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東京大空襲コミュの空の英雄 カーチス・エマーソン・ルメイ将軍

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★ルメイ将軍を取り上げた理由

3月10日の東京大空襲の立案者、「カーチス・ルメイとはどんな人物なのだろう?」と、以前から素朴な疑問を持っていました。
そして、私なりに色々と調べてみました。
ここでは、父が空襲の被災者であり、「父の敵」という先入観感や感情論ではなく、客観的に彼の東京大空襲立案に至った背景やその後の人生などを検証してみたいと思います。

十分調べたつもりですが、間違いや思いこみへのご指摘・反論などがありましたら、遠慮なく書き込みをしてください。宜しくお願いいたします。

★生い立ちと生涯
カーチス・ルメイは1906(明治39)年11月15日生オハイオ州コロンバス市で生まれ、1990(平成2)年12月10日生涯を閉じました。詳しくは以下のサイトをご覧ください。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4

コメント(27)

★ルメイ氏の軍歴(その1・東京大空襲まで)

ルメイ氏は士官学校卒ではないにもかかわらず最高位にまで上り詰めた希有な人物です。
では、彼はどのようにして軍歴を重ねていったのでしょうか?

彼は6人兄弟の長男として生まれました。父は職業を転々とする放浪者。母は教師。地元オハイオ州立大学に進み、在学中の1928(昭和3)年、ROTC(予備将校訓練団)課程を修了し、卒業しないまま国境警備隊を経て陸軍に入隊しました。
幼少時代より飛行機乗りにあこがれ、1929(昭和4)年10月には、テキサス州ケリーフィールドでパイロット資格を取得し、その後1930(昭和5)年2月1日爆撃飛行隊に所属し現役少尉に任命されます。
第二次世界大戦開戦当初、ルメイ氏は「爆撃技術に詳しい」程度の無名大尉に過ぎなかったと言います。

しかし、戦争はルメイ氏に出世のチャンスを与え、中佐に昇進しました。1942(昭和17)年 アメリカ陸軍航空隊第8空軍を率いイギリスに渡り、ドイツのハンブルグ無差別空爆で目覚ましい戦果を挙げると、ルメイ氏の評価はうなぎ登り、その功績で1944年に少将となりました。ルメイ氏の戦術は軍需工場以外にも範囲を広げた「無差別絨毯爆撃」に尽きました。

1944(昭和19)年7月には、第20爆撃集団を率い中国、インド、ビルマ戦域の司令官に赴任しています。
この年、日米戦争で大きな転機となる出来事がありました。西太平洋のサイパン島が米軍の手に落ちたのです。米軍はこの島に日本本土空爆の拠点となる基地を建設しました。マリアナ三島とよばれるサイパン、グアム、テニアンから発進したB29による日本本土爆撃は昭和19年11月24日に始まり、昭和20年3月4日まで20回に及びました。ただし、これらの爆撃は、軍需工場など主に軍事目標を対象にした精密爆撃とよばれるものでした。
しかし、米軍は日本の軍事目標に対する精密爆撃の成果は不十分であると判断しました。B29の損害が累積し、日本国民の戦意がおう盛で継戦能力に衰退の兆しが見えなかったからです。そこで、米軍は日本への爆撃方針を大転換しました。軍事目標を対象とする攻撃から非戦闘員を対象とする無差別爆撃に変更したのです。それまで日本本土爆撃を指揮したハルセン少将は、軍事目標から外れた焼夷弾が一般の家屋を焼くことを恐れ、焼夷弾の使用に消極的でしたから、「戦争には不必要な人道主義者」と批判され、更迭されました。
★ルメイ氏の軍歴(その2・東京大空襲・広島長崎)

ハルセン司令官に変わって登場したのは、カーチス・ルメイ少将でした。1945(昭和20)年1月7日、ルメイ氏はグアム島に到着し、第21爆撃兵団司令官に就任し、以後、対日戦略爆撃を指揮しています。

