ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

関が原合戦の西軍武将と大阪の陣コミュの小早川の裏切りの裏切り

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 小早川陣営が怒涛の如く大谷吉継の軍勢に攻めかかった。千や二千の軍勢ではない。一万五千の大軍である。これで一気に戦況は東軍有利に変わった。
「何!いまさら寝返ってどうなる!!寝返りが悪いと言うのではない。戦国の常じゃ。されど、この期に及んでの寝返りなどはもっての外じゃ。寝返るのならば初めから何故、態度を明らかにしなかったのじゃ!わしは動かんぞ!!」
この寝返りに最も憤りを発したのは、意外ではあるが小早川秀秋の重臣・松野重元であった。当主・秀秋は心もとないが元々、小早川家の先代・隆景は毛利元就の三男で名将の器であった。その為、このような骨のある武将もいたのだ。しかし、側近はお家大事に固執し過ぎて決断が遅すぎた。とは言っても、この戦況では戦の勝敗を決定付ける。
この寝返りは石田三成には寝耳に水であった。まさか、豊臣秀吉の甥である秀秋が裏切るとは思っていなかった。一方、大谷吉継はある程度、予想していた。
「やはり寝返ったか・・・。」
「殿、御味方は総崩れです!」
「うむ。致し方もあるまい。せっかく我が婿殿が秀忠軍を足止めしてくれたのにのう。」
「我ら最後の力で小早川勢を食い止めます。その内に殿は早う。」
「承知した。そち達には苦労をかけたな。心より礼を申す。」
「と、殿・・・・。それでは、御免!」
大谷吉継は、秀吉、家康からも愛された男である。最後に見苦しい進退はしなかった。切腹して果て、大谷隊はここに全滅の憂き目を見たのである。
裏切った小早川秀秋に対して、毛利勢は最後まで傍観であった。これは、吉川広家の内応であった。裏で、この決戦で動かなければ、毛利家は本領安堵の密約を取り付けていたのだ。

コメント(1)

 鷹亮殿

 松野重元はもともと秀吉の家臣、初めは丹波国に300石からスタート。小早川隆景の養子となった木下家定の五男秀詮(のちの小早川秀秋)が丹波亀山から筑前へと移封になった際、秀吉より特に小早川氏に付けられて鉄炮頭を務めた。その際、秀吉から豊臣姓を賜っている。

 どうせなら筆頭家老にすれば良かったのに・・・さすれば小早川1万五千が松尾山を駈け下り東軍に突入、東軍は大混乱に陥り、家康の首が飛んでいた。西軍の大勝利、松野を見込んだなら家老にすべきだった、秀吉のミステイク。

 画像は『関ヶ原合戦図屏風』に見える彼の姿で、動的な平岡頼勝の姿とは好対照に描かれている。




ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

関が原合戦の西軍武将と大阪の陣 更新情報

関が原合戦の西軍武将と大阪の陣のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング