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尼子経久とその一族コミュの【略歴】尼子経久

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尼子経久(1458.12.25? - 1541.11.30?)

尼子清定の嫡男。母は真木朝親女。又四郎、民部少輔、伊予守。出雲守護代。弟に尼子久幸、子に尼子政久、尼子国久、塩冶興久など。

文明11年(1479)ごろ、父清定より家督を受け継ぎ、出雲守護京極政経の偏諱を受けて「経久」を名乗って出雲守護代となりました。
しかし文明16年(1484)3月、経久は寺社本所領横領、御所修理段銭難渋などの科で幕府の「退治」を受けます(『吉川家文書』)。この「退治」の軍事行動は同年11月には終了したものともわれ、京極政経の感状などから軍事行動に三刀屋氏、三沢氏、牛尾氏の参加を確認できます。

『陰徳太平記』などの軍記物によれば、追放されて浪々の身となった経久は、2年後の文明18年(1486)正月に富田城を攻略し、以後出雲国内の征服に乗り出していったと伝えています。そして長亨2年(1488)にかねてから対立を続けていた三沢氏を降伏させ、これにより、三刀屋氏・赤穴氏など他の国人たちも次々と経久の軍門に降り、出雲国内は統一されたとされています。
ただし、これらの事実は同時代の記録にはなく、経久の富田城復帰の経緯やその後の出雲統一戦がどのようなものであったのかは具体的には不明です。三沢氏との戦いが事実としても、その後も何度も三沢氏との戦闘が起こっているため、この時点で三沢氏を屈服させたとまではいえないようです。

永正5年(1508)、出雲守護・京極政経は嫡孫・京極吉童子丸に家督と諸職を譲る旨の書状を残し、伝来の文書とともに経久に託して没します(佐々木文書)。当の吉童子丸はその後、政経の弟・京極高清の養子となって高慶を名乗ったと思われ(佐々木哲氏の研究)、出雲には在国していないことから、このとき実質的な出雲の支配権は経久に託されたものと考えられます。

またこの年、山口の大名・大内義興が細川高国と手を結んで前将軍・足利義稙(義材)を奉じて上洛します。義興は11代将軍・足利義澄と細川澄元を追い落として義稙を将軍に復位させると、管領代として室町幕府の実権を握りました。
諸軍記では経久もこの上洛戦に参加し、永正8年(1511)の船岡山の戦いなどで活躍したとされていますが、これも詳細は不明です。ただし、子の国久、興久の名はそれぞれ細川高国、大内義興の偏諱を受けたものと思われ、上洛自体は事実であり、このときは大内氏・細川氏に接近をはかっていたものと推測されます。

そして経久は非常に早い段階から出雲国外へむけた軍事的対応を始めています。
清定以前から親交のあった石見東部の佐波氏や安芸北部の吉川氏との同盟関係を維持し、永世年間はじめごろからはじまった伯耆守護山名氏の内紛に介入して山名澄之を支援しています。
永正9年(1512)には備後国・古志為信を支援して備後を攻撃し、永世14年(1517)には大内氏の石見国守護補任に抵抗する前守護山名氏に「合力」する動きを見せたり、備中国・新見国経を後援して三村宗親を攻撃したりしています。
また、永世12年(1525)以降のいずれかの段階で大内氏から離反した安芸武田氏とも親密な関係を形成しています。
しかし、これらの対外的軍事行動はいずれも本格的な侵攻ではなく、周辺諸国の諸領主を支援するといった形のものでした。その目標は、諸領主との間で有利な関係を築き、またそうすることで出雲国内の諸領主をも統制しようとしたものであると思われます。

永世15年(1518)、塩冶興久の名で日御碕社への社領寄進が行われており、この段階で経久は三男興久を塩冶氏に入嗣させたことが確認できます。塩冶氏は出雲最大の経済要地を抱えており、また出雲一宮である出雲大社とも同盟関係にあって、出雲全体に影響力を及ぼす存在であったため、経久の出雲一国支配はこの塩冶氏の掌握をもってはじめて実現できたものと思われます。

また、尼子氏の対外進出は国内統一を完了してから行われたものではなく、同時進行的に進んでいったもののようです。
たとえば備後出兵後の永正10年(1513)に出雲東部の阿用磨石城を攻略しており(このとき主将であった嫡男・政久が戦死してしまいます)、出雲西部の須佐郷高矢倉城を攻略したのはようやく永世17年(1520)になってからです。