ルメイ氏は1月に着任すると、1カ月以内にアメリカ本土からB29 500機以上と搭乗員、必要な整備員、それに焼夷弾1万トンを用意することを要請しました。また、江戸時代以降の東京で起きた大火を研究し、3月上旬に発生した火事が全体の50%を占めていることを発見しました。特に10万人の死者を出した明暦の大火は、3月2日の北風の強い日に起きていることも突きとめました。こうしたことを考慮して、東京大空襲の決行日は、日本の陸軍記念日であった3月10日と決定されたのです。(しかし、後年参謀本部のモンドメリー准将によると「空襲と陸軍記念日が重なったのは偶然で、天候の良い日を選んだら3月10日になった」と発言しています。)

しかし、焼夷弾を使って民間人を大量に殺傷するというアイディアはルメイ氏が初めて考え出したのではありません。昭和16年12月パールハーバーへの攻撃で日米戦争が始まる前から、米軍の中には「木と紙」でできている日本の住宅を壊滅させるには焼夷弾で焼き払うのが最も効果的だという考えが生まれていました。そして、昭和19年のはじめには、砂漠に日本式家屋を建て、家具まで日本式にしつらえてその上に焼夷弾を落とし、燃え尽きるまでの時間を測定する実験が行われていました。こうして「最も効果的に日本の家屋を燃やすために開発された」のが、M69焼夷弾でした。

この爆撃命令を出した時ルメイ氏は39歳で、直前まで米国ワシントンの参謀本部に計らずに準備し「夜間低空焼夷弾爆撃」という独自の発想で爆撃を企図しました。昭和20年3月7日、テニアンにおいてB29の機長を前に、ルメイ氏は指揮官として東京の下町地区への焼夷弾攻撃を指示しました。また、ルメイ氏は東京の人口密集地帯である本所区(当時)を中心とした東西5キロ、南北6キロの地域を目標と定めました。

昭和20年3月10日午前零時15分ころのことです。
空襲が迫っていることを知らせるサイレンが、寝入りばなの東京市民(当時)をたたき起こしました。前日の3月9日は強い北風が吹く気味の悪い日で、夜の 10時半には警戒警報が出され、人々は避難の身支度をしたり、防空壕に入ったりしました。しかし、この時は実際の空襲はありませんでしたから、やれやれ今夜は大丈夫だろうと安心して多くの市民は寝床についていたのです。(最初に現れたB29は本体を誘導するために房総半島上空を旋回していたのです)

昭和53年に放送された「NHK特集・東京大空襲」では、東部軍参謀本部の一戸大佐(当時)は、深夜の空襲警報により、首都が混乱に陥ることを懸念して、警報発令を直ぐに許可しませんでした。ところが次々と情報が入り「下町に焼夷弾が投下されたという報告があり、はじめて空襲警報が発令された」と、藤井参謀(当時)が番組で証言しています。

カラカラの乾燥と強風の上、空襲警報が遅れた事もあり、東京東部の下町地区の人々が着のみ着のままで外に飛び出した時には、米軍の戦略爆撃機 B29が投下した焼夷弾が炸裂し、あちこちで火の手が上がっていました。民家の屋根を突き破り落下してきた金属製の円筒からは、火のついたガソリンがばらまかれました。B29はあとからあとからやってきて、超低空で飛行し、まだ燃えていない家屋をめがけて焼夷弾を次ぎつぎと落としていきました。下町一帯はたちまち火の海となり、道路は逃げまどう人々であふれました。

まず、B29、二五機が二手に分かれ一機あたりM69焼夷弾を十五メートル間隔で順次投下、帯状に火の壁を作りました。M69焼夷弾は、高度 600ートルでさく裂して38発の小型焼夷弾に分かれます。飛散することによって、幅150メートル、長さ760メートルの地域をガソリンの炎で覆うことになります。つまり、一発の焼夷弾で 11万4000平方メートルの地域を高熱で燃焼させることが出来る恐るべき兵器です。帯状の火の壁を作った後は、同じように焼夷弾を投下し、さらに火の壁を作ります。ここで人々は外に逃げることは不可能になります。最後に囲みの中を、縦列に並んだB29が焼夷弾を次々に投下していきます。
この作戦に投入されたB29は350機、焼夷弾は2000トンにも上ります。1平方メートルあたり三発の焼夷弾が投下された計算になります。「東京を焼畑にする」ルメイ氏の作戦はこのようなものでした。

