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THE 感動する話コミュの涙割りのビール

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涙そうそう


お酒飲みながら泣く事ってありますか?

僕は2回くらい経験しました。

京都で教育の勉強をしていて母親の実家が伏見の近くにある僕にとってこの人は非常に近い存在でもあり目標とする存在でもあります。

何度か話した事ありますがとても静かな方です。

平成13年、第80回全国高校ラグビー大会の決勝はどしゃぶりの雨の中行われました。

その決勝で全国制覇を成し遂げたのは京都市立伏見工業高校でした。
3回目の全国優勝でした。そして試合終了のノーサイドの笛が鳴った時
スタンドの最前列でびしょぬれになったブレザー姿の大男が人目もはばからずに泣いていました。

伏見工業ラグビー部の総監督。山口良治、58歳。

山口は昔は野球少年でした。元阪神で関西の人にはおなじみの川藤に野球を始めさせたのも山口でした。

高校まで野球を続けましたが野球部が廃部になりラグビー部に籍を置く事になりました。そして大学入学後もラグビーを続けますが最初に進んだ大学では先輩たちの理不尽なしごきに耐えかねて休部します。

そして堕落した生活を送っている時に一念発起して日体大に転籍しラグビー部の4軍から1軍に昇格しレギュラーを掴むまでになりました。

教師として岐阜県に赴任後もラグビーを続け日本代表にも選ばれ、アジア大会でも活躍をしました。

そして1975年、京都市立伏見工業高校に保健体育の教師として赴任しラグビー部の監督に就任しました。

当時の伏見工業、京都人なら分かる言い方ですが”フシコー”はヤンキーが集まる事で有名で生徒の半数以上が暴走族といった高校でした。
暴走行為によるバイク事故は京都府内の学校で一位。

学校の廊下をバイクで走っていたり、リーゼントにサングラス。
パンチパーマに剃り込みなどヤクザの様な生徒が授業中も関係なく暴れていました。

周囲の学校の生徒たちは通学路を大きく外れてフシコーの生徒と接触しない様にしていたくらいです。

外側でこれだけ影響が出ていますので中側の教師達は悲惨でした。

ネクタイを掴まれて教室を引きずりまわされたり洋服にタバコで火をつけられたり。山口は当時を

『これ本当にみんな高校生かな、うちの生徒なんかなと思うくらい、色とりどりのシャツを着てるしパーマもあててるしチンピラの業界にグラウンド貸してるのかなと思うくらいの光景でした。

近づいていって、おまえら何やっとるんや、と言うと、見て分からんのかって…』

赴任する前の年までラグビー日本代表のスターだった山口はラグビー部の部員達はマジメに取り組んでいるだろうと思っていました。

実際はラグビー部こそがフシコーの不良の中枢でした。
そんな生徒たちですから山口が練習をしようと声を掛けても集まりません。
ツテを頼って練習試合の相手を見つけてきても、試合当日選手達が誰も来ないという事もありました。

その時、山口は相手の選手達一人一人に頭を下げて謝り、その夜、相手の監督に誘われて居酒屋で涙割りのビールを飲みました。

『お前が辛抱して頑張ったら絶対に良いチームができるから、辛抱せいよ』

と言って飲んだビールの中に涙がポロポロッ…涙割りのビールが出来ました。

しかし山口は決して生徒達を見放しませんでした。
部活以外にも山口が接する生徒たちは個性的な生徒ばかりでした。
中にはバットを振りかざされて後ろのガラスを割られた事もあったようです。

でもその時、生徒の目を見た山口は

『一瞬どうしようと思いました。でもみんなやっぱり高校生なんですよ。
体は大きいけど目を見ると、やっぱり高校生の目なんですよ』

この時、山口は生徒達を今まで放置してきた教師たちに怒りを感じました。

『注意もしない。見て見ぬフリをしている先生たちに本当にね。本当に、もうすごい衝撃を受けたんです、許せなかったというかね』

山口は職員会議で自分より経験がある教師たちに訴えかけましたが

『冷ややかに、そのうちにお前もこの状況が普通に感じるようになるわ、と言われてるようで、ついね。本当にこんな状況で良いんですか、こんなんで。と大声で言ってしまいました。

泣きながら一人で職員室を出て行って、もう言わない。人の事は言わない。
自分と出会う生徒、自分の授業、自分のクラブ。

その生徒の事をきちっとするまで絶対に人の事は言わないと誓って歩いていきました』

生徒たちには山口のガムシャラな感情が溢れ出ていました。

『こんなわがままし放題して3年経って卒業して社会に出た時に

君の出身はどこの高校だ?と聞かれた時
いや、たいした高校じゃありません。

と言うのは…胸張って言えないようなそんな寂しい生徒を社会に送り出してはだめだ。生徒たちに俺の学校だ。俺たちの先生だというようなね。
そういう熱い思いを、母校愛というか、その誇りを持たせてやりたい』

1975年の京都府大会。相手はその前年に全国準優勝をとげた花園高校でした。
山口は生徒たちにここで活躍したら最高の男だぞ、と呼びかけなんとか集めました。

試合が始まりました。予想通り花園に圧倒されました。
80対0になった時、山口は思いました。

『こんなに情けない状況で子どもたちは今までどんな気持ちなんだろう。
めちゃくちゃやられて悔しいやろな、歯がゆいやろうな、情けない思いをしているんやろなと思った時、俺は今までこいつらに何をしてやったんや!と初めて今まで生徒がついてこなかったのは自分の未熟さゆえだったと気付きました。

俺は何もやってあげていない。えらそうにばっかりしていて。
日本代表の選手という自負があった。
俺は監督だ。俺は教師だと…。
その自分に気付いた時に本当にすまん、と思った』

結果は112対0。

試合後、自分の指導が足りなかったと泣いた山口は生徒に近づきました。

『お疲れさん、怪我は無かったか?悔しいやろ?』

この言葉で突然泣き出したのはリーダー的存在の小畑でした。
小畑の涙をきっかけに生徒全員が号泣しました。

『あの小畑の泣き叫んだ声がラグビー部の産声だったと思うんです。
今でもまだ耳の奥に残っています』

そしてその日から打倒花園の猛練習が始まりました。

翌年の京都府大会。決勝まで勝ち進んだ伏見工業は因縁の花園と対戦しました。

小畑は試合中、鼻血を出しながら走り回り、他の部員も倒れるまで走りました。
その時

『お前がいないと14人なんだぞ!』という山口の声が聞こえたそうです。

自分ひとりが欠けたら14人が15人分の仕事をしなきゃならない。
何度倒れても山口の顔を見たら起き上がれたと選手達は言います。

そして伏見工業は18対12で花園を破り京都一に輝きました。

1980年、伏見工業は大工大高と全国大会決勝で引き分け、全国優勝を達成します。

山口は現在、大学のラグビー部の監督を務めています。

山口の教え子の一人、山本清悟は山口の意思を継いで奈良工業高校の教師となり山口と同じ様に生徒たちと人として尊敬し合える関係を結んでいます。

コメント(11)

山口良治氏がモデルの
スクールウォーズを見てラグビー部に入った僕はこの話大好きです。


ぴかぴか(新しい)1人はみんなの為に
みんなは1人の為にぴかぴか(新しい)
やっぱりスクールウォーズでしたね!
小学生の頃再放送で見てました。
あ〜!
また見たくなった。
スクールウォーズ2はちょっと物足りなかった。
なんでとは言わないけど京都市伏見で泣いてしまうわ

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