経久の対外進出が本格化するのは大永3年(1523)の安芸鏡山城攻撃による東西条攻略からで、このとき同時に石見那賀郡方面を攻略しています。この侵攻は、前年以来の大内氏の安芸侵攻に対する反撃として行われたもので、かつ同年の友田興藤の安芸桜尾城奪取に呼応したものであると推測されす。
ともかく、これによって尼子氏は一躍大内氏の対抗勢力として周囲に認知されるようになります。ただ、このとき安芸毛利氏、平賀氏、天野氏など周辺諸領主の多くを従えていますが、これら領主層の掌握はきわめて限定されたものでしかなく、基本的には同じ「反大内勢力」という枠組みにはいったというに過ぎなかったようです。

そのため、大永4年(1524)に大内氏の反撃によって武田氏・友田氏の連合軍が敗北するなどした結果、大永5年(1525)には毛利元就が大内方に転じ、大永6年(1526)に伯耆・備後等の守護である山名誠豊が反尼子姿勢を鮮明にすると、芸備両国の確保は極めて困難となりました。
経久はこの対策として大永7年(1527)に自ら軍勢を率いて備後国和智郷へ進出し、また安芸武田氏の居城銀山城にも赤穴光清を在番させるなどしましたが、陶興房・毛利元就によって撃退されてしまいます。このため、備後国湯浅氏などは尼子方から大内方へと転じてしまいました。

享禄元年(1528)9月、経久は備後国多賀山通続のこもる蔀山城を攻撃し、一旦は山内氏らの援軍により撃退されたものの、翌年7月に攻略に成功しています。
この勢いに乗って尼子氏の勢力は盛り返すかにも見えましたが、さかのぼる同年5月には安芸・石見の有力領主高橋氏が毛利氏・和智氏によって滅ぼされており、芸備戦線はまったく予断を許さない状況が続いていたようです。

そして享禄3年(1530)、三男・塩冶興久が反経久を表明して戦闘を開始します。『陰徳太平記』などによればこの興久の乱は天文元年(1532)にはじまり一挙に鎮圧されたものとされていますが、実際にはその2年も前から戦いがはじまっていたのが史料により確認できます。
このとき興久は杵築大社(出雲大社)・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏ら出雲国内の有力領主らと連携し、さらに備後山内氏などもこれに与同したため、経久はかなりの苦境に陥りました。
しかし翌年には経久の嫡孫・尼子詮久が備後山内氏を攻撃しており、天文元年までには三沢氏を破って惣領三沢為国を廃して為幸に交代させるなどしていることから、このころまでには大勢は決していたようです。
そして天文2年(1533)、経久は備後山内氏を降して興久を自害に追い込み、数年続いた興久の乱は終結しました。

こうして危機を脱した経久は、興久の乱の大勢が決した天文元年から美作侵攻を開始、以後周辺各国へ非常に活発に軍事行動を行っています。
天文5年(1536)からは連年詮久を播磨に遠征させ、上洛のかまえをみせます。この上洛戦は、豊後の大友義鑑が画策した将軍足利義晴の「入洛」援助を名目とする大内包囲網の一翼を担うかたちで展開されましたが、上洛そのものが目的というよりは、勢力下領主層の統制を一挙に回復し、あわせて近隣の諸勢力にその存在感を誇示するために行われたものであると考えられます。
また同時期には宮氏や渋川氏を服属させて備後へも強い影響力を及ぼし、吉川氏や安芸武田氏との連携を保って安芸への影響力も残していました。安芸武田氏については家督相続に介入し、統制下に組み込むことに成功しています。

このころから軍事行動は主に詮久が主導するようになっていったようで、天文6年(1537)には家督を詮久に譲り、隠居しています。そして天文10年(1541)末、月山富田城で死去しました。享年は83歳といわれます(諸説あり)。
このとき尼子氏は吉田郡山城の戦いで毛利氏・大内氏に敗れたばかりで、その死は支配地域の諸領主に衝撃を与え、求心力の低下に拍車をかけたようです。そしてこれが大内氏の出雲遠征へとつながることになりました。

コメント(10)

