ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

東洋医学で人を診るコミュの鍼道秘訣集を読む

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
鍼道秘訣集の現代語訳をアップしながら、
夢分流を中心とした腹診術について考えていきます。

コメント(52)

4、三つの清浄(すまし)


この三つの清浄は、心法の沙汰です。

【図】これは心の字の形です

三つの輪は、清(きよく)浄(きよき)ぞ唐衣くると念(おも)うな取ると念わし。
三つの輪と言うは、貪欲(むさぼる)・瞋恚(いかる)・愚癡(おろか)の三毒心が、清い月を暗(くもら)す悪雲であるということです。

歌に
「貪欲(むさぼりおもう)心 貪欲の深い流れに沈まりて、浮かぶ瀬もなき身ぞいかがせん」
「瞋恚(いかる)心 燃え出る瞋恚(しんい)の炎に身を焼きて己と乗れる火の車かな」
「愚癡(おろかなる)心 愚癡(ぐち)無智(むち)の理非をも分けず僻(ひが)みつつ僻むは一(おなじ)僻むなりけり」
とあります。
三つの清浄(すまし)(貪欲の心、瞋恚の心、愚癡(ぐち))

貪欲の心

第一の貪欲の心は変じてあらゆる禍いを起こします。この欲を離れられないため、鍼においても下手の名を取ることが明らかとなります。たとえば病人の腹を診て、己 の心に乗ってこのようにすれば治るであろうと念う病人もいます。けれども治療の道筋が心の中に浮かぶことなく、腹の状態も己の心に乗らない病人も多いものです。このような心に乗らず腹の状態の合点も行かないものは、百日千日鍼をしても治らないものです。他の治療家のところへ行って下さいと言って治療はしないようにします。

けれども己の心に合点がいかなくとも、病人が裕福であったり貴人であったりすると、合点は行かなくとも一通り鍼をすると、たとえ病人が死んだとしても鍼の礼を受けることは出来るだろうなどと考えて治療に取り掛かかるなら、もともと合点が行かない病なわけですから治りません。そうするとこの鍼灸師は下手なため効果が出ないということから、転医するものです。また、重病で己の心には乗らなくとも欲に引かれて取り掛かり鍼をしていくうちに病状はますます悪化し終には死んでしまうと、下手の名を取ることとなります。これは己の欲が強すぎるためです。人間として生まれて欲のないものはありませんけれども、重欲(強すぎる欲)の心を戒めるものです。このような欲の雲が心中に強い時は、心の明鏡を蓋って暗くしてしまうため、病が心の鏡に移ってみえることも少なくなります。そのため生死や病証の善悪も弁別しにくくなるわけです。欲の炎が治まっていると、己の心が清(す)み、曇りのない秋の月のような明鏡となりますので、病の吉凶や生死の去来がよく浮かび見えてくるようになります。これが三つの清浄の第一です。

...瞋恚の心

瞋恚(いかる)気心がある時は、前と同じで心鏡を暗くします。この瞋恚気が出る理由は愚かなため、我を立てるからです。木火土金水の五行と、陰陽の二つを借りてこの世に生まれます。これらすべては借り物です。身体の中の五臟六腑は五行に配されます。五つのものを借りることができたのですから、死期に望んではそのひとつひとつを元の方へ返していくわけです。このように考えると、我とするべきものはなにもありませんし、頼みとして千万年も念うことはできません。

「地水火風空 集まり生まれた空の身に、我と頼まん物あらばこそ」
「暫時(しばらく)生ある間にて、焼けば灰、埋めれば土と成るからは、我と立てるべきものなし」
「大水の先に流れる栃殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

このように、我を捨て無我の心になることができると、瞋る気持ちも人を恨む思いもなくなります。我を立てるために恨み瞋る心も出、さらには欲の思いも出てくるものです。この大元のところを理解できないため、愚癡(ぐち)の暗闇に迷うことになり、色の道にふける者がついには愛着し深く執心して、背く者を恨み瞋るということになります。

貴人や高位の者や裕福な者にこびへつらい、金銀や米や銭を得ようとし、賎しい者や貧しい者には目もかけないような者は、襟に付いている虱(しらみ)根性の持ち主であって、大愚癡から生ずるものです。このような心が少しでもあるようならば、病を癒すということはなかなか思いもよらぬこととなります。


