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武蔵野火薬庫★ぐゎらん堂コミュの【HISTORY AND HERSTORY in 1971】2000's 開店1周年記念第2弾!

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「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂2000's 開店1周年記念」特別企画第2弾!
「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂70's開店36年」記念企画!

いまから35年前......
ほら、あの時代がよみがえる!!

GWARANDOH 紳士淑女列伝
?HISTORY AND HERSTORY in 1971



紙芝居舞台内の画像:collaged by Tabute Murase

コメント(26)

 ハルキです。

 いやいや、10月後半というのはなかなかに歴史的に意義のある日がつづくんですな。
 10.21は「国際反戦デー」。思い出すなあ! 1969年の新宿大ガード下のデキゴトを(機動隊に4人掛かりでボコボコにされた)。くそ! 臍下丹田が引き締まる。
 10.23は、この「ぐゎらん堂2000's 開店1周年記念日」。
 そして、10.28はリアル世界での「ぐゎらん堂70's 開店記念日」だったではないですか。先日、nami3にいわれて初めて気がついたんだけど。
 そこでお送りする特別企画が......

 GWARANDOH 紳士淑女列伝
 HISTORY AND HERSTORY in 1971

 そう、2006.6.10「megママ来日記念特別topics」の「1970年篇」 に引きつづき、どーぞ、お楽しみください。
                    ☆

 みなさんの「あの階段を初めて昇った」時のコメントや情報のハイライトを時系列で整理して、1970年から1年単位で、閉店までの軌跡をたどりたいと思っていますが、ここは1971年篇──。

 例によって、短時間でおこなった作業ですので、コメンテーターの漏れ、手違い・間違い・勘違いが多々あるかもしれません。発見された方は、どーぞ、ご指摘を。

 また、皆さんのコメントのなかで気がついた、明らかな変換ミスや脱字の修正、重複表現の整理などは、私めの判断と責任において編集させていただきました。
 同時に、皆さんの「mixi」内公開の写真や絵などを、それぞれのコメントに添えて転用させていただきました。当方のミスや、不都合な点、お気づきの点などがありましたら、これもご指摘くださいませ。よろしく!


* 紳士淑女の写真は、基本的に初出時に掲載。(基本的に70年代の写真を使用。当時のものがない場合は臨機応変に.....ということで)
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     1971年 フォークシンガーたちがやってきた!
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 いよいよ、ぐゎらん堂2000'sのキイパースンでもある中坊登場! 
 そして、シバがあのドアを開けてやってきた夜から、ぐゎらん堂のエンジンの1つにスイッチが入り、信じられないような勢いでなにかが回転しはじめた。
左:中坊 Photo=不詳

中:シバ(ぐゎらん堂カウンター内で水割りをつくるの図)Photo by 若林純夫

右:高以良基と八重さん Photo=不詳
左:高以良基の絵の原点(この絵が彼の画風の出発点となった。「オマエが持っていてくれ」と、モトイがぼくに託した記念すべき油彩作品)Photo by ハルキ

中:ボールと遊ぶ少年 Photo by ハルキ

右:林武賞受賞作品(展開堂「1992-林武賞展」図録より)
●●】ちゅうそつ【●●

 ボクのぐゎらん堂のお初は、71年の4月初旬。
 69年10月にパクられて高校を退学。一年半九州へ疎開してて、大学進学を機に上京してすぐでした。
 最初は客としてでは無くて、三里塚空港反対同盟からもらった落花生を売ってもらうために行ったんだけど、初めてなのに由美子さんがいやに愛想良かったのが、気持ち悪いくらい印象に残ってる。
 あの頃はまだパネル写真も無くて、床もまだ絨毯っぽかった。客もまばらだったね。
 その頃は板橋に住んでたんだけど、新宿から京王線に乗り換えて多摩動物園にある大学に行けばいいものを、明大前でどうしても途中下車して井の頭線で吉祥寺というコースは4月中旬には出来上がってしまって、だから4年目に除籍になってしまった大学へは、最初の2週間しか通ってない。この先はまた後日。
?
●●】高以良基&八重さん【●●