昭和20年3月10日の攻撃で、10万人を超える死者が出たのです。この爆撃を境に、70の都市に延べ100回に上る無差別爆撃が始まりました。

なお、原爆投下の際、日本側に警戒態勢をとらせないため、B29の高々度の単機使用というのは彼の発案だったそうです。
★ルメイ氏の軍歴(その3・戦後)

ミズーリ艦上の降伏文書調印式の後、ポーカー楽しんだというルメイ氏は、戦後も着々と軍歴を重ねていきます。

第二次世界大戦後、1947年に40歳で空軍中将となり、翌年のべルリン危機当時は欧州派遣米空軍司令官として、ベルリン封鎖でベルリン空輸を指揮しました。
1950年の朝鮮戦争勃発に際してはソ連軍との全面戦争の危機が深刻化し、戦略空軍司令部が設置されてその司令官となります。
1951年、米軍史上最年少(44歳)の大将に昇進し、そしてとうとう1961(昭和36)年、トーマス・ホワイト空軍参謀総長退役の後、6月30日、最高位のアメリカ空軍参謀総長に登り詰めました。1958(昭和33)年11月12日、ホワイトハウスでアイゼンハワー大統領からハーモン国際トロフィーを授与されます。
しかし、この頃から彼の無差別絨毯爆撃という戦略にも陰りが見え始めるようになります。

1962年のキューバ危機勃発時には、キューバ空爆をケネディ大統領に提案し(ただし却下された)、ケネディと敵対して世界戦争を行おうとしました。
また、1960年から始まるベトナム戦争では、空爆(北爆)の立案にも携わり、「北ベトナムを石器時代に戻してやる」と公言したといわれています。
1963(昭和38)年4月19日、来日
4月20日 松田武航空幕僚長を表敬訪問
4月21日 小牧基地でブルー・インパルスの演技を見学、メンバー全員と握手
1964(昭和39)年12月8日 勲一等旭日章受勲
(この他にもシルバースター勲章等、受章多数)
1965年2月に退役後の1968年には、ベトナム戦争の推進を支持し、人種差別的な綱領を掲げた前アラバマ州知事、ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Part) の副大統領候補として出馬しますが落選。
大統領候補の、ウォレス氏は1963年、K.K.K.や保守的有権者の票を集めるため、人種差別を貫くことを謳ってアラバマ州知事に当選。就任演説では「今日の人種分離政策は、明日も続き、明日以降も永久に続く」と宣言したことで知られる南部を代表する政治家でした。ちなみにアラバマでは1954年キング師の指導により、アラバマ州モンゴメリーでバスの黒人座席差別をめぐり「バス・ボイコット闘争」が発生し、1963年8月に首都ワシントンに20万人もの人々を集めて開かれたワシントン大行進があり、その時キング牧師は有名な名演説「I have a dream」を残しています。

1990(平成2)年12月10日、ロスアンジェルス郊外のニューポートビーチにて83歳で死去。
★東京大空襲におけるルメイ氏の戦争観

ルメイ氏は後に、「原爆を落とすまでもなく太平洋戦争は実質終わっていた」と言い。民間人への無差別爆撃を、「私は、日本の戦闘員をやっつけたのだ。民間人を殺したのではない。日本の軍需工場システムを消滅させたのだ。当時、日本の家屋の多くが軍需工場であった。東京や名古屋などの大都会の家々がアメリカを攻撃する兵器の製造工場になっていた。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。日本の老人、婦人、子供までが軍需生産に携わっていた。これらをやっつけて何が悪いと言うのだ」と発言しています。

他のコミュでは、ルメイ氏が「焼夷弾空襲での民間人の死傷者を思うと、私は幸せな気分になれなかったが、とりわけ心配したわけでもなかった。[大量殺傷が]私の決心をなんら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人――民間人と軍人の両方――を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ。」と言う発言をしているようですが、だからと言って多くの非戦闘員に対する無差別爆撃をして良いのか?大変疑問に思います。
カーチス・E.ルメイ、ビル・イェーン『超・空の要塞:B―29』渡辺洋二訳(朝日ソノラマ・1991年)

