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日新館@みくしー寮コミュの日下義雄氏のアメリカ宛て手紙

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こんにちわ〜。羽角さんにMixiに誘って頂いて、まだやり方よくわかってないのですが、こちらにもはじめて参加させて頂きました。羽角さんには、幕末話や福留問題(シカゴカブスに来る中日選手)(^^;)など、お世話になっております。

昨日、羽角さんのメールから興味を持って、webを探していたら、このようなものを見つけました。これは白虎の日下氏でしょうか?と伺ったら、そのようなので、こちらで尋ねてみることにしました。
http://www.bennettstamps.com/cgi-bin/viewlot.pl?site=1&sale=284&lot=1622&lang=1

アメリカの切手関係のオークションサイトのものです($650だかで、既に入札済みの模様。William Spicer という人のコレクションだったようです。いつ行われたオークションなのかなどは、見ておりません)。
同じオークションの他のものは、みな、外人が外人に出している、日本から又は日本宛ての手紙のようでしたが、中に、日本の幕末のことを書いた日記本の作者で新聞記者のフランシス・ホール宛のものもありました。結局、切手と消印(に価値があるのか不明ですが)などの価値が第一のようです。説明がそればっかりなので。

本題ですが、この日下さんは、岩倉使節(私が最近追っている話題です)の留学生の部の方でしょうか?
手紙は1874年12月22日に横浜から出ています。

羽角さんのおっしゃるに、この方、五稜郭まで行って、その後の謹慎後、明治4年に留学とのことなので、その年だと、岩倉使節団、または一緒に行った留学生(43人とか)ではないか?と。ちなみに、岩倉使節は、新暦1871年の暮れ(日本は明治4年11月くらい?)から、73年秋までで、留守中に新暦採用らしい...ので、算数できない私には計算怪しいですが、明治4年で、岩倉と一緒(又はその先発隊)の船でないと、かなり厳しいはず。井上馨の書生とのことなので、恐らく岩倉団ではないかと。

そして、これは日本にいる日下氏が、コネチカットのNorwichというところにいる、Mrs. C. Jewett(日本語だと、ジュウェットか、ジェウェット...ジエットもあるかも?C.なので、キャサリンとか、キャロラインとか、クリスティーあたり?イギリス系の姓のようですし、19世紀ですから、そんなに突飛な名前ではないと思います)という方に出している手紙ですが、この方とのご関係、どなたかご存じないでしょうか。留学先はどちらでしょう?この辺りは大学かなり多いので、寄宿先?

この封筒には、This gentleman is now Governor of Nagasakiと書き入れがあります。これも羽角さんに伺ったところ、長崎県令(知事?)を確かにしていたそうで、なのでその日下さんであろう、とのことですが、この書き入れをしたのは日本人ではないかと思います(英語圏の人だと、多分、"the Governor of..."とtheが入ると思うのと、英文字の感じが)。
1886年からという長崎知事の時代に「現在」なので、1874年に出した手紙が、10年くらいで日本に戻ったか、或いは、そこにいた日本人(?)に渡ったかで、最後には、このコレクションの持ち主のWilliam Spicerなる人(はどうも、東洋の郵便物コレクターでしょうか)に渡ったと思われますが、岩倉使節関連の人のその後、ということで、とても興味深いです。

何かご存じの方、ぜひ教えて下さい。

コメント(10)

ながみみさん、こんにちはー!
コミュ、参加くださって有難うございますハート達(複数ハート)

日下義雄の手紙の件、詳しく書いて頂きまして、これまた有難うございます。私の手許には残念ながら日下氏に関する資料がなくて…m(_ _)m。
「日下義雄伝」などに何か書いてないでしょうか? ご存知の方がおられましたら、情報お待ちしております。
ながみみさん、初めまして。

さて上記の手紙についてですが、日下伝に関係ありそうな事が載っていましたので、以下記載します。
ご存知の事も多々あるかと思いますが、その辺は御容赦下さい。


日下義雄は明治4年(1871年)末に、米国留学をしています。
これより先明治3年に、山川健次郎という日下と同じ会津藩出身の方が米国留学をしていますが、元々日下も健次郎と共に米国留学の旨を申し付けられていたそうです。
しかし、その時の命令が

