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池田晶子の哲学エツセイを継ぐコミュの池田晶子著『残酷人生論』ーなぜ拝むのか

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金日成が亡くなったとき、北朝鮮全人民が慟哭(どうこく)した。
「ああ、お父様、私たちの救い主」

怒涛(どとう)の、哀号。

以前、バチカン見物に行ったとき、参道の両側にバッジやタオルやTシャツなど、各種の「法王グッズ」を売る店が並んでいるのを面白く眺めた。あ、これ、浅草の仲見世と同じだ。世界の各地からやってきたお上(のぼ)りさん信者たち、参拝記念に嬉しく買い求めている。ブロマイドを見比べて言う、「こっちの表情のほうが素敵だわ」。

ところで、イエス・キリストは、いっとう最初に釘を刺しておいたのだった。「偶像を拝んではならない」。

しかし、十字架のイエスを拝むから、クリスチャンはクリスチャンなのである。

拝むなと、あれほど強く本人から言われているのに、言われるそばから、拝むのである。人はなぜ、すぐに拝むのだろう。

イデオロギー信仰も、キリスト教信仰も、はたまたオウム真理教信仰も、何かひとつのことを信仰している人々を笑う余裕が、人々にはできてきたかのように、二十世紀も末になって少し見受けられるけれども、ナニ、大差ない。

神を拝まない人は、金を拝んでいたりするのである。拝金教信者。どっちが、マシか。やっぱり、大差ないか。拝金教の共産主義とかも、いるわけだし。
オウムの金塊も、すごかったし。

民主主義は自由と個性を尊重するから、イデオロギーや宗教とは違うと思っている人が多いようだが、そんなことはない。あれはあれで、ときに立派にイデオロギーであり、宗教でもある。

民主主義が拝んでいるのは、ほかでもない、その自由と個性という偶像である。それらは、金日成とかイエス・キリストとかの人間のかたちをとっていないから偶像崇拝ではないと、彼らは思っているようだが、同じである。そうではないと言うのなら、自由と個性という観念の内実を、あらかじめの価値としてでなく示してみてほしい。

裏返して、歴史とか伝統とかの観念をあらかじめの価値とする保守主義とかいう人々も、やはり同じである。何がしか自分以外のところに、自分の拠り所がほしいのである。拝みたいのである。何を価値と拝んでいるか、その中身が違うだけのことだ。

観念なんか拝んでどうする、我々が認めるのは事実すなわち客観性だけだ、と主張する科学主義、これはこれでまた信仰である。唯一絶対の客観性が存在する、そして我々はそれを認識できると思っているのは、これ、信仰以外ではないではないか。

人間とは、思い込みの動物である。何かをそうだと思い込んでいなければ、何もできないのである。何もできなくたって、べつにいいじゃないか、私は思うのだが、多くの人々はそうでないらしい。何かをそうだと思い込むことによって、やはり何かをどうにかしたい、だから何かをそうだと思い込みたいのである。

しかし、右のようにちょっと並べてみただけでも、世界についての思い込みは、もう人それぞれ、全部が違うのである。厳密に同一ということは、全部が同一人の人間でない限り、ないのである。人それぞれ、全部が違う思い込み、そのことについてあれこれ思いめぐらしているほうが、私などにははるかに面白いのだが。

何かをそうだと思い込んでいる人は必ず性悪(しょうわる)かというと、そういうことでもまた必ずしもなくて、人間とは最終的には、人格なのである。人品骨柄に尽きるのである。

何らかの主義や信仰によって、その人が善い人になるなら、それに越したことはないではないか。
そういう人のことを嗤(わら)っている人のほうが性悪である場合のほうが、ずっと多い。私などにはこのほうが、よほど憎たらしい。



コメント(5)