貴い人にもこびへつらわず、賎しい者をも撰ばず、富者も貧者も選り好みすることのなく、ただ病苦から救おうと念い、慈悲が強く正直で邪見や欲心から離れた位置こそが即心であり即佛です。ここにおいて天道も佛神もこれを護り、その業は自然に巧妙になっていきます。

「慈悲佛(じひぼとけ) 正直(ただしき)は神 邪見(よこしま)は者(ひと) 心一つを二つに言うべき」

この歌をよく心得て、貪る心なく、無我の心になろうと念うなら、十人すべてが無我無欲とはならないでしょうけれども、その半分でも心が清(す)み、病を治す者になるであろうことは疑いありません。

三の清浄

これら、貪欲(どんよく)・瞋恚(しんい)・愚癡(ぐち)の三つの念(おも)いがないときには、心が清みます。心を清浄に持つことはこのゆえに三つの清浄(すまし)と言われています。この心の持ち方は、多くの芸に通じます。ことに、神に参詣するときには、身体を清めることよりも心の清浄を専らとします。心が清ければ神(たましい)も清くなりますので、向かい側の神もまた清く納受されます。

その昔、栂(とが)の尾の明慧(みょうえ)上人と笠置の解脱上人とを、春日大明神は二つの御眼・二つの御手のように思われておりました。明慧上人が参詣した日、御簾(みす)が上がり、明慧と春日は直(じか)に物語を語り合われたそうです。ところが解脱上人が参詣されたときには、御簾を隔てて物語をされたといいます。ある日、解脱上人が参篭(さんろう)されて、春日に申されるに、「神と申し奉るものも佛の垂迹(すいじゃく)です。佛は雨が降り草木や国土を漏らすことなく湿(うるお)すように平等で、隔てることなどまったくありません。明慧と我れと、区別や違いがあるはずがないのに、明慧が参詣したときには直にご対面され、我れが参詣したときには御簾を隔てて物語をされました。このことがよく理解できません」と問われました。明神がおっしゃられるには「我れには何の隔てもありません。そなたのそのような思いが御簾の隔てとなったのでしょう」とご返答されたということです。これは解脱房の心に慢心の我があったためです。

また古き美濃の国、加納の城に於伊茶(おいちゃ)という女が、重病の母を抱えて苦しんでおりました。伊茶はあまりの悲しみのために関という場処の龍泰寺の全石(ぜんせき)という僧に頼み祈祷のため陀羅尼を読んでもらったそうです。一心不乱に陀羅尼を読んでしばらくすると母が頭を上げ、「やれやれ、嬉しいこと。このごろ心(むね)の内に苦しみがあり悲しんでいたんだけれども、お経の力でこの苦しみがなくなりました」ととても喜びました。その時、全石は思ったそうです。「そろそろ布施をもらって帰ろうか、もう少しいようか」と。その心が出てきたとたんその母は「やれやれ、悲しいこと。また心が苦しくなってきた」と悲しみました。全石はこれを聞いて、「さては我が心に欲心が出たためか」と思い直し、まえのように一心不乱に陀羅尼を読んだため、母の病も徐々に軽くなり、ついには癒えてしまったといいます。これもまた我が心の内の清浄と不清浄によって、このような善悪がおこるというたとえです。

また、病者に向かうと臆病となる者があります。自分の芸が極められていない人は、心に動転を生じやすいためです。不動明王の背中の炎、伽婁羅(かるら)の炎は心火を表わしています。その火の内側に不動が座しておられるのは、人々の心の不動の状態を示しているわけです。どのような芸であっても不動の状態にならなければ、その事(わざ)は成功しにくいものです。

「鳴子をば、己が羽風に任せつつ、心と騒ぐ村雀かな」

この段、よくよく心掛け、工夫を凝らさなければなりません。これが心持の最も大切なところです。


>。「そろそろ布施をもらって帰ろうか、もう少しいようか」と。
>その心が出てきたとたんその


  治療を生業とするというとき、なにも考えずにシンプルにしていけることは
 とても有難いことだなと思います。

  「お金はあとからついてくる」と私はこの世界に入ってから良く思うのですが、トラブルなどがあると、それを忘れてしまうことがあります。

 とにかく、あとからついてくるのだから、自分の心の中から捨て去る。
 そんな風に感じています。


 この業界で、後進の方のご相談に乗ると、ご自身の「経済的な問題」を一番に考えている方がいらっしゃいます。そういった場合には、私にはアドバイスの方法もないななどと感じてしまいます。「お金はあとからついてくる」その境地を共有できるということが、大前提かなあなどと感じます。

