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国際哲学クラブコミュの如月さんの掲示板での議論を転載(2-A)

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承諾が得られましたので、如月さんの掲示板で行われた議論を、以下に転載します。

網上戯論
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi

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経験こそが概念から生み出されるものです。 投稿者:くまげん7 投稿日:2009/11/01(Sun) 11:51 No.17225

 初めまして。

 カントの純粋理性批判がもたらした業績を寛さんがまた暴発して無視しているようですね。
 空間というものは<人間が世界を認識する形式>です。
 ですから、人間が考える以上、経験には空間という形式がついて回ります。
 同じことを時間にもいえます。

 空間も時間も人間が世界を認識するための形式であり、この形式がどのような形式なのかを表現する形式をアプリオリ(先験的)には人間はもっていません。

 寛さんは経験の中で幅を写像して考えているから…とおっしゃられてますが、幅の無い線は存在します。点、線、面の順番で考えるからそんなことになるわけです。
 面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。その面が二つあった場合その間には線が生じます。この線には<幅がありません。>
 面が三つ交わったところには頂点ができます。この点には面積はありません。(そもそもが大きさがないのです。)

 これらのことは我々が知覚の限界として面、線、点、というカテゴリーをもっていることを示しています。

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 佐々木 寛 - 2009/11/02(Mon) 19:16 No.17311

 こんにちは、くまげん7君

 「経験こそが概念から生み出されるものです。」(くまげん7君の投稿より)

 経験こそが、概念から生み出されるものという、くまげん7君の説は、「概念から経験が生み出された」と言い換えることができると考えます。ところで、広辞苑によると、哲学的に経験というのは、「感覚・知覚を基礎にして知的活動までを含む体験の自覚されたもの」と有ります。

 「面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。」(くまげん7君の投稿より)

 上記の引用で言う、「最初に認識する」や、「ものの見かけ」というのは、どういうことなのか? 普通、ものの見かけというのは、ものの外見のことで、見るという感覚から得られるものです。また、「面」というのは、常識的に言って、広がりのある平らなもののことでしょうが、広がりとか、平らというのも、経験的なものでしょう。そして、それらが、「最初に認識」されるとすれば、これは、経験論以外の何ものでもないことになります。

 ですから、「概念から経験が生み出される」という、最初の引用とは、正反対の意味になると考えます。くまげん7君は、自分で自分の言っていることが、理解できているのか、はなはだ疑問です。

みなさん、ありがとうございます。 如月 - 2009/11/07(Sat) 12:06 No.17738

 くまげん7さん、佐々木寛さん、○○○さん、興味深い投稿や回答ありがとうございます。
 経験と認識について私からもみなさんに教えていただきたいことがいろいろありますが(私自身は、当面の問題に関しては、とりあえず「経験」と「経験知」を分けて考えた方がよくはないかとおもったりしています)、小サイト内の↓「デイドロとモリヌークス問題」のページなどもご参照頂ければ幸いです。

http://www.furugosho.com/precurseurs/diderot/molyneux.htm

「経験知」についての補足 如月 - 2009/11/07(Sat) 17:52 No.17753

 それと、カントのことはきちんと勉強していないのでよくわかりませんが、私が「経験」と「経験知」を分けた方がいいのではないかと思うのは、経験という概念を無制限に拡大していくと、たとえば「Cogito ergo sum」という命題も、cogito(私は考える)という自己の経験もしくは体験に基づくものであり、経験による自己存在の確認だとなりかねないからです。
 もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。だから、人間のほとんどの知は経験によって明白になるもしくは体得されるものだとしても、「経験知」と呼べるものはその一部であるとした方がいいのではないかというのが、今、私が考えているアイデアです。もっとも、すると今度はいったいどのようなものが「経験知」なのかということになって、これはこれで難しいんですけど、まあ、身体的な技術なんかはそれに入るんじゃないかとおもっています。

