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Jack Londonコミュのジャック・ロンドン研究

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みなさん明けましておめでとうございま〜す(*^ー^*)
もんじさんとぼーずさん、コメントありがとうございました!
いろいろ読まれててスゴイです☆


さっそくですが、ゼミで発表した原稿を載せさせていただきます☆ぜんぜん研究というほどじゃないのですが、感想とか意見もらえたらうれしいです!!



ジャック・ロンドン(1876〜1916)


ジャック・ロンドン(Jack London)は、1876年1月12日、私生児としてサン・フランシスコで生まれた。本名はジョンだが、母親の再婚相手がジョンという名前だったため、ジャックに改名された。
母はフローラ・ウェルマン(Flora Wellman)と言い、裕福な開拓移民の娘であった。フローラは25歳のとき家を飛び出し、三年後に旅回りの星占い師W・H・チャーニー(Chaney)と知り合い、1年間サン・フランシスコで一緒に暮らした。そのあいだに生まれたのがジャックだが、チャーニーはフローラが妊娠したと聞くと彼女と別れ、生涯ジャックを自分の子として認知しなかった。ジャックが生まれてから8ヵ月後に、フローラはジョン・ロンドン(John London)と再婚した。20歳の時、本当の父親がチャーニーだと知ったジャックは、手紙で彼に問い合わせるが、「君の父親であるはずがない」と否定される。それによって、ジャックは自分が淫乱な母親から生まれた父なし子だと自嘲し、ひがむようになった。

彼の人生は波乱に満ちていた。ジョンはあまり働きがなかったので、ジャックは11歳の頃から街で新聞売りや掃除夫などをして家計を助けなければならなかった。15歳の時には缶詰工場に勤め、一日10時間から16時間働いた。彼は後に、初恋の人にあてた手紙に「ぼくには幼年時代も少年時代もなかった。」と書いている。
1893年、アザラシ捕りの船に乗り込んで、小笠原諸島、ベーリング海峡を経て横浜を訪れた。初めて見る大都会に驚き、帰国後、新聞の懸賞募集に応募し、「日本沿岸の台風物語」と題した一文が一等に入選する。そのころ、アメリカは大経済恐慌に見まわれており、企業家は倒産し、失業者があふれていた。ジャックは、飢えをしのぐために過酷な労働をせざるをえなかった。翌年、彼はカナダ、アメリカ放浪の旅に出た。
1895年、彼はオークランドに戻り、ハイスクールに入った。翌年、カリフォルニア大学の入学試験に合格したが、母や義父を養うためわずか一学期で中退する。
1897年、世界的なゴールドラッシュの波に乗って、アラスカのクロンダイク地方へ金を探しに出かけた。一年後、無一文で帰ってきたが、この時の見聞や経験がその著作に活かされることになる。
1899年、最初の小説『北国のオデッセイ』が東部の文芸誌にとりあげられ、翌年には最初の作品集『狼の息子』が出版された。同年、『野性の呼び声』が発表されると、彼は一躍大作家として有名になった。
1900年、彼はベスィー・マダーン(Bessie Maddern)と結婚し、二人の娘が誕生する。一人はジョーン・ロンドン(Joan London)で、のちに彼の伝記『Jack London and His Times』を書いている。1903年にべスィーと離婚し、二年後にチャーミアン・キトレッジ(Charmian Kittredge)と再婚し、カリフォルニアのグレン・エレンという小さな町におちついた。
1904年、新聞記者として、日露戦争の取材をするために日本にやってきたが、戦線への従軍が許されなかったためアメリカに戻った。
1916年、リューマチ、尿毒症にかかり、五ヶ月間ハワイで療養する。医者から禁酒、節食を命ぜられたにもかかわらず、不摂生な生活をあらためなかったため、呼吸困難におちいった。同年11月22日、モルヒネによって自ら命を絶った。



彼は子供のときから生存の恐怖心というものを体験しており、それを次のように語っている。
「僕は病める子供だった。・・・最も恐ろしい幻覚は、僕が人殺しの現場を目撃し、殺人者に追いかけられるという夢であった。僕は叫び、怒鳴り、闘った・・・僕は一種の錯乱状態に陥り、精神病院に監禁されたあげく看護人から殴打され、金切り声を上げる狂人に取り囲まれていると思うのであった。」

