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オルタナティブ・ライフスタイルコミュのakioさんから 部族の歌 より

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「部族の歌」 山尾三省

ピラミッド

この世界の上にさまざまなピラミッドがのしかかっている。ピラミッドの内の最大のものは、全世界を覆い尽くしている中央集権的な政治形態である。ロシアでもアメリカでも中国でも日本でも、人々はこのピラミッドを形作るひとつの小石にすぎないものとなっている。言い換えればひとりひとりの人間のエゴイスティックな欲望がこのピラミッドを支える力となっている。主権在民という甘いまやかしの上に立つ民主主義が、合法的なピラミッド製作法であることは、すでに多くの人が言っているとおりだ。

政治の世界だけではない。世界中にはびこっているキリスト教、仏教、回教、ヒンドゥー教のような宗教の世界も、やはり欲望のピラミッドの合法的な製作法である。ヨーロッパ中世の姿が宗教ピラミッドの相を最もよく表している。ヒンドゥー教におけるカースト制度も同じ欲望に根を発している。よく見てみると、僕らがどんなに根深くこのピラミッドの中にはめ込まれているかが判ってくる。生まれた時からぼくらはこのピラミッドの暗黒の中にいたのだ。学校へ行く。それは階段を登ることだ。高校、大学を出る、階段をまたひとつ登るのだ。会社に入る。係長になる。また階段をひとつ登るのだ。みずからそのように欲望し、知らずのうちにこの欲望の大ピラミッドの中のひとつの小石となるのだ。会社という小さなピラミッド、村という小さなピラミッド、町会議員とか県会議員、衆議院議員のピラミッド、創価学会はあまりにもあからさまなピラミッドのひとつだ。芸術の世界もほぼ同じだ。文壇とか画壇とか楽壇とか壇とはよく言ったものだ。どこからどこまでもこの欲望のピラミッドの支配していないところはない。

小さな川が幾百となく集まってひとつの大河となるように、無数の小ピラミッドは寄りそって、中央集権制度というひとつの大ピラミッドを形成している。しかもこのピラミッドのたちの悪さは、自ら希んで、自ら欲望した結果として出来上がっているというところにある。学生は一流会社に入りたがり、平社員は係長になりたがるという具合で、上へ上へ、頂点へ頂点へと登りたがる欲望が、このピラミッドを支えている無言の力なのだ。

ぼくら部族の人間は、このようなピラミッド作りのゲームに参加することを拒否した。ピラミッドの中のひとつの石となることも、まかりまちがってその頂点に立つ専制者となることもいやだと感じた時、ぼくらはこのピラミッドの相の全体を拒否することを学んだ。どこへ行ってもある権力、小さな社会には小さな権力、大きな多きな社会には大きな権力、村には村の掟、そして警察官を先鋒とする法律という大権力があるということを知ったぼくらは、更にそれらの権力が固く金銭に対する欲望と結ばれていることを知ったぼくらは、ひとりひとりこの社会を棄てて、定職のないままに放浪者となった。それは中世ヨーロッパの終末を告げる乞食の群れにいささか似ていると思う。ボッシュ、ブリューゲル、そしてレンブラントの絵にも出てくる乞食たち、盲目やびっこやクル病の男女の乞食の群、彼らが無意識のうちに中世という大ピラミッドを崩壊させていったように、ぼくらは「こんな社会はいやになった」と感じて、ある者は乞食になり、高校中退で旅に出、大学中退でフーテンとなり、大学を出て会社に入ったものの、その会社をやめて妻子と共に路頭にまよった。

60年代安保闘争を経て党という組織に深い疑問を持ち、しかも人間解放の夢だけは棄てきれない者もいれば、ただ単に「面白くないから」という直感だけを頼りに飛び出してきた15,6の若者もいる。西や東、南や北を、そのようなピラミッド拒否者たちが、まだ数は少ないにせよ、何千人となく歩き回っている。そして類は友を呼ぶのたとえどおり、ぼくらは自然に集まってきた。ひとりで孤立していることがやせ我慢であることが判ってきたし、人は集まるのが自然である故に集まってきた。ぼくらはその集まりを部族と呼んだ。そして今、ぼくらは部族という集まりを、組織ではない組織、組織であることを拒否するぎりぎりの接点での組織として考えている。ぼくらは逃亡者でなく、この世界を支配しているピラミッドを内部から崩壊させ、しかも目的論的にではなく、日々の生活の実体、歓びと苦しみの深さにおいて現実社会に働きかける変革者として現れている。欲望が欲望を呼ぶ怠惰の中で、虚ろな眠りをくりかえしている人々に、その欲望こそが病気の原因なのだと知らせる部族的な集まりが、日本だけでなくアメリカ、ヨーロッパの先進文明諸国でどんどん芽生えてきている。アメリカのビートニック、フランスの実存主義者、イギリスの怒れる若者たち、そして日本の太陽族と呼ばれた世代の次に現れたこの若者たち、彼らは、世界中を放浪して回ったあげくにそれぞれの国に帰り、もはや孤立した個人としてではなく集まった仲間として、ひとつの新しい社会、部族的な社会を自然発生的に作りつつある。