ベトナム北爆で「石器時代に戻してやる」発言や、人種差別発言のウォレス氏と組んでアメリカ独立党から副大統領に立候補するなど、ルメイ氏に他民族(特に有色人種・ドイツでの無差別爆撃もありましたが...)に対する畏敬や倫理観があったとは見受けられません。東京大空襲の作戦計画の背景には、どうもジャップ(日本人)を人間以下の生物だと見なす人種偏見がみられます。そうでなければ、これほど冷酷な作戦を実行できるはずがありません。実際、ある調査によれば、戦争末期にアメリカの兵士の半数以上は日本人を皆殺しにする必要があると考えていたそうです。
ですから、もしアメリカ人全体の共通認識として、このような思想背景があったとしたら、彼の立場から見れば、その戦略はあくまでも戦争において敵の損失を最大化させるという爆撃部隊における合理性と効率の追求であるという点においては、アメリカ軍にとって多大な功労があったことは間違いありません。
ただ、同じ米軍内でもニミッツ海将などはルメイ氏をあからさまに批判しており評価は分かれているということですので、全部のアメリカ人がこのような考えでないことも確かなようです。

我々日本人からすると、東京大空襲は偶然が重なってあのような大惨事になってしまったというのではありません。それは米軍によって周到に計画され、意図通りに実現した大量殺人、いわば「東京大虐殺」というべきものでしたが、これが確信犯だとすると戦争の怖さを思い知らされます。
チャップリンの映画「殺人狂時代」(1948 年) で「女性連続殺害の罪で死刑を求刑されたデェルデュは、断頭台に向かう時、『一人の殺人は悪漢を生み、百万の殺人は英雄を生む。量が神聖化するわけです』という台詞は、フィクションではなく現実世界にも起こり得ると感じてしまいます。


なおルメイ氏本人が「アメリカが敗戦するなら自分は戦争犯罪人として処せられる」と発言していますが、これが彼の正直な心境ではないでしょうか?
★日本政府・東京都の対応

東京大空襲で亡くなった8万人の犠牲者たちは、ゴミのように纏めてトラックに積まれ、手鍵で一体ずつ引っ掛けられて、放り投げられるように一個所へ山積みされて火葬され、仮埋葬されました。
戦争が終わってから、日本を占領した米軍は、東京大空襲の戦争犯罪が世界に知られるのをおそれ、その報道を厳しく取り締まりました。それは原爆についての報道の規制よりももっと厳しいものでした。「占領軍に対して不信もしくは怨恨を招来するが如き事項を掲載してはならぬ」という検閲条項があったのです。あちこちの公園に仮埋葬した遺体を掘り出して改葬することすら、占領軍はなかなか認めませんでした。許可がやっと下りたのは、昭和26年ですが、昭和28年に占領が終わり日本が独立しても、占領下の検閲のころの習慣で、新聞は東京大空襲のことを書くことをしませんでした。日本政府もまた、アメリカに対して日本国民の立場で発言することはありませんでした。

東京都も、大空襲の遺族には冷淡な態度をとり続けました。広島や沖縄では民間人の死者の氏名を可能な限り調べる仕事に自治体として取り組んできました。しかし、東京都はそのような基礎的な作業すらさぼってきました。広島でも長崎でも、立派な資料館や記念碑が立っています。それらに匹敵する空襲の犠牲者を出した日本の首都東京には、戦後62年が経過するというのに、未だに空襲のための独立の資料館がありません。いや、そればかりか、空襲犠牲者を悼む慰霊碑一つ東京都は立ててこなかった(?と思う)のです。
なお、墨田区横網町にある「東京都慰霊堂」は関東大震災の身元不明者の遺骨を納め、犠牲者の霊を祀る震災記念堂として創建され、1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、犠牲者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となりましたので、厳密には東京大空襲の為だけの独立した建物ではありません。また、民間から「東京大空襲資料センター」は早乙女勝元さんを中心に、JR上野駅北側の寛永寺の敷地にある慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と上野公園いこいの広場の母子像「時忘れじの塔」は海老名香葉子さんを中心に近年に建てられています。

