ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

機能不全家族コミュの「機能不全家庭」って、いつ気が付きましたか?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
はじめましてほっとした顔

機能不全家庭で育ち、そして機能不全家族について大学で勉強しています。

そこで、ずっと課題であり、同じ境遇の人に聞きたいと思っていたことがあります。

みなさんは
「自分の育った環境はおかしい」
「親のしていることは間違っている」
「どうやらうちの親の行いは正しくないみたい」
と、“気づいた”タイミングはいつですか?
また、“どんなキッカケで”気づきましたか?
気づいたとき、何かリアクションを起こしましたか?
(親に「間違ってる!」と反発した、友人に相談した、警察に行ったetc..)


“しあわせな家庭”(といったら語弊がありますが、
家庭としての機能が成立している家)に育った人は、
自分のしあわせや環境のことにギモンを持つことがほとんどなさそうなんです。
そりゃ、大なり小なり不平不満はあれど。

それに、子どもって、
自分のされることをそのまま受容して、
「これが当たり前なんだ、ふつうなんだ」
って思い、生活習慣と化してしまうことが多い。

自分が虐待されて育ち、親になってから虐待する人が時折言いますよね。
「自分もこうされて育ったんだから、間違ったことはしてない」って。


非道徳的な、ひどいことをしている親なのに、
それを正そうと改善されている環境でもないのに。

“機能不全家庭”って定義は、学校でも教えてもらわないのに。

皆さんはどんなタイミングで、なぜ、
「自分の家は機能不全だ」って気づきましたか?





ちなみに、参考までに(?)私のことを書きますね。
多少長くなりますが、“気づき”に至るまでのエピソードということで許してください。。


私は、
『幼稚園で
「人をたたいてはいけません」
「いやがることをしてはいけません」
と先生が言っているのに、“親は私が嫌がること”をする』
このことにずーっと疑問を持っていたことが、
今思えば気づきのポイントだったんだな、と思いました。

母のおめがねにかなわない言動をすると、暴力をふるわれ、ごはんを抜かれ。
休日は、ずっとご飯を抜かれて意識を失うと、殴って起こされたり。
父はそんな私のことを無視していました。
(そもそも父は母に対してDV行為があったので、
母にとって私は丁度良いストレス解消の存在だったんでしょう。)
そんな生活をしていたので、幼稚園で友達のお弁当をとりあげたり、
ごみ箱から残飯をあさっているのを咎められるような子でした。
「卑しい」といって、親はなおのこと食事を与えなくなりました。

(いま、摂食障害を乗り越えようとしています。この頃の記憶から抜け出せないことも一因だと思います。)

そんな生活だったので、“幼稚園の常識”と“家での常識”を分けていました。
「親はいいんだ」とか、「私が悪い子だから」とか。
でも、周りの友達に聞いても、そんなことをされている子はひとりもいない。
しかもみんな、家に帰るのを楽しみにしてる。

言葉は知らなかったけれど、私の親は私のことを守ってくれないし、大事にしてくれない。
「“家”が、私と友達で全然違うもの(存在)なんだ」
「誰も私が“家”でいやがることをされてることを(心境も含めて)解ってくれないんだ」
という孤独の感覚が、その頃からありました。

つらいことをされても、ここ(家)に“居なきゃいけない”し“帰ってこなきゃいけない”。
家や家族の役割は?
と、少し大きくなった私が持った疑問も、現在に至るまで持っています。

大きくって“虐待”という言葉やニュースを知り、
それが“社会からも「間違ったことだ!」と報道されるようになり。
インターネットが使えるようになって調べるうち、急速に“機能不全家庭”という言葉にたどりついたけれど。


とっても長くなったけれど、みなさんの“気づき”のきっかけを聞かせてください。
よろしくお願いします。

コメント(204)

今年、ストレスケア病棟に入院をして、はじめて言われて気付きました。
今は通院で治療を始めたところです。
気がついたのは1年位前です。

生き辛いのは自分が悪いからだとずっと思っていた。

人生のほとんどを無駄に生きてきました。
常識のない自分勝手な低レベルの親に育てられて苦労の連続だった。
自分が育てられたようには絶対しないと思っていたけど、親と同じことをしてしまった。