 高以良基、いち早くぐゎらん堂を訪れる。ややあって、八重さん、易者のおじいさん(当時、吉祥寺の街を歩いていたものなら、アーケード街になる前の駅前通りで「手相見」をしていた白髪白髭の名物爺さんを知らぬものはいないはずだ)を伴って現れる。
 この夭逝した天才画家は、以後、いつもぐゎらん堂をにぎわせる立役者の1人だった。(ハルキ記)


●●】シバ【●●

 〈僕があそこへ行きだしたのは、ブラインド・レモン・ジェファーソンっていうブルースマンがいるんですよ。その人の曲をディランがカバーしていたんです。で、本人のバージョンを聞きたいと思っていたんだけども、噂で、あの店で彼のレコードがあるって聞いたんですよ。だからたまたまそれを聞くためだけに行ったんです。それからだんだん店の人とも親しくなって〉1993年7月号『月刊漫画/ガロ』70年代フォークとガロ「対談・高田渡×シバ(三橋乙揶)」より
左:ふみさん(背中に漣くん)。後ろのヒゲ男はチュージ(ちゅうじ)。1974年4月、高尾山へお花見。Photo by ハルキ

中:meg(買い物megちゃん。ぐゎらん堂の従業員だったころ)。Photo by 若林純夫

右:「デルタ・ディンゴ」こと田中氏。1973年4月、井の頭公園でのお花見。 Photo by ハルキ
ぐゎらん堂での高田渡(当時20代前半)

左:聖父子像=ワタルと漣くん Photo by 中坊

中:聖母子像=ふみさんと漣くん(右はハルキ)Photo by 中坊

右:お茶目なワタル、いつもの席で Photo by 中坊
●●】ふみ【●●

 ハルキさん、渡の告別式以来ですね。「武蔵野火薬庫☆ぐゎらん堂」──私が通っていたのは1971年4月から7〜8年? いやもっと短いかも。
 よく行っていたのはそれもほとんど深夜かな。記憶がだんだん不確かでこのサイトで皆が書いている事をよんでイロイロ思い出しています。
 ハルキさんが入ってくれたから心強いね。開店のチラシ(編者註=1970年篇参照)をはじめてみたけれどjazz、rock、blues、春歌、革命歌みんなあったね。

 私が始めてぐゎらん堂の急な階段を上ったのは1971年4月1週目、なにせ記憶は不確か、渡に確かめようにもいないし、シバがあそこにいるって会いに行った筈。でもその時はいなくてたぶん和久井さんかな「ロコ(*)」にいるかもと教えてもらってあの急な階段を降りたのです。

 * 註「ロコ」というのは、1970年代、吉祥寺駅近くの「平和通り」沿いの地下にあったジャズバー。ピアノと大きなウッドベースなんかが置いてあって、ジョン・レノン風長髪、素通しメガネ。ジーンズにブーツ姿の「伏見さん(早稲田ジャズ研出身のミュージシャン。ゆみこの友達)」や、つげ義春の作品から抜け出てきたようなオカッパ頭の「チヨジ(シバのベストフレンドだった)」たちの溜り場だった。当時、吉祥寺には、深夜まで飲める酒場が少なくて、ゆみこもハルキもこの店には何回も遊びに行った。

●●】ハルキ【●●

 ふみさま、71年4月の1週目!?
 ふみこさんの「初上り」の年月日、すごく絞られてきましたね。そのときワタルくんも一緒に「初上り」だったのですか?

●●】ちゅうそつ【●●

 その日、ドアの内側に立ってたのは私。
 京都から渡ちゃんと二人で東京へやってきて、最初早川義男宅へ寄って、シバと連絡がつかなくて「ぐゎらん堂」へ。
 ドアを開くと両手に紙袋を提げたふみさんと渡ちゃんが立っていました。 (高田渡は岐阜生まれの東京育ち)


●●】meg【●●

 デルタ・ディンゴさんこと田中氏から頂いたメールに書かれた話、これは是非みんなとシェアーしたいとお許しを頂いて写します。
...........................................................................................................................................

