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若松バプテスト教会コミュの列王紀上

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●わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。(1:29)

主イエスは「あすのことを思いわずらうな」と言われた。もし、私たちが本当にあすのことを思いわずらうことがなくなったら、私たちの人生はどんなに楽しいことであろう。しかし、私たちはどうしてもあすのこと、いや、あすぐらいではない、来年のこと、十年先のこと、二十年先のことを思いわずらうのである。それを神にゆだねることができないのである。きょうの神はあすの神であることを信じられないのである。そのゆえに思いわずらい、あすのためにきょうを暗く生きてしまうのである。少年ダビデをししやくまから守られた神は、青年ダビデをサウル王から守り、ペリシテ人から守り、今また老いたる彼を強く立たせてくださったのである。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」と聖書は証言している。この神を信じ、きょうを精いっぱい神に向かって生き抜こうではないか。(一日一章)


●神はその子ソロモンに命じて言った・・・・(2:1)

信仰が親から子に、子から孫にと伝えられていくことは願わしいことである。その信仰のすばらしさを知り、また人間の救いについて目を開かれた者にとっては、何よりもこのことは望ましい事柄である。私たちはこの望ましい事柄が実現するために大いなる神の助けを願い求めなければならない。そして、それと共にはっきりした信仰への態度を持ち、子供たちに対して確信を持ってすすめをしなければならない。私たちは神のゆえに、信仰に関するかぎり「命ずる」ことができるだけの権威を持ちたいものである。(一日一章)

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●そこで彼はエルサレムへ行き、主の契約の箱の前に立って燔祭と酬恩祭をささげ・・・(3:15)

たとい一千の小羊がささげられても、小羊の血で私たちの罪があがなわれることはできない。旧約の時代の限界はここにある。ただ神の子、イエス・キリストのご宝血のみが、私の罪のあがないとして神のみ前に力を持つのである。ここに私たちイエス・キリストにある者のさいわいがある。

聖書の中には夢の中に神のみ告げを聞くということがよく出てくる。あるいは彼らが夢を聖旨のあらわれるところと考えたのかもしれない。しかし、このことはまた、神のみ告げというものは常に現実性を持たないことを示しているとも解される。確かに神の言葉は、私たちの現実に照らして考える場合、あまりにも現実離れしていることが多い。このときのソロモンの場合もきっとそうであったにちがいない。しかし、ソロモンは夢のような神の約束を聞いて、エルサレムで燔祭と酬恩祭を神にささげたのである。酬恩祭とは感謝祭のことである。彼は夢物語のような神の言葉を聞いたとき、それを何よりも確かなこととして受け入れ、感謝したのである。(一日一章)


●諸国の人々はソロモンの知恵を聞くためにきた。(4:34)

私たちにとって大切なことは、どうして人を集めるかということではなくて、どうして私たちが神の知恵を、またみ霊を受けるかということであることを知らされる。教会がおちいりやすい点は、自らが充分に満たされることを充分にせずして、ただ人々を集めようとやっきになることである。今日の伝道の不振の原因はここにあるのではなかろうか。

ソロモンのもとに諸国の人々が集まった。彼らはソロモンが神から授けられたものを聞こうとしてやってきたのである。大事なことは、私が神から何を与えられて生きているかということである。神が共にいましたもうとき、昔も今も人々は目をみはり、われわれを通して神をあがめるにいたるのである。(一日一章)
●ソロモン王はイスラエルの全土から強制的に労働者を徴募した。(5:13)

ソロモンは神殿を建てるために外国の援助を求め、人々を強制的に徴募して事にあたった。モーセはイスラエルの人々の信仰の良心に訴えて、彼らのささげ物でその幕屋を建てた。おそらくこのときのモーセの幕屋はソロモンのあの豪壮な神殿にはくらぶべくもないほど貧弱なものであったにちがいない。しかし、モーセの幕屋は民の信仰から出たものであり、ソロモンの神殿は王の強制によるものであった。神の家の建築に対するこの二つの違いは重大である。