ダーウィンの進化論からマルクスの社会主義へと進んだ彼は、人気作家なるが故に集まる富や名声と、自ら信じる社会主義の板ばさみとなった。深い矛盾に苦しんだ彼は、41歳の若さでこの世を去る。短い生涯のあいだに40巻以上の著作をし、その収入は100万ドルを越えたが、放縦な生活のためにわずかなお金にも困ることがあったと言われている。



ジャックの思想と作品について

彼は子供時代から読書が好きで、暇さえあれば図書館に通い読書にふけるようになった。
マルクスやダーウィン、スペンサー、ニーチェなどに強く影響され、しだいにマルクス主義に接近していった。彼は社会主義運動に加わりながら、1900年に最初の短編集『狼の息子』を書き、一躍文名を認められ人気作家となった。
彼の作品は、二つに大別することができる。一つは、社会主義の影響を受けて書いた、アメリカ・プロレタリア文学の先駆をなすものであり、もう一つは、生存本能と野性と暴力が支配する世界を描いた文学である。前者には、資本主義の矛盾を衝くとともに未来の階級闘争を描きだし、資本主義社会の将来を予言してみせた『鉄の踵』、経済問題を中心にとりあげた『月の谷』、自伝的要素の多い『マーティン・イーデン』、ロンドンの貧民街イーストエンドの調査記録『奈落の人びと』などがある。後者としては、犬を主人公にして適者生存の問題をとりあげた『荒野の呼び声』、野性の狼が人間に馴らされていく過程をとらえた『白い牙』のほか、ニヒルな船長を描いた『海の狼』がある。
彼の作品は世界で広く読まれた。社会主義的な作品は、発表当時は批評もきびしかったが、イギリスやヨーロッパでは高く評価され、60年代に入るとアメリカでも高く評価されるようになった。



『白い牙』(White Fang)のあらすじ

四分の一だけ犬の血を引いて北国の荒野に生まれたオオカミ“ホワイト・ファング”  ―――母オオカミとともに荒野で狩りをしながら、強くたくましく育っていく。やがてインディアンに飼われるようになり、立派な橇犬として主人に忠誠を尽くすが、白人に売り渡されてしまう。檻に閉じ込められ、休む暇なく犬たちと闘わされた結果、野性を呼び覚まされた獰猛な闘犬になる。しかし、親切な白人スコットに救われ、橇の先導犬となる。スコットのあたたかさに触れ、ホワイト・ファングはしだいに、主人に対して愛情を持つようになる。


 
『白い牙』について

この作品では、オオカミの習性や特徴、生活の様子などが細かく描写されている。文中によく出てくる「本能」と「おきて」について述べてみよう。「本能」は、動物が潜在的にもっているものであり、太古の昔から引き継がれてきた祖先の記憶である。「おきて」は、動物の世界で生き残っていくこと、つまり弱肉強食の法則である。また、人間に飼われたときに人間を主人とし、従わなければいけない絶対の法則として描かれている。こうした「本能」や「おきて」は、オオカミの心とともに、より深い内面を表現している。筆者は、自ら砂金探しにアラスカへ向かったときに出会ったオオカミたちを観察したのだろう。その表現力はすばらしく、読む者に荒野のオオカミを深く感じさせてくれる。
また、この作品には、人間やオオカミとともに、自然が豊かに描写されている。とりわけ、第一部の荒野の表現は面白い。その一つに、「北国の荒野は、動きを好まない。生命は動きであるから、荒野にとって違反である。」という文章がある。これは、人間や動物、他のあらゆる生命と荒野の対立を表している。荒野は冷酷で残忍なものとして描かれ、すべての生を脅かす。逆に、生は希望であり、光である。
もう一つの例をあげよう。荒野の夜は暗黒であり、恐怖を意味する。しかし、夜が明けて朝がくると、それは希望を意味する。このような対比は、文中でもよく用いられていて、筆者の豊かな表現力がうかがえる。
物語の後半では、それまでの厳しい生存競争は終わり、スコットとの新しい生活が始まる。凶暴だったホワイト・ファングは、主人であるスコットの優しさ、あたたかさに触れ、しだいにスコットに愛情を持つようになる。このホワイト・ファングの心の変化がとても印象深く、感動させられる。
動物は、人間が考えるよりもはるかに純粋であると思う。動物文学において、こうした人間と動物の心の通いは、読む者の心をゆさぶり、生命の尊さを教えてくれる。


以上です!!読んでくださってありがとうございました☆☆

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