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映画を診る「シネマ特診外来」コミュの≪ 特別企画・映画に描かれた自閉症 ≫

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自閉症とは「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」「想像力の障害」の3つを特徴とする生来の発達障害である。

またアスペルガー症候群とは、自閉症グループのなかで知能障害を伴わない高機能のものをいう。

これらは幼児期には同じような症状・行動を見せる。

すなわち
「親から平気で離れる」
「視線を合わさない」
「人を避ける」
「お互いの意思のコミュニケーションがなく、何を考えているのか分らない」
「電車の音や人ごみの音などに知覚過敏がある」
「興味が自動車や文字、絵など著しく限局している」
などである。

コミュニケーションの障害があるため、通常のこどもに対して接するような「手を握る」「大きな声で名前を呼びかける」「肩を叩く」「抱きしめる」などといった行為を予告なくすればパニックに陥ることにもなりかねない。

映画における自閉症の表現は疾病の認識度と相俟って、長い間噴飯もののものも少なくない。

なにしろ、あの広辞苑でさえ、この前の版まで「精神分裂病の一種」といった説明がなされていたのだから。ボクが医学部で学んだ頃、自閉症は小児精神病の一種として扱われていた。考えてみて戴きたい。分裂病や精神薄弱と同列に並べられていたのだ。


 しかし、その決定的な変換の時が遂にきたのはバリー・レヴィンスン監督の『レイン・マン』の公開によってであった。

この映画では、ダスティン・ホフマン扮する自閉症患者が、その弟トム・クルーズとの旅を通して、病気を抱えながらも、ナイーヴ過ぎるほどの精神をもった人間像として描かれ、そこに自閉症独特のこだわりがきちんと表現された。

オスカーを獲得したこともあり、今もなお自閉症と診断されたひとへのリーフレットに「自閉症〜レイン・マンを知っていますか?〜」とタイトルがつけられるほどである。病態とすれば高機能の自閉症患者であり、この最初の映画による全世界への登場は劇映画としても立派な作品であるばかりでなく、疾病の描かれ方としてもおかしくなかったことは幸いであった。
 
日本では自閉症に対する認識の低さも手伝って、まともな映画はほとんど製作されなかった。

しかし山田洋次監督による『学校?』では大竹しのぶ扮する主人公の息子・黒田勇樹が自閉症。新聞配達をしているくらいだから高機能の自閉症なのだが、初めて描かれた日本語で語られる色んなエピソードには全国の患者の家族や医療関係者は好感を覚えたはずである。

オウム返し(反響言語)や儀式的行動など、たとえそれが類型的な側面であったとしても、自分たちの愛するこどもたちの姿をオーヴァーラップして家族は見ている。
 
また、『光とともに〜自閉症児を抱えて』の最終話にもトマトの絵を書かせると、自閉症児が独特のものの捉えかたをしている挿話があった。描きあがった絵がなにを描いてあるのかすぐには判らなかったのだが、遠く離して見るとトマトに見えるというものだ。

こういう「自閉症児の独特の視覚」を物語の中枢に採用したサスペンス・アクションがブルース・ウイリス主演の『マーキュリー・ライジング』である。

主人公の少年が自閉症で、CIAの暗号係が冗談半分でパズルの問題に国家機密を盛り込む。しかし誰も解けないと思った問題を、この少年が解いたと連絡してきたことから、少年の家族はことごとく殺され、少年は殺人課の刑事ウイリスと、アレック・ボールドウィン指揮するCIAの魔の手を逃れて逃げに逃げる。

この少年の家庭ではTEECHプログラムを日々の教育に取り入れており、少年の演技はまさに自閉症そのものの迫真性・リアリズムに充ちていることもあり、ボクは一般人に自閉症のことを説明しなくてはならないとき『マーキュリー・ライジング』を観ることを薦めている。

『タッカー』や『シー・オブ・ラブ』など派手さはないが堅実な映画づくりのバッド・ベッカー監督の力作である。

ただ、少し自閉症の説明になり過ぎると考えたのか、自閉症児が高所を怖がらないことなどの特徴についての説明が不足しているために、それを知らない観客にはクライマックスの超高層ビルの屋上でのアクションが成立することに白けてしまうきらいがあるのは残念。ではあるが、自閉症児の特徴をこれほど巧みに、しかも映画的に引き締まったシチュエーションのなかに応用した映画には類がない。


 
ここまでに引用した映画に登場する自閉症児はいずれも高機能のケースで、重症例ではない。それだけ映画的に表現しにくいことは十分に理解できるのだが、皆無ではない。

一昨年ミニ・シアター公開で少し話題になった『わたしはうつ依存症の女』という作品に重症のケースが登場する。

クリスティナ・リッチは実在の女子大生を演じている。彼女は一種の分離不安で、自分が付き合う友人たちを信頼してじっと待って関係を保つということが出来ない。

仲良くなった男子学生が用事だと郷里に帰ると、長距離飛行機に乗って突然実家を訪問する。そこで一瞬だが彼の妹が映るのだが、予期せぬリッチの訪問に明らかに動揺してパニックを起こすのである。

リッチは分離不安という、多くは母や家族の姿が見えなくなると不安を掻き立てられる精神症状により、さまざまな人との間に小さなトラブルを起こし、彼らが嫌でも向き合う状態となることで安心を得ていく。

まさに修羅のみちを歩む主人公なのであるが、彼女は自分より歴然とした障害を抱えた対象を持つボーイ・フレンドとあっさりと関係を断つのも、こういう背景なるがゆえである。彼女にとって大切なのは自分と向き合える人間なのであり、明らかに自分より重度の障害者を見て「これはダメだ」と察知したわけだ。

この映画はハーバード大学を卒業した実際の患者が書いた手記を原作としているために、頭で考えたなら絶対にならない展開が画面に登場する。

(蛇足ではあるが、鬱病はあっても鬱依存症という病気はなく、原題から察するに『わたしは鬱病治療薬依存症の女』というのが正しい。本当に適当なタイトルをつけるものだとがっかりさせられる。)

自閉症を特別扱いすることはない。

家族は何を望んでいるかといえば、正確な情報の伝達と、それに見合う対応である。簡単にいえば、過剰反応や無視されることのない視線なのである。

同情よりも彼らの存在に気が付き、まずは見ていて欲しい。

そう、彼らに普通の人間であれば感じる健全な関心への希求なのである。健常者は障害者というフィルターを通して、実は予想だにしなかった安らぎに似た体験をすることになる。それが間違いではないこと、関係者だけは大きく頷いていると思う。

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