 シバと初めて会った夜のことを思い出した。
 代々木八幡かどこかの寒い公民館のgigだったか。高田(ワタル)か誰かの誘いで行った。 柴村ムニって男覚えてる? ヤツの誘いだったか。
 三々五々にぞろぞろ駅へ向う途上マフラーで頭を巻いたシバが一緒に歩きながらダジャレを言った。なんとかかんとかのなんとか犬のシッポは何色か?「知らないよ」って答えたら「なんとかかんとか…で尾も白い…」って言ってぼくを笑わせた。電車を乗り継いで十数人のぼくらはぐゎらん堂へ繰り出てしたたか飲んだ。
(中略)あれから35年も経ってしまった今ぼくはあの冬の夜のことを思い出す。
左:ぐゎらん堂で歌う「トモ」こと、友部正人。ご覧のように陰間的な色気が漂う美少年だった(いまでもそーか?)。Photo by 中坊

中:「あぼ」こと、いしかわじゅん→現・壺屋支店長(1975年、愛知在住時代の自画像)

右:カワムラくん。左はオカダ。2人とも高校生まるだしです。Photo=不詳
左:当時のぐゎらん堂店内/中坊。Photo=不詳

中:同、カウンター内のゆみこ。Photo=不詳

右:同 、夏の店内。クーラーはあったけど暑かった! Photo by 若林純夫
●●】meg【●●

 友部(正人)がはじめてぐゎらん堂の階段を上がったのが71年春、シバを尋ねて来たそうだけれど。どこでシバと出会ったのかな?
 71年の8月に大阪から吉祥寺に引っ越してきたそうです。「大阪へやってきた」の録音(71年)はその後なのかな。

 若林純夫さん撮影のぐゎらん堂風景72年夏ごろ、(レコード室の窓の「NOW PLAYING」を見ると)かかってるのは「大阪へやってきた」だね。

 今度はもう少しディーティル・インタビュー取らないと。。

●●】ハルキ【●●

 友部がはじめてぐゎらん堂の階段を上がったのが71年春で、71年の8月に大阪から吉祥寺に引っ越してきた......。
 これでまた定点が2つはっきりしたね。

 トモの「大阪へやってきた」は、本人のオフィシャル・サイトでは、録音が1971年、リリースが72年とあるね。
 同じ年の72年に『一本道』がシングル・カットされてリリースされるんだな。

 トモは1950年5月生まれ。ぐゎらん堂にやってきた71年春には、20歳そこそこ......だったってわけか。ワタルが1つ年上で21歳......か。シバも21歳? 
 みんな、例外なく、生意気だった。恐るべし、’70年代の20代。


 
●●】いしかわ【●●

 そうかー、友部正人は同級生かー。
 「一本道」を初めて聴いた時には、大嫌いだった。でも1週間後には毎日聴くようになってた。あんな経験は、友部だけだった。

 ぼくもたぶん、ぐゎらん堂に初めていったのは71年ころだろうなあ。もっともしばらくは、ほんのたまに覗いてみるだけだったけど。

 翁二も、確か同じくらいの年だったなあ。みんな若かった。
 ワタルって、もう少し上じゃなかったっけ。1歳違いだったかなあ。まああのルックスなんで、よくわからなかったけど。

 先日、大学の後輩からメールが来て、こいつとももう30年かと感慨にふけったんだけど、ぐゎらん堂とは、もう35年くらいか。
 ほとんど毎日いってたけど、ぼくはあまり人付き合いが得意じゃなかったんで、仲良くしたのは、ほんとに少数だ。もっとみんなと親しくしておけばよかったな。
 今でもぼくを「あぼさん」と呼ぶのは、ぐゎらん堂時代の知り合いと、その後のビッグブラザーってジャズ喫茶の知り合いだけだ。70年代限定の名前だったなあ。
 あれから結局ずっと吉祥寺にいて、今は東女のそば。几帳面に「カリエスの乙女たち」をちゅうそつ主役で描いてたら、そのまま漫画家になってしまった。なんだか不思議。

 そういえば、ぐゎらん堂時代のことを漫画に描いたことがあるなあ。あれはなんだったかなあ。直接ネタにしたことも一度会ったと思うし、舞台だけ借りたことも一度あったと思う。

