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夢想権之助と、その周辺♪コミュの武蔵の天才日記【4】

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さて、このシリーズも四回目になってきました。
何だか最近、夢想コミュなのか武蔵コミュなのか解らなくなって来たな…と自分でも思いつつ、まぁ、「権之助先生と関連の深い人物」という事で…。

今回は「成人後の決闘編」であります。
とはいえ、何と人生の内、60回余りもの試合をして、負ける事が無かった武蔵先生。
まさかそれを全て書く訳にもいきませんし、その全ての資料も無いという事で、特に主だったものをピックアップしたいと思います。


●【吉岡清十郎との戦い】

武蔵は17歳で、関が原の合戦で西軍に加わって破れる。が、
その戦いの折、養父の平尾無二斎からその戦いぶりを認められて勘当を解かれ、再び養子となる。
関ヶ原の後、無二斎と、その主君の美作( みまさか )竹山城主・新免宗貫( むねつら )を伴い、筑前名島城の黒田官兵衛を頼って九州に落ち延びる。
その後、一同を秋月城( 在・福岡県の城 )に留めて立ち去る武蔵に、無二斎が言った。
「わしが負かした京の吉岡憲法のように、名高い兵法者に勝って、武蔵は強いという噂を越前まで届けよ」と。

途中、播磨龍野の円光寺道場で二刀円明流の兵法に開眼。
21歳の頃、京に上ると、今もなお京八流の武術の1宗家を誇る、今出川の吉岡兵法所を尋ねて、決闘を申し込む書を渡した。
吉岡の方は、それに応じて、慶長9 ( 1604 )年の3月初旬、三条大橋に高札を掲げて、京北郊外の蓮台野で、当主・清十郎が応じると告げた。

さて試合当日。約束は辰の刻なのに、武蔵は一刻( 約2時間 )近くも遅刻してやって来た。
怒り苛立つ清十郎。試合開始で、清十郎は真剣・武蔵は木刀で立ち会うが、清十郎は武蔵の正面に立ちたいと動くのに対し、武蔵に、斜に・斜にと身をかわされ、ますます苛立ってくる。
やがて、武蔵に斬りつける清十郎。しかし武蔵は身をかわし、姿勢の傾いた清十郎の右の首根っこに、木刀がのめりこむほど打ち込んだ。
清十郎、気絶。

この試合は、元より互いに「一撃だけ」と約束していたから、その後武蔵は、二撃目を打ち込もうとしたがやめた。

清十郎は、弟子達に戸板に乗せられて兵法所に帰った。
薬を与えられてまもなく回復したが、面子を失った彼は、剣を捨てて、元来の家業の染物業に専念するようになった。

だが、それでも剣士魂はどこかに残っていたらしい。
彼の開発した「吉岡染め」は、蘇芳( すおう )という植物の色素を、
鉄の媒染( ばいせん )で、当時絹よりも高価だった木綿の布に染め付けた灰色の布で、縫う前に錐で穴を開けておかないと、針が通らないほど質が硬いものだった。
その為に、「斬りつけられても剣の刃が通らない」という事で侍たちに好まれ、大ヒット商品になったそうです。


●【吉岡伝七郎との戦い】

兄・清十郎が負かされて「吉岡の看板に泥を塗られた」とばかりに、伝七郎は、武蔵の仮寓する豊国神社の廟守り屋形に、決闘書を送りつけた。
武蔵はそこで、豊国大明神として祀られている秀吉の廟所が荒らされないように、夜守りの役についていたのだ。

決闘場所は、武蔵の生涯を伝える「二天記」では「洛外」だとするが、巷間では、三十三間堂で名高い蓮華王院と伝えられている。
この場所は武蔵の宿所の近所であり、今度は遅刻して相手を苛立たせる手は使えない。

