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THE 感動する話コミュの山本孝史

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多くの方がご存知の様に清廉な議員、清廉な人として知られている人物です。

僕は以前も書きましたが、あしなが育英会に助けられてここまで来れました。
山本さんはそのあしなが育英会の第一回目の募金活動に大学在学中に参加されて以来亡くなられるまでずっと支援をしておられました。

僕も機会があり、少し話す事が出来ましたが本当に素晴らしい人でした。
所々ウィットに富んだ応対や真剣な話の時の目などテレビで見るよりも
熱い方でした。僕が会ったときはガンがまだ見つかっていない時でしたので
体格も良く、僕は父親が小さい頃からいなかったので自分の中の
理想のお父さんってこんな感じなんやろなぁと思っていました。


今の国会議員はほぼ働いていないと皆さん思っておられると思います。
でもそんな事はありません、議員の中のほんの少数が堕落しているだけで
大多数は質問書も作ったり新しい法案を通そうと時間を惜しんで努力しています。

民主、自民関係なく党派の垣根を越えて一つの目標に向かって協調する人達を
超党派とよく言います。山本さんは度々超党派の一員として日本の厚生面の充実の為にまさに身命を投げうって職務に当たりました。


1949年、兵庫県で山本さんは生まれました。

戦後間もない為に大阪から兵庫に両親が疎開している間に山本さんが産まれました。そして高校まで大阪で過ごします。

大学は京都の立命館大学に進学されました。
在学中からボランティア活動に熱心でYMCAや地域の子ども達の
遠足等の引率を率先して引き受けていました。

そして1970年、大阪万博が開かれます。山本さんの最初の転機です。
この時万博内の介助ボランティアに応募し大阪ボランティア協会に所属します。
その協会で山本さんは交通遺児が作った文集
『天国にいるお父さま』という作品に涙します。
そして同協会で秋田の大学生の生路さんと出会います。

生路さんは自分の大学の学祭で交通遺児の募金活動をするつもりだと話します。
影響を受けた山本さんは梅田の街頭で募金活動を始めます。

そしてその活動が東京での募金の贈呈式への招待につながり、ここで
生涯山本さんに影響を与えた玉井さんに出会います。
玉井さんはずっと前から交通遺児達への経済的援助やケアの必要性を
訴え続けていた方でした。この玉井さんを軸にあしなが育英会は出来上がっていきます。

山本さん本人の文を拝借します。


毎年春秋、遺児の進学支援を呼びかける「あしなが募金」。1970年、その第1回募金に立命館大生だった私も参加した。募金の贈呈式があるからと東京に呼び出され、運動の先頭に立つ玉井義臣氏(あしなが育英会会長)と出会った。
 玉井氏は、母親を交通事故で亡くし、私怨を公憤に高め、交通評論家として活躍していた。私も兄を交通事故で亡くしていたことから、意気投合し、学業そっちのけで交通遺児を励ます会の活動に没頭した。「玉井のおっちゃん」と飲み明かすこともしばしばだった。
 学生時代から活動ぶりがわかっているのだから、効率的な人材確保策でもあった、と気付いたのは後日のこと。その後の20年間、玉井氏は私の職場の上司となった。愛唱歌が「月月火水木金金」だった私たちの運動に、副田義也筑波大学名誉教授が社会学的考察を加え「あしなが運動と玉井義臣」として出版された。芥川賞候補者となったこともある副田教授の筆で運動が活写され、面はゆいばかりだ。
 玉井氏には、ミシガン州立大学への留学を勧められ、学者の道も示していただいた。政治家の道へと推してくださったのも玉井氏である。「なんでやねん」と憤り、活動に没頭した青春時代の志を忘れずに活動することが、私の「あしながさん」である玉井氏への恩返しでもある。(やまもと・たかし=民主党参院幹事長)


就職を交通遺児の支援の為に棒に振った山本さんでしたが両親はそんな行動に
反対せず自分のやりたいと思ったことならしていきなさい、と応援しました。

そして活動に従事していた1982年、ゆきさんと結婚します。

1990年、交通遺児育英会事務局長に就任します。あしなが育英会の支援対象を交通遺児だけに限らず、災害や病気、自殺等での遺児にも拡げたいと願う事務局側のトップとしてそれに反対の姿勢を見せた監督官庁との間で長い論争が始まりました。