●●】meg【●●


 わたしの記憶では、 渡さんは1949年1月1日
 シバが同じ年の8月でトモは一つ若いのね。
 その後51年がいとうたかお、朝比奈ヤスさんとか
 で52年頃が佐久間順平、大江田信、ジミー矢島、
 翁ニはシバと同じだったかな。
 中川五郎、大塚まさじ、加川良、村上律、斉藤哲夫、あがた森魚、田中研二、渡辺勝、みんな49,50年の人かしら、小斉氏は渡さんより上だったね。
 GWANさん、イサトさん、アリちゃんは昔から大人。

 凄いよね、みんな20歳そこそこ
 渡さんは最初から老けてたね。

 兎も角、ミュージシャンが集まってきたのは71年から72年にかけてのようです。


●●】カワムラ【●●
 あっ、初階段の事は憶えてないなぁ。(憶えてないのは、ソレだけじゃないけど)中学3年の頃だと思う。きっとコーヒー頼んだだろな。ちゅうそつさんに。
左:
(左側)「room175」こと、タヌキ。昔から人柄の良さが顔に出ていたんだね。Photo by 中坊
  
(右側)当時の中坊の名刺「ぐゎらん堂芸能部長/中坊ひろし」。中坊は「なかのぼう」と読む。青林堂の「伸坊(南伸坊)に対して、ぐゎらん堂の「中坊」。長井勝一編集長が大いに気に入り「ちゅんぼう、ちゅんぼう」とよく呼ばわっていた。

中:アシュラ(左)と薫子さん。すごく良い写真だなあ。Photo提供/アシュラ(mixiのホームより転載許可)。

右:ボロ。独特の人なつっこさがあった少年。いま、この笑顔で海外を吟遊中。(2006.6.10のぐゎらん堂まつり=いせやにて)Photo by nami3 



●●】room175【●●

 同級生に連れられて、初めて「ぐゎらん」の急な階段を登ったのは1971年。高校一年生の初夏だったと思います。
 店員と常連の見分けがつかない雰囲気のなかで、初めこそオドオドしていましたが、そのうちに、高校に行く前の開店時間に立ち寄る毎日になりました。

 昼間いたのは、ゆきえさん、シモエミ、りえこ。meg。タカシ。春樹さん。ゆみこさんのカレーが美味しかったのを忘れられません。
 ちゅうそつの名刺も貰いました。夜には、ゲタさん、スケベー、先生かな。

 同学年が多かったのも、よく通った理由だったかも知れません。脳天破、ナターシャ、ホームズ、直角なんて名前に覚えのある方、おいででしょうか?
 ヨッコ、やよいちゃん、(ふるかわ)けいこなんかもいました。
 Cheeponの姿、はっきり覚えています。 (敬称略で失礼。room175こと「タヌキ」)

●●】アシュラ【●●

 はい! megさん 俺も参加させてください。
 なぜ吉祥寺のぐゎらん堂に行ったのかは、今では思い出せません。 通ったのも、数ヶ月間だったと思います。

 気難しい雰囲気も無く、我々ガキでも気楽に居られた心地よさがあった。

 高校まで若者文化の無い葛飾に住んでいたので、中央沿線や井の頭沿線は憧れの地でした。 吉祥寺には、一度は住んでみたかった、でも実現はできませんでした。ぐゎらん堂のマッチは、横浜の木造アパートに随分長く何個も壁に飾っていたものでした。

 そうそう、その頃 フォークジャンボリーもありましたね。
 ぐゎらん堂に来る当時の高校生とも、現地で会ったなぁ〜。
 甘酸っぱい懐かしい想い出、ぐゎらん堂。

 (後日=2006.10.23のメッセージより)
 たぶん19歳ぐらいの時にぐゎらん堂には、ちゅうそつの紹介で遊びに行きました。 吉祥寺に住む今は亡きケロヨンとも同志でした。 吉祥寺は、好きな街でした。

●●】paniolo(ボロ)【●●

 国分寺にあった「ほら貝」で唄っていた頃に、 友人の恋人から「ぐゎらん堂」を案内されて階段を上った。
 当時、推定16歳か17歳、急な階段を上るとそこにゆみこさんとハルキさんがいた。オーディションということで早速、ギターを取り出し演奏をした。何を唄ったかは定かではないが、ボブ・ディランの唄だったと思う。当時はまだオリジナルを人前で唄えるほど厚顔ではなかった。ハルキさんは素敵なハンチングを被っていた。ちなみにリーゼントではなかった。

