に浸透しないことに、経済人類学者はもどかしい思いをしている。

矢野吃音学も同様で、吃音の真実(吃音が発話行為に他ならないこと)は一般に浸透しない。



真実こそ隠蔽される&理解されない→真実を知られると困る勢力があるんじゃない?



つづく。<チートを暴く>は重たい話なので持久戦で。
前回>>[315]の言い換え。

《この世に真似ていないものなど存在しない》

全ての秩序形成は相互的に作用し、それら全てが「何らかのパクリ」である。発話の過程全てが、既に確立された「何らかのパクリ」になっている。

→吃音は「真似する」という普段やっている秩序形成の「癖」が如実に現れている。また、発生した吃音自体を後から真似ることも実に容易である。



この世の秩序形成はこう。既成の雛形があり(DNA)、そこから選択しつつ真似る(RNA)。「既成」の集合から、選びながら真似て組み合わせて、"擬似的に” 新しい体験をしている。



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《この世のチートを暴くシリーズ》序



哲学の基本の「キ」はこれであろう。

世界はなぜ「無」ではなく「ある」のだろうか?



この問いは2つ隠れた真実+αを語っている。保坂和志が『世界を肯定する哲学』で語っているように、「ある」と「ない」は対の関係ではない。

ひとたび「存在の形式」に乗ってしまうと、「無」をどうやっても語ることができない。



問い自体が「不安」である。世界が存在することに、幸福を感じていない・充足していないからこそ、この「問い」がある!

「ある」と対で生成されるものは「不安」である。前回>>[315]の貨幣の由来そのままに、
「ある」と対で生成されるものは<弁済すべき債務>と言ってもよい。「ある」・「存在」は、「意識」と言い換えてもよい。

「意識」には重たい債務感が伴う。権力はそれを利用し貨幣という制度を定着させた。人は生まれながらにして<弁済すべき債務>がある。それを税金と名乗り、生きている限り強制的に徴収され続ける。税金という制度は、意識に伴う債務感がなければ決して定着しなかった。



世界は無根拠(空)で<弁済すべき債務>と対で生成される。

空(クウ)→存在+<弁済すべき債務>



※エネルギーの言い換えをしてきたが、エネルギー=「債権」と考えればうまくピースが嵌りそう。





1,「無」を語ることはできない

2,「存在」は<弁済すべき債務>と対で生成される→「存在」は常に「不安」である。

+α いったん「存在」=「意識」が芽生えたものは「無」になることはない。【腹を括って<弁済すべき債務>と向き合うしかない!】



世界=存在は<弁済すべき債務>が常につきまとい「苦しい」。その「苦しさ」の解消方法は2つしかない。



(イ)世界に階級を作る。債務は下位に押し付ける。その下位のものは、更に下位を作って債務を押し付ける。こうして階梯世界が誕生する。

→人間の経済活動では「大企業の寡占・独占」がこれに相当し、大企業は中小企業に押し付ける。中小企業も更に下位に押し付ける。



(ロ)「存在」どうしが輪となり「循環」することで「苦しさ」を紛らわせる。

→人間の経済活動では「中小企業の輪」「地元の商店街」がこれに相当し、大店法が改正させる前・日本の昭和で実在した。現在の日本にはないものだ!そして昭和の経済には元気があった。(今は元気すらない)



世界は放っておくと(イ)階級社会になりやすい。私が「あの世=うじ虫」と名付けた「存在」は、【腹を括って<弁済すべき債務>と向き合った!】

(ロ)循環を決意した! 生命・肉体・身体と呼ばれるものは「あの世=うじ虫」の熱い決意&賭けであると考える。



今回の考えをもとに、次回から・この世のチートを暴いていく。

「肉体」こそ「循環」の最終回答である。あの世の熱い決意&賭けであるにも拘らず、「肉体を捨てる存在=人間」が現れた!この者こそチートの元凶でありX(エックス)=支配者である。

「肉体を捨てる」ことは本末転倒なのだが、意外にも「気持ち良かった」=快感だった。→幽体離脱・臨死体験

この世の如何なる恍惚感もやがては減衰する。ここから物語が始まる。
新刊書で、我が意を得る言葉に出会いました!

「よい答えを導く方法はひとつ、よい質問しかありません。」まったくそのどおり!

宮尾節子/佐藤幹夫『明日戦争がはじまる』言視舎34ページ、宮尾さん(知る人ぞ知る詩人)のご発言です。

このコミュニティを開設するにあたっての私のご挨拶《吃音における話し言葉のつっかえは、話すという行為そのもののつっかえではない!(言葉がつっかえている間、言葉を話すための行為は、その目的を果たすべく継続活動している。)
この二者は、決して混同されてはならず、峻別されなければなりません。

この点を踏まえぬまま来たからこそ、ずっと吃音研究は混迷をきわめ、迷走を続けて今日にまで到っているのです。
専門家たちは、口を揃えてこう言うでしょう。「科学的方法を以ってしても、未だ吃音の原因は不明である。謎とせざるを得ない」と。
その「謎」なるものが自からの研究方法と相関すること、つまり、「謎である」のでは無く「謎にしている」ことに、彼ら専門家たちは気付かないようです。》
これに照応する、と思います。

吃音というdisorder (障害、不調、乱れ、無秩序)の原因ははたして何か?という研究者の質問(前提)の仕方が悪いし、悪かったのです。

お笑い草ですが、当たり前に過ぎる話を、敢えて蒸し返しておきます。
【読書メモ】
内田樹『邪悪なものの鎮め方』(株)バジリコ

あらゆる場合に、私たちは判断の当否について客観的根拠(言い換えれば「数値」)を要求される。数値をもって示すことのできない「知」は知としては認知されない。…〔十九世紀末、イワノフスキーは〕「見えないもの」〔ウイルス〕が存在すると仮定しないと、「話のつじつまが会わない」ということを証明したのである。このような態度を「科学的」と呼ぶのだろうと私は思う。そこに「何か、私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの」が存在すると想定しないと、「話のつじつまが合わない」場合には、「そういうものがある」と推論する。「存在する」と想定した方が話のつじつまが合うものについては、それを仮定的に想定して、いずれ「話のつじつまが次に合わなくなるまで」使い続ける、というのが自然科学のルールである。そうやって分子も、電子も、素粒子も「発見」されてきた。ところが、いま私たちに取り憑いている「数値主義」という病態では「私たちの手持ちの度量衡で考量できないもの」は「存在しないもの」とみなされなければならない。…なぜ、ある種の人は時間を「フライング」〔予見〕することができるのかを〔私たちはいま〕問うべきではないのか。

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