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スメラコミュのビヨサマ新聞4月号☆

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1。肉食よりは菜食!

肉食のスポーツマンより菜食の凡人の方が体力がある?!

肉食の車夫(人力車)より穀菜食の車夫の方が使える!

『車夫の走力実験』Byドイツ人医師ベルツ博士

22歳と25歳の2人の車夫が選ばれ、ベルツ本人が人力車に乗り込み車を引かせてみた。

二人には全く同一の飲食物を与えられた。

最初に与えられた食べ物は白米、イモ、大麦、粟といったもので、脂肪とタンパク質は少ないが、デンプンの量はかなり多い物だった。

この条件で体重80キロのベルツを毎日40キロ3週間にわたって引かせ、3週間後に2人の体重を量ったところ1人は増減がなく1人は半ポンド増えていた。

そこで今度は2人に牛肉を与え、デンプン類を減らした状態で引かせてみた。すると、2人は3日後には非常に疲れ、走れないから肉を減らして欲しいと言うので前の食べ物に戻したところ、すぐに元気になった。試験後の体重は1人が変わりなく、1人は半ポンド減っていた。『食養と言う事』参照。

その他にも同じように肉を常食としているスポーツマンと菜食を常食としている一般人(特にスポーツをしていない人たち)とでスポーツテストを行った結果、菜食の一般人の最高はスクワット5千回など、いずれも肉食派よりすぐれていた。(今手元に本がないのでかなりアバウトですが、興味のある方はご質問ください。)

2。よくカム☆

よーくカミカミして食事を頂くことが健康と美容とパワーの秘訣?!(平均47噛み)

食べ物が口の中で唾液と混ざりト〜ロトロになるくらいカミカミして頂くと胃潰瘍、胃炎、口内炎、ガンまでも治っちゃう!『陰陽でみる食養法』参照。

動物性を抜きにして、玄米と根菜、葉菜、あるいは海藻を約2対1の割合にして一口ごとに箸を置き、主食も副食も、百回ないしは百五十回噛む事に専念するだけで二十日間くらいで治ってしまう。これを常に心がけていればガンなども治癒できる。

正食に基づく食事療法を実践することで死線をさまようほどの難病を見事に克服し、元の健康体を取り戻し、病氣になる以前より元気になってしまった人は数多い。しかし、治らなかった人がいる事も事実である。

それはなぜか。

実は。ポイントは『歓喜すること』にあった!

病気を治したい、早く治りたい、と思いながらも、仕方なく、嫌々やっている人に効果はない(当たり前ですが)。

食事を通じて大地の恵み、天の恩恵(神氣正流と言う)との調和を保ち、よく噛み、感謝して味わいながらゆるやかに食することで大地(土)のご加護が顕われてくるのである。

*これが基本。どんなに無農薬、ベジタリアンにしても、ここがポイント!これを外していては、自然派も形だけのファッション化してしまいます。

神あっての仏。

噛みあっての健康。

噛み合っての人間関係といったところでしょうか☆


 『身 土 不 二』(シンドフジと読みます) 

どこか別の土地で育った物を多く体に摂り込むと波調が合わないために肉体的にも精神的にも様々な不調和を生じ、病氣になりやすくなる。人類の様々な民族文化、風俗習慣などは、それぞれ固有の地域性、環境性よる「食」から生じ、形成されているのである。このことはマクロビオテイックなど、食養について研究をする人々にとってはもはや常識となっている。このような「人」と「土地」との一体性は昔から「身土不二」と呼ばれてきた。仏教にも「依正不二」(エショウフジと読む)といって同じような考え方があるという。今世に出ている政治家や哲学者たちはこの身土不二の原則を知らない。また知っても認めようとしない。身土不二が大自然の秩序であり、法則であることがわかれば近年取沙汰されている農産物の自由化や米の自由化などの問題がいかに天地の道に外れた愚行であるかがわかるはずである。By 中谷 伸一

『人はお土から生まれたものである。』

私たちはその土地、風土、環境の中から生まれた産物を食べ、身魂を養っているのであるから、人間とはまさしくその「お土」そのものが肉体化したものだと言えよう。


自由化が進んで地方の農家や漁業は経営難となり、転職したり、畑を減らしたりしながらなんとかやっているようですが、それでもうまくいかない家族の自殺が流行っています。私の地元八雲町でも相次いで悲しい出来事が起こっています。この実情を無視する事はできないので新聞を発行する事になりました。