結果山本さんの意見が認められました。僕はこの時の山本さんのおかげで
あしながの支援対象になる事が出来ました。本当に感謝しています。

そして1993年、大阪4区から衆議院選挙に日本新党から立候補します。
ボランティア選挙、お金のかからない選挙を展開し初当選。
この時にいたボランティアスタッフはその後、青年海外協力隊や赤十字、国境なき医師団等に多くの方が進んでいます。

1996年、比例代表として再選を果たします。
厚生委員会等にも積極的に参加をし1年生議員が理事に就任するという
周りの支持もあってのことですが異例の抜擢を受けます。

他にも年金制度や医療制度の改革、介護保険の創設など、社会保障制度を巡る諸問題に取り組み、国会での質問回数は、衆院でもトップでした。

薬害エイズの真相解明にも全力で取り組み、「隠されたファイル」の存在や、加熱製剤販売後も非加熱製剤を売り続けていた事実を明らかにしました。

臓器移植法では、対案を提出し国会内での議論をリード。
交通事故をなくす国会議員の会事務局長も務めます。

介護保険の創設に当たっては山本さん自ら休みを割いて学校や老人施設、スーパーの軒先などで黒板を片手に分かりやすく書いて説明しました。
当時は介護の必要性が今ほど認識されていませんでしたので無意味な増税と取られがちでしたが山本さんの必死の説得のせいもあり山本さんが説明に行った地域では介護保険の必要性は認識される事となりました。

今、介護保険を受けられている方は知らないかも知れませんが山本さん始め議員の方は自分の議席を捨ててでも未来の為にと介護保険の創設を頑張っておられたのです。

2000年、その影響も少しあったかも知れません。山本さんは落選します。

2001年小泉ブームで沸く中の参議院選挙。山本さんは数少ない民主党当選議員として国政に復帰をします。

2003年、民主党の幹事長になってくれと周りから説得をされます。
幹事長になると今までのように現場で働く事は出来なくなります。
しかし逆に言えば出来る事も増えます。法案提出の是非などその権限は
今よりも広がります。山本さんは自分の政策の為に幹事長に就任します。

そしてその後の選挙戦も無事に終える事が出来た山本さんは
現場に戻りたいと申し出て承諾されまた厚生面の充実をめざし頑張ります。

2005年、経験の為に参議院財政金融委員長に就任します。
この任期中に胸腺がんが発見されます。
山本さんは委員長を辞任します。

これをきっかけに山本さんはがん対策基本法を法案で通す事を議員生活の
集大成にしようと考えておられたようです。

そして2006年がん対策基本法と自殺対策基本法が可決されます。
がん対策基本法では山本さんの提言で国からの援助をがんの治療に今まで以上に
割く事を決め、国としてのがんの情報機関がそれまではしっかりと無かったので
それを創設しました。がん電話相談などもこの時の山本さんの意見でがんの専門医師が電話に出れるようになりました。

自殺対策基本法でも、同様にストップ!自殺の電話相談や自殺サイトの削除や制限を設けたり出来るだけ青少年の目に自殺という言葉が入らないようにしました。

2007年、参議院選挙で比例で再選を果たします。
この時の様子はもう本当に涙なしでは見る事は出来ないです。
そして同年の12月、がんで死去されます。

今から2つの文書を紹介します。

一つは山本さんが再選する前に自分の死期を悟っていた為か書いておられた
遺言のような皆さんへの感謝の言葉。

一つは政敵だった自民党の尾辻秀久が読んだ哀悼の言葉。
これはyoutubeも貼っておきます。尾辻さんの涙声を聞くと涙が出てきます。


感謝の言葉

謹啓

皆様には、これまで私の人生において公私共にご支援を賜り、厚く御礼申し上げます。お先に黄泉の国へ参らせていただきます。多大なるご迷惑をお掛けいたしますこと、衷心よりお詫び申し上げます。