東京大空襲は、ジュネーブ条約及びハーグ陸戦条約における、戦時国際法違反の明瞭な戦争犯罪であり、しかも第二次世界大戦中でも最大規模の戦争犯罪でした。戦争犯罪として裁かれなかったのはアメリカが戦勝国だからです。勝者の不正が罷り通ったのです。
その証拠として、東京裁判(極東軍事裁判)でのアメリカン人弁護士の記録(非公式)があります。(非公式なのは発言が遮られたため)
引用:日本側の要請によって、各被告にはアメリカ人弁護人も付いたが、ジョージ・A・ファネス(重光葵担当)弁護人、ベンブルース・ブレークニー(東郷茂徳担当)弁護人らも次々に補足動議に立つ。戦火の後遺症がまだ生々しいこの時期、敵国の戦犯被告の弁護に当たるというのは、日本人の感覚と常識では考えられないことだが、彼らは公正であり勇敢であった。判事団に向かって、彼らは言う――。戦争での殺人は罪に当たらない。国際法的には、「戦争」は合法であり、まして個人がその責任を問われて裁かれるのは不当である。それでも裁くというのであれば、公正を期すために、中立国の判断に委ねて裁判にかけるべきである。
ブレークニー弁護人の反論は、原爆を投下したアメリカ側の問題にまで及ぶ。彼は国際法に精通する学究だが、アメリカ陸軍の少佐である。その軍服を着ているが、「我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることが出来る。投下を計画した参謀総長の名も承知している。その国の元首の名も知っている」と皮肉る。
この原爆の件りは、ウェッブ裁判長によって速記停止が命ぜられた。同時通訳の声も止まった。
出典:「軍人の最期 ― 政治的将軍の生きざまとその死 ― 」
著者:升本喜年。光人社(2001/02/15)、定価:2200円(税別)

しかし日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄しています。
★番外編:ルメイ氏の叙勲問題について

ルメイ氏の叙勲は、常識では考えられないことですが、政府の上層部で決めたことなので、私のような者には詳しいことは検証のしようがありません。ただ、ネットで検索しましたら以下の興味深い2つのサイトが見つかりましたのでご紹介します。

水曜通信(2003-08-16)
http://72.14.235.104/search?q=cache:kUBvYgQw4Y0J:suiyou.que.jp/td/%3Fdate%3D20030816+%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4%E5%8F%99%E5%8B%B2&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp

誰か昭和を想わざる 昭和天皇「誰を信用すれば」
http://www.geocities.jp/showahistory/history3/20a.html

上記の2つのサイトに詳しく出ていますので、興味のある方はお読みください。

2つのサイトを要約すると、一夜にして10万人の無辜の東京市民が犠牲になった東京大空襲を計画・実行したアメリカ空軍の指導者だったこの人物に、日本政府は、1964年に勲一等旭日大授章を授けました。時の総理大臣は佐藤栄作。彼にルメイを推薦したのが源田実氏(当時、参議院議員)と「安保男」との異名をとった時の防衛庁長官、小泉純也氏(小泉純一郎前首相の父)でした。
彼らは、アメリカへの追随こそが「日本の進むべき道」だと考え、その結果、東京大空襲の戦争責任をアメリカに問わない(ルメイ氏への叙勲)のと引き換えに、日本はアメリカの国際的な核兵器戦略の「庇護」の中に組み入れられたという推測です。

この少し前の昭和 37年には旧軍人の源田実氏がアメリカからリージョン・オブ・メリット勲章の叙勲を受けており、先の大戦での被害を日米相互に免責する事でより強固な軍事同盟を実現させたと見られなくもありません。それを押さえての叙勲であるとしたら、戦争被害の日米相互免責という意図が浮かび上がってきます。

もっとも、この叙勲に反対がなかったわけではありません。
源田実氏は真珠湾攻撃当時は第一航空艦隊参謀で、山本五十六大将の発想を、源田少佐が実際に研究立案した作戦要項「真珠湾攻撃計画」が基になり攻撃が実行に移された訳で、アメリカ側からすると、真珠湾奇襲攻撃の立案最高責任者(上司の山本大将も大西少将も戦死したため)の生き残りです。
源田氏は当時訪米していますが、現地では真珠湾攻撃に関与した人間をアメリカとして栄誉ある人物と迎え入れるのは認められない、と退役軍人らを中心に大変な批判が巻き起こっています。

