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LOVE&PEACE☆世界平和を考えるコミュの"平和"とはなんですか...?

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自分は頭が堅いせいか、"普段、自分が使用している言葉(単語や熟語)と、その言葉が指し示している意味(抽象概念)が、自分と他人の間でしっかり共有できているか(一致しているか)"、ということがとても気になってしまいます。なぜならそれが一致していないと、『会話』『対話』そして『説明』といったコミュニケーションにおいて、正確な情報伝達が成り立たないからです。

そのような性格ということもあり、自分は「平和」という言葉に対して常に不安感を抱いています。

平和とは一体なんなのか。辞書によれば「平和:争いや心配事がなく穏やかなこと」と定義されています。

この漠然とした定義だけでイメージを膨らませてみると、平和であるためには"戦争"はもちろん、普段ニュースでみる傷害や殺人といった"事件"として取り扱われる事柄はあってはならなく、また"喧嘩"といった小規模な事さえあってはなりません。さらに言ってしまうと、物理的にも精神的にも恐怖を与えたり脅威となるような事・物が存在してはなりません(それは"歴史"があることさえも禁じてしまいうる)。そしてそれを言い出すと、そもそも日常生活にひそんでいる"危険"となりうる事・物さえあってはいけないことになってきます。そしてこの展開で話を進めていくと、しまいには"生物(人間)の存在"自体が平和を脅かす根源である、というところに達してしまうことは容易に想像されます。

しかし単なるこのような議論では、ただの空論で終わってしまい、なんの生産性もありません。

ところが、生物が生命を維持するために自分以外の生物を食べて自己の血とし肉とし、また自分が生き残るためには同じ生物どうしであっても競い争う弱肉強食といった"自然の摂理"があるのも自明です。
(*少なくとも自明との認識が多数の理解を占めている)
そしてこの自明として認識されている摂理に従えば、事実上、"自分以外の他己は全て脅威の存在"となるのも、甚だ間違った回答でもなさそうです。

...といった具合で、自分の頭の中で"平和"について思考をめぐらすと、踏んだり蹴ったりの議論が永遠に続いてしまいます。(頭が堅い上、あまり賢くもないのです...)

ですので、納得し共有できる何かはっきりとした指標・方向性を示すことはできないものでしょうか。つまり、現実の中で生きている我々は、"平和を目指す"にあたって具体的に何をどうしたら"平和"を実現したことになるのでしょうか。

ある決められた規則や常識といった次元では、具体的な道を導くことはできないかもしれません。
ここは、自明とされていた自然の摂理や道理を見直した意見(例えば、人間は他の生物とは違って"特別"な存在であるとする人間至上主義に則った意見など)や、万人が納得のいく理解自体が自然の摂理に反するため、少数派は受け入れず"大多数の原理"に基づいて具体的な指標を示す意見など、みなさんにお聞かせ願えたらと思います。(でも...「言葉を使用する限り、答なんてものは存在しない」といった悟りの領域は...なんか嫌だなぁ....)

コメント(29)

これは掘り下げて考えるテーマと思いますが・・・。
今、考えて言えることは人間は環境の支配の中に生きており、依って生きている環境(国土や地域)が安穏でなければ自分たちの存在も成り立たないと思います。

自然や他人との「共生」の理念を各個人にいかに確立するか、「他が在って自分が在る」との実感をどうすれば得ることが出来るかが今後の世界・人類が存続していくための重要なテーマと思います。

管理人共々、真剣に思索して改めて所感を述べて参ります手(パー)
理想だと思います。

世界中から本当に戦争がなくなるでしょうか。争いや紛争が無くなるでしょうか。
私は絶対に無くならないと思います。

でも、理想だからこそ人間は、現実の中で戦い続ける事ができるのだと思います。戦い続ける事ができるから、幸福だと思うのです。

そしてそれは、どこか遠くにあるものではなく、一人一人の中にあるはずです。だからこそ絶対に諦めてはいけないのだと思うのです。
平和を願うその心が既に「平和」なのかなって思います
幸福であって欲しいと願う心が「平和」なのだと思います
「平和」とは、何か形あるものではなく、
心の有り様なのではないでしょうか・・・
子を持つ母親として、私はそう理解しています
「お腹を空かしていないだろうか」
「寒い思いをしていないだろうか」
そう思いをかけることも「平和を願う心」に通じると思います
どんなに状況を整えても、そこに心や思いが無ければ
空しいものになってしまう

