彼の人生は波乱に満ちていた。ジョンはあまり働きがなかったので、ジャックは11歳の頃から街で新聞売りや掃除夫などをして家計を助けなければならなかった。15歳の時には缶詰工場に勤め、一日10時間から16時間働いた。彼は後に、初恋の人にあてた手紙に「ぼくには幼年時代も少年時代もなかった。」と書いている。 1893年、アザラシ捕りの船に乗り込んで、小笠原諸島、ベーリング海峡を経て横浜を訪れた。初めて見る大都会に驚き、帰国後、新聞の懸賞募集に応募し、「日本沿岸の台風物語」と題した一文が一等に入選する。そのころ、アメリカは大経済恐慌に見まわれており、企業家は倒産し、失業者があふれていた。ジャックは、飢えをしのぐために過酷な労働をせざるをえなかった。翌年、彼はカナダ、アメリカ放浪の旅に出た。 1895年、彼はオークランドに戻り、ハイスクールに入った。翌年、カリフォルニア大学の入学試験に合格したが、母や義父を養うためわずか一学期で中退する。 1897年、世界的なゴールドラッシュの波に乗って、アラスカのクロンダイク地方へ金を探しに出かけた。一年後、無一文で帰ってきたが、この時の見聞や経験がその著作に活かされることになる。 1899年、最初の小説『北国のオデッセイ』が東部の文芸誌にとりあげられ、翌年には最初の作品集『狼の息子』が出版された。同年、『野性の呼び声』が発表されると、彼は一躍大作家として有名になった。 1900年、彼はベスィー・マダーン(Bessie Maddern)と結婚し、二人の娘が誕生する。一人はジョーン・ロンドン(Joan London)で、のちに彼の伝記『Jack London and His Times』を書いている。1903年にべスィーと離婚し、二年後にチャーミアン・キトレッジ(Charmian Kittredge)と再婚し、カリフォルニアのグレン・エレンという小さな町におちついた。 1904年、新聞記者として、日露戦争の取材をするために日本にやってきたが、戦線への従軍が許されなかったためアメリカに戻った。 1916年、リューマチ、尿毒症にかかり、五ヶ月間ハワイで療養する。医者から禁酒、節食を命ぜられたにもかかわらず、不摂生な生活をあらためなかったため、呼吸困難におちいった。同年11月22日、モルヒネによって自ら命を絶った。