また、日本において勲章は天皇の名で授与され、日本国憲法7条7号は、天皇の国事行為の一つとして「栄典を授与すること」を定め、同条を根拠に「栄典」の一つとして天皇が勲章を授与することになっていますが(特に勲3等より上位の叙勲は、皇居で行われ陛下から直接いただける名誉ある儀式です)、どうもルメイ氏の勲章授与は天皇陛下からではありませんでした。
勲一等旭日大受賞という日本での(外国人が受けられる)最高位の勲章授与は、ルメイ氏が訪問した埼玉県の航空自衛隊入間基地で、源田氏と同じ旧軍参謀だった航空自衛隊浦幕僚長から、しかも贈呈日は米国の太平洋戦争開戦記念日の12月7日(日本時間では開戦記念日は12月8日)に行われています。

世界中から今なお指弾される無差別爆撃の「発案者」を開戦記念日に招いて表彰した国は、以後はアメリカとの安全保障と同盟関係を深め、経済発展を遂げて国民は少なからず恩恵を被ってきましたが、これは何とも皮肉と言わざるを得ません。

一方、日本政府がルメイ将軍を叙勲した事によって、それまでアメリカ国民が抱いていた無辜の市民を原爆攻撃した事について(東京空襲はほとんどアメリカでは知らされていません)の反省と核兵器禁止運動の掛け声は冷水を浴びて事実消え去ってしまいました。
「日本国民が戦争を終結させた原爆に感謝している」からこそ政府が勲章を授けたとアメリカ国民は受け取り、マスコミの論調もその方向に誘導したと聞いています。
★りゅーべー様

ハンブルグも3回にわたって、東京と同様の大空襲を受けましたが、ルメイ氏のやり方はまったく同じですね。
まず、町の周囲を爆撃し、市民が逃げられないようにしてから
町の中心部めがけて爆弾を落とし、市民を虐殺するやり方です。
ドレスデンは、当時「無防備都市宣言」をしていて、対空砲や迎撃機の配置がされていませんでした。また東部からの避難民も大量に
流入しており、無抵抗の市民への虐殺でした。歴史的に貴重な建造物も破壊され、さすがに戦後英米内でもこの爆撃に対し批難の声があがっています。

一般住民を無差別爆撃で虐殺した事例として、ドイツによるスペインのゲルニカ空爆が有名ですが、ドイツ政府は、ゲルニカ空爆から60年後の1997年3月にヘルツォーク大統領が、ゲルニカ市と市民に対し、「この残虐な行為の犠牲者は、非常な苦痛にさらされた。わたしたちはドイツ空軍による爆撃とそれが招来した恐怖をけっして繰り返さない。いま、両国民の間の和解と将来の平和を呼びかける」と謝罪しました。

また、ドレスデンを壊滅させたイギリスは、2000年の「空襲55周年記念式典」にあたり、エリザベス女王の名代ケント公を派遣し、謝罪の意を示すと同時に破壊された聖母教会の再建費用負担を申し出ていますね。
★ユーベー様

随分細かいところまで、お詳しいですね。
ドイツでの空襲に関する詳細になりますと、門外の私にはちょっとわかりかねますので、他にも例えば重慶やベトナムの空爆など、色々教えてください。

何れにしろ、ドイツはいつもナチスが前面に出て、加害者側で画面に登場しますが、日本と同じように大変な被害を受けて国土を蹂躙されたという点で、敗戦国共通の辛酸を舐めさせられたのですね。
いつの時代も、敗戦国は惨めですね。
★番外編2:民間検閲支隊CCD

被災者の数の割に「東京大空襲の実態が、何故戦後直ぐに明らかにならなかったのか?」私は疑問に思っていました。
以下は、3月11日付けの神奈川新聞社説ですが、ここには「東京大空襲訴訟」について次のように書かれています。
一部を抜粋すると

略。 今になって「なぜ」との声もある。しかし、被災者が重い口を開き立ち上がるには、それだけ長い時間が必要だった現実を直視したい。戦争体験を風化させることなく、今につながる無差別爆撃や戦争の実相を戦後の在り方とともに問い直すことは意義がある。中略。
なぜこれまで、こうも長い沈黙を余儀なくされたのか。家族を失い、また救えなかった心の傷は、今でいうPTSD(心的外傷後ストレス障害)をもたらした。さらに、家を焼かれ、地方に離散するなど、生き抜くことに必死で、語っても訴えても愚痴にしかならないというむなしさがあった、と識者らは分析する。占領下のプレスコード(新聞準則)による検閲も、戦災体験の記録の障害となった。後略。
http://www.kanaloco.jp/editorial/entry/entryxiimar10/