生きるということが欲望のピラミッドに参加することではなくて、ひとりひとりの自己の自然な性質である自己自身を実現することにあると判った若者たち。野や山の花が欲望のピラミッドの中で咲いているのではなく、ただ単に咲いているのだという事実にどうしようもなく気づいてしまった若者たち。ぼくらは問いつづける。何故人と人が殺し合うまで喧嘩するのか、何故家には石塀が作られるのか、何故国家が存在し、戦争があるのか。何故平和ということがけっしてなく、愛は不毛であると言われるのか。


文明

もうひとつの側面がある。それは文明である。文明もまた欲望のピラミッドである。権力のピラミッドと密接に関係し、むしろ分離して考えることが出来ないほどのものである。現代文明の頂点に位置する水爆。物質とエネルギーが等しいものであることを証明し、権力と結びついた時、人間の生きたいという根源的な欲望を全的に滅ぼす力を持つことを証明した水爆。ぼくらはこの水爆を頂点とする現代文明の成果に大いなる疑問を感じないわけにいかない。なるほど飛行機は便利だし電話は便利だ。テレビは居ながらにして世界を見ることが出来るし、カンヅメ食品は2年間も保存することが出来る。宇宙ロケットは月に届いたし、百階建のビルディングもある。新聞は毎日配られてくるし、水道からは殺菌された水がほとばしり出る。

水爆や宇宙兵器のような権力的な武器そのものは別として、ぼくらは現代文明の全体を拒否しようとするものではない。だが、これほどまでに繁茂した文明の現代と、原始未開時代と呼ばれる時代とを比較して考える時、文明は必ずしもよいものでないばかりでなく、むしろ多くの点で生命を圧殺するものであることに簡単に気づく。少なくとも、文明の反面は反生命的なものであることを知っておく必要がある。水道は殺菌されているが、水の味とは違う。蛍光燈は明るいが、細胞を破壊する。車は早いが、歩くことを忘れさせる。機械は便利だが、物を作る歓びを忘れさせる。テレビは何でも映してよこすが、自分の裸眼で実物を見る楽しみを奪ってゆく。暖房は暖かいが、寒さに耐える厳しさをなくす。冷房は夏の暑さの楽しみをごまかしてしまう。ビルは土を奪い、煤煙は空を色を変える。数えあげればきりがないこの文明の非生命的な側面は、すでにぼくらの生きている細胞が誰よりも深く感じ取ってあえいでいるところだ。

ぼくら部族の人間が再び三たび「自然」ということを口にするのは、そのようなやむにやまれぬ細胞の叫びを言葉に変えているだけのことだ。裸足で黒い土を踏んづけた時、どんなに細胞が生き生きとすることか、誰でも知っているあの躍動を、ぼくらは再びこの世界の中に取り戻さねばならぬと思っている。ぼくらの初歩的な部族社会が、東京と同時に信州の山の中や九州の南西諸島の諏訪之瀬島に築かれつつあるのはそのためである。それらの自然の中でぼくらは、自分らの手で家を作り、井戸を掘り、畑を耕し、魚を釣り、夜の闇の深さと、星の明るさを見つめ、太陽の熱さ、冬の厳しさ、空の青さを感じることを始めた。それをもしぜいたくと非難するなら、そのようなぜいたくこそぼくらの生命が望むものであると答えよう。テレビで見る一羽のキツツキと、林の中で本当に木を叩いている一羽のキツツキを見るのとでは、もちろん本物の方がよい。この単純な権力とは縁もゆかりもない欲望を実現していくのに、まだ遅すぎるということはない。野も山もひどい変形を受けたが、まだ復元する力は持っているし、海はぼくらをいつでも待っている。部族の人間は、例えば新宿のど真ん中に原始林をつくることを考えているし、テレビを見ずに実物を見ることに精力を出している。テレビでインドを見るのではなく、インドに行くことを考えるし、店で売っている魚を食べるのではなしに、自分で海にもぐって突いてくることを考える。


