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科学哲学コミュの詩と科学の融け合いを目指して

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現代物理学である相対性理論は、絶対空間という客観的な基準が存在しないために、基準をどこに置くかは主観次第で、もしも基準を地球に置くならば、地球の周りを太陽が回っているとする天動説のほうが正しい、とする、コペルニクス的転回を、もたらした。

このように、観測者という基準の運動状態に応じて相手の運動状態が変わる。

もちろん、観測者がどこに存在するかに応じて相手がどこに存在するかも変わる。

ということは、観測者がどこにも存在しなければ物はどこにも存在しない。

観測されなければ物は存在しないということになる。

存在しないということは、無であるということで、現代宇宙論でも説かれているように、無という一者が観測し合う二者へと分裂した結果として物として存在したのだ。

つまり、目が目自身を見ることができないように、観測するとは距離を置いて対象化することを意味していて、観測行為が心の行いであるからには、外側から表面的に眺められれば物という見掛けを呈する対象は、内側から共感的に追体験されれば心という裏面である。

ということは、無という一者は心のことで、心が虚無感を解消したくて存在せしめ合う二者へと分裂して相互作用するようになったのだ。

目に見える通りの物がそれ自体として存在するのでなく、物自体は心なのだ。

目に見え手に触れられる物が実在する、とする素朴実在論は、つとに近代物理学によって、間違いである、と明らかにされていた。

赤い炎も熱い炎も存在しない、ということが、電磁気学と熱力学で、明らかにされていた。

炎が赤いということは、一定範囲の波長領域の電磁波が炎に当たって跳ね返ってきて目に入って網膜像を結んでそれが電気信号として脳の視覚野に送られてそこで赤さと解釈されるということで、物自体に赤という性質が属しているわけではない。

炎が熱いということは、炎を構成している原子分子のてんでばらばらの運動が激しいということで、それが肌に触れて末梢神経を刺激してそれが電気信号として中枢神経である脳に伝えられてそこで熱さとして解釈されるということで、物自体に熱という性質が属しているわけではない。

現代物理学である量子力学では、物の構成要素の最小単位である素粒子は自転しているとされていて、素粒子の自転は二回転すれば初めて元に戻るような自転だ。

つまり、一回転目で正負の符号が反転して、もう一回転すればもう一回正負の符号が反転して、元に戻る。

これは、もしも、√という「平方根号」を使って「平方」(=二乗)すれば-1になる数を√-1と書き表して、√‐1を掛けることが半回転を意味するとすれば、半回転を二回すれば√‐1√‐1=-1を掛けることになって一回転が正負の符号が反転することを意味する。

√-1を虚数単位iとして定義してi=√-1とするのだけど、iというのはimaginary numberの頭文字で、虚数とは、直訳すれば、想像上の数を、意味する。

想像上にしか存在しない数を使わなければ、現実に存在する素粒子の自転についての辻褄の合った計算処理ができない、ということで、i個のリンゴが存在する状態を具体的にイメージできる人がいないことから分かるように、現代物理学においては目に見える具体的な物で出来た世界像を思い描くことはできなくて、実在するのは目に見えない抽象的な数という概念である、ということが、明らかにされたわけだ。

現実は想像上のものにすぎない、ということを、概念は心の中にしか存在しない、ということと、言い換えていい。

目に見える物という外観を呈する世界は、目に見えない心という内奥を覆い隠すベールなのだ。

自己にとっての外界の他者に心があることは、誰でも想像することならできるだろう。

以上、詩と科学の溶け合いを目指すということで自分なりの考察を縷々述べたにせよ、問題提起の形をとっていないためにどう答えていいか分からない文章を書いて読ませてしまい済まなかったのだけど、暇すぎて溶けているところなので、どなたかこのネタをボケと受け取って突っ込みどころを見出して、相手にしてもらえないだろうか。

コメント(3)

松ぼっくり  様

おはようございます。

本件について記述された時間が、2018年07月18日 09:15、その後、相手して戴ける人がいるか否かを静観していました。

テーマ「詩と科学の融け合いを目指して」は凄く面白い課題と想いますが、「心」と「物」について、同一視されているように想いました。


私は、大学生時代の卒論で、、金属材料工学を主体に、超高純度のアルミニウムの双結晶体を作成して、金属加工(圧延)による結晶粒界(グレンバンダリー)の挙動を、当時最新型の電子顕微鏡を活用して観察しました。