 ひどい演奏に即座にライブの日程を決めてくれた。ゆみこさんの大きな目玉とハルキさんのハンチングがまだ僕の記憶に新しい。

 それにしても急で長く感じた階段だった。 月日の経つのは早いものだ。

●●】アシュラ【●●

 今回、初めてぐゎらん堂のオープンが70年だということが分かりました。

 新宿のロック喫茶や、デモにしか行かない俺には、ぐぁらん堂は魅力でした。
まず可愛い女に子がいつもいて、気取ってなかったこと。
 いつ行っても、好きにさせてくれた。
 同じ若い人達の意識が進んでいて自由な雰囲気があった。
 俺の育った葛飾に終電で帰ると、全然違う雰囲気。

 長髪なんかすると、風呂屋でもヤクザに追われる保守の地域だった。
 葛飾からは、逃げ出すことばかり考えていたな。 井の頭沿線は、当時の俺の理想の地だったんだよ。

 今も、ぐゎらん堂みたいなお店が、吉祥寺にあるのですか?
左:みめ。その左にnami3(2006.8.5「みめ来日記念集会」。太郎にて)。この日、みめちゃんからは1970年代の「名前のない新聞」ほか、貴重な資料を預かった。Photo by タブテ

中:けいこ&てつや(同)。1970年代当時からすごく仲のよいカップル。いまは、すごく大人を感じさせるしっかりもののベスト・カップル。Photo by タブテ

右:nori(左端)。noriのコメント「ちゅうそつ、きよしと横向きのミオの間がタカだよ覚えているかな? この写真はたしか野田市民会館かどこかで撮ってもらったやつだ。 のころはたんぽぽ団のおまけみたいなかんじでたまにステージに立たしてもらっていたな」。Photo提供=nori
1971年、「武蔵野タンポポ団」誕生!

左:武蔵野タンポポ団の練習風景が当時の「新譜ジャーナル」にも。ぐゎらん堂をスタジオ代わりに、開店前によく集まって練習していた。グラサン姿は若林純夫、右端にギターを弾く友部正人の顔がちらりと。

中:タンポポ団の「ウディ」こと若林純夫。ぐゎらん堂のカウンターにカメラを置いて、セルフシャッターで撮影したものと思われる。左からケン坊、キュンキュン、須田くん。photo by 若林純夫

右:[左側] 開店前どころか、夜な夜な、営業時間中にも練習。ったく、なんてやつらだ。左から、エレベの村瀬雅美(と思われる)、フラマンの高田渡、ギターの中川イサト、手拍子の山本コウタロー。
[右側] 同、左からシバ、中川イサト。photo by 大塚努。2006年4月 朝日新聞社『AERA』臨時増刊号「アエラ・イン・フォーク」の [ぐゎらん堂/音楽の街、吉祥寺から生まれた武蔵野タンポポ団]より




●●】みめ【●●

 春樹さん、 わたしも71年ごろから遊びに行っていました。
 (開店時の宣伝ビラを見て)この地図、すごいですね!
 こんな簡単な地図で行けちゃうなんて!
 その頃はデパートもなかったんですね。
 「鈴屋」、「名店会館」懐かしいです。


 わたしはナント、中学生でした。何回も友だちと、あの狭い階段を上って扉の前まで来ては、怖くて開けられず.......また来ては開けられず......。
 でも、ある日、心臓バクバクさせながら、重い扉を開けたんだよね......。そこには......「みんなファミリーだよ!」って顔したお兄さん、お姉さんがいっぱいいて......なんだか、ホッとしたなぁ。
 階段途中にあった「コータローの歯型」がやけに鮮明に覚えているのは......わたしだけ??
 