子どもたちにも辛い思いをさせてしまって後悔ばかりです。
笑って楽しく生きたいと思うけど、考え方や行動を変えるのは難しい。
熟年になりましたので、ようやくオープンに出来るようになりました。


僕がACという言葉を聞いたのは、23年前です。

当時僕は、アルコール依存症で嗜癖専門のクリニックに通院していました。


幼い頃、実の祖母のセックスの相手をさせられていました。一緒に入浴させられて・・・・・・そして同じ布団で寝かされて・・・・・・・・。祖母が裸になって・・・・・・・・・・。
母親は高みの見物、恐ろしい敵である姑から自分の身を守るだけで、わが子を守るなどしませんでした。

ひどい吃音、過敏症、自傷行為、高すぎるIQ、その他いろいろで地獄でした。

今でも年上の女性は抜きがたい抵抗があります。

しかし、不能ではありません。
明らかにおかしかったので、小学校に入る頃には自覚してました。
嫌なことばかりではなかったけど、アルコール依存家庭は本当戦場なので普通じゃないことは子供でも分かった。
周りとは違うな、家庭ってこんなもんなのかな?って思ったのは物心ついた頃からですが、自分がしっかりしないとという思いで所謂精神的な親代わりをずっとやっており、それで表面上は普通の家族の体裁を保っていたので、つい最近まで特別なアクションは起こしませんでした。
が、就活を控えて自己分析を行ったときに、楽しい思い出、子供らしく過ごした経験、年令に応じた成長過程などの経験がまったくないことに気づき、自分が何なのかわからなくなりました。そこでネットや図書館で調べてアダルトチルドレンや愛着障害の類であることがはっきりわかりました。
個人的には最悪のタイミングで来ちゃったなぁと思います
22歳の時、会社の先輩に退職の際に家の事を相談した所、父親に原因があるのではないか、父親と祖父母は君に隠し事をしているのではないか、と言われたのがきっかけでした。
そして、東京へ引っ越し、叔母から父親が浪費で多重債務を作り、祖父母から多額のお金を無心されていた事を聞かされて気付きました。

父親、祖父母は病んで引きこもりになった母親のせいで家計が苦しいと口癖のように言い聞かせていましたが、
父親の収入と祖父母の年金があれば充分に普通の生活ができたはず。

母親が強迫性障害で潔癖症になり、公共料金が少し高くなっても、父親の浪費と毎月の返済に比べれば安いものだった。

実際の公共料金の支払いも生活を圧迫するほどではなく、カード会社三社ほどから通知が届いていたのを発見した事もあった。

小学生の頃から、父親がよくカードで買い物をして、父親と祖父母から何度もお小遣いを勝手に使われたり無心もされた。この時に、気付くべきだった。
気付くのがあまりにも遅すぎた。
8歳〜10歳頃です。友達の家庭と私の家庭が違うと感じました。何かがおかしいと。母親の虚言に惑わされて間違った事を教えられていた事。祖父母と両親が仲が悪かった事。兄弟が私に嫉妬していた事。教養のない家庭で精神的虐待もあった上に、愛もなかったなと思います。
子どもの時は自分が正しいと言っても、大人に主張を消されるんですよ。あの人達が間違っているのに。
私も子どもを育てられる年齢になり、保育の勉強もしています。今では児童虐待に精通してます。
自分の経験を生かして子ども達を守れたらと考えています。
メンタルに影響がでてたのは9歳でした。
気づいたのは、成人してからくらいでしょうか、、、精神的支配を受けていたと思います。
だから、成人するまでわからなかったのではないでしょうか、、
中学生のとき、手首に傷つけたりしていたので。
気づいてはいたけれど。自分が本当に親に愛されてないと認めることが怖かった。信じたかった自分がいました。
結婚して子供ができて、親が普通じゃないことを認めざるを得なくなった。旦那に気づかされました。
ACの概念を知ったのは26歳くらいのころでした。
たまたま<ACについて書かれた本を読み、自分に該当することが書かれていたので、関心を持ちました。
子供の発達に関する本や、AC関連の書籍やらを読み漁り、過去と現在が一本の線でつながったのがつい最近、32歳の今です。
正直、自分自身が信用できなくなってきています。環境が異常だったことは確かなんですが、自分で自分の事をここまで無視できるのかと。何もない空っぽのまま、サバンナに孤立したような気分です。
多分小学校一年か二年の頃。

毎晩のように両親が夫婦喧嘩して、
その度ごとに、息子である僕に、

父からは、
「お父さんとお母さんとどっちが好き?」

母からも、
「お父さんとお母さんとどっちが好き?」

と度々聞かれたこと。

機能不全家族とか難しい概念はさっぱりわからなかったけど、未だに記憶に残ってます。
小さい頃から、何かしらの違和感に気付いてて
小学生になった頃モラハラ、DVが始まったあたりで「他の家は多分違うんじゃないか」と思い始め
決定的になったのは大学時代、
友達の実家で1週間ホームステイ(って言葉であってるかな)させてもらった時。
友達の父親とうちの糞父親と違いすぎて、何もかもが驚きの連続だった。
家族ってこんなものなの????って本気で驚いた。
友達のお父さんが神様に見えるくらいだったよ。
酒飲んで暴れて殴らない、むやみに怒鳴らない、人の頭めがけて電話帳を投げつけない、
小学生の娘の前でタバコ一箱消費するほどの長時間、煙がもうもうとしている中、
延々と人間性を否定する事を言わない、
友達と同じ大学に入ったはずなのに、
私の屑父のように「偉そうに物を言うな○○大のくせに」と馬鹿にしない。
これだけでもう神様よ神様。
愛人らしき人もいたけどその辺はもうどうでもいいです。
その時には勝手にしてくれ消えてくれってしか思いませんでした。
余談だけどこの遺伝子と法的効力のみで繋がっている馬鹿は年をとって周りに誰もいない状況に
さすがに焦ったのか「家族なんだから」「やっぱりお前が一番だ」
という言葉を多用してくるようになりました。
その微妙な飴が施す呪縛からようやく立ち切れたような気がします。(*´¬`*)
お前が一番とでも言っとけば老後面倒見てもらえると思ってんのが見え見え。
家族?そんなもんとっくに崩壊してるわ。(笑)
母・弟たち・私は家族ですがお前はもう家族じゃないからね?
ありすぎて困ります(笑)
どれが1番最初になるのかなあと思い始めるときりがないです。
印象深かったのは小学校卒業直後でしょうか。
これからは皆で集合できることもなかなか少なくなるだろうからということで、全員でバスケでもやろうということになったんですね。
で、クラス全員と地元の体育館に集合して、いざ受け付けという段になりましたら、自分一人だけが使用料払えなくてそのまま帰宅しましたですね。
そのときには、これはもう確実にごく一般的な幸せとは無縁だろうな、というかなり明確な予感はしました。そして現実になっております(笑)
とは言え、何が起こるのか判らないのが人生ですから。
(と、信じなければやってられん笑)
私が産まれた時父は行方不明だったそうです。
(私は書きこんだと思っていたが、見直したら書いてないようなので、書かせて頂きます。)
私は小さい時から私の家は(核家族でないことも含め)「多数派」と違う、と思っていました。
母が姑(私の父方祖母)と父に虐げられていました。

そんな母が、ストレス解消なのか、私(←20代後半から一人暮らし)に電話して来て干渉するようになりました。
私は母を恨む気持ちがわいてきました←その頃「私の実家は機能不全家族で、今の私にも悪影響」という意識が強くなりました。

その一例は、私は、出前を注文することに罪悪感を持つ時もある、ということです。
母は給料を祖母達に巻き上げられていて、定年まで勤務したのに、職場で昼食の出前を注文したことがないです。