たといどんなに大きな家を建てても、その中に神を入れることはできない。ソロモンが神殿献堂のときに「しかし、神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。みよ、天も、いと高き天もあなたを入れることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と祈っているとおりである。大事なことは私たちが神のために何を建てるかということではなく、何をささげるかということである。そこに私たちのなすべき霊的な礼拝があるのである。神の宮として選ばれた私たちの生き方もまた同様である。(一日一章)


●宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造った。(6:7)

私たちはときどき自分の持たざることに不足を感じ、奪われしことに望みを失うことがある。確かに他に比して持たざることは不幸であり、奪われしことは悲しみである。しかし、すべてを支配したもう神を信じる者にとって、与えられざることも、失うこともすべて神のみこころのうちにあるのであって、石工なる神が、尊き神の宮の一部として用いんがために、切り整えたもう業なのである。そのゆえに、今苦しみの中にある友よ、喜ぼうではないか。愛する者を奪われし友よ、感謝しようではないか。神はあなたを尊き神の宮に用いんがために切り整えたもうたのである。神は今も万事を益としてくださるかたなのである。(一日一章)
●ソロモンはまた彼がめとったパロの娘のために家を建てた。(7:8)

彼は決して不信仰な人物ではなかった。天下を取って何よりも先に神の宮の建立に着手したことが、そのことを物語っている。しかし、所詮彼は自分以上には神を愛さなかった人であった。それがいみじくも神の宮に七年、自らの宮殿に十三年を要したという事柄にあらわれている。彼はまた決して神に対する敬虔を欠く人間ではなかった。しかし、彼は神と共にエジプトの王女をも愛する人であった。これが彼の人柄であり、そこにすでに神の祝福から落ちようとしている彼の姿を見ることができる。

主イエスを「主」と呼ぶことはやさしい。しかし、具体的な生活の中で、主イエスを主として生きることは決してやさしいことではない。主はきょうも、さいせん箱のかたわらに座して、私たちの投げ入れる様子を見ておられる。ソロモンは純金の燭台を神にささげたと記されている。私たちも神に愛されている者として神を愛する者であるならば、純粋な心を持って私たちの信仰をささげゆく者となろうではないか。神は私たちの不信仰に対して寛容でありたもう。しかし、神は私たちの不信仰を喜ばれる方ではない。(一日一章)


●あなたが口をもって約束されたことを、手を持ってなし遂げられた・・・(8:24)

神はダビデに神の名をおくべき神殿を建てることについて約束された。それが今、ダビデの子であるソロモンによってなしとげられたのである。現実に神殿を建てたのはソロモンであった。しかし、彼は「神よ、わたしが神殿を建てることができました」とは祈らなかった。彼は神殿建立のために精一杯の努力をした。しかし、彼がその事業の完成を見たとき、それが神の約束の成就であるとして感謝せずにはおられなかったのである。このことは、彼がこの事業を進めていくにあたって、それが神の約束であると確信してその業にたずさわってきたからである。

私たちの神は約束の神である。従って、私たちの信仰はその約束を信じて生きることである。(一日一章)
●しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず・・・(9:6)

神の前に大切なことは荘厳な宮を建てることでもなければ、栄華を極めた宮殿を建てることでもなく、神のみ前に正しく歩むことであった。これを怠るとき、かれがなしたる業績がいかに人々の驚嘆するほどのものであろうとも、主はそれを弊履のごとく捨て去ると言われるのである。ソロモンはこの点においた誤りを犯したゆえに、彼の王朝は長くは続かず、彼のあと、南北両朝に分裂し、彼の建てた神殿は、主が語られたごとく、後に外敵の手によって破壊され、荒塚となった。この誤りはソロモンだけでなく、人間がしばしば陥る誤りである。人は目に見える神殿の建築には熱心であるが、見えざる神殿の館地区に対してはその情熱を失いがちである。そとなる教会の形成には全力を傾注するのに、内なる教会の形成に対しては怠慢になりやすい。そのゆえに生命なき外形だけの宗教となってしまうのである。

大事なのは神のみ前にいかに歩んでいるかということである。たとい私の今がどんなに豪勢であろうとも、神の目にどのようにうつっているかが問題なのである。・・・人の目に見えるエルサレムではなく、主のみ前に描かれているエルサレムが問題なのである。「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」。常に主のみ前に自らを顧みつつ、主の救いにあずかる者として正しく歩み続けようではないか。(一日一章)