5、四つの脉のこと


脉は古来、七表八裏九道に分けられていますけれども、このように細かく採って理解している人はおりません。浮沈遅数のせいぜい四つを理解して採っている人さえもまれです。けれども当流の四つの脉は数千万人の奇特があります。

これは動気と動気の乱れ、相火と相火の乱れと名づけて四つとなります。動気というのは、遅くなくトントンと搏ってくる脉です。世の中で平脉といわれているものがこれです。動気の乱れとは、右に述べた平脉の内に打ち切れがあるものです。たとえば、トントントンと来る脉にトントントントントントトンというふうに打ち切れるものです。この脉が無病の人に現れるときには、必ず災難に逢うか、大病を得ること疑いありません。

意齊と古道三〔訳注:曲直瀬道三(1507年〜1594年)〕は同時代の人で、ことに仲のよい間柄でした。意齊は夢分から伝授されたこの四つの脉を古道三に伝えられました。その後、道三は用事で関東に下る際、道中の今でいう新井に泊まり、日が暮れて脉を採ってみましたところ、動気が乱れ搏っていたということです。そこで道三は下人たちを呼んで、一人一人の脉を観てみたところ、どれもすべて災難に逢う脉でした。道三は不思議に思い、そのままその宿を立ち、夜五六里関東のほうへ下ってから宿を借り、心を静めて上下の者の脉を残らず観たところ、平脉となっていました。なんとも不思議なことと思われたそうです。

その夜、新井の山から法螺貝が抜け出て〔訳注:おそらく「新井の山で戦争が起こり」ということと思われる〕、新井では多くの人が災難に逢って亡くなりました。その日道三は死を逃れることが出来たのは、この脉が相伝された証拠です。それから道三はこの四つの脉を秘し、たやすく相伝せずについには秘して失ってしまいました。

現在意伯家に伝わっているこのような奇特な出来事は、紙幅に尽しがたいほどあるため、略します。

さて、相火という脉は、トントントンと早く来る脉です。これを病人の脉と呼びます。相火の乱れとは、トントントトントントントトンと早く来る脉の内に打ち切れがあるもので、これを死脉とします。このような脉を搏つ人は十人が十人とも死ぬと覚えておいてください。

これは当流の大事です。けれども、この四つの脉を理解して治療して、本道の鍼医が誤る事がなくなれば、非業の死もなくなりますので、これは大きな善根を積むこととなると思い、ここに書き記しておきます。

この脉の診処は、手ではありません。臍中の神闕に指の腹をあてて、搏ち来る脉をみます。この神闕のことを当流では三焦の腑と呼んでいます。ここにもまた相伝することがあります。奥に記しますのでここでは略します。


6、火曳きの鍼


この鍼の術は、臍下三寸、両腎の真ん中です。産後の血暈といって、出産の後、目眩がおこる際、臍下三寸に鍼して上る気を引きおろす鍼です。たとえ産後に目眩がない場合でも、三十一日のうちには二三回は鍼します。

また、上実下虚の病証の人は、必ず上気します。このような人に火曳きの鍼を用います。この外、医師の機転によって、病証によって用います。
7、勝ち曳きの鍼


この鍼は、大実証の人の養生の鍼です。また、傷寒の大熱や傷食の際に用います。位置を定めず邪気を打ち払って鍼を曳きます。これは瀉の鍼です。虚労の老人には用いない鍼です。それ以外の人にはたいていこの鍼を用います。

..8、負け曳きの鍼


これも場所は定めずに、その病証にしたがって処置する鍼です。邪気が隠れて存在するとき、鍼をすることによってその邪気をおびき出して治療します。このような鍼をする病人の中には、病証が何なのか判然としない場合のものもあります。徳を積んだ狐がついている病人などは、狐つきとも気違いとも判然としないものです。このような場合にも用います。