 ●●】てつや&けいこ【●●


 けいこ(かみさん)と話してみると、どうやらわれらが「ぐゎらん堂」にはじめて行ったのは1971年の暮れころのようです。高校2年生。なぜか明星生の理恵子と知り合って、彼女がみんなに「わたしの友達の哲哉だよ」ってゆうんで、わっしは "あ、さっき会っただけなのにみんな友達でいいんだ"  と思ったものでした。当時、明星生が結構いてmegもそうだったし、タマ、永山さん(なぜかさん付け(^^;)、男の子では忍、スケベ、あたりが同学年でした。須田君とか(下条)エミちゃんは大成高校だったよね。けーすけ君はわっしの高校の後輩でしたね。

 あの階段で強い印象があるのは、「春」です。冬から通ったせいか、春になって石油ストーブを外に出して掃除して、階段の上の窓を開けて見た景色...かな。名店会館しかなかったし、けっこう遠くまで見えていて、少し曇った湿った春の空に不安な、でもちょっと希望がある未来を見たような... 。

 その後みんな卒業したり、しなかったり(笑)あるけど、み〜んな50になったんだね。

●●】nori【●●

1971.某月某日「世情半デビュー 」
 わぉー! はるきさんの緻密な整理整頓、色々思い出は有るがいつだったけなぁと考えています。
 覚えているのは1971年小林清と高校で出会う、バンドごっこを始め、そのころからぐゎらん堂に通い始める。世情半潜伏期、なんちゃって!
 キヨシ、この頃まだつっぱりリーゼント(笑)

●●】meg【●●

1971年 「武蔵野タンポポ団」、ぐゎらん堂にて結成。 
(主なメンバーは高田渡、シバ、若林純夫、村瀬まさみ、山本コータロー)


●●】ふみ【●●

 HISTORYに、1971年、たんぽぽ団結成って書いてあるけれど、深夜になると毎晩のようにシバや渡、雅美ちゃん、ウッディらが楽器をとりだし唄っていた、もちろん飲みながらドンチャン、それがたんぽぽ団だよね。
 その時ニッティグリッティとかミシシッピージョンハートも良くかけていた。野津手君はスプーンカチャカチャ、洗濯板は誰がやってたっけ?

●●】meg【●●

 ふみさん、ほんと懐かしい、ガチャガチャやってたね。
 シバ曰く、たんぽぽ団として中津川目指して練習(?)はじめたのが71年初夏ではないかと。最初のベースはマスミさんだったそうです。
 のってくん、ジャグもやってたね、洗濯板に洗濯タライのベース(ウォッシュ・タブ・ベース)いろいろ持ち出してきて、アメリカのジャグバンドを見よう見まねで。

●●】シバ【●●

 ぐゎらん堂のコミュで何十年かぶりで品川さんと再会した。71年には「たんぽぽ団」と共に中津川のジャンボリーにも同行した記憶がある。新宿だったのか? 失念したが、我々は深夜のバスで椛の湖に向かったのだった。そして最後列の暗がりに、女性と仲良く同乗していたのを思い出す。

 知り合ったのは、それ以前で、今となってはどこで出会ったのかも、ほとんど記憶に無い。品川さんの方からすすんで握手を求めて来たような気もする。その後、幾度となく吉祥寺にたずねて来て、私の部屋で危ないこともしたものだ。
 その部屋は友部(正人)や、京都の「むい」のマスター松村氏や、亡くなられた石塚さんも泊まって行った。栗原荘といって私は3帖500円でその部屋を借りていたのだった。

 酔っぱらった「ぐゎらん堂」からの帰り道に「もしも」という歌を作ったのも、切ない思い出。

 その後、何度か「ぐゎらん堂」でライブを見たきり、不器用な品川さんはシーンから消えて行った。そして、品川さんの事は誰の話にものぼらなくなった。

 何年かしたある日、外国の番組「ゴングショー」で品川さんを見た。
 ウディ・ガスリーのナンバーだったろうか? その不器用な英語の発音に、会場は爆笑の渦で、まもなくゴングが鳴らされ、品川さんはあっという間に退場した。 そして、何かのはずみで品川さんの話となりその時のゴングショーの話で、皆は笑った。そして、その話も誰の口にものぼらなくなって、忘れられていったのだった。

 しかし! 品川さんは歌っていたのだ!! 当時、町から町への、流れ者の唄うたいに憧れていたのはどれほど居たろうか。しかし、憧れていただけで誰もそうはならなかった。30何年たって、歌もやめてしまった者もだいぶ居る。
 今、あんなふうに歌っているのは品川さん! あなただけです! それも、遥か遠い異国の地で。 何十年ぶりかで再会した品川さんの歌は、その事を裏付けるたしかな手応えがある。