●このようにソロモン王は富も知恵も、地のすべての王にまさっていた。(10:23)

世界一の知恵も、世界無比の富者も、所詮、空の空、一切が空であることは、私たちにとって驚きである。そこには何かがある、と望みを持って生きている私たちにとって、この言葉は単なる警句以上のものである。

世の名には富を得てそれにおぼれる人が多い。知を得てそれに害される人も多い。ソロモンもまたそのような人であった。やがて、彼の得た富は彼をして神の前における謙遜を失わしめ、彼は神のおきてから離れていった。彼は知恵を得ることにはさとくあったが、それを管理することに怠惰であった。人間にとって大切なことは、得ることではなく用いることであり、持つことではなく、管理することである。

どんなに多くのものを持っても、それだけでは、所詮むなしいものであることを実証したソロモンの人生は、物質文明の今日の私たちに大きな教訓を与えてくれ、あのパウロの力強い証は、一見豊かさの中にあるような私たちに真実な生き方を教えてくれる。持つことをうらやむ前に用いる知恵のあるかなしかを自己検討することこそ大切である。(一日一章)
●ソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。(11:9)

この世に生きているわれわれはこの世から出ることはできない。またこの世から逃避したのでは意味がない。肉を持つわれわれは肉の欲から離れることはできない。肉はいつも生きていて、われわれの思いを惑わそうとする。そういうわれわれが純一にただ神のみを愛するということができるのだろうか。全き神への生活などあり得るのであろうか。ソロモンを笑う前に自分を顧みるとき、だれ一人、自分は彼のようではないなどと言い切れる者はいないのではなかろうか。

パウロは「自分のからだをうちたたいて服従させる」と語っているが、この肉への挑戦、この世に対する訣別、こうした戦いなしに人は自分に失望することはない。私たちにとって問題なのは、この戦いを持たぬということである。神を愛し、その掟を知りながらも女を愛することから離れられない自分と戦わなかったところに、ソロモンの悲劇の始まりがある。主の怒りにふれながら、神を呼ぶことのできなかったところに神の祝福から落ちていった彼のみじめさがある。私たちは、もっと神のきびしさの前における自分の弱さに気づかねばならぬ。そのとき、私たちははじめて主を呼ぶ者となり、主の救いにあずかる喜びに生かされるのである。(一日一章)


●もしあなたが、きょう、この民のしもべとなって彼らに使え、彼らに答えるとき、ねんごろに語られるならば・・・(12:7)

主イエスは「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う人はすべての人のしもべとならねばならない」と言われた。人のしもべとなることはむつかしい。人に使えていくことは容易なことではない。しかし、それが王なる者の道であり、指導者として立てられた者のとるべき生き方であると主は教えられたのである。権力にとどまり、権力をもって民を支配しようとしたレハベアムはその民を失ってしまった。「これは主が仕向けられた事であった」と聖書は証言している。レハベアムの誤りはわれわれにも大きな警句である。(一日一章)
●だれでも好む者は、それを立てて高き所の祭司とした。(13:33)

世界の歴史を見るとき、国家権力が宗教に介入した事例は多い。戦時中の日本の状態もその一つである。仏教もキリスト教も国家権力のもとに統制され、その御用機関になりさがってしまったことはまだまだ記憶に新たなるところである。かかる事態にあっては、もはや宗教はその存在の意義を失ってしまう。権力者からまったく自由な立場にあってこそ、はじめて宗教はその真実を語り伝えることができるのである。

真理のために強く生きていくことこそ宗教の使命である。ペテロは「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である」と述べている。われわれは人に捨てられることを恐れてはならない。真理からはずれ、神に捨てられることをこそ恐れるべきである。真理をはばむ国は滅び、神の声を聞き得ぬ民はみじめである。預言者として今日に召された使命の重大さを思う。(一日一章)


●なぜ、他人を装うのですか。(14:6)

正直に自分の姿をさらけ出すところから、神との真実な交わりが始まるのである。アヒヤに自らをごまかそうとしたヤラベアムのたくらみが愚かであったように、神の前に自らを隠している間、われわれは神の真実にあずかることはできない。