フリーソング

昔から数えきれないほど多くの音楽があり、踊りがある。すばらしい音楽があり、踊りがある。だがぼくらは思う。まだ足りない。何が足りないかと言えば、ぼくら自身の音楽、ぼくら自身の内部から出る踊りが足りないのだ。音楽でも踊りでも、ひとつの形が出来るとそれがピラミッドの始まりとなる。音楽と言うとクラシック音楽を連想したりするのはそのよい例である。クラシック音楽は確かにすばらしいが、すばらしい音楽はまだまだいくらでもある。世界のどこにでもある民族独自の音楽と踊りのすばらしさは、クラシック音楽のピラミッドだけが音楽だと思っている欲望者たちには判らないだろう。

ぼくらはさらに一歩を進める。ひとりひとりの人間は独自の音楽と踊りを内蔵している。聞くのも見るのもよいが、自ら自由に自分の歌を歌い、自ら自分の踊りを踊る方がはるかに楽しい。ぼくらはそれをフリーソング、フリーダンスと名づける。歌うことが、作曲家や歌手のような専門家に限られている時ではないし、踊ることが舞踏家に限られている時でもない。才能などというものは問題ではない。それは中央集権の側の言葉だ。才能は売られて金銭に変わる。今、世界中の若者達がさまざまなリズムに合わせて踊っている。昔から踊らぬ民族はなかったし、踊ることは命だから、それは当然のことだ。

しかし更に一歩進めよう。踊ること、歌うことは命の根源的な発露であるのだから、そのように自由に踊り自由に歌えばそれでよいのだ。踊りにまで形をはめられてはたまったものではない。ひとりひとりの完全に自由な、神聖な内部からこみあげる踊りがあるのだ。ロックンロール、特にサンフランシスコのヒッピーたちのロックンロールは、このことをよく知っている。踊りを単なる欲求不満の解消手段とするのではなくて、踊らずにはいられない細胞の、生命の神性に至るまで踊り尽す踊りが、今やぼくらの世代をとらえ始めている。これを突き進めていくと、ただ立っていること、坐っていること、眠っていることさえも踊りになってしまうようなひとつの世界がある。日常生活のすべてが踊りであると言うといささか誇張となるかも知れぬが、そのような解放の相が踊りの本質である。歓喜の踊り、暗黒の踊り、悲しみの踊り、夢のような踊り、踊っていると、しかもリズムだけは心臓の鼓動のように動いているのが判る。

同じようにフリーソングもまたぼくらの魂の噴水だ。ぼくらひとりひとりは、掘れば掘るほど真実な作曲家であり歌い手だ。そうでない人は怠けているだけの話だ。試みにひとつの声を出してみればいい。その後は好きなように続けてゆけばよいのだ。生きることとそれは同じだ。とにかくアーと声が出れば後はいくらでも続いていく。上手とか下手は自分の魂が決めることだ。魂が歌えばそれはよい歌となるし、魂から離れればよくない歌となるだろう。魂はすべての人が神であるように、いや魂と神とは同じものだから、歌いながら人は自己の神性に触れ、それを実現してゆくのだ。

音楽と密接な関係にある詩、絵画、芸術と呼ばれているものはすべて同じだ。それらは特別に魂と仲がよくて、魂はそのような形で発露したがる。だから、芸術家と呼ばれる専門家がいることはよいことではないのだ。すべての人が魂を発露させねばならないのに、そのようなことは欲望のピラミッドである現代社会の内においてはとうてい無理なことなのだ。政治家が政治を代行するように、芸術家は魂を代行する。政治家そのものでなく、芸術家そのものでなく、代行することがよくないのだ。代行せず、魂の発露として行われるならば、それは有難い政治であり、芸術であると言うことが出来る。