 斗南藩に対し、「御用有之候に付、其藩の山川健次郎・日下義雄の両人、留守居同道出頭すべし」

というものであり、また日下義雄が石田五助であると解る人が居なかった為、已む無く健次郎一人が出頭し、先に遊学する事となったそうです。

その後明治四年になり、日下は「岩倉具視一行の乗船に同乗して米国へ向った」のだそうです。
健次郎はその頃日本人遊学生から離れて勉学に励むため、コネチカットのノールウィッチに移り住んでおり、日下は健次郎を頼って手紙を出します。そこで漸く日下と石田が結びついた健次郎は、早速日下に面会し、後日下もノールウィッチに移り住みました。

日下のノールウィッチでの足取りは以下の通りです。

 義雄は、その後文学大臣ノースロップ氏の所に居たこともあるし、デューエット氏の所に居たこともあるし、それからジョン・ビゲロー氏の所へも行った。

恐らく手紙のあて先であるJewettとは、この「デューエット氏」を指すのではないでしょうか。残念ながら、このデューエット氏は博士であるという事くらいしか解りませんでしたが、明治6年(1873年)の7月25日に彼がここに居た事をビゲロー氏の書状によって確認できます。

しかし明治7年になり、留学生の淘汰が始まった為、日下は日本に召還され大蔵省に勤務する事になります。留学生差免の辞令が出たのが3月7日で、4月27日には紙幣寮七等出仕となっています。

手紙の差出がその年の末なので、お世話になった方への返礼としての手紙であったのではないかと推測されます。


以上、長くなりましたが何か少しでもご参考になれば幸いです。
大変詳しい情報をありがとうございます!
引き続き、デューウェット博士その他を探索したいと思います!

日本の幕末についてを英語の本などでいろいろ探っていて、羽角さんと(強引に?)知り合わせて頂きました。
最近明治以降の日本の西洋化方面に、にわかに関心が移っているところ、羽角さんから白虎のみなさん(というほど大人数ではない?)もかなり、明治なのですが、政府の技術革新に大きく貢献していることを知ったので、これは、留学生自身のことも詳しくわかるのではないか!と、こちらに入れて頂いた次第です。

しかしながら、白虎のことは、羽角さんに時折伺う以外、結構以前にやったテレビで、坂上忍(待たせたなぁ〜、の)、西川きよしの息子、国広富之が出ていた...ということくらいしか存じておりませんので、何卒よろしく。

さて、その後、これか?というのを見つけましたので、ご報告。

この日下さんかと思われる方(Koosaka)は、1871年2月6日の新聞(NY Times)で到着を報告されていました。というと、岩倉使節より1年くらい早いですね。一緒に行った人の名前が、とんでもないスペルで良くわからないですが、ほり、えがわ、まえだ、というような名の人が一緒のようです。18人着いて、そのうち何人かはロンドン、パリ、プロシアに行くとのこと。これは別のくさかさんでしょうかね?

Kusaka Yoshioさんは、「University College of London(ロンドン大学という?名門校)に留学したと言われているけれども、在学した記録のない明治初頭の日本人留学生」というような情報も見つけました。そのようなことも言われているのでしょうか?そのリストには井上馨も入っていましたが...。(羽角さんのお話では、日下氏は井上馨の書生とのことなので、UCLに行った履歴を捏造か?!)

もし、そうであれば、一度NYについて、イギリスにいった後、アメリカに戻ってきて、山川さんと会った、というのもあり得るでしょうか?
その18人の留学生の中に、Sekijana(せきやま?)なる人がいて、フランス語が大変流暢だと書いてあります。横浜で覚えたと言っているそうですが、これはどなたでしょう?

山川健次郎さんの方は、岩倉隊留学生の5人の女子の一人、のちの大山巌元帥奥様の山川捨松さんのお兄さん(で、会津では有名な山川兄弟とのこと)と、羽角さんから伺っておりました。

山川さんは1872年にイェール大学に入っている(Sheffield Scientific Schoolという科学専門の学部)ので、妹さんと一緒の渡航もあり得るとは思うのですが、別々でしょうか?
日下さんと山川さんは、それほど親しいわけではなく、単に、同窓生=外国だから連絡取り合う、のような感じですか?