「平和」を探求し、追求する姿は他者に感動を与えると思います
本気で考えてくれる青年が居てくれる事は、本当に頼もしい限りですハート達(複数ハート)
何年か前に見たニュース番組で、とてもショックを受けました。
とある国で核実験が行なわれたのですが、その国の若者に意見を聞くと大抵の人が、核実験を行なうことは悪いことではないと答えました。

その国の教育では、核や戦争の悲惨さを教えていないらしいです。
私達は子供の頃から、核を否定する教育を受けているけれども、そうじゃない国では、こんなにも核に対する考え方が違うのかと…

『平和』とは、もしかしたら理想なのかもしれないけれど、『戦争は絶対いけない』『原水爆禁止』などの平和教育は必要なんだなぁと思いました。
みなさんの意見にたくさん影響を受けております。ありがとうございます。
現在いろいろと考え込んでおり、自分はどのような意見をもつのかひきつづき模索中です。しかし、6のいちさんが代表してご意見をくださった内容の中で、少々おききしたい事柄が出てきたのでひとつ質問を。。

『戦争は絶対いけない』は自明の理として受け取れるのですが、核兵器に関しては敢えてなぜ『原水爆禁止』と強調せねばならないのでしょうか。これは先進国社会がとくにそのような傾向をもっている事実自体に疑問を感じます。

つまり質問の骨子は、核兵器と他の古典的な兵器との間に、どうして差をつけて考える必要があるのか、ということです。

おそらく、この差は「破壊の規模」と「その作用」の2つを問題視しているのだと思います。ご存知のように核兵器の破壊力は圧倒的ですし、また爆破後の放射線による二次破壊も生命や地球環境に大打撃を与えます。そしてその二次破壊は、命を落とさなかった生命体までにも影響し、その影響は子孫へと継承されていく点で倫理的に問題とされ、非人道的とみなされます。

しかし、このような見方を容認することこそが、危険であるように自分は思うのです。この論法は、詐欺師が使用する論法とどこか似ているように思います。

不要なモノを50万円で売ろうとし、それで買ってもらえないなら「10万、いや5万までまけます」といって買う気にさせてしまう。人間て、大きい数字から小さい数字へと考えを巡らせていくと、小さい数字を軽視する特性が備わっているものです。

少なくとも政治の世界では、人命の数をそのように捉える方法を常套手段にしていると思われます。実際、"100万人の被害が出るところを100人で抑えた"という結果は失態ではなく、どちらかといえば成功とみなされるのが現実です。しかし、100人の命が失われた問題が起きたことには、違いがないのです。

核兵器と他の兵器も同じような話ではないでしょうか。ここに差をおいて考えるのは、そもそもが"人間の甘さ"の現れではないでしょうか。非人道的な兵器はあっても、人道的な兵器はそもそも存在しないと自分は考えます。

ちょっと極端すぎますか...?

→ご意見をいただける方は、内容によって『核兵器』トピとリンクしながらコメントいただいても構いません。
難しいですね冷や汗

全ての人が平和的に考えられる世の中ならいいけども…。

昔の女性が短刀を持ってるのも護身用だけどダメかなぁバッド(下向き矢印)

人間色々だから、悪い人、いい人もいて、人類と思うんで、できる限りの範囲で、自分の身は自分で護ってかなきゃげっそりと思うなぁ。

人間から自分を護る短刀のように、他国から自国を護るのが核兵器ってのは、極論すぎますよね衝撃
トピ主様、時間がかかりすぎましたがあせあせ(飛び散る汗)個人としての意見を述べさせて頂きます手(パー)

アイドルグループの流行歌にもあるように「共生」とは「それぞれの持つ特性や個性」を決して否定しない思想を全人類が生き方の基盤として初めて実現出来得ることですね(コメが出来る出来ないの話題に傾いておりますが現に草木の世界では可能なことが認識されると思います)

人間以外の動物についてどうかと言えば「弱肉強食」の摂理の中で一面、不条理な社会が生命が誕生してより存在しておりますが、それとて環境そのものを破壊し尽くすほどの暴挙とはならずに絶妙なバランスを保ちながら現在に至っていると思います(生きるために多種を犠牲にする点が不条理と思われますがこれは戦争とは呼びませんよね?)