ぼくらひとりひとりは神である。だからぼくらは神を実現せねばならぬ。ぼくらひとりひとりはすばらしいものである。だからぼくらはすばらしくあらねばならぬ。ぼくら部族の人間はお祭り種族だと言われている。何を祭るのかと言えば、神を祭るのだ。ぼくら自身を祭るのだ。祭りとはよりすばらしくあるように祭るのだ。すばらしさを祭るのだ。宗団宗教とは格別の関係もない。未開種族が梟を祭ったり鷹を祭ったりするように、ぼくらは赤鴉を祭り、ガジュマルの夢を祭り、エメラルド色のそよ風を祭る。部族とは神であるひとりひとりの人間が、神であることを願って集まった集まりだから、これから以後数千数万のシンボルが祭られるだろう。例えばオリオン星座、月、太陽、犬ふぐりの花、ひまわりの花、それとも暗黒星雲、それとも鉋とか鍬、キリストや仏陀が祭られるように、なおもマルクスは祭られるだろう。クリシュナが祭られるように、新宿の舗道の脇に生えている一本の雑草が祭られるだろう。神はひとりひとりであり、ひとつひとつであり、すべてであるのだから、すべてのものは祭られ、すべての部族は部族の神を共有するだろう。世界はそのように開かれており、宇宙はそのように開かれており、ぼくらひとりひとりは神である。ぼくらは神を実現せねばならぬ。


アナーキー

欲望のピラミッドである中央集権制度を拒んだぼくらが、どうして別の権力を想像することが出来よう。僕らがどんなに権力を否定したところで、国家は存在しているし、国家の外に逃れるわけにはゆかない。だが、ぼくらは現実のかけがえのない生活において、国家権力はよくないという思想を実行するのだ。ちょうど中世ヨーロッパの乞食たちが、キリスト教王国はご免だということを生涯かけて無意識的に実行していたのと同じことだ。ぼくらはこの権力社会がいやになったから、そこに参加することを拒むのだ。

国家社会に抵抗するやり方はいろいろあるけれども、ぼくらは生活自体の中で財産を共有し、権力を認めず、共同労働することを実行してゆく。おそらく、ぼくらも三派全学連と共にデモに行く日が来るだろうが、ぼくらはぼくらのやり方で抗議するだろう。おそらく、ぼくらは花を持ち、機動隊に花を与え、花をいつまでも忘れないでくれと告げるだろう。笛やギターを持ってゆき、全学連の学生と機動隊員の両方、および自分ら自身のために踊るだろう。坐り込みの時は、ぼくら自身および全世界の解放を祈りながら瞑想もするだろう。ぼくらは権力を否定する。暴力はどんなに譲ったところで、よいものではない。国家権力という最大の暴力がよくないからこそ、それに抗議するのだから。

同時に、ぼくらは限りなく仲間の部族が増えてゆくことを願い、そのために働きかける。都会においても田舎においても、いたる所に小さな部族社会が生まれるだろう。ぼくらはそれを現代的に解放区と呼んでもいいが、やはりそれは部族と呼ばれるのが最も適当だろう。部族は連合し、権力はいやだ、という意志を明確に発露させるだろう。それはやがて世界部族連合という形に広がってゆくだろう。すでに若い放浪者たちの間では、国家は無意味であるばかりでなく、面倒臭い邪魔なものとしてしか映っていない。フランスから来た者もアメリカから来た者も、二、三日共に生活すれば、仲間以外の何ものでもない。求めているものは皆同じだ。深く自己の神性を実現すること、自由、平等、博愛の世界に生きること、自己と社会との亀裂のない場に生を実現することである。

一歩進めて、目下のぼくら部族のアナーキー性を探ってみよう。アナーキーということがどんなに厳しい自己闘争のうえにしか実現出来ないものかは、一歩部族社会に足を踏み入れればよく判る。それは絶望の連続であるとさえ言えるほどだ。個人個人の性格に従い歩行の相に従い、それこそ千差万別の人間が人間であろうと願っているのだ。この苦しい汁を吸うくらいなら、ファシズムの統一性、教団宗教の統一性、または一般の市民生活の方がはるかに楽しく生きがいのあるもののように見える。

しかし、ぼくらはそのようなピラミッドを嫌い、もう金輪際そのような社会には帰ることもないのだ。ぼくらは人間らしく生きることを学んだのだ。人間らしく生きることは天国を実現することと同じではない。光の中に闇の斑点があるように、闇の中に光の斑点があるように、天国は地獄の中にあり、地獄は天国の中にある。この相を見破ることが、目下楽園と呼ばれているぼくらの生き方である。

部族は常に揺れている。まるで酔いどれ船のようだ。十人、十五人で共有された神に亀裂が生じれば接吻し合って暗澹と分裂するのが部族だ。だが分裂こそは集合と同じく美しいものだ。何故かと言えば、それは自然なことだからだ。植物がそうだ。密生してこれ以上共生できない時に、種子は風に乗り、別の土地を求めて広がってゆくのだ。