私の父が黙して語らなかったのは、ベトナム帰還兵と同じで「PTSD(心的外傷後ストレス障害)で、口を開くことができなかったのだ!」ということがわかりました。

社説では、注目すべき記載があります。
つまり、占領軍による検閲政策です。

昭和20年8月15日、日本は敗戦を迎えました。その後、GHQは日本を“民主的な国”にするべく、さまざまな統治政策を行います。
占領政策で非常に重要な役割を担っていたのが、民間検閲支隊(CCD=Civil Censorship Detachment)による徹底的な検閲でした。その根拠とされたのが、「日本放送遵則」(最高司令官指令=SCAPIN-43/9月22日付)と「日本新聞遵則」でした。(SCAPIN-33/9月21日付)。
以下に「日本新聞遵則」の全文を公開します(江藤淳『閉された言語空間』による)。

Press Code for Japan「日本新聞遵則/日本出版法」

趣旨
 聯合国最高司令官は日本に言論の自由を確立せんが為茲(ここ)に日本出版法を発布す。本出版法は言論を拘束するものに非ず寧ろ日本の諸刊行物に対し言論の自由に関し其の責任と意義とを育成せんとするを目的とす。特に報道の真実と宣伝の除去とを以て其の趣旨とす。本出版法は啻(ただ)に日本に於ける凡(あら)ゆる新聞の報道論説及び広告のみならず、その他諸般の刊行物にも亦(また)之を適用す。

1、報道は厳に真実に即するを旨とすべし。
2、直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。
3、聯合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。
4、聯合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。
5、聯合軍軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。
6、報道記事は事実に即して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。
7、報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。
8、宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を強調すべからず。
9、報道記事は関係事項又は細目の省略に依つて之ヲ歪曲すべからず。
10、新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。

1945年9月21日

米国太平洋陸軍総司令部民事検閲部


主旨は抽象的でわかりにくいですが、具体的な検閲内容は、占領軍の検閲指針として以下の30項目があげられています(昭和21年11月25日付)。

(1)SCAP−−連合国最高司令官(司令部)に対する批判
(2)極東軍事裁判(東京裁判)批判
(3)SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判
(4)検閲制度への言及
(5)合衆国に対する批判
(6)ロシアに対する批判
(7)英国に対する批判
(8)朝鮮人に対する批判
(9)中国に対する批判
(10)他の連合国に対する批判
(11)連合国一般に対する批判
(12)満州における日本人取り扱いについての批判
(13)連合国の戦前の政策に対する批判
(14)第三次世界大戦への言及
(15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
(16)戦争擁護の宣伝
(17)神国日本の宣伝
(18)軍国主義の宣伝
(19)ナショナリズムの宣伝
(20)大東亜共栄圏の宣伝
(21)その他の宣伝
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉
(24)闇市の状況
(25)占領軍軍隊に対する批判
(26)飢餓の誇張
(27)暴力と不穏の行動の煽動
(28)虚偽の報道
(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表

つまり、東京大空襲関連の一切の報道は、当局によって禁止されたと言うことです。
検閲に引っかかるとどういう事になったのか?例えば新聞では、何段かが白紙になってしまいます。終戦直後は度々新聞に白紙の空白があったそうです。

問題はここからで、結局のところ、マスコミの人間も一々検閲に引っかかっていては、新聞が真っ白になってしまいますので、検閲を通すため、次第に自己検閲を始めるわけです。白紙記事は減り、GHQの怒りに触れないような記事ばかり増えていく。このように日本のマスコミにとって、東京大空襲はタブーになっていってしまいました。
★リューべー様

私も、東西ドイツの時のベルリンに行ったことがありますが、ヒトラーが執務を行っていた建物には、未だに銃痕が残っていました。
案内してくれた先輩に「何で建て直したり修理しないの?」と聞きましたら、「あの戦争を忘れないために、ワザと残してあるんです!」という説明でした。

東京は大空襲はありましたが市街戦がなかった分、ベルリンよりも平穏だったのでしょうね。ドイツの場合、陸続きですからそれだけ悲惨だったのでしょうね。
★リューべー様

ご指摘いただき、今読ませていただきましたが、ベルリンの思いでは、なかなか力作ですね。

日本で言うと、広島の原爆ドームと言ったところでしょうか?
、東京大空襲の痕跡は戦後東京がすっかり変わってしまったために、建物としてはほとんど残っていません。
被災後、隅田川にかかる言問橋に行ってみると、橋上の至る所に、茶褐色のシミが描かれていましたが、それは犠牲者の血と脂の後だったそうです。(現在は改装して残っていないようですが...)
★りゅーべー様

