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THE 感動する話コミュの杉原千畝

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みなさん知っていると思います。日本のシンドラーと呼ばれた方です。
長いですがよろしくお願いします。

1918年に杉原千畝は英語教師になる夢を持ち早稲田大学に入学します。
彼は昔から教師という職に就きたい訳ではありませんでした。
父親に医者になるように言われ続けていた千畝にとっては
教師になる事によって父親からの言葉を交わせる、それだけの事でした。
本来の夢は外交官になる事でした、しかしそれには莫大なお金がかかります。
外国に留学しないといけないのですがほとんどの人が私費で行っていました。
千畝はあきらめかけていましたが大学入学後から1年後
官費での外交官養成の為の留学生の募集があり試験を受けた千畝は
受かりました。その後満州を経てロシアで語学を学んだ千畝は外務省書記生としてハルビンに赴任します。

1931年、満州事変が起こった時、千畝は満州国の外交部に配属されます。
主にソ連との外交を担当しました。
当時、実権を握っていた関東軍の司令部は反日運動がおこるとそれを抑えに
よく出かけていきました。
千畝はその時の事をこう語っています。

『日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だとは
思っていなかった。私はがまんが出来なかった。』

1935年、千畝は外交部を辞任します。

その年、千畝は日本に帰国し外務省に勤め妻の幸子さんと結婚します。
そして1939年大きな転機が訪れます。リトアニアの領事代理として赴任することが決まったのです。

そして赴任してわずか3日後

ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまります。
その年ソ連もポーランドに侵攻しました。
7月、その勢いのままソ連軍はリトアニアにも侵攻しリトアニアは
ソ連に事実上占領されてしまいます。

7月13日リトアニア領事代理として千畝の元にソ連から8月25日までに
領事館を閉鎖して明け渡せと命令が届きます。

その2週間後の7月25日、千畝は明け渡しの準備を終えて朝コーヒーを飲んでいると、ほどなく彼の耳に、音か声か分からないが何かが飛び込んできました。
人の気配を感じて窓の外を見た千畝は300人程の群衆が激しく手を振って盛んに何かを訴えかけているのを理解しました。 千畝は

『とっさに私は、これはただごとではない。何か知らぬがとにかく
領事館に用件があって来集したに違いないと直感した。』
と後に振り返って書いています。


すぐに千畝はその群衆がドイツのポーランド侵攻によって祖国を追われたユダヤ系のポーランド人であると察知しました。独裁者ヒットラー率いるナチスドイツは民族浄化というばかげた考えを実行していました。経済力のあったユダヤ人をその対象にしたのです。しかしユダヤ人みんなが経済力があったわけはもちろん無く、ほぼすべてのユダヤ人が当時の水準のぎりぎりの暮らしをしているといった状態でした。

命からがらドイツ軍から逃れてきた群衆たちは千畝に対して次のようなお願いをしました。

『ナチスの迫害から逃れるために日本通過のビザを発給してもらいたい』


彼らはリトアニアからロシアのシベリアを経由して日本に渡り日本や中国、アメリカに亡命することを考えていました。


当時の日本は人種平等を掲げていたので、千畝は早速日本の外務省に人道的見地から『通過ビザ』を発給したいと伝えました。

しかし当時の外務大臣松岡洋右の回答は

『行き先国の入国手続きを完了した者に限り、そうでない場合は、通過ビザを与えないように。なお領事に対して即座に帰国を命じる』

という冷たいものでした。つまり必要な書類を完全に持っている者に限り通過ビザを発給する事を認めるとの内容です。

これには千畝は激怒します。千畝の前に集まったユダヤ人たちはドイツの侵攻から着のみ着のまま逃げてきた人たちです。当然、そんな物を持ってきているはずはないのです。

この日本政府の冷たい態度の裏には日本がドイツと同盟(日独伊の三国同盟はこの二ヶ月後に締結されました)を結ぼうとしていた背景があります。

つまり松岡はユダヤ人の命よりも外務大臣としてドイツのご機嫌を損ねることを気にしていたということです。
これは国益を第一に考える外務大臣としては正しいのかも知れませんが僕は人道的な支援を国を挙げてして欲しかった。今この時代だからこそ言える勝手な意見なのかも知れませんが、そう、切に願う事しか僕にはできません。