また、ぼくらが欲望のピラミッドの社会で働くことを拒否したからといいって、労働そのものを拒否したのではない。部族はその経済的な基盤を共同労働に置いている。農業に基礎を置く部族もあれば、漁業に基礎を置く部族もある。もちろん、工業に基礎を置く部族、サービス業に基礎を置く部族もあろう。産業構成においては現在の社会とさして変わりのあるはずもない。ただ文明の反生命的な側面、例えば水爆製造部族などというものは考えることが出来ない。さしあたって、ぼくらは農業部族であったり、室内装飾部族であったり、ロックバンド部族であったり、また瞑想部族であったりするだろう。喫茶店部族だったり、芝居部族だったりもするだろう。そしてこれらの部族の間に何の権力機構も存在しはしない。ぼくらは自然そのものと同じく苦しみ、歓び、ひたすら生命の実現を願って、同時にすでに実現していることを感じながら、一瞬一瞬をすごしてゆくだろう。


定着と放浪

定着民族と放浪民族の生活の違いの相は興味深い。定着民族は動こうとしないし、 放浪民族は留まろうとしない。ぼくらはこの生命の相をふたつながら受け入れる。現状においては定着民族的な生活が圧倒的に強い故に、むしろ放浪的生活に一層の興味を持つが、留まりたい時留まり、動きたい時動けるのが一番好ましい。欲望のピラミッドの中にあっては、放浪することはピラミッドの最下段からやり直すことを意味する故に困難である。

ぼくら若い世代の人間は、やみがたい衝動に駆られて旅に出る。何もかも棄てて。国道上をほこりにまみれて腹を減らして歩いているヒッチハイクの若者が、今や日本でも数多く見られるようになった。もともと放浪的な性癖のある運転手稼業の若者と、これらのヒッチハイクの若者たちはすぐに仲間になる。旅の途上で、ぼくらは運を点に任せること、言い換えれば人を信頼することを学ぶ。ドイツから来た若者は、丸一日半、じっと乗せてくれる車が来るのを待っていたと話したし、人参一本かじりながら何日か歩きづめに歩き、歩けなくなってしゃがみ込んだとたんに、長距離トラックが横にすとんと停まったと話してくれた者もいる。「太陽と水のみにてぶっ倒れるまで歩け」と『マヌの法典』に現れている。旅の途上でぼくらは自然のさまざまな相を学ぶ。

ぼくらは旅に出たがっている。植物のように一定の場所に根を生やして天を焦がすのもよいが、やはりまだ見ぬ土地に行ってみたいと考える。定着は腐敗を生じ、放浪は無責任を生じる。定着は静的であり、放浪は動的だ。

ぼくら部族連合は、定着と放浪のふたつのやみがたい欲望を解放するのに適している。旅に出たい時出ればよい。まだ見知らぬ土地の仲間が、ぼくらの到着を歓迎するだろう。そこでは共同の仕事があり、ピラミッドではなく各々の個性が、ぼくらの個性の発露に期待をかけるだろう。ひとりであることもない。家族、仲間、共々に旅に出ることも難しいことではない。部族連合がうまい具合に回転してゆけば、世界は絶えまなく動き回り、絶えまなく定着している人々のひとつの巨大な渦となるだろう。それはけっして文字どおりの楽園の相ではなく、文字どおりの苦行の相でもあるだろう。一切苦、と言われているも故ないことではない。

ぼくらは旅に出たがっている。ぼくらはあまりにも長い間定着しすぎてきた。都会で農村で変わらぬ夜を迎えすぎてきた。金はいらない。国道上に立てば、ぼくらを乗せてくれる車はいくらでも走っている。車を使うこともない。出来れば足で歩くのもよい。旅館もいらない。ぼくらが眠るほどの場所はどこにでもある。飢えて死んだ人を日本ではまだ知らない。それにぼくらは腕もあれば頭もある。必要な金は仕事をすれば手に入る。

欲望のピラミッドから逃れて自分ひとりで生きる術を知ったならば、もはやあのいやらしいピラミッドの世界に帰る必要もない。いやらしいと知りつつそこから一歩もでることのない辛い人々。その辛さが旅の途上ではっきりと判る。「多かれ少なかれぼくらは施しの中に生きているのだ」というインドの若い詩人の言葉がよく判る。ピラミッドの中の人々もぼくらも、あのいやらしさがある限り共に不幸だ。ぼくらはこの不幸から眼をそらしはしない。だからこそ言うのだ。ぼくらは旅に出よう。この欲望のピラミッドを内部から崩壊させよう。暴力も金もいらない。ただ自己の真実な欲望のままにもっとすばらしく生きようと注意すればよいのだ。