邪気を引き出して様子を見ながら治療しようとする時によく用いる、方便の鍼です。

判然としない諸々の病において用いる問い鍼である、と考えてください。



..9、相い引きの鍼


これも場所は定めずに、柔らかにする鍼です。虚労の証や、老人の養生のために用いる鍼で、邪気を曳くことと鍼を引くこととを相(ともに)曳く鍼です。補の鍼と呼ぶべきでしょう。
10、止める鍼


立てる場所は両腎です。多くの場合は右の命門にします。龍雷の相火は常々高ぶりやすく上りやすいためです。腎水を泄らしたときには、右腎命門が必ず動じるものです。

天に火がなければ物を生じることはできず、人にこの火がなければ、一身を生じることができない、と言われている火がこれです。

邪気にも五邪がありますけれども、目をつけるところはこの命門の相火です。

相火が高ぶり上るとき、鍼をしてこれを止めて上らないようにするため、止めの鍼と呼んでいます。

諸々の病に対して宗〔訳注:おおもと:基本として使用する技法〕として用います。

この止め方は口伝です。工夫しながら鍼をして覚えてください。

先生、こんにちは

>相火が高ぶり上るとき、鍼をしてこれを止めて上らないようにす
>るため、止めの鍼と呼んでいます。

肝の相火の高ぶりを上らないようにするために、肝の相火を祓のではなく、
止めるという発想は、引火帰原の発想かと思いました。

で、これを腎に鍼して止めるっていうのですが、
とまらないよ〜簡単にはとないております。

昨日も、胃土のところに、動き難い塊があって、どうにか動かそうと
がんばったのですが、動きませんでした。
ううーん打鍼って、簡単なものは簡単だけど、
難しいものは難しい(って当たり前ですね)と、悩んでいたら、
この「この止め方は口伝です。工夫しながら・・・」
という文章につきあたり、そんな〜と慨いています。

胃土の動き難い塊。なにか器質的にあるのか?と思いながらも、
ちょっとは動いてもいいだろうと悩んでいます。
基本的には上を払って下に納めるという感じでやっているのですが、
発想が貧困でしょうか??
弁証論治をたてて病因病理を考えてやってみてください
お、そうですね。

少し時間をください。
出直してきます(^_^)
症例はちょっと工夫してまとめようと思うので、先にすすみまーす(^_^)

..11、胃快の鍼


大食傷の際、鍼先を上に向けて深く刺し、荒々しく捏るのが大法です。この鍼をすることによって食物を吐き、胃の腑をくつろがせ快くさせるため、胃快の鍼と呼ばれています。

けれども頻繁に使う鍼ではありません。

場所は、臍の上、真ん中の通り〔訳注:任脉〕、臍上一寸です。

腫気の病人にもこの鍼をするという口伝があります。



..12、散ずる鍼


場所は定めずに、強い風が吹いて浮雲が払われるように、滞りなくさらさらと立てます。この際には、心持を軽くして、気を重くすることなく立てていきます。気血がめぐらず滞ることによって万病を生じます。

この鍼は滞っている気血を解きほぐすために行いますので、術者の心を軽くして鍼を持ち、さらさらと鍼をしていきます。諸々の病に用いる鍼です。

24、25のお話の続きです。

.腹部の動き
30代前半女性、主訴は冷えと便秘ということで、腎陽虚をベースとした脾虚肝鬱という
弁証をたてて治療しています。(冷えは腰から足先までの冷え)。西洋医学的診断は
うつとのことでした。

腹証にしぼって話をしますと、
初診の時点では、脾募が硬く載り、心下つまりきつく、それ以上に中
脘付近が脾募の高さよりも盛り上がっているという状態でした。

週に1度の治療で10診をすぎるころから、ご本人が身体全体が一皮向けた
感じで楽になったという報告がありました。
上腹部の脾募を中心とした硬さがだいぶとれ、心下のつまりもかなり軽減という
感じになってきました。

その後、便通、冷えなども改善しつつ経過しているのですが、
中脘付近の、きつい盛り上がりはなかなかとれず、前回のような状態になっております。

あの前回の治療直後は、まったく不変で、私の治療技術が未熟かとへこんでいたのですが、
1週間後に患者さんに候うと、あのあと2日ぐらいしたら、胃の付近がすっとしたとのことで、
拝見すると中脘付近のふくらみが、臍よりに下がり(下脘ふきんよりに)、小さくなっていました。

