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おさなごに学ぶ子育てコミュの数学者 岡潔に学ぶ

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情緒

嬰児に学ぶ  「情緒の教育」より

 人には心が二つある。心理学が対象にしている心を第一の心と言うことにすると、この心は大脳前頭葉に宿っていて、私というものを入れなければ動かない。

 そのかわりそれを入れるとワライカワセミのようにうるさい。私は愛する、私は嬉しい、私は悲しい、私は意欲する。この心のわかり方は必ず意識を通す。ギリシャ人もヨーロッパ人もこの心しかないし、大脳生理学もこの心のことしか言っていないのであるが、日本人にはそんなはずがないということが直ぐわかる。秋風が吹くと物悲しい。日本人は誰でもそうである。

 芭蕉は、「秋風はものいわぬ子も涙にて」と言っている。この物悲しさを感じる心は無私の心でなければならない。日本人は誰でも他(ひと)のまごころを感受することができる。この心もまた無私の心でなければならない。だから第二の心は大脳頭頂葉に宿っていて、無私の心であって、そのわかり方は意識を通さない。第二の心が自分である。この心は不死である。このことに本当に気付いている人を目覚めた人と言い、そうでない人を眠っている人と言う。

 目覚めた人を仏教では仏・菩薩と言い、日本では神と言う。中国では聖人と言ったり、神仙といったりしているようである。人は第二の心に住むべきで、目覚めたらそうなるが、目覚めなくてもできるだけ第二の心に住もうと努めるべきである。

 では第二の心に住むというのはどうすることか、第二の心に住んでいる人はどんな風か、それを知るのは赤ん坊を見るのがよいのである。〜懐かしさと喜びの世界である。わかり方は、まだ殆ど意識を通さない。じかにわかって、それが直ぐに表情や動作に出るのである。

 具体的に言うと外界は見るもの聞くもの皆懐かしい。人の顔を見れば人懐かしく、天井を見れば天井懐かしく、音楽を聞けば音楽が懐かしい。この懐かしさの基盤から喜びが湧き出るのである。

 わたしの顔を見ると眼を輝かせて喜ぶ。それで私は話し掛ける。「おじいちゃんね、汽車ね、ポッポー、ポッポーと行ったんよ。雨ね、コンコー、コンコーッと降ったんよ」そうすると孫は言葉なんかわかるはずがない。ところがわかるのである。目を細めて手足を振り動かし、声をあげて喜ぶ。

 嬰児は意識を通さないでわかる。それが大人になると意識を通してでなければわからなくなるのかというと、そうではなくて、意識を通してわかるというわかり方が、網の目のように蔽ってしまうから、意識を通さないでわかるわかり方に、注意がいかなくなってしまうのである。

孔子の仁義

 四季というのは仁、義の表れである。之がよく表われているから、ご覧、こうしていれば植物も大きくなり、動物も育つじゃないか。孔子はこう言っているのである。

・仁
春夏秋冬全く違って見えても、同じ良さが現れている。これが「仁」である。「懐かしさと喜びの世界」に住んでいる、これが「仁」である。人の子が生まれてから12ヶ月まで続くと思う。

・義
 春が如何に懐かしくてもいつまでも春ではいられない。夏は如何に恋しくても、時が来れば秋にならねばならない。秋は如何に恋しくても、季節が来れば冬になる。冬篭りがどんなに長くしていたくても、春めいて来れば春にならねばならない。これが「義」である。 

 仁、義を学びたければ嬰児を見ればよいのである。赤ん坊のうまれて12ヶ月をよく見ると「仁」を身に付ける。13ヶ月から20ヶ月までを見ると「義」を身に付ける。この二つを体得すれば道徳が行えるのである。

 黄老(黄帝と老子)のみちというのもやはり善である。黄帝が即位の始め、みちを広成子に聞いた。広成子というのは、洞窟に住んでいた仙人である。「道の極は幽玄である」と教えた。みちの本源は意識を通さないと教えたのである。  
 老子は「如」とは「らしさ」である。松は松らしく、竹は竹らしく、男は男らしく、女は女らしく。松らしさがあるから松が出来る。男らしさがあるから男が生まれる。女らしさが初めにあるから女が生まれる。それで、意識を通さないもの、「らしさ」を大事にせよ第二の心の存在を教えたのである。

 黄老の教えによって政治を行ったのは漢の文帝、景帝である。この時世は非常によく治まったという。中国はそれを政治に行ったのである。西洋には道徳を国に行うという意味の政治と言うものはない。政治と言うものの意味がまるで違うのである。尭舜の世のようによく治まった世は西洋には無い。

 明治天皇は「目に見えぬ神に向いて恥ざるは人の心のまことなりけり」と言っておられる。日本人は至誠になれば自らの道徳にかなうという自覚を持つべきである。日本にはまだ道徳が政治まで行った例はない。
美については既に言ってしまった。「如」が美である。だから美は外から見た第二の心それ自体なのである。真善美の流れと言うのは、大事な部分は悉く第二の心の世界から流れ出ているものである。人はこれをよく知って、嬰児からよく学び、歴史からよく学ぶべきである。

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