 品川さんの英語には、日本で流暢に英語で歌っているそのへんのシンガーなど、とうてい足下にもおよばない、力強いリアリティと説得力がある。
 そして、それが歌というものなのだと思う。
 品川さん!! 万歳!! 
左:アメリカでの品川寿男さん。photo提供 nori

中:2006年7月来日時の品川さん。photo by nori

右:同、去りゆく品川さん。photo by nori。noriさま、このときのエピソードのいくつかをコメントしてくれる?
《以下、「1971年篇」はまだまだつづく》

【次回登場予告】

 ●木喰子(「ぺけ」こと、いとうたかお) ●シバ ●meg ●尾城夏人 ●Cheepon ●doronco ●はしばし ●nori ●けーすけ ●ヤスベー ●てつや&けいこ ●みめ ●nami3 ●麿 ●ちゅうそつ ●高田渡……ほか紳士淑女諸君の多士済々!

 そして、「武蔵野タンポポ団」解散の真相が、じつに30数年ぶりに当事者の口から語られる!? 刮目して待て!

                 ☆

 さあ、皆さん、真情あふれるコメントと新情報を活発にお寄せください! 
 画像もどんどんアップしてください(既出のものも歓迎です)。賑々しくまいりましょう!

 ハルキ
うーむ。
キヨシはわかるけど、あの写真が「世情半」時代のnori(ノリ)か。
ほっぺたがふっくらして、幼さの残る顔が可愛いい。
みんな若かったんだね。やはり。
「隔世の感」がありますね。
>「隔世の感」

実感!
ぐゎはははは!(泣)
nori さま「

写真、わざわざ並べてアップしてくれてありがとう!
隔世の感」とは言ったけど、ノリの場合はとても良い
歳のとり方をしてると思うよ。

人生の酸いも甘いも嚼みわけた大人の男、例えると、
ジャン レノのような風格を感じさせるー。
「良い顔になったなあ」ってしみじみ思うー。

ところで、ノリの肩から顔を出して笑っている
可愛い女性はもしかして、娘さん?
奥様ではないですよね。
■ハルキさま

一気の書き込みありがとうございます。
その前からの準備の苦労と楽しみが見えるようです。

混沌としたものを整理する「ネット時代の編集者」ですね。

写真のコメントします。
No.3
 モトイさんの写真懐かしい。ほぼ毎日会っていたような記憶があります。

No.6
megの押すカートにぐゎらん堂の文字があるのに気づいた。
ハルキさん、

すごいです! よくここまでまとめてくださいました!
あの時、あの空間をシェアしてきたあの頃の若い人たちが、またこうやって集まってきているんですね、改めて、実感!

その頃書いたわたしの詩(?)の一部を端折って紹介します。

「ぐゎらん」というお店でみつけたもの・・・

170円のコカ・コーラ 150円のにがーいコーヒー
220円のおじや 200円の生のレモンスカッシュ

はっぴえんどの「はいからはくち」 小阪忠の「からす」
「珈琲不濱唱」、「夕焼け」、「赤色エレジー」、「プカプカ」・・・

楽しそうな人たち 悲しそうな人たち 
退屈そうな目 屈託している顔・・・

春樹さん Woody まさみさん 渡さん 
シバ コータローの葉型

さびた換気扇 蝋人形 トイレのいたずら書き
少年マガジン ジャンプ セブンティーン

大きなちょうちん 何を書いてもいいノート「几帳面」

そして、もうひとつの自分の部屋
よってるさま

 ねぎらいのコトバ、ありがとう! 励みになります。
 ヒマを見つけて、つづきをまとめますね。

みめさま

 コメント、ありがとう! そして、ゆみこへの長文のメッセージをありがとう。
 メッセージをいただいた直後にゆみこから返信を出したんだけど、なぜか「確認」ボタンを押すと全部どこかへぶっ飛んで消えちゃうんです。日を置いて3回試したんだけど3回ともダメ。
 そんなわけで、返信がまだかもしれませんが、みめからのメッセージはちゃんと届いております。

