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belzinaspirit in mixiコミュの#26 決戦前日、夕陽は沈む

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決戦前日、夕陽は沈む

 夏まっ盛りの土曜日の午後四時、外川家の玄関前でプロトタイプをメンテナンススタンドに据え付け、直志はチェーンに油を差している。
 指先で容器の腹を少し押すと、針のようなノズルの先から、一滴の油がチェーンのリンク(可動部)に零れ落ちる。自転車一台に、チェーンのリンクの数は百数十箇所ある。先程から直志はそのリンク一つひとつに、一滴ずつ油を垂らしている。
 チェーンを回しながらスプレーでも吹けば、ものの一分で注油は終わるだろう。だがそれをしてしまえば、チェーンに油が過剰に付着してしまい、走行風で舞い上がる僅かな塵を拾ってしまう。それが溜まると、チェーンの回転を邪魔して、最悪の場合変速系にトラブルが発生する。
 明日は美土里山カップ。本番でのケアレスミスを避ける為に、直志は汗を滴らせながら、細かなメンテナンスを続ける。
 「直志、25コマ前のリンク、抜けてるわよ。ちゃんとやんなよ」
 ベルヅィナが塀の上に腰掛けて、退屈そうに足をぶらぶらさせながら、直志の作業をチェックしている。
 「ごめん。25コマ前か、えーと……24……23……22…………あった」
 ずらりと連なるチェーンリンクの列の中、一ヶ所だけ艶が鈍いリンクを見つける。直志は慣れた手付きで油を垂らし、すぐに作業を再開した。

 「たーくん」
 恵子の声がした。直志が顔を上げて、辺りをキョロキョロと見回す。すると門の柱の裏から、恵子の顔がひょこりと出てきた。
 「ねぇたーくん、何してるの?」
 「明日の準備だよ」
 「チェーンに油差してんだよ、見ればわかるだろこのバカ女」
 ベルヅィナの罵声は恵子に聞こえる筈もなく、ふーんという顔をして、直志に歩み寄る。
 「練習、今日は早く終わったんだね」
 「ああ、明日は美土里山カップだからね。軽い調整だけだったんだ」
 直志の喋る内容は、恵子はあまり関心がない様子で、後れ毛を指先でいじくりながら、直志の顔を眺めている。
 「そうだ恵子、明日のレース観に来ない? 近くでレースがあることなんて、滅多にないからさ」
 恵子は首を横に振った。
 「たーくんには悪いけど、行かないわ」
 「……こないだの事、やっぱりまだ怒ってる?」
 香水の甘い香りを撒き散らしながら、恵子はまたもや首を振る。
「ううん、そういうんじゃないの。明日は用事があるの。ゴメンね」
 恵子は水玉模様のハンドバッグから、パンフレットを取り出して、直志の顔の前でひらひらさせた。
 「ミュージック……アカデミー……。何これ」
 「こないだパパの会社のカラオケ大会で歌ったら、歌手になれる位上手いって言われたのよ。最近たーくんが練習ばっかりて相手してくれなくてヒマだったし、ちょっと目指してみよっかなーなんて思ってねー」
 恵子は猫撫で声で、流行りのラブソングを熱唱してみせた。隣近所に恵子の歌声が響き渡るので、直志は困惑の表情を浮かべる。斜め向かいの家のおばあさんに至っては、歌声に驚き、何事かと家から飛び出して来た。
 「わかった、わかった、恵子の歌が上手いのはわかったからさ」
 「でしょでしょ! そういう事で、明日はレッスンなの。だから残念だけどゴメンねー。それに自転車のレースなんて見に行ったってあたしルールとかわかんないし、日焼けしちゃうし、一人で見てたってつまんないしね」
 そう話す恵子の顔は、残念そうには見えない。やはり彼女は、自転車レースの事があまり好きではないのだろう。
 「そうか、残念だよ。レッスン頑張ってね」
 直志もその反応をある程度予測していたのか、あまり残念そうではない。
 「この女行かないって言ったな? 来るなよ、絶対来るなよ! ぜ〜ったい来るんじゃないわよこの束縛大好きヒステリー女! お前なんかホウキ車に回収されて足切りDNFになっちまえ!」
 ベルヅィナが目をつり上げて、恵子に向かって罵声を吐きまくる。恵子の歌声に負けず劣らずうるさいが、その声は直志にしか聞こえないので、近所迷惑にはならないのがせめてもの救いだ。
 「立ち話もなんだし、少し上がってく? アイスコーヒーでも入れるよ」
 余りにもベルヅィナが興奮しているので、直志は恵子をベルヅィナから遠ざけようと計らってみる。
 「ゴメンね、今日も今からレッスンなの。もう行かなきゃ」
 「そっか、じゃあまた今度ね」
 恵子は直志に手を振ると、レトロ調のシティサイクルに跨がり、日傘を差し、ペダルを重そうに漕ぎながら走り去って行った。
 「バイバイヒステリー女! 傘差しながら自転車乗ったらダメだろうが! こけるわよ! いやこけてしまいなっ!」
 遠ざかる白い日傘に向かって、ベルヅィナが拳を振り上げながら叫んでいた。直志はため息をつくと、プロトタイプの前にしゃがみ込み、再びチェーンの注油作業を始めた。



