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逃れの街ミニストリーコミュの27:罪あるところにイエスはいるのか。。

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『私は、ほんとうにみじめな人間です。

 だれがこの死の、からだから、

 私を救い出してくれるのでしょうか。』

      ローマ人への手紙7:24


神様を信じてからでも、

だれにだってパウロのこの嘆きのように

何もかもうまくいかない時があったと思います。

信仰持ったのに、何も変わらない自分を見て

本当に自分は救われたのかと疑ってみたり、

自分の弱さを見せつけられて

神様の子となっているのにこんな弱さを持っていていいんだろうかと

不安になっていたりすることってあると思います。


神様から新しく生まれた私たちは

新しい心を与えられ、聖なるものとされ、聖霊の宮となります。

聖霊によって生まれた私たちは霊的な人になりましたと、聖書はいいます。

では、霊的な人は肉的な戦いがないのでしょうか?

まだ肉的な自分の弱さと戦っている人は霊的な人じゃないのでしょうか?

そうではありません。

コリントのクリスチャンたちだって霊的な人々でした。

もしそうじゃなかったら彼らはクリスチャンじゃなかったことになります。

確かに人が新しく造られた者であると同時に古いものであることができないのは

明らかです。

でもウェスレーはあり得ることだといいます。

それは僕らが“神様によって洗われている”という意味であり得るということです。

僕らは霊的な人になるときに、聖霊の力を受けます。

そしてその聖霊の力によって、罪責と罪の力に打ち勝つことができます。

でも罪の存在から救われるという意味ではないのです。

神様を信じている僕らには戦いがないわけではないのです。

私は神様の子とされた後も、罪の奴隷になりつづけると言っているのではありません。

それでも私たちのうちには罪との戦い、

自分の中の罪へと向いてしまう性質との戦いはあるのです。

では、完全な完全な解放はないのでしょうか。。。

そうではありません。

言い換えれば、完全な解放へと向かうがゆえに、

神様にそれを求めるがゆえにある戦いだと思うのです。

これがウェスレーの言う聖化という

罪ある私たちが全ての点において

神様の聖なる思いを受け取っていき、

その愛の中で神様の愛の姿へと変えられていくという

クリスチャンの生き方です。


ウェスレーはいいます。

『神様を信じる僕らには不信仰はない。』

たしかに疑ったりするときもあります。

うまくいかないとき、神様の存在が見えないとき、

自分の弱さに負けてしまうとき、

何も見えなくて、落ち込んでしまうとき。。

それでも肉に従うのではなく、霊に従い、主を第一にする僕らには

神様の聖なる愛が僕らをいつも導こうとされているという意味で、

不信仰にはならないといいます。

僕らが弱く、苦しんでいるときも神様は見捨てることはしません。

どこにあっても僕らは大胆に主を礼拝していくべきです。

『人は、罪を自覚していても、神の好意のうちにとどまることができます。

 しかし、もし罪に屈してしまうなら、そうではありません。

 内に罪があることを感じることが、

 神の好意を失うことにはなりません。

 罪に屈することが恵みを失うことにつながるのです。

 あなたのうちの肉が“聖霊に逆らって願う”としても、

 あなたは依然として神の子どもであり得るのです。』

           〜ウェスレー説教13より

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