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飛鳥昭雄コミュの日本古代史

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日本古代史における私の研究も大分入り組んできたので整理しながら進んでいきたいと思います。

まず、中心になる仮説が忌部氏=加茂氏=八咫烏であり、彼らは天皇制を影から支えながら日本の国仕組みを施してきた。そして飛鳥昭雄先生の説によると八咫烏はイエス・キリストの12使徒の末裔ということです。忌部氏は日本が誕生した時からの氏族ですから、天皇制の成立はイエスの磔刑と昇天は、12使徒の伝道と離散を考え合わせて、時期的に早くとも紀元1〜2世紀といえるでしょう。つまり、神武天皇とその後八代の天皇は学会の定説どおり伝説で、その次の崇神天皇からが実在の天皇という訳です。しかし、神武天皇にもモデルはあったのではないでしょうか?日本書紀や古事記の記述で非常に興味深いのは国譲りに関するものです。

出雲民族の太祖は、天照大神の弟である素戔嗚尊(スサノオノミコト)ですが、神話の中で度々日韓の間を往来し、我が国の文化の上に、また殖産興業の上に欠かすことのできない存在として重要な役割を果たす神となっています。出雲系の太神・大国主命は、素戔嗚尊の子孫の第5代に当たるとされ、産みの子宝181神を数える艶福の長者として七福神の第一に「大黒様」として崇められています。その大国主命の第4子・事代主命は、摂津の国、西宮の里に祭られて「恵比須様」と称され、一竿を手にしてにこにこと笑顔で、毎日海上に出て超然として物事にこだわらず悠々自適な生活を送っていた様が、父の大国主命と共に人々に福の神として崇められるようになりました。

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神道の最高神と言えば天照大神。しかしながら、深く調べていくとスサノオとニギハヤヒが非常に大きな力を持っていたと考えられる事実がでてきます。まず、スサノオを祭る神社の多さ。ある研究者はスサノオを祭る神社の方が天照大神を祭る神社より多いといいます。私は事実を確認できていませんがスサノオを祭る神社が全国に多くあるのはまちがいありません。例えば全国にある天皇神社。滋賀県大津市にも天皇神社がありますが、別名を牛頭天王社といい、天台宗寺院の鎮守社と伝えられています。祭神は素盞烏尋を祀ると言うことです。牛頭天王というのはスサノオのことです。スサノオを祭る神社が天皇神社とはどういうことでしょう。素盞烏尋はスサノオノミコトと読むようです。『日本書紀』におけるスサノオノミコトの表記は素盞嗚尊、素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊とあります。素盞烏尋に含まれる烏という字が非常に気になります。続きを読んでくださる方はhttp://gekiyasu.nu/をどうぞ!
今度は少し違った立場からスサノオを見てみましょう。広島県福山市に芦田川という川がありますが、この川沿いにスサノオの伝承が点々と残っています。例えば上流の上下町矢野にはスサノオがこの地でしばらく休息し、泉でのどを潤し、多くの里人に見送られて隣の甲奴町に入ったという伝承があります。さらに甲奴町小童(ひち)の須佐神社は素戔鳴尊(すさのおのみこと)をまつり、古来より備後三祇園社と称され、備北一帯の崇敬を集めています。この神社の祭りは古い伝統を保持し、格調高く貴重なものとして、県無形民族文化財に指定されています。
 
この一帯に住む矢野という姓を持つ人々は現在須佐神社の氏子ではないですが,古くから小童祇園社の勧請神話にも由縁をもち,今も大祭時の御輿清めには矢野の聖水が汲まれるそうです。7月の第3日・月・火曜日. 「小童祇園祭」は須佐神社の大祭で、 「ひちの祇園さん」として親しまれ、大神輿の綱引き・神楽・矢野神儀などが行われます。 「庭打ち」は、この時境内で打ち鳴らされる、太鼓の曲打ちです。青い法衣裳姿の一行約150人が、鉦・太鼓・笛を打ち鳴らして神社を訪れ、命と稲田姫の結婚式を模した神儀を行うようです。この儀式には矢野一円の住民が一戸のもれなく参加し,大太鼓・小太鼓・笛・鉦(かね)・ほら貝の音にのせて,唐うちわ・槍をうちたて,屋形をかつぐなどして,小童の祇園社へくり出すのでし。屋形(山とも言う)は歴史・伝説・昔話の人物にし立てて台上に飾ったもので,4人がかりで担かれます。

さて、ここまで読まれて不思議に思われることはありませんか?祇園祭りといえば日本人で知らない人はいないほど有名な祭りです。ここではその祭りがスサノオを祭る祭りとして行われているのです。では、他の祇園祭りはどうなのでしょうか?

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応神天皇14年,これを西暦の何年に定めるかは諸説ありますが一例として283年に秦氏の本体が朝鮮半島からやってきた。これは歴史上の事実としてとらえて間違いないでしょう。秦氏が原始キリスト教徒であると考えると年代的にも問題はなく,全てはうまくかたづくのですが,自分の中でなにかもやもやしたものが残るのです。例えば,秦氏はみんなイスラエルで改宗した原始キリスト教徒だったのか。その中には失われた10氏族やバビロン捕囚で捕らえられたユダ族,ベニヤミン族,レビ族はいなかったのか。秦氏とはもちろん原始キリスト教徒なのですが,もともとあったユダヤ人コミュニティが彼らを受け入れたのではないか。つまり,ユダヤ人コミュニティである秦氏が原始キリスト教徒を受け入れ,自らも原始キリスト教徒になったのではないか。ならば秦氏はもっと古い時代,例えば弥生時代に日本に渡来していたのではないかと想像が膨らんでいきます。なぜこのような想像が生まれるかといえば,秦氏が朝鮮半島に入ったのは紀元前2世紀のことでその時にはキリスト教はこの世の生まれていなかったからなのです。

秦氏が朝鮮半島経由で日本に上陸したとすると上陸地はおそらく九州でしょう。ところがそのような古代に秦氏の面影は全くみあたらないのです。そこでこう考えました。古代において秦氏は秦氏ではなかったのではないか?そう考えれば,ひとつの答えは秦氏は賀茂氏だったという結論になります。賀茂氏は弥生時代にさかのぼる古氏族であることが定説ですので私の疑問は解決したことになります。でも,何かひっかかります。賀茂氏は秦氏の中の秦氏。賀茂氏とは役割を異にする秦氏がいたのではないだろうか?そう考えつつ夢想にふけっているとはっと一つの氏族が思い浮かびました。それは多氏です。
続きはhttp://da-vinci.seesaa.net/?1299311519

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