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お市コミュの浅井作庵(お市の方の次男は生きていた)

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 『戦国女系譜』(楠戸義昭著・毎日新聞社発行)という本がある。
 この本は、一巻と二巻に分かれるが、一巻にはお市の次男の
浅井作庵のことが紹介されている。
 お市は、浅井長政との間に、男子を2人、女子を3人産んだことは
よく知られている。
 長男の万福丸は、お市ではなく、先妻が産んだとの異説があるが、
この万福丸はよく知られているように、信長の命令で串刺しの刑で
無残にも殺された。
 が、もう一人、次男は生き延びていたのである。

 この次男は、幕府に提出された「寛政重修諸家譜」には、
その名は掲載されていない。なぜならば、彼は大坂の陣で戦い、
戦後、徳川のお尋ね者となっていたからである。

 浅井作庵を匿っていたのは、浅井家にとっては、かつての主君に
あたる京極家、その京極家に嫁いでいた姉のお初が、作庵を庇護し、
作庵の子孫は代々京極家に仕えていたのである。
 『御家(京極家)覚書』には「浅井作庵様は常高院様御弟にて
童名を喜六と申し候。秀頼卿へ御奉公、大坂城へ御篭りなされ、
浅井備前守と申し候。落城後、若州へおいでなされ御剃髪、作庵様と
申し候」と、作庵の名が登場している。

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 この作庵が記録に出てくるのは、賎ヶ岳合戦の時、当時作庵は
まだ12歳くらいだったという。秀吉軍に従軍して、母や姉妹と
敵対する立場となったという。
 その後、秀吉の弟の秀長に600石で仕え、さらに1594年には、
増田長盛に召し抱えられ、3000石を与えられた。
 このかんの、詳しいことについては、よくわかっていないという。
 
 1600年の関が原の合戦当時は、生駒親正に仕えており、主君に
従い西軍に味方。親正の嫡男の一正が東軍に味方したため、一度は
地位を失った作庵も、一正のもとで復活、その後も生駒家に重臣格で
仕え続けていた。
 なお、この時期に発給された、作庵自筆の発給文書が三通、
生駒家が領有する讃岐の金刀比羅宮に残っている。
 それらは「浅井喜八郎」「浅井周防」「浅井井頼」と違う
名だが、花押は同じで、同一人物である。
 この作庵は大坂の陣では、生駒家家臣の地位を捨てて大坂城に
入城。浅井長房の名で、大隊を率いる指揮官として戦った。

 『徳川実記』によると、家康は「関ヶ原の一戦に敵となりしを
許したる恩を忘れ、今度大坂へ篭城せし者は再犯の罪許すべからず」
との姿勢であったため、作庵は落城後は京都にまず潜伏し、
そして当時、若狭小浜を領有してきた京極家の姉お初を頼った。

 お初は死ぬ時も、弟の作庵に知行を与えてくれるよう、京極忠高に
遺言を残し、作庵は客分として500石が与えられた。
 京極忠高の死後、甥の高和が兵庫県の竜野で6万石を拝領すると、
作庵は300石を与えられ、京極家が丸亀に転封されると作庵は
丸亀城内堀に接する後手廻部屋に住んだ。
 京極家の菩提寺の玄要寺の過去帳によると、作庵は
1661年5月16日に永眠。享年は90歳くらい。お市の子供達の
なかでは、一番の長生きで、男系の子孫をかつての主筋の京極家の
もとで残したのである。

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