ご本人は、以前はいつも胃が痛く不快だったのが、治療を始めて特にこのごろは胃のいやな感じが
なくなっているという問診状況なのですが、ぱっとこの中脘付近の盛り上がりをみると、
脾虚による湿痰はまだまだ根深いものがあると思わずにはいられません。

ただ、動きが直後的ではなくても、かなり動くことはわかったので、もう少し
同様の方針で迷わず対処して行きたいと思いました。

弁証にかえり、改めて見直すことで、治療方針に自身がつき、迷いがへりました。
ありがとうございました。
13、鍼して抜けなくなったものを抜くこと


鍼が抜けなくなることは初心の間にはよくあることです。そのため、立て替える鍼を二三本用意しておきます。多くの場合は、左手の押し手の問題です。初心のうちは押し手を強く押すと、肉が鍼に巻きつくことがありません。押し手が弱いと、肉が鍼に巻きつくため抜けにくくなります。そのような時には、鍼灸師は動転してしまって色を失う〔訳注:顔面喪失となる〕ために、その鍼を抜くことができなくなることが多いのです。

このような抜けにくくなった鍼を抜くには、抜けなくなった鍼にはかまうことなく、その鍼の四方に鍼を立てるか、立てている鍼を手に持ち、病人の足の裏を掻きます。足の裏を掻けば掻くほどそこに病人の気が移りますので、鍼を捏(ひね)り抜くことができます。抜けない鍼に病人の心があるために抜けないわけです。そこに足の裏を掻くため、病人の気が掻くところに移るため、抜けるわけです。多くの場合、鍼を捏り抜くようにすると、このような事故を避けることができます。

また深く鍼をすると験(しるし)があると、邪気を過ぎて鍼をすると、このように抜けなくなることがあります。さらには臓腑を傷るため病人がくたびれることにもなります。

邪気が軽ければその鍼も軽くし、邪気が重ければその鍼もまた重くします。邪気の軽重に応じて鍼をすると、病人がくたびれることもなく、鍼が抜けなくなることもありません。

『難経』に、四季に応じて鍼の浅深を変えるという記載がありますが、当流ではこれをとりません。どうしてかというと、春夏は気血が上り浮かぶために鍼も浅くすると『難経』には記載されておりますけれども、重い病のものに浅い鍼をしても効果が出ません。秋冬は気血が下に沈んでいるために鍼も深くすると書かれていますけれども、その病情が軽ければ鍼もまた浅くします。病が軽いのに鍼を深くすると、邪気を越えてしまい、問題のない臓腑にあたってしまいます。そうすると、かえって臓腑を損傷してしまいます。

邪気の強さに応じて鍼をするということが、このように当流の掟(おきて)となっています。

鍼が邪気に当たっているか否かということは、撃つ槌の調子で感じ取ります。このことをよくよく理解するならば、鍼が抜けないということもなく、また病もよく治すことができるでしょう。



..14、鍼の痛み


病者に鍼をした後に、その鍼のあとが痛むものは、邪気を越えて深く鍼をし臓腑を損傷したものです。鍼は邪気にするものですけれども、痛むのは鍼をする際の心持が正しくないためであると考えます。

鍼のあとが痛み、我慢できないような人には、前に処置した鍼の四方に鍼をすると、痛むところに集まっていた気血が散じられて治ります。このような場合には散ずる鍼をするのが吉です。

【図中】どの場所であっても鍼のあとが痛むところにこのように鍼します。真ん中の一つは前に鍼した場所で、四方の四つは後に鍼をした様子です。その位置はさまざまです。




..15、必死の病者を知る習い


人の持っている百千万の念(ねん)は生の種です。この念がある内が楽しみです。念を離れたときには冥土や黄泉の古郷(こきょう)に帰ること、少しも疑いありません。この念を離れた病者には、けっして鍼をしてはいけません。これは非常に大切なことです。

このような教えは他流にはないため、病者が死ぬまで薬を用い鍼を立て、下手の名を顕(あら)わすこととなります。この教えを覚えている本道の鍼医は、前々からその病人の死ぬときを把握できますので、上手の名をとります。

