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「J」の工房コミュの【ヒトノネ】

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 太陽よりも穏やかに、しかし厳粛に僕の目を覚ましたのは鐘の音であった。鼓膜よりも内側に広がるその音は、夢の世界にダイレクトに届いた。目は閉じたままの状態で意識だけが覚醒したため、自分がどの世界にいるのかを理解するのに数秒かかった。その数秒のタイムラグの後、目を開けることを思い出し、カーテンの隙間から零れ落ちる太陽の光を網膜で受け取った。そして自分の居場所を確認した。「大丈夫。僕の部屋だ。」桜の花も散り、オレンジ色の風が吹く季節になったので、僕の体の半分ぐらいしか布団は掛かっていなかった。いつも通りの少し軽い布団。そして体起こして、メガネを探す。それもやはり、いつも通り勉強机の上に置いてあった。一度しっかりと自分の状況を確認するためメガネをかけ自分の周りを見渡した。ユニクロのスウェットを着た自分の体。コタツ机の上には茶碗と鯖の味噌煮の汁と骨が残った皿、その上には木製の箸、さらにその近くには(野菜ジュースを飲んだのだろう)少し赤みがかったコップ。振り返るとハンガーに洗濯物。勉強机には開きっぱなしの何冊かの本。「大丈夫。何も変った所はない。」
 
 朝ごはんはいつもトーストを焼いてマーガリンを塗って食べるが、今日は電子レンジの中に昨日の晩に作ったおにぎりがあったのでそれを食べた。すこし塩の味が強く、一口食べてはお茶で口の中の味を調えた。食事を終え、CDプレイヤーにモーツアルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークのCDを入れ再生した。演奏はとても統率が取れていて機械的であったが、それ以上にモーツアルトの独創性が耳に心地よさを感じさせた。そのままCDプレイヤーに音を出させたまま顔を洗い、歯を磨いた。いつも通りの手順。何一つ滞りなく進んでいく、もう一度、鐘の音が耳の奥でなるまでは。

 2回目の鐘の音が鳴ったのは、歯を磨き終わって着替えようとクローゼットから服を取り出した時であった。一回目よりも音は大きく、モーツアルトの音は鐘の音に完全にシャットアウトされた。「家の近くに鐘のある寺なんてあったっけな。」と不思議に思い着替えを済ませ、寺を探しに行くことにした。今日の予定は特になく、とりわけやらなくてはいけないことは部屋の掃除ぐらいだった。「まぁいいだろう。とりあえず鐘のある寺を探そう。」

 CDプレイヤーの電源を切り、部屋に無造作に落ちていた帽子を被り、電気を消して、靴を履き、家のカギを占めた。とりあえず繁華街よりも山に囲まれてた場所の方が寺はあるだろうと思い、緑がかった東の方へ足を進めた。休日のためか道路には車が多かった。アスファルトには熱が放出され、その上の空間は揺らいでいた。梅雨はまだ来ていないのに夏を思わせるような光景だった。

 しばらく歩いていると車も人も少なくなっていった。しかし、寺のようなものは何処にもなかった。周りはまだ少し閑静な住宅街と言ったところで、木陰ができるほどの木は生えていなかった。ただ手入れをされた木々が所狭しと並んでいた。「ずいぶんと歩いたのにまだ目的の寺は遠いのだろうか」と思った。すると僕の思考に呼応するかのように3回目の鐘が鳴った。予想以上の大きさの音が耳の奥で鳴り、すこし目眩をおぼえた。「鐘の音が大きくなってるということは、目的地に近づいていることだろう」と僕は好意的にその大きな鐘の音を捉えた。

 あまりにも暑かったのでのどが渇き、自販機でジュースを買った。まだもう少し歩かなくてはならないだろうと思い、ペットボトルのアクエリアスを選んだ。アクエリアスを飲むと、冷たさが食道を通り、胃、さらに小腸までたどり着き、それから体中を廻った。ペットボトルの蓋を閉め、左手に持ち、再び歩き始めた。もうすでに森の入り口は見えていた。