アメリカ留学で「死の教育(デス・エデュケーション)」という学問領域に触れたのは1979年のことです。帰国後も研究を深めたいと思いましたが、交通遺児育英会や国会議員の仕事が忙しく、できませんでした。箴言家のフーコーは「人は、太陽と死を直視できない」と看破しましたが、自分自身も、死と向き合う勇気がなく、本格的な「死の社会学」の研究から遠ざかってしまいました。

「良く死ぬとは、良く生きることだ」と頭では理解していても、死の受容は難題です。しかし、がん告知を受けても、割りと冷静でいられたのは、「どれだけ長く生きるかではなく、どのように生きるか」を考えなければならないと、自分に言い聞かせたからだと思います。「一日一生、一日一善、一日一仕事」。そう言い聞かせて、新しい一日一日を重ねて参りました。

私が、あしなが運動を通して同志の皆さんと歴史に残る仕事ができたこと、また、国会議員として、薬害エイズ、臓器移植法、年金、介護保険、自殺対策基本法など、国会議員の先頭に立って厚生行政の推進に関与できましたことは、大きな喜びです。

特にがん対策基本法では、本会議で「がん患者」であることを公表し、皆様を驚かせることとなりましたが、法案も成立し、残された時間は、がん患者の先輩から引き継いだバトンを手に、がん医療の水準向上のために頑張らせていただきました。そう考えますと、がんに罹ったことも、本会議場での公表も、私に課せられた使命、天命のようにも思えます。これも、国会議員冥利に尽きるのではないかと思っています。ご期待にお応えできなかった政策課題もがん対策を始めたくさんありますが、どなたかが引き継いでくださることと確信いたしております。

戦後も60年以上が経過し、日本が再び誤った道に進もうとしているように思えてなりません。惨禍が繰り返されることのないことを、また、日本社会において、民主主義が成熟し定着することを願ってやみません。

末筆ながら、皆様のご健勝をお祈り申し上げます。

大変幸せな充実した人生でした。みなさん、本当にありがとうございました。 
さようなら。

謹白
山本孝史



哀悼演説

本院議員山本孝史先生は、平成十九年十二月二十二日、胸腺がんのため逝去されました。享年五十八歳でありました。誠に痛惜哀悼の念に堪えません。

山本孝史先生は平成十八年一月、国立がんセンター中央病院において、現在の医療では治ることのないステージ?の進行がんである」との確定診断を受けられました。奥様は「何も治療しなければ余命は半年」と告げられたとのことであります。

胸腺がんは非常に珍しいがんで、もともと外科手術による切除が難しいうえ、他の臓器への転移もみられたことから、抗がん剤による化学療法が選択されました。

爾来、山本孝史先生は、末期のがん患者として、常に死を意識しながら、国会議員の仕事に全身全霊を傾け、二年の月日を懸命に生きられたのであります。

私は、ここに、山本孝史先生のみたまに対し、謹んで哀悼の言葉を捧げます。

山本孝史先生は昭和二十四年七月七日、御家族の疎開先であった兵庫県芦屋市に生まれ、数ヶ月後、大阪市南船場に転居されました。

先生が五歳のとき、兄上が自宅前で、トラックに轢かれ、亡くなられました。山本先生は後に「母が亡骸となった兄の脚をさすっていたこと、毎晩、御詠歌をあげていた姿は今も鮮明に覚えている」と書き残されています。

山本先生はその後、立命館大学在学中、身体障害者の介助ボランティアを体験され、これをきっかけに大阪ボランティア協会で交通遺児育英募金と出会うことになります。交通遺児の作文集を読まれたとき、「夭折した兄の無念さや、両親の悲しみが一気に胸にあふれた」と記されております。

「大阪交通遺児を励ます会」を結成された先生は、活動を展開するため、全国協議会の事務局長に就任されました。交通遺児には様々な事情を背負った子どもたちがいます。先生は、「交通遺児と母親の全国大会」を成功させ、参加者とともに銀座をデモ行進されました。先生の政治の世界における御活躍の基礎は、「市民活動」にありました。

山本先生は大学卒業後、財団法人交通遺児育英会に就職され、その後、米国ミシガン州立大学に留学。家族社会学を専攻し、高齢者福祉や社会貢献活動、「死の教育」のあり方について学ばれました。大学院修士課程を修了された後、育英会に復職され、平成二年に事務局長に就任されました。