ぼくらはこのようにして起こりつつある生活の相の根源的な変化を、二十世紀のルネッサンスと呼んでいる。優しいきれいな眼が、ぼくらの生の中でぼくらを呼んでいる。


家族、私有財産

家族、私有財産という伝来の遺産は、ぼくらにのしかかってくる最も重い重圧のひとつである。だが部族の人間はまさにこの問題において、真に革命と呼び得る生活の相を実現してゆくだろう。ぼくらがまだ若く、私有財産と呼ぶほどのものを持っていないことは幸いなことだった。むしろ無一文、晩飯を食う金もない者が集まってきたのだから。無一文同士の付き合いは、たまたま金を持っている者が払うという不文律をいつのまにか作ってしまった。それは反面において、いつも金を持たず金を持とうとしない者、労働しようとしない者を生み出す欠点を生じたが、一方においては私有財産を持つということが、どんなに不便で狭苦しくてケチなことであるかをよく知らせてくれた。

サンフランシスコで生まれたディガーズという集団は、この点で真に革命的であった。彼らはひとつの店を持ち、その店の品物はすべて無料だった。食料、衣料品、無料の宿泊所まで売った。他の農場をやっている仲間が無料で食料を運んできたし、衣料は着古しの不要の品が続々と店に持ち込まれた。宿泊所も同じ方法で、部屋を持っている者が自分の部屋を提供したし、ディガーズ自身の店も宿泊所になった。この店は最初に天から落ちてきた雨滴の一粒である。所有するということは無駄であると、彼らは世界に向かって宣言したのだ。二滴、三滴、やがてざっと雨が来るだろう。

ぼくら部族の住みかの中にはフリーボックスと呼ばれる一個の箱が置かれてある。この箱の上に次のような能書きが書いてある。「この箱ひとつにより、世界経済のすべての問題は解決される。万の経済学者が寄ってたかって解決できなかったこの大問題は、ぼくらひとりひとりの力により直ちに解決されるはずである。すなわち、金のある人はこの箱の中に入れる。金のない人はこの箱の中から持っていく。ああ何故こんな簡単なことが未だに解決されないでいるのか。この箱を常に満たし、常に空っぽにしようではないか」

ぼくらはこの突拍子もないオプティミズムを支えるべく、共同労働に実行に出つつある。「ガジュマルの夢族」は農業と漁業も始めるべく、一隻の板付船を手に入れた。アウトリガーをつけ、帆を張った。「雷赤鴉族」は一万本のトウモロコシを植え、古代マヤ民族さながらのトウモロコシ主食生活を始める計画をたてた。東京の「エメラルド色のそよ風族」は屋台で鹿児島ラーメンを売る方法に出た。いずれもまだほんの始まりである。だがそれらのことは確実に始まっている。

このような背景の上に、家族関係も徐々にではあるが変わりつつある。独身の男女がほとんどだから、家族と呼べるようなものはまだないと言った方が正確なのだが、そのような混合の中で、部族自体がひとつの拡大された家族である、というまぎれもないある感覚が芽生えてきた。それは結婚という制度ではない、自由な愛情に基づいたセックスによって芽生えてきたし、ひとつの釜の飯を食べるという行為、踊り、歌、会話、エゴイズムのぶつかり合い、焦燥、憎しみ、融和、踊り、歌、酒、そして労働および祈りというさまざまな行為の中で、少しずつ少しずつ真実なものとなってきた。まだぼくらが歩き始めてから日は浅い。ぼくらの神を実現するという願いもまだそれほど強烈なものではない。

ぼくらひとりひとりは時々後ろを振りかえり、後ろのピラミッドの中に残してきた親や兄弟のことを考えたりもする。いったいどうなっているのだろう、どこへ行くのだろう、とつぶやくこともしばしばである。だが、現在の状況の中で、部族が信じられないほどの歓びと苦悩に満ちていることは、ぼくらひとりひとりがよく知っている。ぼくらは揺れて行く。揺り籠のように、酔いどれ船のように。ある限りの知力を持ち、ある限りの直感を働かせ、ひとつの信頼に身を任せて。部族が「愛による革命」という言葉を使うのは、このような中においてである。

『部族』創刊第二号(1968年6月発行)より

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