山川さんは、イェールを卒業(学士)したはじめての日本人とか。後にレントゲンを初めて日本で実験した方だそうです(恐らくこういったことは、とても良く知られていることなのだと思うのですが、超初心者にて失礼します)。

飯盛山からわずか4年でしょうか?すごくないでしょうか?!どうして英語が話せたのでしょう?なぜ、この二人は留学に選ばれたのでしょう?江戸時代に、洋学、ないし蘭学をご専攻でしょうか?随分若いようですけれど。

そして、山川さんは、なかなか(というか、かなり)見目麗しい(古臭い表現)青年のようです。(日下さんの方は、顔わかりません)

アメリカ/イギリスでの生活など、知りたいですが、彼らの白虎時代にも興味を覚えました。
この時代まで来ると、まがりなりにもそれ以前がわかるのが、品川やじろーくらいしかいなくなってしまうので、ぜひ、明治に貢献する元白虎さんたちについて、お仲間に入れて下さいませ。

長々と、すみません!!
>この日下さんかと思われる方(Koosaka)は、1871年2月6日の新聞(NY Times)で到着を報告されていました。というと、岩倉使節より1年くらい早いですね。一緒に行った人の名前が、とんでもないスペルで良くわからないですが、ほり、えがわ、まえだ、というような名の人が一緒のようです。18人着いて、そのうち何人かはロンドン、パリ、プロシアに行くとのこと。これは別のくさかさんでしょうかね?

→明治四年というと、健次郎が米国に留学した年ですね。一月出立で、二十三四日かかって米国に着いた、とありますので、ひょっとしたら健次郎一行の方かもしれません。健次郎らが乗った船の名前は「Japan」という名前だったそうです。
 尚、日下の船は明治五年の一月にニューヨークに着いています。


>Kusaka Yoshioさんは、「University College of London(ロンドン大学という?名門校)に留学したと言われているけれども、在学した記録のない明治初頭の日本人留学生」というような情報も見つけました。そのようなことも言われているのでしょうか?そのリストには井上馨も入っていましたが...。

→ノールウィッチで日下の友人であったビゲローという方の手紙内には、「日下氏は米国では正規の学校へは通わなかったように思います。」とありますので、どこかに在学したというわけではなさそうです。また同書に「留学生は、一般に一定の学校に入学し、制規の学業を修め、試験を受け、卒業証書と学位とを携えて帰朝するというような規則正しい生活をしたものではなかった。」とありますので、恐らくこうした留学生は多かったのだと思います。


>もし、そうであれば、一度NYについて、イギリスにいった後、アメリカに戻ってきて、山川さんと会った、というのもあり得るでしょうか?

→健次郎と日下が出会ったのは、文面から察するにNY到着からさほど間があったようには思えませんし、この時期イギリスに渡ったというような記録はありませんでした。恐らくノールウィッチを中心として、様々なお宅にお世話になったのだろうと思います。


>その18人の留学生の中に、Sekijana(せきやま?)なる人がいて、フランス語が大変流暢だと書いてあります。横浜で覚えたと言っているそうですが、これはどなたでしょう?

→この方については、ちょっと良く解りませんでした。「留学生中には日下氏のほか、平田東助氏・団琢磨氏・金子堅太郎氏などが居ったという。」という記述くらいしか見当たりませんでした。


>山川さんは1872年にイェール大学に入っている(Sheffield Scientific Schoolという科学専門の学部)ので、妹さんと一緒の渡航もあり得るとは思うのですが、別々でしょうか?

→健次郎とその妹・捨松は別々に渡航しています。
捨松は、津田梅子らと共に日本初の海外女子留学生として、明治四年11月12日に横浜を出発しています。
日下が出発したのは同年の12月15日なので、彼等とも一ヶ月ほどずれがありますね。


>日下さんと山川さんは、それほど親しいわけではなく、単に、同窓生=外国だから連絡取り合う、のような感じですか?

→健次郎と日下は仲良しだったと思いますw 日下伝には序文も寄せてますし、米国では赤羽四郎を含め三人で撮った写真も載っておりましたので、アップしておきます。向って左から赤羽四郎・日下義雄・山川健次郎です。赤羽四郎も彼等と同じく会津の出身です。


>飯盛山からわずか4年でしょうか?すごくないでしょうか?!どうして英語が話せたのでしょう?なぜ、この二人は留学に選ばれたのでしょう?江戸時代に、洋学、ないし蘭学をご専攻でしょうか?随分若いようですけれど。

→当時は色々な省がそれぞれ留学生を出すのが、ある種の流行のようなものだったらしいです。
 健次郎の場合は、健次郎曰く、黒田清隆が「(北海道)開拓の方法を習って来させ、北海道の開拓に従事させよう」というつもりで、元々寒い地域に住んでおり、且つ戊辰の時に奮闘した会津と庄内から留学生を出そうという事になったからだそうです。
 日下の場合は、井上馨の書生だった時「有為の青年を洋行させるという廟議の起ったのを聞いて、井上候に自分を推薦していただきたいと」ねだり倒したそうですw井上が毎朝しつこくねだる日下に「うるさい!さがれ!」と怒鳴ったが、それでも日下は粘り続けて「とうとう候の推薦で洋行することになった」のだそうで……。。