数の概念もちょっとやっかいですね 如月 - 2009/11/07(Sat) 18:15 No.17756

 ついでにもう一つ私が感じている疑問を記しておきますと、たとえば、数の概念の把握が経験的なものか直感的なものかよくわかりませんが、大きな数の概念の把握を経験に帰することができるのかということですね。
 たとえば、「十」の概念であれば、あるものを1、2、3…と数えていった結果把握した経験による概念だといってもいいとおもいますし、「百」もそうかも知れません。でも、「万」とか「億」を、これと同じような意味において経験によって把握される概念といっていいのかどうか。もしその把握が経験によらないとすれば、それは何によるのかということですね。
 また、同じように考えていくと、「無限」というのもちょっとやっかいな概念ですね。だから「無限」なんて現実には存在しないんだと言っちゃってもいいんですけれど。

追風(おいて)に帆かけて 佐々木 寛 - 2009/11/07(Sat) 19:16 No.17763

 「もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。」(如月さん投稿より)

 如月さんは、心配性なんでしょうか…(笑)。ある経験から得られたものから、ある性質を抽象したり(長さ)、捨象したりして(幅)、ある概念を生み出し(線とは幅のない長さ)、さらには、生み出された概念を基に、他の概念との関係の中から、また新たな概念を生み出してゆくならば、そのような創造的な能力がある限り、我々の精神には、幸の限り無い、豊かな海が、広がってゆくのではないでしょうか…(さぁ、帆を、かけよう)。

金毘羅船々(こんぴらふねふね)、追風(おいて)に帆かけて、シュラシュシュシュ…(笑)。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/konpirafune.html

 一つずつでも、限り無く、加えるという、規約があれば、兆や京や垓の単位を越えて、可能性として、無限は考えられます(問題ありません)。

 「視覚作用の最初の瞬間には、多数の混乱した感覚印象を受けるにすぎず、それはただ時間とともに、また、私たちのなかで起ることについて反省を重ねるにつれて、次第に判断されるようになるのです。感覚印象を、それを惹き起したものと比較することをわれわれに教えてくれるのは、ただ経験だけであり、感覚印象は事物と本質的に類似しているようなものは何ももっていないので、純粋な約束事のように思われる感覚と事物の類比について教えてくれるのも経験です。」(下記リンク先の、如月さんのサイトより引用)

ディドロとモリヌークス問題
http://www.furugosho.com/precurseurs/diderot/molyneux.htm

Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/11/21(Sat) 12:40 No.19213

 ものすごい遅いレスで申しわけありません。

 まず、あまりにも話をあいまいに考えすぎです。

 概念=定義とすれば、それが経験に先立たないのは明らかです。なぜなら、定義とはことばでされるものであり、私的ではなく社会的なものだからです。

 一方で経験とは個人的で肉体を通じて得られる「現象」を様々の方法で「記憶した結果」です。

 したことであっても覚えていなければ経験ではないのです。

 そのひっかかりを如月さんは「経験」と「経験知」という言い方で表していますが、それは体験=経験としてしまっているからです。体験は経験ではありません。

 そう考えれば「経験=経験知」であることがわかります。

 ならば、経験がどうして記憶できるのかということを説明しようとしたのがカントの「純粋理性批判」なのです。

 それは「人間が予め(先験的・アプリオリ)認識する形式をもっているから」と仮定しました。だから、その認識する形式を越えた概念(超越論)はもともと意味がないという結論をもってきたんです。

 ところが、なぜ、超越論はされてしまうのかについてカントは「馬鹿だから」みたいな答えしかしてません。それを超越論的批判が哲学の仕事だってカントは言うんです。

 実は概念は定義である。定義はことばであると最初に書きました。認識の構造は超越的ではないのですが、ことばの構造が超越的だからこそ超越論が生まれてくるのです。(経験してもいないことを在るものとして語れるのはことばの形式のせいなのです。)

概念と経験 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:30 No.19351

 くまげん7さん、ようこそ。先日来、概念と経験との関係がどうもすっきり腑に落ちないので、自分なりに以下のようにまとめてみました。まだ整理の途中ですので、不十分なところがあるかもしれませんが…。くまげん7さんの新しいコメントにつきましては、もう少し考えます(特にコトバとのかかわりのあたり)。

 ?ものさし、電話、TV、PC、USBメモリースティック
 これらに関しては、そうした道具的存在物およびその概念や観念がわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在し、その概念(機能)を知ることによってわれわれはそうした道具的存在物をそれと認識し、経験・使用する。