牛肉輸入問題についても、その他もろもろの問題についても、日本のあり方について、世界のあり方について、ひとりひとりが妥協する事無く正しい方向に転換していくことが私たちにできることだと思います。

月刊現代4月号にはこんな記事がありました。一部掲載させていただきます。

このままいくと、将来的に日本は国全体が沈んでしまう。小泉内閣以降、急速に進む「改革」に巻き込まれながら、「何かがおかしい」と、政府の巧妙詐術に気づき始めた国民は少しずつ増えて来ていると思います。

小泉純一郎首相が好んで使うフレーズに「改革無くして前進なし」という勇ましい言葉がありますが、実際には、改革しながら社会は、どんどん後退している。小泉首相が竹中平蔵総務相と組んで推し進めている改革は全て「市場原理主義」、すなわち自由競争に基づいています。

彼らが目指す「小さな政府」は、その聞こえの良さで国民の誤解を惹起こしていますが、要は、自由競争をさせ、強者のみに花を持たせるための政府作りです。従来、規制をつくり、それが守られるために監視をする事が政府や管の役目でしたが、これからは「管から民へ」移行させる。その改革によって予測される弊害は、昨年末からの「マンション耐震偽装問題」での耐震検査会社の怠慢ぶりを見ても明らかでしょう。

あるいは、「中央から地方へ」というスローガンがあります。r地方の人びとは地方分権になると言って喜びます。しかし、要するに地方は中央から切り捨てられるという事にすぎない。今、地方の小さな駅の駅前商店に行って見ればわかりますが、みなシャッターを降ろしていて、私は涙なしでは歩けません。地方分権が進めば進むほど、地方はどんどん寂れて行く。

このような「市場原理主義」の下では、ほとんどの場合、勝者が1に対し、敗者9になります。従来、弱者、敗者を救うのは「大きな政府」の役目ですが、「小さな政府」となってしまった後では、誰も手を差し伸べようとしないでしょう。

皮肉な事に、今、小泉内閣の「改革」を支持しているのは、将来弱者として切り捨てられる可能性が高い下流層です。にもかかわらず、彼らは、「失敗してもやり直しのきく社会にする」というような甘い言葉、美しい言葉にすぐ参ってしまう訳です。でも、それは幻想です。その社会では、勝ち負けはサイコロでは決まりません。能力の世界ですから、勝つ人は勝ち続け、負ける人は負け続けます。

それなのに、なぜ人々は小泉首相に「改革」を望むのか。それはこの社会に漂う閉塞感を打破したいからです。しかし、この閉塞感を生み出した諸悪の根源が、「市場原理主義」そのものであるということに思い当たらない。

閉塞感の正体とは?

「市場原理主義」が幅をきかせた結果、例えば会社は株主のものになってしまった。ひと昔前までは、会社への忠誠心と引き換えに従業員は終身雇用を保障されていたものが、成果主義が導入されて、いとも簡単にリストラされてしまう。日産のゴードン社長は会社を再建したと評価されていますが、あれだけの大人数をリストラすれば短期間に成果を上げるのは簡単です。

企業はさらに業績を得るために、新入社員を採用しなくなる。仕事は非正社員に任せればいい。彼らには雇用保険を払う必要も無いし、給料も時給あたり正社員の半分で済む。大学を卒業しても正社員になれない若者たちはどうするか。フリーターやニートになるしかない。彼らは何も好き好んでそういう立場になる訳じゃありません。日本がそういう変なシステムになってしまっているんです。若い夫婦の立場に立てば、こんな不安定な社会に、子供を産んで、一生懸命育てても、果たしてその子が幸せになれるかどうか不安になるのは当然でしょう。あるいは働く女性の場合、出産や育児に時間を取られる事が、リストラの要因になってしまうかもしれないと、子供を持つこと自体をあきらめてしまう。これで少子化は加速する。

さきほども述べたように、「市場原理主義」を徹底すれば、組織は確かに強くなり、業績は一時的には上がります。しかし社会は安定性を失う。現在、日本の景気は少し上向きになっていますが、長期的な視点で見れば、日本全体が将来落ち込んでいくことは100%間違いありません。

今、日本国民の頭上を低く暗い雲が覆っています。これは社会に対する閉塞感に他なりません。だからこそ、人々は現状を変えなければいけないと考える。そんなとき、小泉首相のわかりやすい一口論理はもっともらしく聞こえる訳です。