以上、参考は「日下義雄伝」と「六十年前外遊の思出」(こちらは健次郎洋行の思い出話です)でした。
2000字を越えてしまったようです。もう1つあったのです。

それと、ですね、話飛びますが、
徳川昭武のパリ万博+留学の日記で、幕府瓦解につき、急遽帰国する部分に、上海で、明治1年10月28日、29日に、昭武は、スネルと、会津の一柳幾馬という人と、米田圭次郎(その後、長野慶次郎というそうです)という人に会っています。スネルは会津関係者のスネル兄弟という方のどちらかと思いますが、一柳という方と、米田という人は会津の方でしょうか?米田という人は幕軍の元歩兵頭取だそうなので、幕臣のようですが、会津関係者と一緒なので会津戦に出た方でしょうか?大政奉還後の歴史/登場人物が殆どわからない(恥)のですが、明治1年で、上海にいて構わなかったのですね?なぜ上海にいたのでしょう?澁澤栄一によると、昭武を函館の戦争の大将にしに来たようなのですが、ウィキペディアを見ましたが、詳し過ぎてよくわかりません。西暦1868年12/10、11です。

話がいろんなところに飛んでおりますが。。。。
会津関係で不明のところなど、またしても、しかも連続書き込みでお尋ねしてしまいました。(伊藤、井上疑惑も混ざってしまいました。失礼)
あら?消えてしまった?何してんの?わたし??
編集という機能はなかったのね.....。削除ってかいてあるじゃん。。。なんで編集だと思ったんでしょうか。。。(T^T)
がびーん。。。。

話を整理すると、森有礼と日下氏は渡航が一緒だろうか?ということでした。いろんな人の名前も書いたのですが、ちょっと痛手が大きいので再度書きません。。。

米田なにがしは、かいりん丸でアメリカに来て、当時にトミーと呼ばれてかわいがられた少年、長野圭次郎(岩倉使節員)でした。この方、会津に関係ある人でしょうか?

滞在先であったというノースロップ氏についてはわかりました。彼は、その後、日本にやってくる先生ですね?州の教育委員会会長か何か、そんなのでした。Jewett氏はいまだ不明です。禁酒運動活動家の方にそれっぽい人がいるのですが。
みなさまの博学っぷりに驚きつつ、勉強させていただいてます。

>ながみみサマ
一柳幾馬氏は、おっしゃる通り会津藩士で250石取京都詰番頭組々頭だった人物で、戊辰の際には鳥羽伏見の戦いに参加し、東帰後、江戸に残留、順動丸に品川砲台の大砲・弾薬を積んで箱館を経由し4月11日に新潟経て帰国、軍事奉行並、玄武隊を率いていた人物です。

米田圭次郎氏については、知人のサイトの説明によると、文久元年に日光奉行となった小花和内膳正の次男、天保14年生まれ。母方の米田姓を名乗る。戊辰時は、単純計算で25才。
七連隊頭並。5月6日の第二次今市戦で負傷。仙台まで大鳥と行動を共にした後、『釜石からスネルと共に上海に行き徳川軍応援を画策』するも、現地で渋沢栄一に止められ明治4年に密帰国。名を先祖の長野姓に改め、外務省書記官・岩倉遣米欧使節の通訳・北海道開拓・ハワイ日本人移民監督・大坂訴訟院通訳等を勤める。大正6年1月13日、75才で逝去。
この、徳川軍応援を画策する為上海にいた際に会ったと思われます。
補足。
米田圭次郎氏の兄、小花和重太郎は安塚戦で腹部銃傷、宇都宮で没し、現在日光の浄光寺に墓があります。
ありがとうございます!

トミー長野たちは、昭武の帰国を知って、昭武に会うために上海まで来ていたのですね。昭武はそこで会津の敗戦を知ったそうです。どうして昭武の帰国を知っていたか、と思ったら、なるほど、会津の当時の殿様は、昭武の弟でしたね!

もう、この頃は、誰が外国に行っても、止められないような状態なのでしょうけど、東北以北から上海に行く便があったのでしょうかね?あ、きっと函館からですね、こちらも、なるほど!政局の混乱が手に取れるようです。函館に行った人たちは、もしかすると、そこから外国に逐電してた人、他にもいるのかも知れないですね。

それで、トミー長野は岩倉使節に同行するまで上海にいたのですね!
大変興味深い情報、ありがとうございます!!

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