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ソル・ギョングコミュの治癒という名の暴力

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ソル・ギョングさんには直接関係ないかもですが、出演した作品が2作も取り上げられていたので、ちょっと覚え書きとしておいておきます。
「障害は必ず治らなければならないという考え、それが暴力です」と題するキョンヒャン新聞の記事の紹介です。
https://www.khan.co.kr/culture/book/article/202206101325001
原文には、インチキ幹細胞学者ファン・ウソクや、いろいろな事例が出てきますが、省略。映画と文学の例を挙げて論じてところだけを紹介しています。

シラキュース大学女性・ジェンダー学科障害学プログラムのキム・ウンジョン副教授がアメリカで英語で出版した「治癒という名前の暴力」の韓国語訳が出版されたことを紹介している。
彼女は「障害はリハビリして克服しなければならない治癒の対象と見なす視線」を「治癒暴力」と名付ける。

障害のなかった以前の状態に、あるいは治療を通じて改善された状態に変化させるという考えが何の問題かという反論があるだろう。著者はこのような考えに「障害と病気のない状態をより望ましいとする前提」が隠れており、これは「こうした前提に反する多くの行為と経験、そして障害と病気で得られる知識を否定させる」と言う。治癒暴力とは「他者を良くするという名目で、他者が持つ差を消そうとする力の行使」を意味する。

医学的治癒に反対したり、障害や病気に対する治癒自体が暴力だと主張する本ではない。本書が遂行するのは「障害と病気を持って生きていく生活を現存する多様な生活の方法で考える余地を残さない」癒し談論に対する批判であり、これを通じて「障害の経験を通じて現在を生きていく代替的な存在論」を開けたいということだ。

本書は近現代韓国で障害を扱った小説、映画、新聞記事、政策文件、活動家の文などの文化的再現物で癒し暴力がどのように働いてきたかを明らかにし、これまで韓国社会が共有してきた障害に対する貧困で制限された想像力とこれと相互作用して作られた実際の差別の地形を示す。

特に植民地支配と戦争を経験した韓国の文脈で、「障害のある身体」はすぐに「障害化された国家」を乗り越えて進むための進歩のために真剣に根絶されなければならない対象とされたことに注目する。著者は近代以来、韓国が「正常で、健康で、独立であるだけでなく、男性的、家父長的で、単一人種で構成された国家」のアイデンティティを獲得するために走ってきたことを確認する。

つまり韓国という国民国家の建設と発展は、障害者とともに女性、貧民、混血児、性売買従事者など少数者の席を認知して排除する「正常性」の設計の中でなされたという話だ。この過程で、少数者たちは「正常性」の場に移動して変化することを国から持続的に強要される「治癒」の暴力に持続的にさらされてきたということだ。

障害女性の席は断然脆弱である。障害女性は障害者であり女性であり、時には貧民であり、性売買従事者として様々な形態の治癒暴力被害者となる。同時に障害女性は韓国の文学や映画などで植民支配あるいは独裁政権下の「障害化された国家」の比喩として存在してきた。文化的再現物の中で障害女性は異性愛関係あるいは家父長制という「正常性」を通じて治癒されるべき対象とされ、このような治癒は実際の障害女性に向けた暴力を隠蔽して強化させる問題を生み出す。

文学と映画では障害女性に対する性暴力が文字通り治癒の名で行われた。本は、1940年代の農村共同体を背景とするイ・ムンヨルの小説「アガ(雅歌)」(2000)で、村人と共に障害女性に絶えず性暴力を加えてきた過去を告白する話者の言葉を引用する。

「私たちが性的な側面にこだわったのは、彼女の不幸を楽しむ残酷な趣味ではなく、不完全な彼女の性的記号を補完する意味があったと。私たちは心から彼女の女性性を承認し、方法は違ったが、間違いなく彼女を一人の女性として愛したものだ」

この男性話者は、自分たちが犯した暴力が「女性を承認」し、障害女性の性別欠陥を「癒そうとする」介入だったと正当化する。

イ・チャンドン監督の映画<オアシス>(2002)も同様だ。新しく出所した男ジョンドゥ(ソル・ギョング)は、身体障害と言語障害のある女性姫(ムン・ソリ)を性暴行した後、恋に落ちる。映画は、障害者と非障害者の間の愛の可能性を強調するために、当初の性的暴力を不問にする。その暴力は「まだ人間になれない存在」としての障害女性を「異性愛体系の中に」引き寄せ、いわゆる「正常社会」のジェンダー化された女性にするための治癒の一種と考えられるからだ。

一方、キム・ギドク監督の映画<受取人不明>(2001)やチャン・ソヌ監督の<花びら>(1994)の場合、それぞれ米軍の暴力で示される冷戦体制と5・18民主化運動という国家的なトラウマを障害女性という身体で表現する。

特に映画<花びら>が国家暴力によるトラウマの比喩として精神障害女性を描き出す方法の分析は、この本の最も独創的な地点と見られる。著者は、隠喩として障害女性が再現されるとき、国家暴力後も障害女性個人が継続的に経験しなければならない抑圧と暴力の経験が見えなくなることを懸念する。

最近、40代の女性が発達障害のある6歳の息子を抱いてアパートから飛び降りた。同日、大腸がんを診断された60代の女性が、30代の重症障害のある娘と一緒に命を断ろうと、一人で生き残った。障害を「癒す」ことを強要しながら、その責任を完全に「家族」に任せる韓国社会は、障害を家族の経済的で社会的な「負担」にする暴力を繰り返している。<沈青伝>のシムチョンが盲目の父の目を開かせるために命まで差し出さなければならなかった犠牲の叙事詩は現代の治癒談論の下、依然として再生されているわけだ。

「韓国語版序文」で著者は「治癒を当然のものではなく選択で考えることができること、そして状態が好転したり病気が完全に治らなくても人生を生きていける条件を作ることが重要」とし「これのためには障害と病気を持っている人々の視点と経験から作られた知識が求められ、障害と病気の現存と経験自体が社会の重要な部分であることに対する認識が必要だ」と強調する。


以上で記事の紹介は終わりますが、『オアシス』、『花びら』についての論評は、正鵠を突いていると思います。どちらも高く評価されてきた作品ですが、手放しで誉められないところがある。
『オアシス』は、私にとっても特別な作品ではあるのですが、初めて見たときから「初対面でのレイプ(未遂)」がずーっと引っかかっていました。見知らぬ男にレイプされそうになった翌日に、口紅を付けるという表現がものすごくイヤでした。たとえレイプであっても、女として見られたことを肯定している?どう考えてもレイプしてやった男の感覚で描かれている。その表現への違和感を見事に言い当ててくれています。

『花びら』は、とにかく全編暴力的で、光州事件のトラウマで精神を病んだ少女が浮浪者の男に絶え間なく暴力を振るわれ、レイプされ続けるという話なのですが、それでも、彼女はその男から逃げないのですね。光州事件の不条理を、一人の少女に投影しているのか?
また、非障害者のムン・ソリが脳性マヒの女性を迫真の演技で演じたことが高く評価されたように、10代のイ・ジョンヒョンが、頭のおかしくなった少女を鬼気迫る演技で見せたこともすごく高く評価されました。これらのある意味、異常な作品を別の角度から論じる人がでてきてよかったと思います。

あと、イ・ムニョルの小説「アガ(雅歌)」は、この人が論じる前から、フェミニストによって徹底的に批判されてきたというようなことがあったようです。
彼の小説は『我らの歪んだ英雄』(パク・チョンウォン監督 1992)、『若き日の肖像』(カク・チギュン監督 1990)などが映画化されています。
写真は、左から「花びら」「オアシス」「治癒という名の暴力」韓国版書影。

コメント(3)

なるほどオアシスは傑作だと思いながらもなんだか胸の内にモヤモヤしたものが残ったのはそれなんですね。
観て以来の違和感が肚に落ちました。ありがとうございます。
>>[1] 、よく「社会から除け者にされた二人のピュアな恋愛」というような書き方されますが、ウソだと思いますね。対等でもないし、ピュアでもない。障害者を「女にしてやった」といわんばかりで本当に腹立たしい。
逆に終盤では、彼女の方の望みに応えて行為をしようとしたのに、今度はレイプと見なされて通報され、逮捕されてしまうというのは皮肉なのですが、その反転の効果を見せるためだとしても、ひどい設定だと思います。
まあ、それでも、この映画はとても思い出深い作品なので、全否定はしないのですが、名作とはいえど、こういう瑕疵もあるってことは意識しておきたいですね。

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