さてどのようなものを念を離れた病者と観るかというと、鍼をする際に病者の目に心を置いて観ます。念が離れていない人は鍼を立てている間、四方を見回したりします。このような人は生きます。これに対して四方を見ず、まっすぐに見て瞳子を動かさないような人は必ず死ぬ人と見て、鍼をしてはいけません。

これは秘中の秘となります。
16、吐かせる鍼


穴は胃の腑です。鍼先を上に向けて深く立てて捏ります。一本で効果が出ない場合は、二三本も立てます。これは両脾募に邪気がある場合に立てます。

吐かせようとして胃の腑に鍼をする方法なのですが、食気が胃の腑になくて下焦にあれば、瀉す鍼で食気を下します。

傷寒などでも証によって吐かせる場合がまたあります。この場合でも胃の腑に邪気がない場合は立てません。


早く進めねば(^^ゞ

17、瀉(くだ)す鍼


穴は臍下二三寸、両腎の間です。鍼先を下へ向けて深く立てる方法です。けれども、邪気がなければ立てません。

傷寒の際に瀉す鍼を用いる場合もこのようにします。

..18、車輪の法


あらゆる病は邪気を根として鍼をします。邪気がない場所には立ててはいけません。過(とが)のないものを討伐するようなものになるためです。

どのような煩(わずら)いでも、両脾募・両肺先・章門・両腎・胃の腑をよく見極めて治療します。

ここに述べたことは非常に大切なことです。どのような病においても、この場所で治療すると、車の両輪のように治療が早く回るという心で、車輪の法と呼んでいます。
19、実の虚


実の虚と呼んでいる腹は、臍から上は実で臍から下は虚(うつろ)で力のないものです。このような腹は上気し、また呼吸が短く、食後に眠くなり、また気が屈しやすく、ため息やあくびをし、肩や胸が痛むことがあります。腹具合が悪いという多くの人はこの腹をしています。

本道において言えば、脾胃腎虚などと見立てます。両脾募・両肺先・胃の腑に鍼します。図に鍼の穴を記しておきます。

図のように黒いところはすべて邪実です。傷寒の表証などもこのようになります。勝ち引きの鍼が最も吉です。大食傷などで腹痛がある場合も、これが大法となります。


先生、この実の虚の図、おもちですか?
20、虚の実


虚の実の腹は前の腹とは異なり、臍から下はすべて実邪で、臍から上は虚(うつろ)なものです。けれども無病な人の腹がこのようであれば吉です。

すでに煩ってこのような腹の場合は、腹が下る・腰が痛む・小便が通じず・淋病・大便が結する、女性の場合は腰気〔訳注:帯下〕・生理不順・疝気・瘀血などの煩いがあります。

傷寒の裏証や、湿に傷られ寒えている場合には、必ずこのような病となるものです。

図に書くには及びません。

治療においては、両腎・丹田・臍の両傍・章門に鍼すると吉です。これらの場所を見比べて、邪気の強い方に鍼をします。

21、実実


実実の腹とは臍の上下ともに邪気があるものです。このような人は、大病が起こるか、心痛や大食傷で、いずれにしても急な煩いや頓死したりするものです。大木が雪によって折れるようなものです。