先生は、災害や病気、自殺などで親を失った子どもにも奨学金を支給したいと願っておられましたが、監督官庁の反対に遭い、縦割行政を痛感されたそうであります。

そして、平成五年。山本先生に転機が訪れます。誘いを受け、日本新党から旧大阪4区に立候補され、ボランティア選挙、お金のかからない選挙を展開し、当選されました。次いで平成八年の総選挙には、新進党から近畿比例区に立候補され、再選を果たされました。

衆院時代の山本先生は、年金や医療制度の改革、介護保険の創設や、残留邦人の援護などの問題に取り組まれました。また、一年生議員ながら当選の翌年から、その後長きにわたって厚生委員会の理事の職を務められました。

質問等の回数は、衆議院本会議での代表質問二回、討論二回、委員会での質疑七十回、質問主意書は血液製剤や臓器移植などの医療問題、援護事業などに関するもの三十四本を数えます。

特に薬害エイズ事件の真相解明では、「隠されたファイル」の存在や、加熱製剤承認後も非加熱製剤が使用され続けていた事実を明らかにされました。また、脳死・臓器移植問題では、いわゆる「金田・山本案」と呼ばれる対案を提出され、国会論議を深めることに貢献されました。

先生は平成十三年、参議院に転じ、大阪選挙区から立候補され、当選されました。再び年金や医療制度の改革に取り組まれ、亡くなられるまでの間、参議院本会議での代表質問が五回、予算、決算、厚生労働などでの委員会質疑は五十八回に及び、質問主意書についても年金、社会保険庁問題など十一本を数えます。

この間、党務においては、民主党次の内閣の厚生労働大臣、年金改革プロジェクトチームの座長、難病対策推進議員連盟の会長、自殺総合対策ワーキングチームの座長などを務められております。

また、山本先生は平成十五年、参議院民主党・新緑風会の幹事長に就任されました。先生が幹事長在任中の平成十六年の参議院選挙は、マニフェストで政策を競う選挙として、年金が大きな争点となりました。「年金のことなら山本に聞け」という言葉があるように、先生は年金政策の第一人者であり、民主党の年金改革法案の実質的な立案者であったと伺っております。

山本先生は年金論議を終始リードされましたが、政府の年金改革法案の代表質問に立たれた際、この壇上から、次のように訴えられました。

「議場の皆様に申し上げます。
年金改革はこの国のありようを決める大事業であり・・・ そして、我々は国民の代表であります。・・・ 年金改革とこれからの国のありようについて、この参議院において、真摯に、真剣に、そして徹底的に議論しようではありませんか」
 
国民の代表である国会議員と参議院が果たすべき職責について、先生がどのように捉えておられたのかが真っ直ぐに伝わってくる、使命感に満ちあふれた名演説でした。

厚生労働委員会における小泉総理との白熱したやり取りは、今も語り草となっております。我が党は厳しい選挙戦を強いられることになりましたが、このときの民主党の躍進こそ、参議院第一党となる礎となっているといえましょう。 山本先生は、我が自由民主党にとって、最も手強い政策論争の相手でありました。

私は平成十六年から十七年にかけて、厚生労働大臣を拝命いたしておりました。その間、山本先生から、予算委員会で三回、厚生労働委員会において八回の御質疑を頂戴いたしました。先日、会議録を読み返してみましたところ、百七十問ございました。その中でも印象深いのは、平成十六年十一月十六日の厚生労働委員会の質疑でした。

山本先生は、助太刀無用、一対一の真剣勝負との通告をされました。この質疑の中で、私が明らかに役所の用意した答弁を読みますと、先生は激しく反発されましたが、私が、私の思いを率直にお答えいたしますと、幼稚な答えにも相づちをうってくださいました。 先生から、「自分の言葉で自分の考えを誠実に説明する」大切さを教えていただきました。

