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かわうその茶道ノートブックコミュの野狐禅

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Wikiでよくまとまってましたんで抜粋してきましたメモ



野狐禅(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)は低級な妖狐の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また生禅(なまぜん)ともいう。
「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は「因果に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、五百生の間、野狐身の畜生道に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。



『無門関』第二則に「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」という公案がある。
百丈が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。 ある日老人は退かず一人残ります。百丈は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と声をかけた。
老人は「私は人間ではありません。大昔この山この寺の住職として住んでいた。ある時、一人の修行者が私に質問をした。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えた。その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至った。正しい見解をお示し助けて下さい」と懇願した。
そこで、この老人が百丈に同じ質問を問う。「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのか?」。
百丈は即座に「不昧因果」(因果の法則をくらますことはできない)と答えた。

老人は百丈の言葉によって大悟し、礼拝して去った。その大悟にて野狐の身を脱することができたという。
この問答のあと、百丈は寺の裏山で死んだ狐を亡僧法に依って火葬した。
後代、仏教禅宗では、真実禅の悟りに至らず、禅に似て非なる邪禅のことを「野狐禅(やこぜん)」と言うようになった。
禅語「不落因果 不昧因果」(無門関)

コメント(5)

お手数おかけ致しました。

>後代、仏教禅宗では、真実禅の悟りに至らず、禅に似て非なる邪禅のことを「野狐禅(やこぜん)」と言うようになった。

所詮俗人の小生には、真実禅に成れない。野孤禅で何が悪いのですか?私には上等です。

逆にネット上に真実禅に成れそうな高尚な方がそんなに多いとは信じられない気もしますが、千人や1万人位は居るかもしれませんね。その方々に廻り合う事は期待できるのでしょうか?回り逢えるとラッキーですが。

> 藤の花さん

そうですね。
この野狐禅という考え方は、受ける側ではなく発信する側への戒めととらえるのがいいのでしょうね。

ある一つの禅語について説話や逸話やいきさつを理解したからといって悟ったわけではありません。
ところがその段階であるにもかかわらずまるで自分が悟ったかのように生徒さんや他人に振る舞う教授者が散見されます。

後世のそれを危惧しての言葉なのでしょう。

先達の努力により数多の禅語が現代に伝えられています。
しかし悟りというのは人様に教わるものではなく、自らの心血を注ぎ体験するものです。
高僧の悟りはあくまでも他人のものだということを謙虚に受け止めるべきなのです。


真実禅の方に出会えるかどうかはあまり重要ではなく、
「常に真理は自分の中にある」
と、多くの人に気付いてもらえればいいのですが現代社会はどうにも忙しすぎるようです。

仏性あるいは真我に積もってしまった煩悩やエゴをきちんと自覚して取り除く。
きっと一生仕事なのでしょうが、それを繰り返していくことが肝要なのだと若輩ながら考えています。
かわうそ様
アンタハエエライ

>煩悩やエゴをきちんと自覚して取り除く。

小生など一生掛かっても煩悩やエゴから離れる事は出来ないと諦めています。

少しでも客観視出来れば、と思っていますが。

禅語を理解している輩は多分居ません。 唯 言葉の意味を知識として知って吹聴してるだけと

思いますが、それで今の所不都合は有りません。残念ですが。
> 藤の花さん

>煩悩やエゴ

一つ拭って浮かれている間に二つ三つ溜まるようで難儀しています。

臥薪嘗胆というほどのガッツは到底持ち合わせていないのですが、出来るだけ目を背けずに見つめ続けていこうと思います。

>一つ拭って浮かれている間に二つ三つ溜まるようで難儀しています。

煩悩やエゴ を拭う必要を認めている理由は、それらが善くないと信じているからでしょうね。

平和共存しましょうよ。争いは嫌です。その代わり目を背けず耐えて往くだけ。

我慢との戦いかもしれませんが。

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