詳しく書かれてて、改めて勉強になりました。

経久の富田城復帰の経緯やその後の出雲統一の記録がないのが残念ですね。

奇襲で奪回したなど聞きますが、真相が知りたいものです。
>レフトさん

えー、実はこの略歴、誤りがあることに気付きました。

政久の死没年は「陰徳太平記」によって永正15年としましたが、同時代の史料により永正10年が妥当なようです。

また塩冶興久に与同した勢力で「備後山名氏」と書きましたが、「備後山内氏」の誤りです。

また改めて書き直します…すみません…
>豆腐さん

そうですね。なんだかんだ言っても大内氏は巨大勢力ですからね…
陶晴賢の大内義長擁立に際して尼子氏がすぐに攻め立てることのできる位置にいれば毛利氏の台頭を押さえらはれたでしょうが、富田から山口は遠すぎますからね…
実際、この混乱でようやく銀山確保の目処がついた程度なので、大内の壁は厚いということですか。

それを巧みな外交・戦略で制圧した毛利元就は、多少の天啓があったとはいえ、やはり相当な切れ者だったということですね。
>豆腐さん

文弱に走った大名は滅びる、という考え方は近代以降のものではないかなぁと思います。
たとえば、今川氏真は蹴鞠や和歌などに溺れて政治を省みなかった無能者というような評価をされがちですが、江戸期成立の『甲陽軍鑑』では、氏真は我侭な部分のある剛勇な人物として描かれていて、三浦義政のような「奸臣」を重用したことが批判されてはいるものの、和歌や蹴鞠などの貴族趣味に対する言及は特にされていませんし。

京風文化を振興して和歌などを嗜んだとされるのは大内氏もおなじですが、戦国時代の和歌や蹴鞠には、公家との交流によって政治的影響力を強める目的や神道と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もあった、といわれているので、これをもって「文弱」と評価することはできませんよね。
大内義隆が「文弱」と言われる所以は、そのことよりも月山富田城での敗戦後、極端に厭戦的になってしまった事があげられると思います。

以後の大内氏は家臣団の権力闘争が続いていて、陶晴賢の死後はそれがさらに激化しています。毛利元就が山口を電撃的に制圧できたのも、このような大内家臣団の分裂のためでしょうか。
>豆腐さん

大内義隆はなかなか優秀な人物だったと個人的には思っていますです。
九州方面での戦いでは、小弐氏に対抗するために小弐氏の官位「太宰小弐」の上にあたる「太宰大弐」の官位を得るなどして名分を得、小弐氏に与同する諸勢力にたいして揺さぶりをかけています。
この結果として小弐資元を討つことに成功し、また博多を獲得して大陸貿易の拠点とするなど、大内氏の全盛期を築いていますよね。
このことは、ただ単に戦場で勇を振るうだけでなくて、政治的駆け引き・センスも持ち合わせていたということの証明ではないかと思います。

まぁ、普通に「戦上手」というとは実戦指揮官として優れている人のことを言うとは思いますが、実戦指揮よりも戦術眼・戦略眼に優れた人物もやはり戦上手といってもいいかもしれませんね。
>豆腐さん

そうですねぇ、朝廷の力というのはなかなかに侮れないものだったんでしょうね。
朝廷を利用するにはそれなりの経済力がいりますし、教養もそれに増して必要ですから、いうほど簡単なことではなかったでしょうね…

大内氏の支配、分析するに足る材料を持ち合わせていないので何とも言えないのですが、「守護」出身の大名権力であるという点に家臣団崩壊の一因がある気がします。
守護領域の領主層には、基本的には守護に「国並み」(他の国人と同程度の、という意味合い)の奉公をするという「常識」のようなものがあったという研究があります。より守護に近しい関係になったら「被官並み」の奉公ということになるようです。まあようするに、守護の力が強ければかなり過酷な命令でも「国並み」になりうるけど、弱ければロクに命令をきかない、ということになるのかな?
おそらくは守護領域の領主層は大抵が「国並み」で、「被官並み」の奉公をする領主層というのはごくわずかでしょう。
大内氏もそうですが、これは尼子氏にも言えますし、甲斐武田氏や朝倉氏などもそうでしょう。いったん崩れだしたらつぎつぎと寝返ってしまうのは、こういった領主層の「常識」的行動理念にあったのかもしれませんね。

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