千畝は外務省にもう一度

『ユダヤ人たちの申し出は人道上どうしても拒否できない。
形式にこだわらず領事の判断で発給してもよいのではないか』

と伝えます。しかし外務大臣松岡の答えはNOでした。

そうこうしてる間に領事館の前のユダヤ人の数は増えていきます。
それには事情がありました。
他の国の領事は本国の指示に従いずいぶん前に領事館を閉鎖して
帰国していたのです。

日本だけが千畝の独断で残っていました。ユダヤ人は千畝が日本本国に
交渉している事を知っていたので最後の期待を千畝と日本にかけていたのです。

そして日本という国が諦めた以上、日本人の千畝だけに期待をしていたのです。


領事館の前にユダヤ系ポ−ランド人たちが現れてから4日間が過ぎました。
千畝は人間として悩みに悩みました。
外交官として外務省つまり国の意向をとるべきなのか、それとも人間として日本人として、目の前の助けを乞う人々の命を救うべきか。
彼は家族に相談して勇気をもらいました。


幸子さんは夫が4日間眠らずに考えている事を知っていました。

『ビザを独断で出そうと思っているけど、どう思う?
私たちもおそらくただではすまない、捕まれば重罪人として死刑は
間違いないだろう。捕まる可能性の方が高い』

『私たちはどうなっても良いのです。あなたの思う事が私たちの思う事です。
あなたの足かせにはなりたくない。どうぞ思うようになさってください。』


こうして千畝の気持ちは決まりました。のちの手記に

『救えるユダヤ人から永遠の恨みを買ってまでビザを拒否してもかまわないとでもいうのか?それが果たして後世から見て正しい事だと言えるのか。
私はそうは思わない、私は救える立場にいる、彼らは救われるべき人たちだ。
ならもう迷う事はない。救おう。』


この行動はもちろん外交官としては『訓令違反』となり、国に帰ればそれこそ銃殺になるかもしれない。千畝はそれを承知で責任を持ってビザを発給することを人々に告げました。
大きな歓声が湧きました。千畝は自身の外交官としての職務よりも、今人としてなすべき事を選択しました。
目前で死の恐怖に曝されている人間の命を救う以上に尊いことはない。
強い信念が彼の命がけの行動を支えました。

千畝はその日から朝から夜まで食事もろくにとらずにビザを書き続けます。
手が動かなくなるまでを日課にしていたといわれています。
初日は121枚を書きました。これは少ないと思われるかも知れないですが
当時のビザは今の様に電子処理がされていないので全てを領事が書かないといけなかったのです。分かりやすくいうと原稿用紙3枚分はあったと思います。

それから9月5日まで千畝はビザを2139枚書き続けました。
途中から保管する用の番号をつけていないビザも発行していたので実際は
もっと多いといわれています。

9月5日までなのはソ連が軍隊を持って千畝を駅まで無理やり連れていったからです。
千畝は駅でも書き続けついに出発の時間が来ると対面しているユダヤ人に

『許してください、もうこれ以上は書けません』
と伝え列車に乗りました。
千畝のビザによって救われたユダヤ人は6000人に上るといわれています。


やがて第二次世界大戦は終わり、同盟関係にあった日本とドイツはともに無条件降伏を受諾してそれぞれ終戦を迎えました。

6000人のユダヤ人の命を救った千畝は1947年、それまで拘留されていたソ連から終戦間もない祖国日本に帰国しました。

しかし外務省の彼に対する態度は、思いの外に厳しいものでした。
千畝は、詳しい理由も告げられないまま、外務省をクビになります。
後に外務省は、あの時は『人員整理のため』であったと答えています。
が、正式には現在でもその理由は明かされていません。

要するに杉原の勇気ある行動が『訓令違反』であったという事が千畝の処遇の裏に隠されていたと考えられます。しかし当時の日本は千畝の行動を知っていて黙認したのではないかと言われています。
人道支援をうたっていた日本は千畝の行動を実際は支援をしたかったがドイツに対する手前、表だって支援は出来なかった、ならば黙認しよう。
こう考える人も大勢います。僕もそう信じています。