もともと人間は論理が大好きで、論理は世にはびこっています。とくに欧米の論理、合理主義に毒された今はその傾向が顕著です。論理は長く進めて始めて深みに達するという性質を持っていますが、長く語るほどそこに破綻や矛盾が生じる危険性がある。ですから現実的に巷にあふれているのは、短い論理になります。「改革無くして前進なし」と、小泉首相がキリリと可語る耳に心地よいフレーズに国民が飛びつくのはこのためです。

彼の語る言葉は確かに論理は通っています。しかし、深みに達しない。ほとんど効用のないものなのです。論理なんてものは、短いものならばいくらでも勝手に編み出せます。もし、私に一時間くれたら「人を殺していい論理」を100通り作ってみせてもいい。戦争を始める論理も同じです。Aという国とBという国が戦争を始めたらそれぞれの言い分がある。論理なんていい加減なものなのです。

物事の本質を見抜けない。

昨年9月に小泉、自民党が圧勝した衆議院選では先日逮捕されたライブドアの前社長の堀江貴文を、”改革の若き旗手”として持ち上げました。そして国民もマスコミも踊らされました。実際には国民の生活を圧迫する「市場原理主義」の申し子たるホリエモンうぃ熱狂的に支持するという愚を犯したのです。彼を支持すれば支持するほど、「市場原理主義」は世にはびこる。結局は、自分の首を自分で絞める事になるのもかかわらず、人々は彼を「改革」のシンボルとしてみた。

なぜ国民は気づかなかったのか。それは物事の本質を見抜く訓練がなされていないからです。私は数学者です。数学者というのは、本質以外に興味が無い。だから、今回ライブドア事件でホリエモンが逮捕されたという報道を聞いても驚かなかった。私にとってみれば、彼が粉飾決算で逮捕されようが、道ばたで立小便をして捕まろうが同じ事なのです。それよりも、なぜ彼のような存在が生まれ、国民の多くに支持されたのか。それが本質なのです。現代社会には「市場原理主義」という、うす汚く濁った大きな川が流れています。その川の隅には濁った泡が無数にできます。ホリエモンは粗ノ泡のひとつにすぎない。彼の他にも何万、何十万という同じような人間がいる。そういう現象を本質的にとらえますから、川そのものを潰さないと次から次へと濁った泡が出てくるという事がわかる。ですから、私は声を大にして「市場原理主義」徹底的に叫弾しているのです。

アメリカかぶれの弊害

「市場原理主義」を日本にはびこらせ、国家を破滅に向かわせた張本人は政府だけではありません。私は2通りの大きな流れがこれを後押ししたと考えています。一つ目の流れは、小泉政権に巣食う経済学者や、エコノミストという人たちです。彼らの罪は大きい。彼らが盛んに称揚したIT産業など、私にいわせれば「廃業」です。彼ら経済学者やエコノミストのほとんどがアメリカ帰りで、アメリカの価値に染まっている。アメリカでMBA(経済学修士)を取得したといっても、結局はあちらの大学の指導教官のいっていたことをそのまま鵜呑みにしているだけのことです。私は数学者として、彼らに自分の頭で考える能力があるのかと疑問でなりません。

アメリカかぶれの風潮は、経済学者やエコノミストに限った事ではありません。政界、財界、官界のうち、主力メンバーの8割がアメリカ帰りです。そして、彼らがここ10年で非常に悪く作用してしまった。

成果主義も、ビッグバンも、株主中心主義も、新会計基準も、郵政民営化も、全てアメリカ発です。半ば強制されるように、日本はそれに追従している。最近の「米国産牛肉輸入問題」では、アメリカの圧力に屈して、政府は牛肉の輸再開を断行したものの、早々と危険部位が発見されてしまい、輸入再禁止するというお粗末な展開をみせましたが、これもまたアメリカの属国に成り果てている現れです。政、財、官だけではありません。国民の多くも、アメリカの庇護下にあることを是としている。

しかしながら、一国一辺倒が、国家を崩壊に導く危険性は、日本の歴史を振り返ればわかることです。

戦前の陸軍はドイツ一辺倒でした。例えば戦時中の首相、東條英機、小磯国昭は陸軍の出身で、ドイツ帰りでした。ほかには、山下奉文(もとゆきと読む)や石原莞などもそう。当時影響力のある陸軍の有力者は片っ端からドイツよりだった。対して海軍では、山本五十六は駐米武管としてハーバード留学の経験があり、連合艦隊司令長官の豊田副武はイギリス、同じく米内光政はドイツと青年将校を意図的に各国にばらまいてバランスをとっていました。その点、ドイツかぶれの陸軍は一枚岩になりますく、どこまでも突っ走ってしまったのです。