では、動物の中で意識を持つ人間はどうか・・・ここが難しいところで現在のような大量消費・廃棄の環境破壊や一地域では収まらない世界的な紛争などはあの歴史学者トインビーもここ百年余りの間に起こってきたことで過去に経験の無いまさに危機的な状況と言えますバッド(下向き矢印)

文明は形成→発展→安定→消滅(トインビー談、手元に何も資料がないため合っているか自信ありませんがあせあせ(飛び散る汗))を繰り返してきた訳ですが歴史上、人類が拠って起つ地球環境そのものが存続を危ぶまれる時代は無かったと思いますがこのまま指を銜えるだけでは破滅は必定、「能ある畜生」ならぬ「能無し畜生」として人類は他の生物からの嘲笑を免れません(表現が汚くなり申し訳ありません冷や汗)

しかし文明は様々な問題に直面するという宿命のような「挑戦」に真っ向から「応戦」をすることで諸問題を打破し、さらに発展を遂げることも歴史における事実であるとも・・・。

有史以来、戦争と背中合わせで生きてきた人間ですが今こそ地球存続のための新しい哲学・思想を全ての人々が真剣に模索・希求すべきと思います電球

壁は山ほど高く積まれておりますが「一人の変革が世界を動かす」という模範の人物に続く人々が破滅への防波堤となることを自分は信じておりますしそうした人々の存在自体が「平和」の証であるような気が致します指でOK
自分も、その一人たらんと決意して自身の出来る最大の努力を(このコミュも含めて)して参りたいと思っております(長々と失礼致しました手(パー))
奥深いモノですよねっ電球

私にとって“平和”とは、どんな人でもハート幸せだぁ〜ハートって感じられるコト
ですかねぇ〜っクローバー何となく、漠然としていますがダッシュ(走り出す様)
戦争がナイのは当たり前のコトだけど、いじめも身近で立派な戦争ですからバッド(下向き矢印)バッド(下向き矢印)
それを完全に無くすためにも、教育の道を進んでいるんですけどねっウインクかわいい
でも、そのためにも自分の中でしっかりとした哲学を持っていないとダメNGだとは
思いマスが。。。とにかく、将来&現実のために頑張りマスぴかぴか(新しい)
平和とは世界中の全ての人が笑顔でいられて戦争がない世界。
当たり前の事なんですが今の世の中はそうじゃなくなってきている。
世界中に対話を広げていきたい。
正義の為に戦い続ける事だと確信してます。

それが、理想主義でも、現実主義でもない、中道主義における平和観ではないかと思います。
久々の書き込みですが・・・トインビーの文明観は「新・人間革命」16巻の「対話」の章に詳しく出ておりますのでご確認いただければと思います。
記憶が曖昧な中での書き込み、恥ずかしい限りです冷や汗(しっかりと生命に刻むように学ばねばと深く反省しておりますあせあせ(飛び散る汗))
なんか、難しいですね。育った環境も周りの友達もみんな、十人十色だから、平和=これ!と決めなくてもよいのでは?と私は、思ってしまいます。考え方が、それぞれ違うから、世の中うまくいってたり、いかなかったり。最低限、戦争、人殺し、犯罪が良くない事と認識していれば。漠然だからこそ万人に当てはまるので、あって。
私が、こうやって思う事もみんなが、共感を必ずもつだろうと思ってないし。私は、周りの人、一人一人が幸せだあっておもってくれたら、嬉しいなあほっとした顔
私も久美ちゃん様と同様の考えです。
まずは身近な人の幸せを願い大切に思いやる心をどれだけ強く持てるか。
また、身近な人だけではなく他者(または見知らぬ他人)に対しても同様の気持ちを抱けるか。
誰もが『戦争』はいけないと思っているのに、それではなぜ現実に『戦争』が行われているのか?
『自分(達)さえよければ』という心の進化形が国単位の問題になっているのかと思います。
かくいう私もそのような心をどこかしらに持っていて、無意識に他人を傷つけているのかもしれません。(これも小規模の戦争なのかなぁ。。そんな小さい自分が嫌だなぁ。。涙)
世界中の人々の心に『自分さえ良ければ』の気持ちがなくなる事が『平和』に繋がるのかと思います。
かといって急に『戦争』はなくせません。
こちらのコミュニティのメンバーの方々のように、『愛と平和』について思索できる人々の一人一人が『自分には何ができるのか?』を振り返り、身近で小さな事からでも地道に行動していく。
その輪を少しづつ広げていくしかないのかな。。と思います。
同時進行で自分の心を鍛え磨く事により、さらに平和に向けての輪が広がる速度も速まるのかな?
戦争、環境、他人を責め、嘆くのは簡単ですが。。
自分の心を鍛え、強く優しく他者を思いやる人格に少しでも近づきたいと思う気持ち自体が平和への一歩であり、それを周囲の人に何かしらの形で広げていくのが私自身の目標でもあります。