なぜなら千畝が助けたユダヤ人のうち1000人は日本の舞鶴港などに到着し
日本政府からの手厚い保護を受けアメリカや中国などに亡命する手続き等も
国が率先して行っていたからです。


日本の命令に従わなかった千畝は長い失意の時を過ごした後、様々な仕事を転々とした。
その語学能力を生かして企業の海外駐在員として働きます。
その間ユダヤ人へビザを発行した事などは一度も言わなかったそうです。
1975年、75歳で鎌倉の自宅に隠棲しました。戦後30年経っても依然として千畝の名誉は回復されませんでした。

しかし救われた人々は、恩人Tiune Sugihara(チウネスギハラ)を忘れていませんでした。
1968年イスラエル大使館から電話がかかってきました。
相手は千畝がビザを発行したユダヤ人でした。
彼らは外務省を退職してから消息が分からなくなった千畝を探し続けていたのです。


1985年イスラエルのエルサレムの丘に千畝の顕彰碑が立てられました。
『諸国民の中の正義の人賞』です。
イスラエルは、杉原の勇気を最大限に讃え、彼の命がけの行為は、こうして世界の人々に知られるようになりました。
杉原は日本の外交官から世界の『人道の人、チウネスギハラ』となりました。
しかし日本の外務省は千畝の存在を公的には無視し続けました。

その時千畝はもう病気で動ける状態ではなかったので息子の信生さんが代わりに式典に出席しました。そして病床の千畝に信生さんから手紙が届きました。

『握手をする手も休めないほどで、みんなの本当に感謝している目を見ると
僕はこんなに立派な両親を持って幸せだなあと改めて思いました。』

その時の千畝は妻の幸子さんによると涙で目が真っ赤だったそうです。

そして1986年、千畝は亡くなります。86歳でした。

2000年10月10日、あのような勇気ある行為をしたにも関わらず、名誉が回復されないまま不遇の晩年を送った千畝とその家族にとって、待ちに待った時がやってきました。
この日、千畝とその家族に対し、千畝の名誉回復を象徴する
『杉原千畝を讃える顕影プレートの除幕式』が都内外交資料館であったからです。
会場には多くのユダヤ人が来ていました。千畝が救ったユダヤ人の子孫は現在
32000人だといわれています。

挨拶に立った河野外務大臣は、千畝とその遺族に対して、
『外務省とご家族との間にご無礼があった・・・極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴らしい先輩だ』
と語り、戦後の外務省の対応について、初めて外務省の非礼を認め正式に謝罪をしました。

千畝の言葉です。

『私のしたことは外交官として間違ったことかもしれない。
しかし私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることは出来なかった。
大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。』

コメント(5)

「職務に忠実で、真面目であることが、必ずしも正しいこととは限らない」

杉浦千畝の人生を振り返ると、
人間として正しい行いというのは、
自分の立場や損得勘定を一切なげうってでも行うことなのだと教えられる。

それに比べ戦後すぐの外務省の役人どもは、
何と保身に終始し、事なかれ主義のドグマに陥っていたことか。

優秀な人材が閑職にあり、恥ずかしい人材が重責にある。
これが日本の役人の実態なのかと思うと、情けない限りだ。
高校での世界史の授業のときに自分は杉原千畝さんのことを知りました。
ユダヤ人を数多く助けたということが書かれていて、
なんて勇気ある行動をした立派な日本人なんだろうexclamation ×2
と思っていましたが、そのあとに辛い思いをされてるとは知りませんでした涙
ですが、今になってこういうふうに、
すごい日本人として今に伝えられていてホントによかったですぴかぴか(新しい)
小学生の頃、道徳の授業で
この話を習いました手(パー)
「私のしたことは…」という言葉が
ずっと記憶に残っていましたぴかぴか(新しい)
大人になって改めて読んでみると、
千畝さんの強く優しい心や
行動力は本当にすごいなと思います電球
というか、すごいの一言で片付けるのは申し訳ないですあせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
世の中、世間体とか自分の立場とかいろいろある中で、
良い行いを貫くのって難しいですよねひよこ
感動しました。微妙くんさん、ありがとうございます。
さすが素晴らしいですぴかぴか(新しい)映画にもなっているお話ですねー…

胸に来るお話です!!同じ日本人として誇らしいですね!!

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