 ?山、海、砂漠
  ?と同様、これらの概念や観念もわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在するが、場合によっては、山中に生まれたり、海 辺に育ったりして、明確にそれと知覚する以前にわれわれはそれを体感・知覚することがありうる。その場合、概念形成は体感後に、体感をとおして行われると考えられる。またその際、たとえば山の概念を明確に形成するためには、山以外の場所を体感・経験し、それを相対化することが有効と考えられる。
 ただしたとえば山中に生まれ育ったのではない場合、はじめに遠くから山を見るなどして概念が先に形成され、後から実際に山を知る(体感する)ということはありうる。この場合は?と同じ。

 ?空間、時間
 これらは、山中に生まれ育った人にとっての山の概念形成と似ているが、われわれがそれから離れて相対化することができないことから、明確な概念形成は困難で ある。あるいは、考え方によっては、空間や時間の概念のなかにはつねにわれわれの実存が含まれていると見なすことができるかもしれない。

  ?痛み、空腹
 これらの身体的概念は、体感・経験が先に生じ、その体感・経験を反省・分析することによって概念が形成される。これらは実存的な概念ではあるが、相対化・客観化も可能。

 ?線、円
 これらの幾何学的概念や観念に関しては、線的なるもの、円的なるものが知覚・経験されることがあっても、厳密な意味での線そのものや円そのものが経験されることはありえない。これらは概念や関係としてしか存在しない。

概念と定義 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:39 No.19353

 それと、先日来、「概念=定義」という定義は、私もどうもまずいんじゃないかとおもっていますが、その問題は別に検討してみたいとおもっています。
 どこがどうまずいかというと、私のぼんやりとした感じでは、定義の一般的なフォルムとしては、「AをBとする(呼ぶ)」というものがあるとおもうんですが、この場合、AとBの関係は「=」で結べるようなものではなく、恣意的なものではないかという気がするからですね。
 でもまあ、この疑問は、ある意味で形式的なものですから、あとでちょっと考えればいいかなともおもってるんですが…。

「覚えていなければ経験ではない」 如月 - 2009/11/22(Sun) 16:58 No.19392

 え〜と、それから、「したことであっても覚えていなければ経験ではない」というくまげん7さんの言い方は、私にはとても興味深いです。ライプニッツが『新人間知性論』のなかでロック(フィラレート)にぶつけている大きな論点の一つはそれだとおもうのですね。上方のスレッドで引用している井上龍介さんの用語を利用させてもらえば、「サブリミナル」を認識論的にどうとらえるかということになるでしょうか。
 つまり、人間の知性形成における「経験」の重要性はライプニッツも充分承認しているのですが、サブリミナルというか無意識という概念を導入すると経験論は破綻するだろうというのがライプニッツの見通しですね。また、それと同時に「個」の実存もかなりあやうくなると私はおもいます。
 ライプニッツの認識論とは、そういうギリギリのところにたった認識論ではないでしょうか。

コメント(1)

>「面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。」(くまげん7君の投稿より)
上記の引用で言う、「最初に認識する」や、「ものの見かけ」というのは、どういうことなのか? 普通、ものの見かけというのは、ものの外見のことで、見るという感覚から得られるものです。また、「面」というのは、常識的に言って、広がりのある平らなもののことでしょうが、広がりとか、平らというのも、経験的なものでしょう。そして、それらが、「最初に認識」されるとすれば、これは、経験論以外の何ものでもないことになります。ですから、「概念から経験が生み出される」という、最初の引用とは、正反対の意味になると考えます。くまげん7君は、自分で自分の言っていることが、理解できているのか、はなはだ疑問です。


くまげんさんがカントにならって言うところの「概念から経験が生み出される」というのは、「概念こそが経験を作っている原料そのものであり、概念がすべてだ」という意味ではなく、
「私たちの側にさまざまな経験・知覚を単なるカオスとして私たちを圧倒するばかりにさせない概念(空間、時間など)が用意されているからこそ、経験は経験としてのまとまりや整理のつくものとして私たちに受けとめられるのだ」
という意味だと思います。

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