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天然記念物コミュの日本在来馬野間馬

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 愛媛県今治市

 1988年04月06日、今治市が天然記念物に指定。

 脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱奇蹄目ウマ科 Equus caballus

 野間馬は伊予国野間郡野間村で飼育されて来た日本在来種の馬で、体高は110〜120cmと小型です。四肢は短節で細いですが、関節は骨太で蹄は緻密であり、体格に対して頭部が大きく、前髪・鬣(タテガミ)が長いのが特徴です。
 江戸時代には芦毛(アシゲ;白毛)が流行しましたが、現在では栗毛・鹿毛が中心です。
 日本列島には元々馬は存在せず、古墳時代中期の4世紀末から5世紀に朝鮮半島から持ち込まれたとするのが定説です。本来の日本馬は体高130cm程度の小型馬でしたが、平安時代後期以後は騎馬戦闘が増加したため、畿内を中心に140cm以上の中型軍馬が一般化しました。しかし、越智駒(オチゴマ)・土佐駒(トサゴマ)等の四国の馬は小型の物が多く、天正13(1585)年の内大臣羽柴秀吉の四国攻めの際、土佐駒に乗った長宗我部軍騎兵に接した秀吉軍将兵は「土佐の田舎侍は犬に乗っている」と嘲笑したと伝えられます。
 ところが、江戸時代に入ると日本馬は全国的に小型化して行き、体高120〜130cm程度が基本になってしまいます。騎馬戦闘の機会が無くなって農耕利用が基本となると、短足馬の方が力仕事に向いていたのでしょうね。
 さて、江戸時代の伊予国では、寛永12(1635)年に今治藩主久松松平定房が兄の松山藩藩主久松松平定行の指示で来島海峡にある小島(オシマ)に軍馬を放牧しました。松山・今治両藩は西国の外様大名が蹶起した際に邀撃(ヨウゲキ)する事を任務としていましたから、通常よりも多くの軍馬を必要としていたのです。馬島の事業は疾病発生と飼料不足で失敗に終わりますが、その後、今治藩は野間村一帯の農家に繁殖を委託、体高4尺(約121cm)を定尺とし、この定尺より大きい馬は藩公から飼育費のほかに報奨金が与えられて増産を進められました。一方、定尺より小さい馬は飼育費を払わない代わりに農家に無償で払い下げられました。
 この結果、以後、農家では馬の無償獲得を狙って定尺以下同士の交配ばかりを行わようになり、日本最小の在来馬「野間馬」が誕生したのです。この小型馬は「ノマゴマ」とか「ノマゴ」とも呼ばれました。
 野間馬は頑健で粗食に耐え、蹄鉄(テイテツ)が無くても70kg程度の重い荷物を乗せる事が出来るため、重宝されて増殖が盛んに進められ、江戸時代後期には約300頭が農耕や荷物運搬に用いられていました。
 しかし、明治時代に政府が西洋列強に対抗可能な大型軍馬育成のため小型馬の生産・育成を禁止した結果、野間馬は激減してしまいます。
 さらに大東亜戦争(1941〜45)後には農業の機械化が行われた事で需要が無くなり、昭和30(1955)年頃には絶滅寸前に陥ってしまったのです。
 そこで、上浮穴(カミウケナ)郡面河(オモゴ)村出身で宗教誌を発行していた株式会社松菊堂社長の長岡悟(1929〜2003)が、日本の伝統死守のため、昭和34(1959)年に愛媛県内各地を巡って残存していた野田馬を掻き集め、十数年掛かりで繁殖に成功、昭和53(1978)年に牡1頭・牝3頭を今治市に寄贈したのです。
 これを契機として野間馬保存会が結成されて増産が進められ、昭和60(1985)年に八番目の日本在来馬として認定されました。現在は約80頭が飼育されています。野間馬は温和で賢い性格のため、小学校のクラブ活動や動物療法にも利用されています。
 なお、平成30(2018)年4月に今治市で開学した加計(カケ)学園の岡山理科大学獣医学部の学生実習は野間馬ハイランドで行う事になっています。

コメント(3)

 3月29日木曜日に野間馬ハイランドを訪れました。

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