とりあえず…交通機関で席をゆずるとか、悩みを持つ人に耳を傾けるとか…そんな小さな事の積み重ねもすでに『平和』への一歩かなぁ。。と思います。
平和とは、戦争がなくる争いが無くなることは当然のこととしてその結果、経済が発展することだと考えます。人々の暮らしがよくなること!
いま、日本という国では、戦争がおこっている様子はありません










さて、、、今、みなさんは平和でありますか
☆其の一☆
☆獅子クン☆さま、そして皆様、大変ご無沙汰しておりました。しばらく"旅"に出ておったもので、コンピューターから離れた生活を送っておりました。音信滞っておりましたこと、おゆるしください。


さて、日常の生活に戻ってきたこの十一月。
なぜか、日本社会に平和とは思えぬ空気を感じてやまないこの頃です。

これは物理的争いが起きているわけではなく、狼男ちゃんさんのおっしゃるように、まさに"混乱"が起きているからでありましょう。

『何故、混乱が起きるのか』。。
このトピックの核心は、恐らくこの問いにあるではないでしょうか。

「平和」の対になるものが「混乱」だとすれば、混乱が生じる源を追求し、その本質を明確にすることこそが、平和とは何かを共有する正道(適切な道)ではないかと思うのです。

(相反する意味で)"対"になる関係とは、片側が決まれば自動的にもう一方も決まるもの。原理的にそうではないでしょうか。

生物の身体形成でいえば、分子機械的に"左"を決定する機構が働くので、自動的に"右"が決まるように設計されています。〜この左を規定する遺伝子プログラムに異常が生じると、内蔵の位置関係、体軸の左右対称性が乱れ、多くの場合、発生過程で致死に至ります〜 つまり左が在るから、右も在るわけです。

余談はさておき、"平和"が捉えにくい/具体的なイメージとして共有しにくいもの・ことであるならば、"混乱"の生じる本質を具体的に捉えてみませんか。

---長くなったので小休止を---
☆其の二☆
---上の続きです---

これまでにも、「自分(達)さえよければ」という心が、世の乱れという問題となって現れると記述されている方もおられます。

混乱が生じる源を言い表す、ひとつの視点かもしれませんね。

ただし、人間は生来「欲」がある生き物です。他より自己を守り満たす心理は、原理的にリセットすることは難しそうです。

そこで、"混乱の本質"を見極めた上で"平和"を追求するにあたり、実生活(実学的)に必要なのは、「理想的平和の終局の形」ではなく、「信じ貫き通す理念」の確立であると考えます。

この理念は、人間が生きる上で苦しみ悩み、迷い不安に陥った時でも、前に進んでいくことができる生きる指標となるのではないでしょうか。この"前"という向きを規定するものこそが平和への方向性に通ずるものと信じています。

もちろんこの理念の追求には、ぷーやんさんがおっしゃるような多様性を含む要素が多分にあります。それは多いに結構なことで、大切なのはそれぞれが芯をもった理念であることなのだと思います。十人十色であるのもまた、自然の摂理ですからね。

ただ、現代にまかり通っているソレは、"十人無色"であって、互いに色が見えない(見せない/あるいは色が本当にないのかも)が故に、十色と錯覚しているのではないでしょうか。

---長くなったので小休止を---
☆其の三☆
---上の続き、最後です---

誤解を恐れずに個人としての意見を書くと、"何でもあり"という考え方は、何もないのと同じであり、人間界では多様性を意味せず無産生を意味するものと認識しています。自然界の多様性形成システムは、"欲"が特異的に発生する人間界ではそのまま通用するシステムではないのです。