どうもこのトピックが、私とリューべー様2人だけのやり取りになってしまって、「良いんだろうか?」と思いながら書いています。

東京駅の弾痕の話しは始めて聞きました。
もしその話しが真実で、まだ間に合うなら、駅舎改装の時に「東京大空襲のモニュメント」にできないか?
東京大空襲資料センターの事務局に、現状を確認してみます。
はじめまして。
東京駅の鉄骨の件について、昔、とある書物にてその記述があったのを思い出し書き込みさせていただきました。

東京駅に残る当時の空襲の痕跡は、丸の内側レンガ駅舎のドーム屋根の鉄骨に残っているそうです。
東京大空襲から2ヶ月後、昭和20年5月の空襲で東京駅は全焼し屋根が抜け落ちました。戦後、応急的に簡易屋根を付けたのですが(今でも使っている台形の屋根)当時の傷付いた鉄骨が屋根の内側にまだ残っているそうです。場所柄、メンテナンス関係の人しか見れないらしいですけどね。かなり前ですが「東京駅物語」と言う本に記述があったのを覚えています。

戦後60年余、駅を行き交うお客の目に触れることなく遥か上から駅を支え、東京の復興を見守ってきた歴史の証言者である鉄骨。現在進行中である東京駅の復元計画(震災・空襲で東京駅はあちこちが修繕・改造され原型を留めていないため、大正3年の竣工時の状態に作り直す)の中で、後世に残すモニュメントとして大事に保存されることを強く望んでいます。
★モノローグ様

はじめまして。2年前に他界した父が東京大空襲を罹災・家族4名が爆死し、遺族として父の意志を受け継ぎ音楽を通して語り継いでいる、神奈川の八木と申します。
東京駅の詳しい情報を有り難うございました。
早速、明日にでも東京大空襲資料センターに問い合わせ、現在進行中の「東京駅の復元計画がどのようになっているか?」確認してみます。
>山羊様

レスありがとうございました。
昨日ネットにて東京駅の空襲の痕跡を探していました。
すると、麦さんと言う方のHPの「さよなら東京ステーションホテル」
http://www.k2.dion.ne.jp/~tukimomo/sub10.html
に行き当たりました。ここに大変貴重な写真があります。

焼け爛れた鉄骨の件も触れられておりますが、その他にもホテル内には化粧煉瓦の間に残る焼け爛れて炭化した木材など数々の戦災の爪痕が残っているようですね。よくぞ残しておいてくれたものです。
内装とか外見が集客に影響を与えるホテルではなおさらのことです。これらを残すにあたっては恐らく賛否両論あったことでしょう。

心配なのは、現在ホテルが閉鎖中なこと(例の復元工事期間中は営業休止。2011年に再開予定だそうです)そのリニューアルの最中にこれらの痕跡が失われてしまわないかと心配です。

もしお問い合わせされるのであれば、これらの存在を是非担当の方にお伝えし、早急に保存・保護の手続きを考慮して欲しいと感じます。
★モノローグ様

貴重な情報を有り難うございます。
本日、東京大空襲戦災資料センターの担当の方に連絡させていただきました。
何かわかりましたら、また書き込みさせていただきます。
★モノローグ様

先日、モノローグさんからいただいた情報を戦災資料センターにお伝えしましたが、本日担当の方と電話でお話しできました。
まず、東京大空襲戦災資料センターは、3月の空襲だけでなく5月の空襲についても資料収集をしているそうで、東京駅の改修工事については初期段階から、空襲体験者の代表の方達が現地を訪れて見学し意見を述べているそうです。
ただ、その後に復元計画がどのようになっているか、センターとして状況を把握していないので、再度問い合わせてみるそうです。

と言うことですので、希望通り保存されるかどうかはわかりませんが、「東京駅に東京大空襲の痕跡をモニュメントとして後世に残す事業」は、もう既に働きかけが行われていたようで、少し安心しました。

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