当時は、10Å(オングストローム)の世界がやっと診得る性能でした。

10Å=1㎚(ナノメートル)で、現代は、この世界の物質をちょん切ったり、捻じ曲げたり、回転させたり出来る世界観となりました。

最新の電子顕微鏡では、1Åは容易に診ることが出来、アルミニウムの原子核や原子核と原子核の距離間も計測できるようになったそうです。


原子核は診得ても、13個のスピーン(電子)が楕円状で回転する様相はまだ診得ないのです。


原子核の中の量子はまだまだ診得ない範囲です。


小学生時代の部活(理科部)で、上野にある科学博物館の天体望遠鏡で、月をはじめ、火星、木星、土星等々を村山氏(定年退職時は館長)の説明で、太陽を中心に、楕円軌道で回っていることを教えて戴きました。


卒論時、電子顕微鏡を観察しながら、想ったことは、量子の世界から宇宙の果てまで、全ては、楕円軌道で、螺旋構造体で構成されている推察出来たのです。


極小(10の−34乗)から極大(10の64乗)までに相当している範囲(領域)を我々人間が考えいると想えたのです。


楕円の中心は、1つでなく2つあります。


相対するのは2極が必要であり、プラスとマイナス、上と下、男と女等々、対極の関係にあることの面白さに気づいたのです。


サラリーマン時代も、総合研究所の電子顕微鏡室で、諸々の現象を観察してきましたが、これ以上、技術思想を進化させる知識・知恵は獲得できませんでした。


理系人は、何事にも疑問や問題を抱き、問題解決に当たって、種々の比較実証実験を積み重ね、物性について、見極めていくことが求められているのです。


実験をして、何が判明したのか、何でそうなるのか、その結果は、他にどのように影響するのか、まあ、色々と考察していく世界観です。


観察できない世界観は、ある仮定や想定をして、推論に矛盾な点や理不尽な点がなければ、仮定や想定が正しいと見做すという診方をしているのです。


「物」は、物質次元界での現象論です。


「心」は、精神次元界の現象論です。


「詩」の世界観を「精神次元界」と診たてて、


「物」の世界観を「物質次元界」と断定すれば、


差異観に気づかれると想いますが、如何でしょうか。


また、特許管理(特許侵害訴訟事件も含めて)を28年間従事してきて、


目に見えない世界観は、無体財産権と見做し、


目に見える世界観は「有体財産権」と位置づけ、診て参りました。


特許は、無体財産権です。


不動産(土地、建物)では、有体財産権に該当するのです。


「詩」の世界観は「文学」であり、創作物としての世界観であるのの対して、「物」は、事実誤認、誤認混同、錯綜していない限り、事実検証した世界観になるのです。


「詩」をはじめ文学は、著作権の分野に該当します。


「物」の発明・考案・意匠・商標は、産業財産権(以前、工業所有権)の分野に該当し、特許庁に出願して、権利化しなければ、侵害訴訟事件で勝てません。


宗教と科学の世界観も同様なことが言えるのです。


大半の聖職者や研究者は、次元界を分析・解析できず、誤認混同、錯綜状態で、誹謗中傷合戦がこれからも永遠に延々と続くことでしょうね!!


文系と理系の思考法を活用し、何事も本質(真理)が見極められるように、お互いに力量を磨き上げていきたいものですね!!


宗教の真理も、現場検証に始まり、実践・研鑽の精査の繰り返しをして、事実の積み上げで真実を見極め、真実の積み上げで真理を見極めてきました。


また、特許侵害訴訟事件で培った、パテントマップ技法やポートフォリオ技法を活用して、様々な要因(要件)が一致する共通項(共通点)を見つけ出し、「真理は同一である」とか「真理は同質である」とのことも検証出来た次第です。