信者の中にやれ社会が、世界がと外側のことに心を奪われて、自分のことを置き忘れてしまう人がある。一人の隣人を愛しえない自分が問題にならないで、世界の悪、社会の罪をことあげしても、所詮犬の遠吠えである。主は言われた、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と。大事なことは、いつも本当の自分の姿をもって神の前に出ることであり、そこから和解の使者として生きる力が与えられるのである。「なぜ、他人を装うのですか」、この偽装を脱ぐことから信仰は始る。(一日一章)
●アサはその父ダビデがしたように主の目にかなう事をし・・・(15:11)

これらのことは、人間の一生にとって、神に対してどのように生きたかは究極の問題であることを示している。

聖書はもっと根本的なこと、神に対していかに生きたかということこそ、人にとって問わるべきことであることを教えている。イスラエルやユダの王の中にも聡明な人、有能な人、政治に秀でた人、いろいろな人がいたにちがいない。そして彼らもそれぞれにその賜物を用いて、賢く生きたことであろう。他国の王と比べられて、その非凡さをその非凡さを称賛された人もあったであろう。国が富み、豊かな生活が実現して余裕のある日々を送った人もあったであろう。しかし、聖書はそのようなことには一瞥もせず、ただその人が神に対していかに生きたかに注目するのである。ここに聖書の態度があり、神のまなざしがある。私たちも、世間の動きに埋没されてはならない。「身を起して頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」(ルカ21:28)と主は言われている。(一日一章)


●ネパテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし・・・・(16:31)

ヤラベアムについて預言者アヒヤは次のように語っている。・・・この予言によると、ヤラベアムの罪とは、神の選びにこたえなかったことと、自分のために神々を造った、いわゆる偶像礼拝の二つであったことを知ることができる。

彼の罪の第一はこの神の恩恵に対してこたえなかったことであった。ひるがえって私たち自身のことを考えるとき、私たちは多くの人たちの中から選ばれて、神の愛を知らされ、神を信じる者とせられたのである。今われわれがこの信仰を持ち得ているのは、私たち自身自よるのではなく、神の選びによるのである。私たちはこのことを確信し、そのゆえにこの神の恵みにこたえて、多くの人々に対して主を証ししていく責任を与えられているのであるが、はたしてわれわれはその責務を充分に遂行しているであろうか。

ヤラベアムの罪の第二は彼の信仰が神のための信仰ではなく、自分のために神を信じる信仰であったことである。彼は常に自分を主とし、神をさえその手段と考えたのである。いわゆる自己中心的信仰であり、これが偶像礼拝である。

アハブはこのような罪を「軽い事」と考えていた。そこにアハブの大きな問題があった。彼もヤラベアムも宗教生活に熱心でなかったわけではない。しかし、真実な神は単に熱心さを求めたもうかたではない。その質を問いたもうかたなのである。(一日一章)
●わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう。(17:4)

何を食って生きていくのか、人が神の言葉に従って生きようとするときだれでもが感じる不安がこれである。そして、食うことのために、生きることのために、多くの人は神の言葉に従うことに躊躇逡巡するのである。おそらくエリヤもどうようであったのであろう。一体だれがこんな約束を信頼して出かけていくだろうか。しかし、エリヤはたよりないからすのゆえにではなく、約束したもう神のゆえに言葉に従ったのである。そのとき、彼は現実にからすを用いて自分をやしないたもう主に出会うことができたのである。

今日、私たちが聖書を読むとき、それをまともに読もうと思えば思うほど、その非現実性に戸惑いを感じる。たとえば、「まず神の国とその義を求めよ」という言葉にしても、だれが一体この世に生きておりながらなんの抵抗もなくこのお言葉のとおりに生きることができようか。たとい「そうすればあなたがたに必要なものは添えて与えられるであろう」と言われても、なかなか信仰のことが第一とはなりにくいものである。しかし、そういう私たちが見落としていることは「神が」この約束を与えておられるということではなかろうか。たといそれがどんな薄弱なものであろうとも、それを用いたもう者が神であるとき、それは何よりも確かなものなのである。(一日一章)


●七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起こっています」(18:44)

