それと、カントのことはきちんと勉強していないのでよくわかりませんが、私が「経験」と「経験知」を分けた方がいいのではないかと思うのは、経験という概念を無制限に拡大していくと、たとえば「Cogito ergo sum」という命題も、cogito(私は考える)という自己の経験もしくは体験に基づくものであり、経験による自己存在の確認だとなりかねないからです。 もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。だから、人間のほとんどの知は経験によって明白になるもしくは体得されるものだとしても、「経験知」と呼べるものはその一部であるとした方がいいのではないかというのが、今、私が考えているアイデアです。もっとも、すると今度はいったいどのようなものが「経験知」なのかということになって、これはこれで難しいんですけど、まあ、身体的な技術なんかはそれに入るんじゃないかとおもっています。