「機能不全家族」という用語は(前にも耳にしたことはあったが)はっきり実感がわいたのは、今年このコミュニティに(「大人のアスペルガー症候群」で知り合った方に紹介して頂き)入ってからです
自分が機能不全家族というものだと知ったのは、10年前ですが、自分自身が そう感じた(違和感がずっとあった)のは 中学生になった頃  自分以外の世界に触れてからだと思います。

自分がACだと自覚したのが20代前半
それから“機能不全家族”というものを知った

家庭内の話は外ではタブーだったから
他から“おかしい”と言われることもなく
AC・機能不全家族という言葉を知るまで
自分の家が“異常”だとは思ってなかった…



全てを悟った今
虫唾が走る…

でも確かに
幼少期・学生時代にも
似たような感覚はあったのかもしれない
はじめまして

私は
産まれて〜
母の可愛い操り人形ちゃん

14歳。自我と女らしさが芽生え
母から掌返しの虐待がスタート



14歳。それを見て見ぬ振りして
転勤し仕事に逃げた父

16歳。父が転勤先で精神病を発症

18歳、家では
父の居ない家庭内での母からの虐待はエスカレート

父は精神病院に入院して首を吊った

まだ気づいてなかった
元気に平気に生きている
と思ってた

19歳。
首吊った父と
虐待する母
このままじゃ自分は「コロサレル」
単身福岡から東京へ逃げたあと

空白になった1人の部屋の中
自活し必至にバイトで食いつなぎ
それでも誰にも頼らず生きて行ける!
と、まだ信じてた

しかし
他人の子なのに
イカレた福岡の家から
東京に逃してくれた
大切な「姐さん」の覚悟。

バイト先で
私のナニかを
察して言葉にせず見守ってくれた
今は亡き「店長」

(他人の子なのに…)
知り合いの居ない東京で
血縁のない私へ
周囲の人の
言葉では伝わらない暖かさに触れ。

自分の生い立ちの
ナニカに気づき始めたのは
20代前半でした
物心ついた頃から、我が家が普通じゃないと気づいてました。

子供心に口外してはいけないと思ってました。

父親は何がスイッチなのか分からないのですが、母親に暴力、暴言。

怖くて縮こまっていた私と妹に母親は、「どうしてお父さんに止めてって言えないの!」と当たり、怒っていました。

「あんた達の事を考えて離婚しないんだ」と言い、私と妹は泣いて離婚してといつも言ってました。

だんだん父親の暴力がひどくなり、仕事も行ったり行かなかったりしてやっと母親は父親と離婚しました。

これで怯えず暮らせると思っていましたが、すごく貧乏で、冬にカーディガンで登校したり、電話がなかったり。

お風呂のない家、湯沸かし器のない家でした。

母親は掛け持ちで働いてくれましたが、いつの頃からか、夜帰って来ない日が増え、子供が熱を出しても、お構いなし。

ろくに着ないコートや洋服を買ったりしていきました。

私達はお小遣いで、文房具から下着まで自分で買わなければなりませんでした。

私は新聞配達をしてお小遣いにしていました。

母親はだんだんネグレストになり、距離が出来ていきました。
はじめまして。私の家庭は

父が子育てに非協力的で 母親が子育てノイローゼでした。母は機嫌が悪いと長女である私に暴力、暴言をしてストレス発散しているようでした。

父は見て見ぬふりでしたが母がいないときは私に優しくしてくれて、アザをなでてくれたり抱きしめたりしてくれて味方をしてくれていました。

小学4年くらいのときから父は寝ているときを狙い私に猥褻な行為を繰り返すようになりました。

中学に入ったころ母は宗教とマルチ商法に心酔し暴力もピタリと止みました。

私は母に「父から猥褻なことをされている」と相談すると

「実はお母さんも昔知り合いから幼少期に猥褻なイタズラされたの」と泣きながら逆に私に打ち明けてきたので母の話を聞いて励ましました。

私の話は無かったことになり、それ以来 母に話はしていません。

最近 妹が私の話を利用して父からお金を せびっていた事実を聞かされました。

父からは「妹をどうにかしろ。お前はもう許してくれてるよな?家族だもんな。合意の上の行為だったよな?」と泣きつかれ、