一国の価値観に染まる事は非常に危険です。アメリカかぶれの人々が国家を牛耳っている現在の日本が、まさに戦前と重なって見えて、私は危うく感じます。先ほどアメリカ帰りを批判しましたが、私もアメリカ帰りの一人です。今後、一国に寄らず、外国の多様な視点を日本に取り入れたいと望むならば、次代を担う世代の留学先を散らして、バランスをとらねばなりません。

アメリカ帰りの価値観を振りかざす急先鋒が経済学者やエコノミストだとすると、さらに日本の中枢に悪影響を及ぼしているのが財界です。国家を破滅に導く流れのふたつめです。ここ10年、戦後の日本で未だかつて無いほどの強い力を財界は握っています。例えば、小泉首相の経済会議のメンバーたちの何人かは、細川内閣の頃から影響力を持っている。

大企業というのは、自由競争の方が何かと都合がいい訳です。「市場原理主義」の前提は、「まずは公平に戦いましょう」ということです。公平に戦って、勝者がその利益を全部とる。それは公平に戦った結果だから敗者がどうなろうと罪悪感をもたなくていい。公平に戦うために、目障りなのは「規制」です。国家の介入はできるだけ少ない方がいい。市場に任せれば一番効率的だという「市場原理主義」の世界を徹底するために、財界はあらゆる規制緩和を学者たちとつるんで、政界に働きかけてきました。その結果どうなったか。大企業が更に強くなり、その陰で経営困難に苦しむ中小企業の経営者たちの自殺者が後を絶たない。

「改革」という名の責任転嫁

私はよく「市場原理主義」を、ボクシングの試合にたとえます。ボクシングから規制を取るとする。素手で殴ってもいいし、後頭部や急所を狙ってもいい。ひじうちも認められ、さらには相手が気を失って倒れてもさらになぐってかまわない。こういう試合になると、全部KO。あいまいな判定勝ちや判定負けはなくなる代わりに、3試合に1試合はどちらかが死にます。すなわち自由競争とは「獣の世界」なのです。競争は持たなくてはいけませんが、規制下でないといけないのです。

もちろん資本主義社会には金持ちと貧乏人が存在します。けれどその比率は「市場原理主義」が生み出す、1割の勝者と9割の敗者であっていいはずはない。1割の金持ちと、貧乏になってしかるべき怠惰で無能な人間が一割、あとの8割は善良な普通の人間で構成されている社会が健全な社会だと言えるでしょう。

日本が経済大国になったのはこの8割の中流層が大切な役割を担ったからです。不況と言われて10年以上経っても、まだGDP(国内総生産)が世界2位というのはすごいことです。この底力をつくった普通の人々が「市場原理主義」のもとでは下流に押しやられる。これが一番許せない。

財界では、日本経済が失速した便員をつくったひとびとが、未だに大きな発言力をもっています。彼らの見識のなさが生み出した不況であるにもかかわらず、「今までの日本のシステムが悪かったんだ。根底から全部変えなければいけない」と責任を転嫁して、自らの罪状を糊塗するためにも「改革」を進めている。

彼らは経済だけでなく、他の政策にも口を出します。例えば、今回ホリエモンの本質を見抜けず、ライブドアの経団連加入を認めた経団連幹部は、昨年秋に中国の胡錦壽国家主席を訪問、極秘会議をおこないました。会談では「靖国参拝問題」が日中経済に与える影響などについて語り合ったといいますが、国家が中国から小馬鹿にされ、理不尽な要求を突きつけられているのに、すり寄る精神が理解できない。財界の関心は、中国の巨大なマーケットのみにあるから、このような恥知らずな行動ができるのです。

そして、さらに許せないのは、彼らが教育政策にも介入する事です。例えば「ゆとり教育」の名の下、現在、約9割の小学校に導入されている英語教育は「国際人の育成」として、もともとは通産省の役人と財界人たちが提唱していたものです。真の国際人になるためには、外国語は関係ありません。それよりも自国の文化を知るために、こどもの頃から一作でも多くの名作に触れた方がいい。読書によって養われる情緒や形や教養が、日本人を日本人らしく育て、国際舞台に通用する人物とします。

