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天然記念物コミュの将門山大明神のマテバシイ

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 千葉県佐倉市大佐倉1929ー1

 1972年11月06日、佐倉市が天然記念物に指定。

 被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科 Lithocarpus edulis

https://www.google.com/maps/place/%E5%B0%86%E9%96%80%E5%8F%A3%E3%83%8E%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@35.726753,140.2489136,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x60228f6569ddd0a9:0x969abca0145f01f4!8m2!3d35.7267573!4d140.2511023

 将門山大明神は、正しくは将門口ノ宮(マサカドクチノミヤ)神社と呼ばれ、譽田別命(ホムダワケノミコト;応神天皇)を祭る大佐倉八幡神社〔村社〕の境外摂社です。
 当地は鎮守府将軍平良将(タイラノヨシマサ)の本拠地の一つだったとされ、その子将門の誕生地だとの伝承があります。その後、将門の弟将平の執事を務めた佐倉太郎の本拠となったとも伝えられています。戦国時代になって千葉氏が隣接地に本佐倉城を築いた際、同族の将門を祭る将門神社も創建される事となり、当地は将門山と呼ばれる事になります。多分、本佐倉城主千葉勝胤が明応3(1494)年に衰微していた大佐倉八幡神社を再建したのと同時だったんでしょうね。
 江戸時代になると、承応3(1654)年に佐倉藩主堀田正信の家臣植松雪斎が近接地に別の将門神社を新設しましたが、堀田正信は万治3(1660)年に「狂気の作法」を理由として改易除封されてしまいました。
 なお、承応2(1653)年には公津(コウヅ)村の佐倉惣五郎が「農民の窮状を将軍家綱に直訴して、佐倉藩主を呪いながら処刑された」の事件があったとされ、佐倉藩の領民は堀田氏改易は惣五郎の祟りだと考えて、将門神社旧社に惣五郎を合祀しました。享保年間(1716〜36)に佐倉藩主松平乗邑(マツダイラノリムラ)が将門神社新社を廃祠にして、旧社の中の宮を修復しています。
 その後、堀田正信の弟の子孫である堀田正亮(マサスケ)が佐倉藩主となると、佐倉惣五郎の百回忌の年に当たる宝暦2(1752)年に将門神社に合祀されていた佐倉惣五郎を分祀して「口の明神」(口之宮神社)を創建し、「涼風道閑居士」の法号を諡(オクリナ)して、以後春秋に盛大な祭典を行う事としました。将門神社・口之宮神社は本佐倉城二の丸跡の妙見社と合わせて「将門三社」と呼ばれる事となります。
 明治時代になると大佐倉八幡神社の境外摂社扱いとなりますが、大正8(1919)年に将門神社・口之宮神社共に社殿が焼失してしまったため、平成13(2001)年に将門口ノ宮神社として統合再建されました。
 馬刀葉椎(マテバシイ)は、房総半島南端・紀伊半島・四国・九州・南西諸島の温暖な沿岸地に自生しますが、人工的に内陸部にも植樹されています。
 この個体は、宝暦4(1754)年に佐倉藩主堀田正亮が口ノ宮明神を建立した時に植えられたと伝えられています。

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