散ずる鍼と勝ち引きの鍼とを専らとします。
22、虚虚


この腹は臍の上下すべてが虚しているもので、最も悪いものです。

負け引きの鍼で小さな邪を引き出して治療していきます。

虚労のものなどにこのような腹があります。

これは治療の上手な者がよく知っているものです。

治療の効果を求めすぎると、病人にくたびれが出てきやすいです。そうでなければ病人は退屈しやすく、なかなか治療が難しい。

このような病人においては、本道においても鍼医においてもその上手下手がよくあらわれます。
23、寒気(さむけ)を知ること


腹を診て、この病人は寒気が来るだろうとこちらで断ずることができるのは、両章門からです。ここから邪気が出ている場合には万病に寒気があるためです。

章門は肝経です。肝は厥陰風木であるため、邪気が章門から出るときは、寒風が出てくること疑いありません。

邪気が強いほうの章門に散ずる鍼・勝ち引きの鍼をすると、邪が退き寒気が止みます。これは妙〔訳注:奇妙ですばらしいこと〕です。

伴先生

23の寒気を知ることについて質問します。

こういった文章を読んでいて、迷うのは、自分の認識している寒気とか、
邪気とかという言葉と、この作者の認識している言葉が一致しているか
ということです。

この章門は関係です。肝は厥陰風木であるため、邪気が章門から出るときは
寒風が出てくるというのですが、寒風???肝風でなくて??と
悩んでいます。

寒気をしることですから、寒風なんでしょうけど、寒風だと外邪?
それとも、肝風を引き起こす外邪の寒風?と思っちゃいます。

ここでいう邪は外邪なのでしょうか?(でも、それも唐突だから、やっぱり
臓腑の病の話だろうなあとかも思うのですが)
24、腫気が来ることを知ること


諸々の病において、腫気が来ることを兼ね知ることを、もっとも相伝とします。この大切さを理解していなければ、本道においても鍼医においても、下手の名をあらわすこととなります。病者に腫気が来ないよう、この節にしたがって、前々から鍼を立てるようにします。

さて、この目の付け所で大切なところは胃の腑です。大病人を引き受けて鍼をする際、胃の腑に邪気が寄ってこないように鍼をすることがもっとも大切です。胃の腑に邪気が寄ってくると、食が必ず進まなくなり、病者は一日一日とくたびれてきます。もしくは胃火がたかぶって乾くため、その病体よりも過剰に食することとなります。これがすなわち腫気の来る相です。胃の気の邪気を払っても払っても退かない場合は、辞退します。治療してはいけません。

大病の人を初めて観て胃の腑に邪気がある場合、食が進み過ぎるかどうか、食後に眠くなるかどうか聞かなければなりません。また、足の甲や腰の廻りに腫気があるかどうか、腰が冷えるかどうかも聞かなければなりません。必ずそのように出るものです。

太った人ならば治療してもよいです。痩せた人の腫気はおおごとなので、必ず辞退します。治療してはいけません。

【図 このように両脾募・胃の腑・左腎と膀胱の腑に邪気があるため、小便も通じ難い】


(先生、図お願いします)
25、瘧(をこり)を観ることの大事


瘧の病証については多くの医書に記されていますが、当流においては肝瘧と脾瘧との二証に定めています。

腹を診て、両脇の章門からあばら骨へと邪気が入り込んでいるものは、肝の臟から発した瘧で、寒気や熱が甚だしいものです。けれどもこれは早く治ります。

両脾募や胃の腑に邪気があるものは食もまた進み難くなります。これを脾瘧と言い俗に虫瘧とも言います。治りの遅いものです。この証のものは、もともと湿にあたっていて脾胃に湿気がこもって抜けきれないところに、食事などによってさらに傷られ、それが変じて脾瘧となったものです。治りが遅く、治療法が悪ければ若い人では虚労の証になりやすく、老人ではさらに次第にくたびれが進んで腫気などが出、ついには死に至るものです。

鍼の立て方には口伝がたくさんあります。


先生こんにちは

この瘧(おこり)は、積聚のようなお腹の塊をいうのでしょうか?
それとも、周期的な悪寒戦慄、発熱などの状態のことをいうのでしょうか?


間歇的な悪寒発熱を瘧と呼びます。
その腹証をここで定めているわけです。
先生

了解しました、ありがとうございます。
26、膈の鍼

膈証のことは、多くの書物に記されておりますのでここでは書きません。当流の腹診法における、鳩尾・両脾胃の腑に邪気があります。これが大法です。

痰火が上って心を塞ぐために胸中が乾いて食が通りにくくなります。時に通ることがあっても胃中に止まる感じで、胃火が熾んなためやがて反って食を受け付けなくなります。これらはすべて痰火が熾んなためにおこるものです。ですから、燥(そう)のものを厳しく禁じます。

この治療は最も難しいものです。この証の人のうちで太った人の膈噎(かくいつ)翻胃(ほんい)は、十のうち七八は治ります。痩せた人の場合は、治り難いです。

鳩尾・両脾の募・胃の腑の邪気を退けるようにします。便秘するものです。


ログインすると、残り12件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

東洋医学で人を診る 更新情報

東洋医学で人を診るのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング