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THE 感動する話コミュのブータンの父

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西岡京治(けいじ)さん。

2006年から中学の道徳の教科書に載っていたので10代の人は知っている名前だと思います。

しかしそれ以外の世代の方は知る人は少ないと思います。

ただ日本では有名ではなくてもブータンでは『農業の父』と言われ、ブータンの国民で知らない人はいない程に慕われ尊敬を集めている日本人です。

まず始めに、ブータンという国はネパールやミャンマー、中国に囲まれた小国で人口は100万人ほどの国です。

国民の大半は農業で生計を立てていますが、日本と同様に国土の半分以上が山や谷であるために実際に農業を出来る土地は国土の1割程度に過ぎません。

西岡さんは28年にわたってブータンの農業技術向上を目指し、実際に農産物の生産力を飛躍的に増やしブータン人の若いリーダーの育成に成功しました。

ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンで亡くなった西岡さん。

その人生を書いていきます。


西岡さんは大阪府立大学農学部在学中に教授に

『ブータンが農業指導をしてくれる若い人を募集している。西岡くんが行ってくれないか?』

と言われ、もともとアジア圏の貧困に心を痛めていた西岡さんは喜んで参加しました。

そして東京オリンピックが行われた1964年、農業には必須の脱穀機すら普及していないヒマラヤの国ブータンに海外技術協力事業団として結婚したばかりの奥さんの里子さんと二人で赴任しました。

当時のブータンの農業を指導していたのは近くのインドから来た人たちでした。
最初、西岡さんはその人たちの下で働いていましたがインドの人たちはブータンの事を何も知らない日本人に何が出来るんだ、と西岡さんに対してきつく当たりました。

西岡さんはそんな職場の人間関係に耐えながら同時に他の国の人が来る事はめったにないブータンの人たちとのコミュニケーションをとる事にも苦労しました。

西岡さんが農業の方法を教えても誰一人相手にしませんでした。
西岡さんは自ら実践するしかない、と思い小さな実験農場を作りその成果をブータンの人達に見てもらい判断することにしました。

この時ブータン政府から3人の少年が西岡さんの手伝いをするようにと言われ西岡さんの下で働くようになりました。13歳の少年たちでした。

この少年たちの一人は後に、日本の農林水産省にあたる農務省の大臣になりました。

そして実験農場で栽培された野菜をブータンの国会議事堂前に展示してブータンの人達に見てもらうといった作業を2年の間、休まずに続けました。

西岡さんの仕事の任期は2年でした。

2年の任期が終えようとするとき、西岡さんは悩んでいました。

ようやく西岡さんとブータンの農業が交わりかけてきていた時、ここで帰国しては西岡さんが日本で思い描いていた目的は果たせない、この2年間も無駄になる。

こんな気持ちで日々を過ごしていると西岡さんの努力を評価して国王自ら異例の任期延長の話が飛び込んできました。

さらに国王から国王自身の土地を広い農業用地として提供するという申し出もありました。

『ブータンに来てこれほど嬉しかったことはなかった』と西岡さんは語っています。この時作られた農場が、ブータン農業の近代化の礎になったバロ農場です。

そして1976年から4年間、国王の立案によるシュムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わりました。

この県は貧しいブータンの中でも最も貧しい地域で中央から忘れ去られた土地と呼ばれていました。

人々は昔から農業をしていましたがその方法は効率の悪いものでした。
それを変えようとする西岡さんにとって一番困難だったのは、地域の人々を説得することでした。

実に800回以上も話し合いをしたそうです。
西岡さんの考えは、自分達がやれることは極力自分達の手で行なう、ブータンの人たちの身の丈にあった開発でした。

最小の費用で最大の効果。

彼の座右の銘です。この開発期間に、極貧地域はガラリと変わりました。
水田は50倍の規模になり収穫が増えた事で生活は安定し、安定した家庭の子ども達は学校に行けるようになりました。

西岡さんがここを離れる時に開かれた送別会では2000人以上が参加し、みんな涙を流しながら西岡さんの為に歌を歌って送りました。

そして約20年という彼の長期の農業指導は日本の国際協力事業の最も成功した例と言われています。

1980年9月4日、彼の人格を尊敬し、彼の活動を積極的に支援してきた王室から『ダショー』の爵位を受けました。

『最高に優れた人』という称号で日本の国民栄誉賞に値するようなものです。
ブータンでは最も名誉あることでした。

そして1992年3月20日、日本にいる奥さんの里子さんにブータンから一本の国際電話が入りました。

『ダジョー・ニシオカが亡くなられました』

西岡さんは敗血症にかかり、ブータンの病院で息を引き取りました。

享年59歳。

里子さんがブータン政府から

『葬儀はどうなさいますか?日本で行われますか?』

と言われた時、里子さんは

『ブータンで行ってください、そしてブータンの流儀で行って下さい。
本人もブータンの土になりたいと願っていると思います』

と答えました。

そして西岡さんの葬儀は里子さんと娘さんの到着を待って3月26日に行なわれました。里子さんはびっくりしました。葬儀の会場に案内されると王室や国家元首、そして5千人以上の人々が待っていたからです。

国葬でした。

西岡さんを慕う5千人以上に及ぶ人々がブータン全土から弔問に集まりました。

ブータンではこれまで行われた国葬は王室関係者が集まるのは一緒ですが人々は集まっても500人くらいのものでした。

ブータンが経験したことのない立派で盛大な葬式でした。

ブータンは国をあげて、西岡さんに感謝の心を捧げました。

そして今、西岡さんは『農業の父』から『ブータンの父』と呼ばれ
人々が信仰する神様と同じ尊敬を集めています。

コメント(2)

初めて知りました
もっと多くの人に伝えられることを願います
彼に敬意を表します
トピ立て、有り難うございます。
この話を知ることができて本当に良かった。

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