アメリカの小中学校で行われている株式教育に習って、こどもたちに起業家精神を教えるべきだと言う声も財界からあがっています。中学校で株や債券の知識を与え、高校、大学でインターンシップをとらせて、卒業後にすぐに産業に役立つ人間を育てようとする。また産業界の役に立つ研究を大学にさせるために「産学協同」を唱える。こうやって次から次へと、日本を滅ぼすための提言をしています。

続く。


不安な情勢がもうしばらく続くと思われますが、一人一人の支えがきっと大きな力につながると思います。

一人一人の生活の正しい充実と安息を願っています。

コメント(2)

続き

『勝ち馬』に乗りたがる官僚

さきほど日本人の8割が中流で、彼らの底力が日本経済を支えたと述べました。一億総中流といわれた時代です。当時、海外で教鞭をとっていてわかったのは日本人の平均知的レベルが他国と比べて圧倒的に高いと言う事でした。その厚い中流層に比べて上層は本当に薄い。イギリスやフランスは真のエリートの育成に心血を注いでいますが、日本はそれをしてこなかった。日本は未だかつて国民が国家をリードした事は一度もありません。かつては真のエリートが率先して国家を引っ張っていきましたが、いまはいない。真のエリートにはふたつの条件があります。第一に、文学、歴史、哲学、科学、芸術と言ういっけんなんの役にも経たないような教養を腹一杯身につけて、それを背景にして圧倒的な総合判断力と大局観を持つ人物。第二に、いざとなれば国家、国民のために命を捧げるという気概を持った人物。このふたつを兼ね備えた真のエリートが育たず、国家は弱体化しています。

戦後GHQ(マッカーサー率いるアメリカ人侵略軍)は日本を骨抜きにするためにエリート養成機関たる旧制中学および旧制高校を潰してしまいました。その思惑があたり現在のエリート不在の状況を招いています。

確かに財務省を筆頭に霞ヶ関には東大を優秀な成績で卒業した「エリート」たちがいます。しかし、彼らはただ偏差値が高いだけの「偏差値エリート」にほかなりません。彼ら「偏差値エリート」の頭の中にあるのは「いかに機敏に勝ち馬に乗るか」ということです。ぱっと形勢を見て、どちらが有利か、微妙な差を判断する。もともと頭がいいですからこういう処世術は得意です。小泉が有利となれば小泉に着く。時代は既にポスト小泉だと思えば、そちらにさっとつく。一昔前ならばそういう連中は「風見鶏」と言われて馬鹿にされていましたが、今は機敏でスマートに見える。頑固に自分の信条を貫くなんて、かえって馬鹿を見る世の中ですから、そういう人間はほとんどいなくなってしまいました。

『主客転倒した手段』

日本の行方を決定する政界、財界、官界のひとびとに欠けているのは『祖国愛』と『頭脳』です。それは我々国民にも広く言える事です。『国益とはなにか」そう問われたとき、右翼、そして多くの国民は「安全と平和」と答えるでしょう。すなわち、国が安定していて、平和で安定していることが最大の国益だ、と。
もしそれが本当に国家にとって最重要な事ならば、即刻アメリカの第51番目の州になるのが一番いい。アメリカと日本が手を組んだら、ほぼ永久に安全が保障され、かつ繁栄するでしょう。次善策はなにかというと、アメリカの完全属国になるということです。
私に言わせれば、そんな国家に成り下がってしまうなら、日本は爆発してなくなってしまえばいい。やはり、国家には品格というのがあります。品格ある国家には次の4つの特徴があります。?@国家の独立不覊?A高い道徳?B美しい田園?C天才の排出。先程述べた国益はこの品格を支えるための手段にすぎない。しかし、今は主客転倒してしまって国益を追う事によって国家の品格が落ちてしまっています。この由々しき事態についてさらに詳しく説明します。?@の国家の独立不覊とは、自らの意思に従って、行動のできる独立国ということです。しかしながら、いままで私が繰り返し述べたように、現代日本はほぼアメリカの植民地状態にあり、真の独立国家とは言えなくなっています。