決闘当日。伝七郎は、五尺余りもの長い木刀を携えていた。
武蔵の得物は真剣。
武蔵はまず、自ら打って出る事はせず、敏捷に敵をかわしながら、伝七郎が木刀で大きく振りかぶって来るのを誘った。
長大な得物は、振りかぶるのに、どうしても体のこなしや攻撃の間に、緩みが出てくる。
そこを突こうというわけだ。

やがて、苛立った伝七郎が、木刀で武蔵目掛けて大きく振りかぶって来た。
その瞬間、武蔵は自分の剣を後ろに下げて、素早く伝七郎に肩から体当たりを食らわせて倒し、わが剣を鞘に納めながら伝七郎の右手を足蹴にして木刀を奪い、起き上がろうとする伝七郎の脳天に、力任せに振り下ろした。
伝七郎は、その場で即死した。


●【吉岡又七郎との戦い】
う〜ん…。これは「又七郎との戦い」と言えるのだろうか…???

吉岡当主と、その弟・伝七郎が武蔵に倒されてしまった。
その為に、吉岡の門弟達が、策を講じて武蔵を倒そうと密謀。
結果、清十郎の嫡男で数え年13歳の又七郎の名義で、武蔵に決闘を申し込む事にした。

「恐らく、裏に策謀があるだろう」
こう察した武蔵は、決闘当日の早朝、今度は定刻よりも一刻も早く洛外の一乗寺下り松の決闘場に乗り入れ、枯野に身を潜める。
やがて、百人近くもの吉岡門弟達が、手に様々な武具を持ってやって来た。皆、絶対に武蔵を殺す決意だ。
中には、弓矢を持つ者もいる。万一武蔵が逃げた場合でも、射殺せるようにだろう。

やがて又七郎少年が、数人の介添えと共に決闘所に現れた瞬間、
武蔵は二刀を手に、野を駆け下り、まだ定刻にならぬと怒鳴る介添え人たちを斬り倒し、小刀を持つ左腕に又七郎を抱え込み、叫んだ。
「その方ら、この少年を、わが剣の前に晒すわけではあるまい」と。
「別の決戦相手は居らぬのか ?」と問うている訳だ。

だが、それに対する返事は無く、かわりに、吉岡門弟の一人が放った矢が、武蔵の耳元を掠めた。
「ご一門の卑怯さ、とても許せぬ。覚悟なされい」
武蔵は少年を突き放すと、一刀にて斬り倒した。
それを呼び水に、一斉に切りかかる吉岡門弟達。
それらを、二刀で一定方向に追い斬りつけながら、武蔵は窮地を脱して行った。

この闘いにより、吉岡家は断絶。( 吉岡に子供は又七郎しかいなかったのか?? )
武蔵にとっても、子供を斬り殺した事で、甚だ後味の悪い思いをする闘いになったという…。


続きは又、次回…!!

コメント(4)

吉岡一門…。
当主が「わしゃ、染物屋でええ」と言っておるのだから、
周囲が余計な事さえせねば、一家断絶なんて悲惨な事にはならなかったのになぁ…。

しかし、独りで大所帯をぶっ潰す武蔵の強さって、一体…。

「試合で60人余りを負かした」っての、
まさか、その人数の殆どは、この又七郎との戦いの
門弟達の人数ではないかい…?? なんて、
少し勘ぐってしまうのであった…( 違うか…)
武蔵の行為を見ていると、「養父を乗り越えたい」という思いと、
「養父に認められたい」という思いが同時に存在しているような感じがするなぁ…。

親子とは大体そんなものだろうけれど、
かつて自分を否定した養父に対する思いというものは、
普通の、子供が父親に対する思い以上に、強烈に愛憎アンビバレントだったんでしょうな。。
やれ。


管理人は親切ですから ( ←どこが !!? )
会員の皆様にも、研究レポートご発言の機会をおあたえ致しましょうかな…? ^m^


さぁて、武蔵殿は、上記の他に、誰と対戦を重ねて行ったでしょうか…???

続きは、このスレの下バッド(下向き矢印)にてご発表頂けましたら幸いです ^ ^

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