雑草として生え、競争の結果生き残ったものが存在を獲得していくのが自然界の多様性原理だとしても、これは人間界にはあてはまらないということです。

人間にとって、雑草として生えてくるものは個々人の心の中に生じる気持ち・欲・アイデアであります。これが人間界の多様性として現れるには、"action"という過程を経なければなりません。この表現系としてのactionに至る過程こそが、人間特有のシステムです。

そのactionが"何でもあり"の考え方に沿って現れるのは、単に思ったまま動いているだけで、極端に言えばいわゆる本能のまま生きていることに相当します。これが良き結果を産む場合、良くない結果となる場合さまざまですが、心から行動への移行としては「無の過程」と言えましょう。

一方、理念に沿って生じた行動は「有の過程」を経たものとなりましょう。もちろんの事、こちらの行動にしても不安や衝突は伴うことが重々あります。しかし、それぞれ現れた行動に方向性がある点で、無の過程を経たものとは明らかに異なる特性を持っています。

即ち、「無の―」はスカラーであり、「有の―」はベクトルなのです。

いずれも、不安や恐れ、そして衝突がなくなるものではありません。しかし、平和を追求するにあたって、actionがベクトルであるのが重要なのは、"混乱"がないからです。

衝突が起こり、果ては戦争という手段に至ったとしても、それぞれの人間が理念を分かち合える者とともに全力を尽くす行動を取ればいいのです。だから、混乱は生じないのです。

狼男ちゃんさんが言うように、平和を勝ち取るために、血に塗られた手段が選択される場合もあるというのは、「有の―」を経た上での結果であると信じたいところです。ベクトル同志の闘いは、有産生の結果を産むことが多く、そしてそれに従事する当事者達には、闘う意義や信じ抜く心、そして守るに値するものをもっている為、心に苦しみは生じてもそれは混乱ではなく、平和に向かう道を歩んでいることに相当すると思われます。

ここで、攻撃行動は防衛行動よりも優性行動であることをお忘れなく。つまり「無の―」は「有の―」よりも優性であって、それは「低次へ堕ちる力」は「高次に向かう力」よりも優性現象であることに起因する原理的結果なのです。

従って、巻き添えで攻撃されてしまう脅威・恐れも、「有の―」を以てして応じることが理念の追求になります。理念をもって生きること、そして理念に沿って動くことは非常に高度なことであり、秩序的にも非常に高次な現象なのです。

よって、平和とはとっても高次なところで形成されるゴール的なものなのでしょうね。

実世界に生きる我々にとって、時間軸上のゴールを想像することはできそうにないことですので、やはりその方向性を見定め進んでいくことが平和に向かう努力に繋がるのだと思います。

生きる上で大切なのは、どれだけ生きるかでなく、どのように生きるかである。即ち、時間(量)だけではなく中身(質)である。それがベクトルであることの意義でありましょう。

このベクトルに芯があり、且つフレキシビリティが備わっていることが、衝突を極力避けつつ平和に向かうための理念に要求される課題ではありませんか。何か明確な理念を一提言としてまとめられたらば、と思い耽る今日この頃です。

長くなりました。おそまつ。。
ぬま〜さん

かなり高度な内容で自分の論点がズレるのを怖れながら所感を一言手(パー)

☆其の一☆の"混乱"の生じる本質とは・・・人々がお互いの差異を理解出来ないことから生じる憎しみや排他的思考によるものではないでしょうか?であるならば狼男ちゃんさんの言われるように「対話」こそが人々を結ぶ唯一のツール、アイテムとは考えられないでしょうか?ただし世界には対話を拒む国や団体(個人も含めて)も存在しますのでそうした現実に打ち克つ勇気や精神力はただならないものが要されるとは思います。
☆其の二☆の実生活上に必要なことは「信じ貫き通す理念」の確立・・・身近なところで考えれば一人一人(誰かではなくまずは自分が)の心の中に平和を確立することが大事。それには理念が間違いなく必要です。それは言い換えれば「信念」というものと思いますが自らの信念に基づく行動で協調性や慈悲(抜苦与楽、仏典に説かれる菩薩道の精神)で結ばれた人間の繋がりを拡げていくことだと思います。相手がどのような悪人であれ救いの手を差し伸べる・・・自分にこれが出来るかは難しいですけどもねあせあせ(飛び散る汗)

以上、あとはどなたか引き継いでコメントしていただけると有難いですうれしい顔

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