 午後七時、鬱陶しい夏の太陽がようやく沈み、日暮が鳴いている。
 自転車店竹井の主人、竹井は、豚を模した容器の中の蚊取り線香に火を付けると、OCR-2をメンテナンススタンドから外し、稲田に渡した。
 「出来たで、フルデュラエース換装。前後ディレイラー、STIレバー、ブレーキキャリパー、クランクセット、ボトムブラケット、チェーン。前に見積もりしたんやけど……、この位にしとくわ」
 竹井が電卓を弾き、稲田に見せる。
 「えっ、この値段でいいんスか」
 「かまへん、若者応援サービス価格や」
 同じ型の新品完成車がもう一台余裕で買えるお金をつぎ込まれ、換装作業を終えて、進化した姿で稲田の元に帰って来た愛機、ジャイアントOCR-2。駆動系、変速系、ブレーキ系を、シマノのトップグレードのコンポーネント、デュラエースに換装してある。先日手に入れた軽量ホイール、ヘリウムを履き、磨かれた鏡のごとき光を放つパーツを装備したその姿は、それまで漂わせていた安物感が、すっかり影を潜めている。
 「俺のOCR-2……、かっこいい……」
 稲田は顔をにやけさせて、自分の愛機の姿に見とれている。
 「……稲田君、組み付けしてもうてから何やけどな、やっぱりフレームをええやつにした方が良かったんちゃうやろか」
 いくらパーツをデュラエースにしても、稲田のフレームはエントリーグレードで、剛性や軽さはチームメイトの愛機と比べて見劣りする。フレームは乗り手の力を受け止め、操舵を司り、走行性能を左右する、自転車の心臓とも言える部分だ。その心臓部に手を入れない限り、自転車の性能は劇的には向上しない。いくら商売とは言え、竹井は稲田の選択に対して、違和感を拭い切れていなかった。
 「これでいいんスよ。俺この自転車が好きッスから」
 「そやったら何も言わへんけどな。デュラエースやからって、無茶はせんときやぁ」
 稲田は鞄の中から茶封筒を取り出し、代金を竹井に渡した。
 「毎度おおきに。領収証渡すさかい、ちょっと待ってやぁ」
 竹井は店内のカウンターに行き、業務用のカタログや帳簿が渦高く積まれた中から、領収証を探す。
 店の引き戸ががらりと開き、神戸異人館レーシングのメンバー、野嶋、広島、西角が入って来た。
 「竹井さーん、例の追加のジャージ出来たって?」
 「ああ、あれな。ちょっと待ってやぁ、ちょっとな」
 竹井はそう言うと、大量の帳簿の下敷きになっていた領収証を抜き出し、金額を殴り書き、店の外にいる稲田に渡した。
 「毎度おおきに。明日はレースやさかい、早う帰ってゆっくり休みや」
 「ウッス! ありがとうございました!」
 稲田は竹井に深々と頭を下げ、進化したOCR-20を嬉々として走らせ、去って行った。
 入口の戸から西角が顔を出して、西角がその光景を見ていた。
 「稲田君、フルデュラエースにしたんだね」
 「そや。これは明日はやる気やでぇ」
 「稲田君がやる気を出した所で、俺たちの脅威にはならんな。うちは去年までとは違うからな」
 野嶋がそう淡々と言い切ると、他のメンバーが一様に頷いた。
 「それより竹井さん、ジャージは?」
 広島に催促されて、竹井はカウンターの奥から、ビニールに包まれたオレンジ色の新しいジャージを取り出す。
 「これやな。あいつがおったから、出しにくくてなぁ」
 「うちの秘蔵っ子新人も、登場しにくいだろうしな」
 竹井と野嶋が互いに頷く。程なくして、軽自動車のアイドリング音が聞こえて来た。
 「噂をすれば、来たみたいだよ。秘蔵っ子新人ちゃん」
 西角が戸を開けて、店の中へ迎え入れた。


 虫達が涼しげな音色を奏でる深夜、岡之上は薄いタオルケットにくるまって、静かな寝息を立てている。
 明日のレースで着るのだろうか、真新しいジャージが畳まれ、ベッドの脇に置かれている。その上に乗せられているヘルメットが、窓から入って来る月明かりに照らされて、青白く光っていた。

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