?Aの高い道徳ですが、かつての日本の道徳の中枢には『武士道精神』がありました。この素晴らしさに対して室町時代に宣教師のフランシスコザビエルが日本人の精神性の高さに驚嘆していますし、その後昭和初期までに日本に滞在した外国人の多くが同じように深く感銘を受けて書物に記しています。武士道精神の中で特に新渡戸稲造が最高の美徳と挙げたのは弱者や敗者への涙と共感である『惻隠』でした。武士道精神が生まれる以前にもおそらく日本人には、皮膚感覚の道徳観、行動基準として「卑怯な事は行けない」「大きなものは小さなものをやっつけてはいけない」という土着の考え方があったように思います。

しかしながら、現代社会にはびこっている『市場原理主義』による弱肉強食の世界は、まったくもってこの「惻隠」の情に反しています。利益を得るためには卑怯な事をしてもかまわない。だまされる方が悪い。弱者は泣かせておけばいい。昨年末から世間を揺るがせているマンションの耐震偽装問題など、その最たる例でしょう。

?B美しい田園が保たれているということは、金銭至上主義に犯されていない証拠です。美しい自然があるところには美しい情緒が生まれます。そして、その情緒がすぐれた文学や芸術を生み出します。かつて日本が誇った美しい自然は「市場原理主義」によって開発が進められ次々にその姿を消して行っています。維新の頃に欧米人が絶賛した田園美はいま悲しいほどに荒んでいます。

?C天才を排出するためにはそのおおもとに役に立たないものや精神性を尊ぶ心があります。美を認める心、自然にかしずく心。そういったものはやはり「市場原理主義」とは相容れない。

なぜ日本人はこのように国家の品格をないがしろにしてしまうのか。それは日本人が過去2回、自分たちのアイデンテイテイに関して「自信と誇り」を失ってしまったからです。

一度目は明治になって藩閥政府が世界に誇るべき江戸を全否定した。自分たちの正当性を肯定するために、徳川家の圧制に苦しんでいた人々を我々は救ったのだと。2度目は戦後、GHQがソ連の支配下で動いていた日教組と手を組んで戦前の日本を全否定した。この2重の否定によって日本人としての「祖国愛」が切り捨てられてしまったのです。

『日本の知の程度』

「祖国愛」と同じく、今の日本に不足しているのが「頭脳」です。「改革だ、改革だ」と勇ましく旗を振っても、国家を引っ張る真のエリートが育っていない。だから改革のレールを敷くのは政府の「審議会」に委ねられる。

私自身たびたび出席しますが、そこで恐ろしい光景を目の当たりにします。日本の代表としてその場に呼ばれた有識者でさえ、改革する能力どころか、本質を認識する能力すらない。という現実です。物事の本質を見抜けない人々が頭を寄せ合ってああだ、こうだとやっている。私のケンブリッジ時代の同僚たちと比べてもまったく見劣りする。そういう光景を見ると、真のエリートがいない日本の現状をつくづく実感させられます。

さきほど私は政界、財界、官界をさんざん批判しましたが、実は学会も同じです。一昔前までは最後の良心のとりでだった学会が今はもう総崩れ状態になっています。たとえば審議会に呼ばれるとそれだけでそれだけで双六の上がりくらいに大喜びする品のない学者もいます。次回の審議会にも呼んでもらえるように振る舞えば出世街道が見えてくると皮算用する学者もいます。そういう連中は政府の言いなりになります。

みながみなそのような学者ばかりではありませんが、それでもやはり物事の本質が見抜けないと流されるしかない。たとえば、皇室典範に関する有識者会議では、座長の前東大総長がこう強調していました。「現行憲法を前提として世論の動向を見ながら会議を進めてきました」と。
これを聞いただけで日本の最高学府のトップはこの程度のレベルかと愕然とした。世論なんて一日で変わるものでしょう。憲法もいわばその時代のはやりの思想にすぎない。だから、明治には明治のはやりがあり、戦後には戦後の流行があります。その流行を皇室にも当てはめるのだとしたら、憲法を改正するごとに、皇室の制度もいちいち変えなければなりません。世論も憲法も流動的なものです。にもかかわらずそれを基準にして改正案を作成したと言う。「国民の声と憲法を重要視しました」と言われて、「そうですか」と満足してしまうような国民しかいないような国になってしまったのです。中略
と。長くなりましたが、この著者藤原氏の語る「国家の品格」について(本になっています)結構賛否両論な意見が出ています。私の意見としましては「現代のおっさんらしい書き方。」という感じです。その本だけ読んでも全貌は見えません。(当たり前ですが)お粗末な単純論理と捉えるヒトもいるようですが、この本はひとつの橋渡しになると思います。

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