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こころの豊かさ〜今ここを生きるコミュの<信じる>

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『信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することではない。
 信じるのは物事ではなく、人です。
 その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。』
                      (2009 7/31〇〇新聞小説「親鸞」)

人は生まれて育ち、成長する間に多くの人と出会います。
あなたはその中の何人を今でも信じていますか?


人との関わりに気づくのは小学校の頃でしょうか?
親や兄弟姉妹、そして祖父母でしょう。

もし、彼らを信じられなかったら、人はどんなふうに育つのでしょうか?
信じるという心のシステムが機能不全に陥る可能性が高いのではないでしょうか、危惧します。

上記の連載小説の一節を読んで、こんな不安が胸をよぎっています。

小説の主人公親鸞にとっては、法然上人です。
私が読んだ小説では、
『宮本武蔵』の場合は沢庵和尚やお通さんでした。
『岩窟王』(モンテクリスト伯)の場合はファリア神父。
『竜馬がゆく』の場合はお姉さんや勝海舟。

小説の場合、親であることが少ないようですが、
現実の生活では信じることを教えるのは親の大切な役目です。
社会に出て信じられる人に出会うかどうか、大切な一つのキーポントかもしれません。

幼い頃はウソをつくことができません。ウソという存在すら気づいていません。
自分より年上の人間や友人から学ばせられるのです。

子供はとても敏感です。それは動物的感が大いに残っているからに違いありません。
たとえば大事にしてくれる祖父母や親戚の叔母・叔父の中からでも見抜きます。
先生や名前も知らない近隣の人でも同じです。
大切にされて信じていたにも関わらず、裏切られたりしたら不信感が大きくなります。

私は信じる人が少なければ少ないほど、孤独で不幸な人生を歩むと思えてなりません。
それはある小説の一節とよく似た意味があると思っています。
『嫌いなものが増えるたびに、受け取れるはずの喜びの量が減るのかも知れない』

大切なことは信じられる人を見分ける、そんな相手と出会うことだ思います。
悲しいことはそんな人物と出会っているにも関わらず、気がつかずにいることです。

「人は見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞く」
この愚かな本質を誰もが持っていることを忘れずにいたいものです。



カメラ写真は『厳窟王』のモンテクリスト伯が閉じこめられた
 マルセイユ沖のシャトー・ディフ(イフ城)です。

コメント(21)

↑いいじゃんたらーっ(汗)
好きにトピ立てても

なぜ争おうとするたらーっ(汗)
小さな子供は『ウソがつけない』のではなく、
ただ単に『相手の心が読めない』んですよ。

成長するにつれて相手の心が読めるようになり、
ウソをつきはじめるのです。

ですから、子供がウソをつくようになるのは、
正常にヒトとしての認知機能が発達している証拠ですよ。

そして、子供のウソは自分をよくみせるため、
守るためのものですが、それを土台にして
大人は相手の気持ちをいたわるウソがつけるようになります。

『ウソつきは、優しさのはじまり。』
私はこう思っています。
心を豊かにしたい、と私も思っています。
言葉や文章で何度も心が癒され、気丈夫になってきました。
とても印象に残っている文章を紹介します。
朝日新聞(4/9)の<私の視点×4>に萱野稔人氏(津田塾大準教授)の記述にこのような文章がありました。

『あらゆる人間関係において、自分の価値を認めてもらうためには高度なコミュニケーション能力を必要とされる。書店に行けばコミュニケーション能力を高めるための自己啓発本があり余るほどでているし、わざわざそのための学校に通う人いるほどだ。しかしコミュニケーション能力が、人々の価値を決める独占的な尺度になることは、はたして健全なのだろうか。事実、コミュニケーションべたで自己アピールにそれほど長けていなくても、能力のある人はいっぱいいる。もちろんコミュニケーション能力も人間の能力の一つである。だからそれが評価基準の一つになることはいい。とはいえ、コミュニケーション能力をめぐる過当な競争は、人間関係にひずみをももたらすだろう。… 引きこもりは一度他者とのコミュニケーションにつまずくと、なかなか新たなコミュニケーションに踏み出せなくなってしまうことから生まれる。それにつまずいてしまった人にとても社会は冷淡だ。
また、いじめは子供のコミュニケーション能力の欠如から起きているのではなく、逆に、みんなが空気を読みすぎことで生じるストレスのはけ口を特定の人間に向けることで起きている。』