 おあずかりした資料、非常に貴重なものです。これから読み込んで分析・整理しようと思っています。

 そーか「そして、もうひとつの自分の部屋」だったのか......。
 うまい表現だなあ。

 
15: ハルキ様
このときのエピソードといわれても、、、

羽田まで迎えに行ったときは、ちょっと退きました。
黒いシャツ・黒いジーンズ・黒いウェスタンブーツ・黒いテンガロンハット・黒縁のミラーサングラスそして白い長髪、おまけに黒いぼろぼろのギターケースを抱えて、何者か?とみんな見てましたね(笑)。

かけこみ亭でのライブでは、独特の歌いっぷりでみんなを満足させたんじゃないでしょうか?
やはり32年ぶりに再会したのでしょうか?ふみさん
相変わらず美人だって、品川さん大喜びでした。
渡辺勝さんが来てくれたのもとても喜んでいましたね、最後に二人でセッションしてお互いとても懐かしがっていましたね。
翌々日の?MyBackPagesのライブにも懐かしい友人が遊びに来てくれて、それはそれは喜んでいました。

あたりまえだけど、日本語達者でしたよ(笑)お母様が亡くなったっていうせいもあるけど、ちょっとナイーブになっていたかな。
日本の食事をとても喜んでいた、かみさんの作ったおにぎりを「うまい、うまい」と言いながらパクついたりね。
アメリカでも「日本酒・日本茶」はかかさないみたいだけど。
外を歩いた時に見つけた無人販売所の枝豆は「持って帰りたい」って言ってましたね。
アメリカにもあるけど、冷凍の輸入物しか無いって言ってましたよ。
一緒に写っている女の子は静岡の茶所の住んでいるのだけれど、約束した日本茶がまだ送られて来ないって手紙に書いてきたな(笑)。

こちらにいる間は駆け足のように通り過ぎる数日間でしたが、懐かしい顔に会い話ができて良かったんじゃないでしょうか?
なんだか里心が芽生えちゃったみたいですよ。
来年も来たいって言ってるし、、。

20: ゆみこ ながい むらせ様
>ジャン レノのような風格を感じさせるー。
僕もそう思います、、、、、嘘!
>可愛い女性はもしかして、娘さん?
いやいや、ハナ&フェノミナンっていうバンドでギターを弾いてるコウジ君の新妻です。
バンマスの娘でもあります。

あっ、そうそう
品川さんのホームページ作っている最中です。
まだ仮アップですが、今後URLも変わると思いますが。

http://homepage.mac.com/norimutsu/hisao2006.html
noriさま

 品川リポート、ありがとさん。HPも拝見。去年のいまごろの品川情報は「風の便り」だったけれど、これで一気に2006年のリアリティあふれる品川さんの存在が浮かび上がったね!
 HP完成、楽しみにしています。

 ところで、LP「武蔵野タンポポ団の伝説」の中で、ワタルの持ち歌「告別式」が始まる前に、コウタローのMCが入り、こんなやりとりになります。

 若林純夫
 「ところで、ソルティー・シュガーはどうなったんですか?」
 山本コウタロー
 「みんなアメリカへ行ってます」
 高田渡
 「(コウタローは)どうして残ったんですか?」
 山本コウタロー
 「……」(一同大笑い)
 
 そのあと「どーしたんだよ!」と野太い声が入りますが、あれは品川さん?
 
ハルキさん、みめちゃん、noriたま、

資料ありがとう、なにもしない管理人ですみませぬ。

またまた盛り上がってきましたね!わたしも何かないかとおもったのですが・・なにしろ、どんどん過去は捨ててしまう性質で、というより引越しのたびに整理、売っぱらうのでほんと昔のもの無いんです。
しかもなにか残っていたかもしれない実家はつぶされて粗大ゴミ
でも、手土産に若林純夫さまの撮っておき、取っておき写真を
ぐゎらん堂のカウンターの上、レジ、収入箱の横に貼られたメモ
見づらいですが

”中川イサト氏へ、ミュージックライフの○○まで電話して欲しい”
”徳島の○○ 友部正人 OKです”
”ワタルへ、音楽舎の大丸さんにTELしてください”
”お人形が欲しいのです、値段・・・”
”フォークウェイズのアルバムふるいブルースとかカントリー ぐゎらん堂”

この頃、推定72年、ミュージシャンの事務所がわりだったのか。
よく、仕事の電話が入ってましたよね。

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