妹からは「お姉ちゃんの代わりに慰謝料を取って懲らしめてやった感謝してね」と言われます。

頭がおかしくなりそうです。自分も怒れないのがいけないと思います。

自分含め家族全員がそれぞれにおかしいと気付いたときに機能不全家庭だと確信しました。
いつからかなあ、気がついたら、母親の罵声をあびていた。悪いことは全て私の仕業。姉は良い子でね。
私は存在しちゃいけないと無意識にかんがえてました。
だからかなあ付き合ったらアディクションしてました
気づいたのは、5年前の30代後半です。

私は末っ子でおとなしい子であったので、家族の中でおかしなことがあっても、何も言えずに育ちました。マウンティングポジションを取られ、言いなりの人形のような存在でした。
大人になり他府県で働いていたときに、気分障害になりました。家族のせいで気分障害になったとは思いたくないですが、発病したときは、元々家族に精神障害者が多かったので、「ああ、やっぱりか」と思いました。
静養のため実家に戻りましたが、姉のワガママに振り回されて、なかなか回復できずにいました。
あるとき、トイレの前で姉が寝ていました。意識はちゃんとあります。「どいてくれ」と言っても、どいてくれません。そのうち、母は「外でトイレしていて」と言ったのが、とてもショックでした。
なんとか、非常勤の仕事がみつかり、少しづつ少しづつ、歩みは遅いですが回復していきました。本当にこれは幸運なことでした。しかし、回復を実感できても、家庭はストレスフルなままです。あまりにも姉や母の言うことが常軌を逸していると感じ、外部の相談機関に相談しに行きました。相談員もエッという反応をされ、そのとき決定的に自分の家族はおかしいと思いました。ショックもありましたが、「やっぱり、そうだったんだ」という納得もしました。今思うと、姉は自己愛性人格障害で、母は過干渉毒親でした。
なんとか、自分の力で改善したいと思いましたが、無理でした。私がマウンティングポジションを取ろうとしましたが、それは彼女たちと同類になることだと気づいてやめて、家を出ました。今は、平和な一人暮らしをしています。
母が亡くなった後、自分は障害年金を切られたので実家に帰って父と二人で生活をしました。
父は僕に洗濯、買い出し、料理、落ち葉を拾ったり、ゴミ出しをしたりをやらせて使用人にしました。

父は鬱病なのでストレスを全部、僕にぶつけました。短期間で17キロ体重が減り、父に外出も監視されるので父が寝てからこっそり夜の街に出て飲んでました。

すぐ下の妹に相談したかったのですが、末の妹がヤキモチ焼きなので気を使って末の妹に相談をしてました。末の妹は人から頼りにされたいが人の為に一肌脱ぐような器ではなく、僕は自力で問題解決をしました。

結局は亡くなった母が全権力を自分が掌握していたくて7並べで言うと6と8をわざと止めて他の人が自由に動けないようにしていました。

母は嫉妬深い権力者で実権を父や僕に渡さないようにしていたのです。

母が亡くなってやっと、家族が機能してないのに気づき、兵馬の権を自分に取り戻し、性格の悪い末の妹と絶縁をして内外に母の悪行を宣伝して回りました。

頼める医療スタッフを増やしていき、母が「大事にしなさい」と言った人間関係を切り捨て、マトモな人間関係を増やして行きました。

母の「お金が全て」と言う遺言を無視して母の遺産はほぼ使いました。

母の教えた教育ではないマトモな新しい教育を受ける為にお金はほとんど使いきりました。

悪い金は不幸を呼ぶし。一度膿を出しきりました。
私は高校三年の時でした。大学進学を学費を出したくない理由からもう反対されました。結局奨学金とアルバイトでいきましたが。高校の三者面談でもペラペラ喋りっぱなしで担任があきれてました。親になり毒母は精神障害と発達障害がある事がわかりました。話すと切りないので割愛します。

ログインすると、残り179件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

機能不全家族 更新情報

機能不全家族のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。