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THE 感動する話コミュの教育者とはかくあるべき

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世界的に偉大な功績を残していても
日本では知られていない人を紹介するシリーズ第2弾。

何度も書いてますが僕は教育学部に通っています。
その中で日本や世界の教育史の事を学んでいますが
僕が思う教育者の理想は日本、世界含めてもこの人以外にいません。

ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ

スイスの人です。名前が読みにくいのは許して下さい。

『すべてを人のためにし、己には何ものも求めず』

ペスタロッチの座右の銘です。


彼が生まれたのはスイスのチューリッヒでした。彼のお父さんはスイスでも評判の優秀な医者で比較的裕福な家庭でした。しかし、彼が5歳の時にお父さんが亡くなり遺族年金で生活を送っていました。当時のスイスにこういう制度がすでにあった事も驚きです。

そして彼は、チューリッヒの近くのヘンク村という所で教会の牧師をしている祖父のところへ遊びに行っていた時に、貧しく十分な学校教育を受けずに富豪の雑用として働いている子供達を見て幼い心を痛めていました。彼はその子供たちの気持ちを共感するために一度、名前を偽って富豪の家に働きに行きました。
その体験を通じてより一層子供たちを何とかしなければと思うようになりました。当時10歳。

その後、大学に進学した彼は主に哲学などを学びルソーの有名な『エミール』を読み教育家になることを志します。

そしてチューリッヒの郊外の敷地を借りてその近くの子供たちと理想的な農園プラス学校の経営を試みました。しかし、これは結局資金が足りず上手くいきませんでした。もっともペスタロッチ自身は子供達にパンを与えるために自分は川の水を飲み2日に一回だけ子供と一緒にパンを食べるという生活をしていたそうです。
この苦々しい経験から

『実物や実行から、直接学ばせて、子供の能力を伸ばす』

という近代的な教育原理と方法を見いだし1780年には『隠者の夕暮』
1781年には『リーンハルトとゲルトルート』という論文を発表しヨーロッパの教育界にその名をとどろかせました。

ようやく学校の経営と子供たちの教育面の充実が両立してきた時に、フランス革命の余波でスイス革命が勃発します。

ペスタロッチは革命政府に教育面での奉仕を申し出ました。
そして53歳のときにシュタンツ村という田舎の小さな村に教師として派遣されます。

その村は、革命政府に最後の最後まで抵抗したために友軍のフランス軍に焼き討ちされました。そのために親を失い孤児になってしまった子供達を育て、そして教育する施設を任されたのです。

もちろん子供たちにしてみればペスタロッチは敵の仲間になります。
血縁的に近しい大人すら信用できなくなっていた子供達ですがペスタロッチは一日中、そばにいて絵本を読んだり一緒に歌を歌ったりしていく中で子供たちの警戒心も無くなっていきました。

ペスタロッチの温かい愛情で包まれて子供たちとの信頼関係がようやくできてきたころその建物が軍の野戦病院になってしまい半年で教育施設としての役目を終えてしまいます。ペスタロッチは気を落とし吐血して入院してしまいますがその彼を励ましつづけたのは毎日見舞いに来てくれていた子供たちでした。

無事に退院した彼は、どんな子供でも生き生きと何も心配せず学べるような学校を創ることを生涯の目標に設定しました。

今度はブルクドルフという小さな町で私立小学校を開きました。この私立は今の私立とは印象が違います。当時は公立の方がお金を多く取っていました。私立の小学校は多くの学校が無料に近い学費でした。ペスタロッチは入学する子供一人一人と話して子供の両親とも話して、それぞれの家庭の学費を決めました。
といってもほとんどの子供が無料になったようですが。

もちろん当時は公立の小学校の方が教育のレベルは高かったです。教師も専門の教育学を受けた人たちばかりですから。それに対して私立は極論を言えば誰にでも開けるものでしたから。しかしペスタロッチの学校は違いました。
当時は公立でしかしていなかった理科の実験なども取り入れ彼の学校の卒業生たちは秀才ぞろいと評判でした。何より道徳という授業を取り入れた事も彼の功績でした。

彼の学校の評判を聞いて協力したいと出資する人が現れてより良い学校の設備を整えることが出来るという良いサイクルが出来ていました。

その後は現場で教える教員を育てるためにジュネーブ近くにイヴェルドン学園を開きます。ここは、その後20年間全ヨーロッパの教員養成の中心地となります。

1806年には当時珍しかった女子学校を併設し男女平等の精神も説きました。1813年にはスイス初の聾唖の学校と聾唖の教員育成施設も設立しました。
また、自分の年金を全てなげうって長年の夢であった貧民地区の子供が誰でも無料で通える小学校を創ったのでした。

さかのぼって1792年にはフランスの国民議会から、『人類の恩人』としてフランス名誉公民権が与えられました。

彼は死ぬまで、子供達が自分が有用な価値のある人間だと言うことに気づき安らぎのある人生を送れるようにしてやりたいと思い続けていました。

彼のお墓には冒頭で紹介した

『すべてを人のためにし、己には何ものも求めず』

と書かれているそうです。

彼がシュタンツ村に単身赴いて孤児の子供たちの教育をしたときのことを後々こう語っています。


『私は彼らと泣き、彼らと笑った。

彼らは世界を忘れ、シュタンツを忘れた。

彼らは私と共にあり、私は彼らと共にあった。

彼らの食べ物は私の食べ物であり、彼らの飲み物は私の飲み物であった。

私は何ものも、持たなかった。ただ彼らだけをもっていた。

……私は彼らの真ん中で眠った。夜は一番あとで床に就き、朝は一番早く起きた。

私は床の中で、彼らの眠るまでなお彼らと共に祈り、彼らを教え、彼らはそれを欲した』


現在、日本の岡山と広島の小学校にペスタロッチの銅像が建っている学校が少しあります。

なぜこの2県かというと広島は広島大学で教鞭を取っていた長田新という教育学者が熱烈なペスタロッチのファンでついに大学を動かしてペスタロッチ賞という子供の将来に夢を与えた人たちを表彰する賞を作ったほどの人がいるからだと思います。
ちなみにこの賞の受賞者は黒柳徹子さんやアグネス・チャンさん等の子供の教育に熱心な事で著名な方が多くいます。

岡山は鏡野町というところが日本のペスタロッチタウンという事を宣言し、ペスタロッチの教育を町ぐるみでやろうという事から銅像を建てたようです。


教育者とはかくあるべき

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