信仰をこんなふうに考えてみたらどうだろうか。
自分が何処に家を建て、生活を築くか。今自分が何処に立って歩こうとしているのか。信仰が大地だとしたら分かりやすい。
「大地がここに存在し、きっとこの先長い間崩れることはないだろう。」そう意識しなくとも信じているからこそ人は安心して生きていけるのであって、大地を信用しなくては何もできない。今正常に生きている人は、間違いなく大地を信仰している。
人間関係もそうだ信頼があって、そこから次の関係へ進んでいく。信じるということの積み重ねが人を次の段階へ進めてくれる。
なぜガリレイが宗教裁判にかけられたか。宗教という大地の上に建てられた家も生活も人間関係も全てを否定する存在だったからだ。地震のような存在だったからだ。
私たちは信じなければ立つことさえできない。
まず立つためには間違っていてもいい、何かを信じなければならない。
いま、その大地が信用できなくなりつつあるように思います。そうしたのは、ほかでもない、われわれ人間それ自体ではないでしょうか。

元アメリカ副大統領アル・ゴアは父親が自動車の高速道路、ハイウェイの発明者であることにあやかって、情報ハイウェイをを構築しました。

それこそがインターネットの世界ですね。これも、車社会同様に夢想だにしなかった、さまざまな社会的弊害の副産物をうみだしました。

そのゴアが、地球環境の危機を叫んで「不都合な真実」でノーベル賞を受賞しました。何か矛盾があるような気がします。

やがて、人間は自然破壊の恨みをかって、ひどい仕返しを受けるのではないでしょうか。いまや、大地を信用して安心立命というわけにいかないように思えます。

私は、確かに信じられるのは、結局、自分だけと思っております。

そうですね。信じて裏切られるなら信じたふりをして、自分で自分を守るしかないんですね。
自分だけを信じるというのは過酷なものです。なんならいっそ盲目でも何かにすがりたいと思いながら、夢から醒めてしまう自分を疎ましく思うのです。
あるものさん
、あなたは「すべてをうたがっている自分」を信じませんか。
そうでなければ、あなたの主張は何処から出てくるのですか。
自分自身を信じてなければ、あなたは主張する事すらできないはずですが。

それから、現実のすべての物に矛盾がある、とはヘーゲルの言ったとおりです。
自己の中にも矛盾があるからこそ、人は悩むのです。矛盾がなければ悩みなぞありませんね。
それは全き一つであり、その中に満たされているからです。
人間は自己意識をもち、常に自己と向かい合っています。
そういう意味で二つである存在です。
これが全ての問題の根底にあります。
一つであろうとしながら、一つになれない自分がいます。
これはわたしは、わたしである、という自己同一があって、そのわたしが苦しむということですから、自己確信は大前提です。

 
温暖化の問題は、人間が引き起こしたものです。
自然科学の発達は、ありのままの自然を追及することでしたが、
そのありのままが、きわめて人間臭いものだつたわけです。
われわれは人間の立場をはなれて、自然を見ることはできません。
人間にとって良かれと思ってやったことが、自然の反発をまねいたわけです。
自然がいつか人間に復讐するだろう、というのはもっともだと思います。
自らが撒いた種は、自らが刈らねばなりません。

みわさん、
何かに依って生きると言う事は、自らの自由を放棄したことである、と言われています。
しかし、無のただ中に、無意味無目的な人生を一人で歩め、といわれれば、それこそニーチェのいう超人にならなければならないでしょう。
現代の悲劇は神を殺して、人間が神になった、ということでもあります。
磔になりながらも、あるいは、闘牛場でライオンに食い殺されながらも、神を信じてなくなった人は信じるものがあったがゆえに、この世の苦難に耐えられた。
それは、死後における天国だったわけです。
今日のアラブのテロなどもアラーという信じるものがあるがゆえに、彼らは喜んで死んでいった。
ブッシュがどんな近代兵器をもってかれらを蹴散らそうとも、かれらを打ち倒すことはできないであろう。
信仰に勝るものはないからだ。
それは自分がこの世のものだけではない、という不滅の信仰がそうさせるのである。
現代は実存主義が蔽っている。それは一人一人に課せられた厳しい選択である。
死すべきものとしての、存在の在り方である。
わたしは存在する、というときの存在の意味である。
目に見えないことを、捕らえようとするのは本当に難しい。
これ以上のことをいえないが、もっとも身近な私自身のことである。 

思いつくまま独断的に述べましたが、あしからず。

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