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名勝コミュの襟裳岬

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 北海道幌泉郡えりも町えりも岬

 2009年07月23日、ピリカノカの一つとして名勝に指定。

 日高山脈襟裳国定公園内

https://www.google.com/maps/place/%E8%A5%9F%E8%A3%B3%E5%B2%AC/@41.9335196,143.228392,14z/data=!4m5!3m4!1s0x5f76f0ed4916b631:0xf57db4370d8a33d8!8m2!3d41.9246455!4d143.249249

 「ピリカノカ」とは、アイヌ語で「美しい・形」を意味し、北海道全体で十ヶ所が名勝に指定されています。
 襟裳岬はアイヌ語でオンネエンルムと呼ばれますが、「オンネ」は「大きい」、「エンルム」は「岬」を意味しています。また、「エルム」は「鼠」を意味し、松浦武四郎の『戌午東西蝦夷山川地理取調日誌』には、遠くから襟裳岬を望むと鼠が伏せた様に突き出ている事に由来すると記され、谷元旦の『蝦夷紀行』では「海中に所々大岩があり、その形は細長く鼠の尾のようである」と記されています。
 日高山脈の南端に当たり、沖合い7kmまで岩礁が連なります。岬の周囲は高さ60mに及ぶ断崖となっており、三段に及ぶ海岸段丘が発達しているため眺望が開けており、風が強い事でも知られます。風速が計測出来る全国900以上の山岳を除くアメダス地点で、年平均風速が最も大きく、1981〜2010年の年平均風速は8.210m/sに達し、風速10m/s以上の風の吹く日が年間270日以上もあります。
 沖合で暖流の黒潮と寒流の親潮とがぶつかるため濃霧が発生しやすく、江戸時代には航海の難所として知られました。そのため、明治22(1889)年に岬上の海抜73m地点へ襟裳岬灯台が設けられ、現在の光達距離は22海里あり、霧笛も備えられています。
 日高山脈から続く丘陵地や台地が連なり、嘗ては天然林が広がっていましたが、良質な昆布の産地であるため、19世紀初頭から和人の移住が増加し、明治時代初期には開拓農民も加わって薪炭採取で海岸林を伐採して行きました。更に明治中期になると牧場開発も行われ、樹木が洋紙のパルプ原料と見做された事もあって植生破壊に拍車が掛かり、ついには禿山同然の状態となってしまったのです。強風で飛散する砂塵は屋内にまで舞い込んで生活に支障が生じ、海中に砂が蓄積されたため昆布が生えなくなり、鮭や回遊魚も去ってしまったため「襟裳砂漠」と呼ばれる荒涼とした地となってしまいました。
 第二次大戦後、荒廃した植生回復させるため、飯田常雄等の地元漁師が国と共に昭和28(1953)年から緑化事業を開始、林野庁は先ず砂地に草本の種子を蒔きましたが、強風によって一瞬で吹き飛ばされてしまったため、蒔いた種子の上を「ゴタ」と呼ばれる雑多な海藻で覆い、地面に固定する方法を編み出しました。この工夫により草本緑化は完了し、その後、防風垣で覆った上で黒松を中心とした植林が行われ、平成11(1999)年度末で、荒廃地面積のほぼ89%に当たる170haの木本緑化が終了しました。
 この結果、昆布生産も復活し、「日高昆布」として流通しています。
 また、周辺海域は銭形海豹(ゼニガタアザラシ;Phoca vitulina)の最大の生息地としても知られます。蝦夷鹿や北狐も棲息しており、令和3(1921)年には羆(ヒグマ)が岬の海中で泳いでいる姿も目撃されました。

コメント(9)

 一帯では鋸草(ノコギリソウ;Achillea alpina)が咲き乱れていました。
左;島倉千代子歌碑
中;先帝陛下歌碑「吹きすさぶ 海風に耐へし 黒松を 永年(ナガトシ)かけて 人ら育てぬ」
右;森進一歌碑
左・中;銭形海豹
右;えりも岬観光センター

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