 森の入り口はだんだん、近づいていくうちにその内部に陰気さを増していった。遠くから見える太陽の光を浴びてキラキラと緑色に光るようなものではなかった。僕は咄嗟に、その陰気さは森が死を自然な形で受け入れているからだと思った。街の方を振り返ると、愛想笑と偽りの涙で作られた世界のように見えた。街にある悲しみなんて、たまねぎが目にしみてでるような涙で構成されたものであるように思えた。そうして4回目の鐘が鳴った。

 鐘の音は更に大きくなって耳の奥で響いた。そしてしばらくの間、僕の耳の中にその音は留まった。そして鐘の音から開放されて正気をとり戻した時には既に僕は森の中にいた。

 森の中は異常なまでの静けさを保っていた。そこでは全てのものがその存在を自然に受け入れられており、木の葉が揺れる音も、虫がなく声も、川が流れる音も、全てがあるがままで、それは完全なる静けさであった。ただ僕が歩き、息をしてたてる音は明らかに異物として森に認識されているようであった。森は僕に死を自然な形で提示することはなかった。そして5回目の鐘が鳴った。

 鐘の鳴る間隔が短くなっていってることに僕は気付いた。それも目的地に近づいているからだろうと好意的に捕らえた。もちろん、僕が鐘のある寺に近づいているからと言って、寺の鐘の音の間隔が縮まると思うのは普通の思考回路ではない。しかし、鐘の音が鼓膜の内側で広がってるのを考慮すると、もしかしたら鐘の音は実際には鳴ってないのかもしれない。そうだとしたら、鐘の音はなにか大きな力が動かしているただの道しるべでしかない。そうふと思った。

 4回目の鐘の音よりもさらにひどく、5回目の鐘の音から思考と身体が開放されるまで数十秒かかった。正気になってあたりを見渡すと森は更に暗さを増し、死を能動的に取り入れる様相となっていた。しかしそれは禍々しいものではなく、本来あるべく綺麗な景色のように見えた。そのような光景の中を歩いていると、周りの木々や、虫や、さらに自分でさえも、その存在が、死と言う概念に延長された生に飲み込まれていた。もはや生きていることを自覚していた自分がばかばかしくなった。

 当たり前のように6回目の鐘が鳴った。更に大きな音で、もちろん短い間隔で。もう引き返すことはできなかった。森に含まれた瞬間から僕と言う生命の存在が、概念の中で融解してしまっており、もはや街に戻れなくなっていた。しかし、直感的に鐘の音の、寺の、正体がわかれば、何かしらの示唆が得られるだろうと思った。生命の融解は僕を導くための一種の脅しのように感じられた。

 6回目の鐘から正気を取り戻してすぐ7回目が鳴った。もうそれ以降は数えることができなかった。鐘の音が鳴ったのかさえもわからない。どれだけ時間がったったのかさえわからない。そして次に正気を取り戻したのは、真っ暗な森の中で寺と白くて長い髭を生やした老人を目にしたときである。

 「やぁ、こんにちは。はるばるご苦労だったね。」と老人はゆっくりと言った。「もはや此処までたどり着いた君には言うことはないだろう」と笑みをこぼしている。僕はまだ突然現れた老人にどのように対処していいのかよくわからなかった。何を言っているのだ、この老人は。
 「仕方ない、一つだけ言っておこう。」そう言って老人は息をすった。「私は君達が汲み取ってる大いなる意識の代表である。森を歩いていて感じただろう。生と死を。大いなるものに溶けていく感覚を。個々の根底は全であり、それは一だ。だから底を見ることを覚えなさい。あなたが何から意識を汲み取ってるのかを自覚しなさい。これだけ言えば十分でしょう。」僕は理解しきれずに放心状態になった。
 「まぁいい、考えるより感じなさい」となだめるように老人は言った。「寺はどんな意味があったのですか?」と僕はきいた。すると老人は寺があったほうを向いて「寺なんてありません」と言った。確かに僕の目の前にあった寺はなくなっていた。

 「そうやって思想は作られるのです。だから覚えておいて欲しいのです。あなた達が汲み取っているところは、何もないということを。」

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