萱野稔人氏はこう続けています。
『空気を壊してしてはならないという圧力は、人びとにコミュニケーション能力をさらに要求するだろう。しかし、それが進めば、社会のなかで同調圧力が強まり、社会そのものが萎縮してしまうだけである。』
「ウソつきは、優しさのはじまり」
現在2歳の息子がいますが、私も共感できます。


「信じられる人を見分ける」
必要なこととは思いますが、なんだかそんな考え方が悲しいと思った私はお気楽なのでしょうか。

私は
言葉で嘘をつく人はたくさん見てきましたが、行動で嘘をつく人には会ったことがありません。


相手の行動、態度が真実です。それが私の信じる、『人への評価基準』。

自分が信じる尺度があれば、相手が自分にとって信頼出来る相手かどうか、きっと分かりますわーい(嬉しい顔)
尺度は、人それぞれ。
だから、同じ対象でも、自分の持つ尺度によって、対象への評価は異なると思います。

それで良いんじゃないかなわーい(嬉しい顔)要は、自分の目を自分がどれだけ信頼しているかぴかぴか(新しい)

私は私の目を信じています、だから自分の選んだ家族を世界で一番、無条件に信頼してますハートわーい(嬉しい顔)

親は自分で選ばなかったので、信じる理由は違いますが…。多分親へのそれは、本能からかなわーい(嬉しい顔)
今…
お付き合いしてる人がいます…。
が…傷付くのが怖くて愛してるのに…信じたいのに…信じたくない。
飛び込めない自分がとても歯がゆく愚かだとつくづく思います。
 
『信じる』
 
と言うコトの難しさ…
 
痛感しています…。
 
 
今のNanaはカラッポです。
「想いの重さ」を
プレッシャーと受け取る人
励みにする人
煩わしさと取る人
一人ではない、孤独ではないと取る人

必死で働く親を見て自分も幼い兄弟を助けたいと思う高校生
こんな家族から抜け出し、自由にやりたいたいと思う高校生
勉強しろとやかましく云う両親をいい加減にして欲しいと思う高校生
心のどこかでそんな両親をありがたく思う自分がいると感じる高校生

クラブの先輩にうるさく指導されるのがいやで辞めちゃう人
反対にかまってもらってうれしく思う人

「落ち葉は風を惜しむ」と思う人
反対に惜しまないと思う人

分かっていながら
「賽銭箱に100円玉入れて、お釣りがでる人生の方がいい」と思う人

他人が思う自分を気にもとめず我が道をゆく人
他人の言葉に影響をされすぎる人

自分が他人より優れていると思ったら他人は理解できないと思う人
様々な人生が自分の周囲に存在していること感じる人
他人の人生など考えたことはない人

「他力」を肯定して生きている人
「他力」否定して生きている人

「真剣」と「深刻」の違いが分からない人

「さまざまな人が周囲に存在している」
このことは受け止めておくべきだと思います。

そして「想いには重さはない。あるのは暖かさだけだ」と私は思っています。

                              (続く)
誰かを信じ、誰かを想うことで心の暖炉に火がともるように思います。
その暖かさは周囲まで暖めるのではないか、そんなふうに思いたい。

しかし、闇雲に信じたり想うわけではありません。
その人の言葉や行動、態度は隠しきれないものがあります。

氷山の一角をみて全体を計るのは難しいことですが、
一対一でのコミュニケーションではなく、
人目を気にしていない何気ない言動の中に、
集団行動での目立たない言動に中に、
人の本質が表れるような気がしています。

私の<信じる>一つの判断基準は
「誰に対しても、どんな人に対しても同じ応対ができる人」です。

(友人には笑顔で、知らない人にはぶっちょう面、
 上司にはぺこぺこ、部下には偉そうに振る舞う人、
 ウェイターやウェートレスにお客様ぶる人は好きではありません)

一対一で判断するのは最も危険です。
逢った瞬間(一目惚れ)恋に落ちるなど危険極まりないと思っています。 


誰かを信じて裏切られることを恐れて恋できない人がいる。
きっと過去の経験や知識ががそうさせるに違いありません。

「人が人を騙す」

残念ながらあらゆる人間関係で存在します。
詐欺犯罪がその最たるもです。
振り込め詐欺がいまだに横行しています。本当に悲しい現実です。
この現実の社会に二通りの人がいます。
「愛すべき心暖かき人」と「人の心を弄んで金や喜びを得る人」です。