神が祈りにこたえられてから、現実に動き出されるまでに七度の見張りを要したということは、祈りについての大きな教訓である。私たちは祈れば直ちにそれが聞かれ、その恵みにあずかることができると思いやすい。しかし祈りが現実に聞かれるためには、七度、すなわち、神のよしとしたもう時が必要なのである。信じて待ち続けるところに私たちの祈りがあるのである。この待つ間に、神は私たちの野心や、自己中心の思いを取り除いて、神のみ旨にかなうものに変えてくださるのである。「小さな雲が起こって」という言葉の中にも、祈りの中に何か不思議なことを期待しやすい私たちへの戒めが秘められているように思う。(一日一章)
●あなたはここで何をしているのか。(19:13)

殺されることを恐れ、逃げ惑うエリヤに向かって、今あなたのなすべきことはそのようなことか、と主は迫られたのである。この語りかけは神に召された者にとって、何が一番大切なことかを示しているように思われる。

聖書を、語るためのもの、学ぶためのものとしてはならない。それは聖書の非聖書化である。それではどんな聖書を深く研究しても、所詮聖書読みの聖書知らずである。聖書のすばらしさは、神が共に働いてその確かなことをお示しになるところにある。エリヤに臨まれた神は今私たちにも臨んでおられるのである。その事実は、エリヤが神のみ言葉に立ち上がったように、私たちが神のみ言葉に従って立ち上がるときに明らかとなる。(一日一章)


●「武具を帯びる者は、それを脱ぐ者のように誇ってはならない」(20:11)

キリスト教信仰を持つことはやさしい。しかし、キリスト教信仰に生きることは決してやさしいことではない。そして、私たちがキリストを信じるのは、その信仰を持つことではなく、その信仰に生きることである。

私たちはキリストの十字架によって罪ゆるされる、キリストの復活によって新しいいのちに生かされる、というおとずれを聞いただけで、その恵みにあずかったと思ってはならない。あの種播きのたとえのように、聞いて受け入れる者だけが、三十倍、六十倍、百倍の実をみのることができるのである。戦いなしに勝利なし、ということは私たちの信仰の世界においても真実である。その戦いを忘れたり軽視したりするとき、信仰が単なる「たてまえ」だけのものになってしまう。信仰は「たてまえ」ではなく「力」である。その力にあずかるためには、自分の弱さやこの世の力と戦わなければならない。(一日一章)
●わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることは断じていたしません。(21:3)

ナポテが王の申し出を拒絶したのは、自分の利害や都合からではなかった。「地は永代に売ってはならない。地はわたしのものだからである」(レビ25:23)とのおきてがあったからである。彼はこのおきてのゆえに、王の申し出をも拒絶し、自分の命までも失ってしまったのである。まことにナポテの生涯は悲劇の生涯であったと言えよう。もし彼があのとき、王の申し出を受け入れ、その地を王に提供していたら、彼の生涯は平穏無事であったにちがいない。否、あるいは彼はその功績のゆえに王に重く用いられたかもしれない。だが、一体、そのように生きたからといってどれだけの意味があるのだろうか。

人間にとって大切なことは長く生きることではない。いかに生きるかということである。主イエスはわずか三十三歳で殺された。しかし、彼の生涯は二千年後の今日も多くの人々の中に生きている。これが本当の人生ではないだろうか。苦労はだれもがいとうところ、迫害や殉教を好む人はいない。しかし、真理のため、神のみ言葉のために迫害にあい、殉教せざるをえない時が来れば、大胆にそれを引き受けるものでありたい。人生はいかに生きるかによって決定されるものである。ナポテは悲劇の生涯を閉じた。しかし、彼が神のみ言葉に忠実に生きたがゆえに、彼の人生は今なお生きている。「彼は死んだが、信仰によって今なお語っている」(ヘブル11:4)(一日一章)

●しかし、ひとりの人が何心なく弓をひいて、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射た。(22:34)

どんなに人間がその知恵と権力とを傾注して対抗しても、所詮神に勝つことはできない。神を信じない者には偶然としか見えないような業をもって、神はいつも神の側に立つ者を守り、神に逆らう者を滅ぼしたもうのである。(一日一章)

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