どうぞ、頭脳を活用されて、色々と考えることも楽しいのですが、検証実験を積み重ねて、本質(真理)に気づくこともず〜と楽しく想います。


全分野を検証することは出来ないので、お互いに検証実験に基づいて、情報の共有化、共通化が出来るような交流関係となれば嬉しい限りですね。


感謝

>>[1]
コメントありがとうございました。
そもそも物と心の線引きが可能だとするその前提は正しいのか、という問題についてですけど、ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』で、物と心の領域的特性の違いについて論じた上で、物についての命題は真偽決定可能であるのに対して、心についての命題は真とも偽ともどうとでも言いくるめることのできる疑似命題である、と断じて、したがって、心については語ってはいけない、というテーゼを打ち出して、哲学は科学的命題と違って無意味な疑似命題の集まりにすぎないから、哲学からは直ちに卒業しなければならない、と言って、哲学者たちに対する言論弾圧という形で、議論を締め括っています。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をおのれの思想的源泉と見なしている論理実証主義者たちに対して、物理学者ハイゼンベルクが現場の科学者たちを代表して、ウィトゲンシュタインの「語り得ないものについては沈黙しなければならない」というテーゼへのアンチテーゼとして、「決して間違ったことを言うまいと固執するならば沈黙しなければならない」と言ったことは、思想史的に意義深いこととして、ここで付け加えておかなければならない、と僕は思うのです。
ハイゼンベルクの言に従えば、哲学だけでなく、科学も、どうとでも語り得ることについての一つの語り方にすぎません。
複雑で多様な現実を単純な一法則で説明するところに科学理論の存在意義があって、単純化されたことによって現実全体内の一部分が理論化されたのにすぎないからこそ、「例外のない法則はない」と言われるように、一つの法則で説明できない例外については他の法則で説明されなければならない、というふうに、統一理論は完成しないことになります。
だから、どうとでも語り得るというのは、つまりこういうことです。
一つの理論の体系の中では真であることも、体系の外に出て行けば、他の体系の内部では偽になる、というふうに、真偽は理論負荷性のものだから、ウィトゲンシュタインの言葉に反して、科学的命題も、真とも偽ともどうとでも言いくるめることができる、という意味で、真偽決定可能でない、ということを、ハイゼンベルクは言いたかったわけです。
そして、仮に、複雑な現実を複雑なままに単純化せずに捉えられる理論が完成することがあるとすれば、そのような、現実というデータと同サイズの理論は、何も説明したことにならない、というふうに、完成するまでに、現実についての説明体系でないものになってしまいます。
だから、心に関する言明だけでなく、物に関する言明も、一つの文脈の中ではもっともらしく聞こえる主義主張がその文脈の外に出て行って他の文脈内に置かれれば嘘っぽく聞こえる、という文脈依存性のものにすぎません。
ウィトゲンシュタインの想定しているような、語り得ないものと截然と区別できるような語り得るものなんて存在しないんだよ、と、ハイゼンベルクは言おうとしたわけです。
女の子たちがお喋りを楽しんでいても「黙れ」と言わないウィトゲンシュタインが哲学者たちの哲学的議論だけは差別して「黙れ」と言う。
要するに、ウィトゲンシュタインの個人的な好き嫌いの問題にすぎないことを一般化してそれを押し付けるために『論理哲学論考』が書かれたのだ、と僕は考えています。
>>[2]

おはようございます。


ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』についてのご見解有難うございました。


半世紀(50年)余り前、大学生時代の哲学の授業で、このようなことを学習したかもしれません。


哲学も時代時代において、様々な研究者が現れては、哲学的な事象を色々な視点から診て、解釈法が伝授されてきました。



前記で書き忘れたところがありました。

前記でコメントした数値の単位は、CGS単位を使用しています。



前記に記述したように、世の中は、対極関係になっています。


熱力学の第1法則で、「作用あれば反作用あり」と定義しています。


この考え方を人間(人と人の間)に適用すれば、「ああ言えばこう言う」と言った世界観になります。


1つの意見を言えば、必ず、それに対して、反論(意見)が出てくるものです。


ディスカッション(討論)を重ねて、お互いの意見を共有できる場合もあれば、どこまで行っても共有できない場合もあります。


どちらも診る視点によって、どちらの意見を正解である場合もあり、正解でない場合もあります。


どちらも妥協できない場合もあれば、お互いの意見を尊重しあい妥協できる場合もあります。



私は、特許侵害訴訟事件を28年間、従事してきて、このような色々な場合があり、過去の判例集や審決集と照らし合わせ、ケース・バイ・ケースで対応してきました。



裁判の場合は、最後の判決は、裁判長が判定してくれ、不服があれば、上告(上申)出来る制度になっています。


所謂、地方裁判所から高等裁判所、最後は最高裁判所で、3審制になっています。


最高裁判所の判決が不服であれば、裁判のやり直し申請をして、裁判所が取り上げる場合もあれば、取り上げない場合もあり、解決出来るまでには、長期期間を要します。



まあ、このような体験、経験則に基づいて、私は考察してきた種々の疑問(問題)について、裁判長の判決のような論法でまとめて、その考え方、導き方を種々のセミナーで伝授してきました。


具体的な事象、或いは問題が提議されれば、問題解決できる場合もあれば、経験不足で、解決できない場合もあります。



私は、特許侵害訴訟事件処理で培った情報・知恵を、哲学・宗教・倫理の真理に結びつけて、趣味のクラシック音楽やオーディオの本質にリンク付けています。



更に、ヘルス(健康、病気)についてもリンクさせ、長年の病気の回復(快復)に応用・活用し、セミナー参加者に喜んで戴けました。


長年セミナーが開催し続けてこれたことも、少しはお役に立たせてもらえたのかなあ〜と想っている次第です。


貴殿も、皆様に喜ばれ、お役に立たせて貰えるようなセミナーを開催され、人類の健全化のために、ご尽力・精進していってくださいね!!





感謝

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