もう少し分析(言い換える)すると
「共感できる人」と「共感できない人」
「他力を信じる人」と「他力を信じられない人」

このような人々と私たちは一体となって生活していることを
自然体で受け入れることが大切なような気がします。

人を信じられないでビクビク時を過ごすのではなく、
<信じる>ことは人の心を暖かくし、
勇気まで与えてくれる価値あることなんだと知るべきだと思います。

酸素や塩も与えすぎれば害となるように
<信じる>も過ぎてはよくはありません。

そのために私は<信じる>基準を心の中に構築して行くべきだと考えています。

喩えがあまりよくありませんが、
ゲームのオセロはルールが簡単で幼い子供達にもすぐプレーできますが、
囲碁や将棋や麻雀はすぐにはできません。
どちらが深くて人生をも感じるゲームなのか、答えは明白です。

一度きりの人生ゲームではゴールが幸せです。
そのルールの基本は<信じる>ことだと思います。
他にも法律や社会規範、昔からの習慣・伝統、親の教えというルールも存在します。
決して後戻りできませんが、プレータイムが約80年という長期間のゲームです。
だから裏切られたり、ミスの連続でも、2,3年ロスなど実はどうってことないんです。
「もう誰も信じない」では決してゴールにはたどり着けません。
だったら<信力>(私の造語)を磨き、人生ゲーム、
いや現実の人生に挑む方が前向きではないでしょうか。

人は人を騙したり、裏切ったり、脅したり、腐敗したり、
そして、許したり、愛したり、励ましたり、信じたりできる生き物です。
そしてそれらは太古の昔から人間の原動力となってきたのです。

私たちは善人でもなければ悪人でもない、その間の何処かにいる生き物。
そしてこれが人間の本質であると思っています。
善人であり続けることも、悪人であり続けることも、実は人は出来ないように思えてなりません。

だからこそ、原動力の一つ<信じる>(信力)を磨くことによって
騙したり、裏切ったり、脅したり、腐敗したりしないでいたいと強く想っています。
信じる力が自らの羅針盤となると信じています。
親の育て方次第では、幼稚園くらいからずるがしこいことする子居ますよふらふら
そういう子は、周りの大人がちゃんと注意して教えてあげさえすれば、まだまだ直りますけどね・・・・わーい(嬉しい顔)

とりあえず、人によって嫌な思いを経験すると、人を信じられなくなるのはよくわかりますふらふら
にゃんてふさんの『ウソつきは、優しさのはじまり。』
って言葉にビックリぴかぴか(新しい)
そういう考え方もあったのですね〜
ウソをつくようになってきた子供を持つ身としては、ありがたい言葉でした!
ありがとうございますっ♪

人を信じる

人類皆兄弟と思いがちなわたしには、難しいことではないけど
まわりからは「もっとよく人を見なきゃいけないよ」と言われることがあります。
確かに傷つく時もあります。
でも、人を信じることやめることはできないし
そんな事もあるんだ と勉強になりました!
いろんな経験ってホント大事ですよね
それも“こころを豊かにする”材料だと思います。
ノッチ様

私の語りを肯定的に捉えていただいてありがとうございます。

人は鏡や水面やステンレスのような美しい面、カメラがなければ
自分の姿を見いだせません。
鏡や写真を見て自分の顔や姿ではないような錯覚にとらわれたことはございませんか?
自分の声も似たところがあります。
周囲が自分をどのように見ているか、実はほとんど分かりません。
先日仕事場で血液型の話になり私は周囲からA型を思われいたようです。(実はB型)

山登りにはまってしまうノッチさんを自分で想像できなかったことと
似通っているかもしれませんね。

「人は見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞く」
これはジュリアス・シーザーの言葉ですが、
偉大なことを成した人の言葉には人の本質が含まれています。

この言葉の意味を知り、多くの人が犯す間違いを犯さないように
いつまでも謙虚に、
ノッチさんがおっしゃる「相手は自分を映すぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)」を
忘れずにいたいものですね。

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