そして、社会保障とは何かをご指導頂きました。 昨日も、先生に叱られないように、社会保障には特に力を入れて質問をいたしました。

山本先生は平成十七年、参議院財政金融委員長に就任されました。新しい分野で活躍しようとなさっていた、その矢先、病魔におかさておられました。

山本先生は平成十八年、五月二十二日、医療制度改革関連法案の代表質問に立たれ、この壇上から、次のように、語り始められました。

「理想の医療を目指された、故今井澄先生の志を胸に、私事で恐縮ですが、私自身、がん患者として、同僚議員始め、多くの方々の御理解、御支援をいただきながら国会活動を続け、本日、質問にも、立たせていただいたことに心から感謝をしつつ質問をいたします」

そして、「最後に、がん対策法の今国会での成立について、議場の皆さんにお願いをします。日本人の、二人に一人はがんにかかる、三人に一人はがんで亡くなる時代になっています。 今や、がんはもっとも身近な病気です。
 
がん患者は、がんの進行や再発の不安、先のことが考えられないつらさなどと向き合いながら、身体的苦痛、経済的負担に苦しみながらも、新たな治療法の開発に期待を寄せつつ、一日一日を大切に生きています。私があえてがん患者と申し上げましたのも、がん対策基本法を成立させることが日本の本格的ながん対策の第一歩となると確信するからです。
 
また、本院厚生労働委員会では、自殺対策の推進について全会一致で決議を行いました。私は、命を守るのが政治家の仕事だと思ってきました。がんも自殺も、ともに救える命が一杯あるのに次々と失われているのは、政治や行政、社会の対策が遅れているからです。年間三十万人のがん死亡者、三万人を超える自殺者の命が一人でも多く救われるように、何とぞ議場の皆様の御理解と御協力をお願いいたします」と結ばれました。
 
いつものように淡々とした調子でしたが、先生は、「抗がん剤」による副作用に耐えながら、渾身の力を振り絞られたに違いありません。この演説は、全ての人の魂を揺さぶりました。
 
議場は暖かい拍手で包まれました。私は今、その光景を思い浮かべながら、同じ壇上に立ち、先生の一言一句を振り返るとき、万感、胸に迫るものがあります。

先生は法律を成立させただけではありませんでした。痩せ衰えた身体を押して、がん対策推進協議会等を欠かさず傍聴されるなど、命を削って、立法者の責任を果たされました。

 山本先生は、昨年七月の参議院選挙にも立候補され、再選を果たされました。召集された国会において、新議長を選出する投票が行われた際、壇上に向かわれる先生に、再び拍手が贈られました。
 
十二月四日、筆頭発議者として、被爆者援護法の改正案を提出されます。これが国会議員として記録に残る最後の仕事となりました。
 
衆参両院で延べ三十七本の議員立法を提出されたことになります。先生は最後まで、「国会議員こそ立法者である」との信念を貫かれたのであります。

先生は十二月二十二日、黄泉の国へと旅立たれました。先生の最後の御著書となった「救える『いのち』のために 日本のがん医療への提言」は、先生が亡くなられる直前、見本本が病室に届けられました。先生は、眼を開け、じっと見つめて頷かれたそうです。その時の御様子を、奥様は告別式において、次のように紹介されました。

「私は、彼の手を握りながら、本を読んであげました。山本は、命を削りながら執筆した本が世に出ることを確かめ、そして、日本のがん医療が、ひいては日本の医療全体が向上し、本当に患者のための医療が提供されることを願いながら、静かに息を引き取りました」
 
「バトンを渡しましたよ。たすきを繋ぐようにしっかりと引き継いでください」。そう言う山本先生の声が聞こえてまいります。

先生、きょうは外は雪です。随分やせておられましたから、寒くありませんか。先生と、自殺対策推進基本法の推進の二文字を自殺推進と読まれると困るから、消してしまおうと話し合った日のことを懐かしく思い出しております。

あなたは参議院の誇りであります。社会保障の良心でした。 ここに、山本孝史先生が生前に遺されました数多くの御業績と気骨あふれる気高き精神を偲び、謹んでご冥福をお祈りしながら、参議院議員一同を代表して、お別れの言葉といたします。


                                         参議院議員
尾辻秀久






コメント(1)

掲載の許可をもらおうと事務所にメールしました。

しばらくして、山本先生の奥様がご自分のアドレスで丁寧な文を返して下さいました。

載せて頂いてありがとうございますと言って頂けました。

本当にありがとうございました。

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