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映画を診る「シネマ特診外来」コミュの挨拶かわりに 黒澤明の赤ひげ」

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【 ?一生を左右する映画に・医学は天下万民のもの 】

一九六五年、一生を左右する映画に出逢合った。黒澤明監督の『赤ひげ』だ。ボクは十一歳だった。

両親も開業医ではあったが、その頃(ころ)のボクは、たまに連れて行ってもらえる映画を待ち焦がれ、大抵はテレビで放送される古い映画にうつつを抜かしていた。

『椿三十郎』や『天国と地獄』の黒澤明の新作だと聞いただけで、期待に胸ふくらませたものだ。

山本周五郎の原作を四人の名脚本家により脚色。黒澤明が実際に1年半の撮影期間を費やして完成させた『赤ひげ』は文字通り日本映画最後の大作となった。

江戸時代に実在した貧民窟(くつ)の住民を対象にした唯一の公立医療機関「小石川療養所」が舞台で、長崎帰りの若い蘭法医・保本登(加山雄三)が養生所を訪ねるシーンから始まる。

居合わせた医師から赤ひげと異名をとる所長の新出去定(三船敏郎)の部屋に案内されるまでの数分で、この医療施設の使命と現状、患者さんたちの構成や知的レベル、当時のエリートたる長崎に遊学してご典医を約束された人間の誇りなどを観客に理解させる。

赤ひげは保本に長崎で学んだオランダ医学の筆記録・図録を提出するように言い渡すが、彼は拒む。「あれは私なりに工夫してまとめたもので、いわば自分の財産だ」というのである。

「医学は誰のものでもなく、天下万民に役立たせるものだ」という赤ひげの言葉に保本は反撥発する。

「何故なぜです。世の中には“そこひ(白内障)”の治療ひとつで名を成した医師がいるではないか。それをどうしてカネもない、貧民に使えというのか」というわけだ。

いま空前のペット・ブームで、動物には人間に起こる病気は全部ある。しかし治療に処方される薬剤はすべて人間用のもので、これらには健康保険の適用はないため、ペットの治療は人間で言う自費診療だけである。

アメリカにはペット用の心臓ペース・メイカーの開発と手術で財をな成し、ビバリー・ヒルズに豪邸を構えた獣医師もいると聞いた。

冒頭の保本の言動は、医師といえども一個の人間であり栄達や成功を願ってなにが悪いのかと、普通の人間が普通に考える欲望をストレートに表現したもので、何かしら保本が心のなかに屈折を抱え込んでいることを匂におわせる。

しかし医学は、医療という名の実践を通して学び育成しなくては役に立たないもので、映画は保本がそういったものを学び取りながら、医師として人間として成長していく過程を描いていく。(続く)(2005年1月10日掲載)


【 ?“お仕着せ”を着る・自尊心の鎧を脱ぐこと 】

国家試験に合格し、新米医師となって患者さんと接するようになっても、経験のない人間が頼るのは医学的知識のみであり、学問的に割り切れる理屈でしかない。

学問として詰め込んで職業人としての入り口には立てたものの、患者さんの苦しみや悲しみを受け止めるには人生の経験が浅すぎてどうにもならない。

しかし、そういった不安を患者さんの前で見せることはできない。し、気取られぬように全身を鎧(よろい)にで固めることになる。

そんなとき、口に出るのは、自分の不安を打ち消すための不満だ。

保本登(加山雄三)は自尊心を保つべく赤ひげ(三船敏郎)の前で拗(す)ねた態度をとる。自分は養生所などにくすぶってしまう医師ではない…、と。

そんなとき養生所の奥に資産家の令嬢が座敷牢に幽閉されていて、彼女が三人もの使用人を色仕掛けで殺したことを聞き「なにか幼いときに男からひどい目に遭わされた」のではないかと考える。

そう考えるしか発揮できる理屈が備わっていないからだ。

赤ひげなんぞには治せない患者だが自分なら出来る、と思い込む。

「人間は無力なものであるが切磋琢磨(せっさたくま)することでようやく進むことが出来できる」という真理に到達するためには、痛い目にも遭わなくてはならない。

幽閉されていた令嬢が逃げ出し、保本に救いを求めてくる。
美しい娘であったこと、禁じられている酒を飲んだこともあり、保本はもう少しで四人目の被害者になりかけたが赤ひげに間一髪助けられる。

多くの新米医師が真っ先に突き当たる理想と現実のギャップ。医学というものの限界と医師としての無力感。

保本がその厳実に対して、自尊心の鎧を脱ぎ、真摯(しんし)に学んでいこうと思うようになるまでが、映画の半分を占めている。

だが、自分の経験を思い起こしてみても、この配分は決して重過ぎるとは思えない。
 
医師になった以上、研鑽(けんさん)は一生続くものであり、医師としての姿勢や覚悟はいわゆる研修医の間にいかに恥ずかしい経験を指導医のもとに味わって乗り越え、次の患者さんに提供できるか否かにかかっている。

 その象徴が作務衣にそっくりの医師が着る“お仕着せ”で、この“お仕着せ”を着るということは、それまで全身を固めていた実績なき自尊心の鎧を脱ぐことに他ほかならない。

たった一枚の実用的な“お仕着せ”で、医師として認知される。

これ以上に、原始的で、しかし力強い結びつきがあるだろうか。(続く)(1月17日掲載)


【 ?臨終は荘厳なもの・貧困と無知への闘い 】

 保本登(加山雄三)を医師として人間として飛躍・成長させるために、黒澤は三つの死を用意する。

最初は、蒔絵師・六助(藤原釜足)の死だ。

保本は赤ひげ(三船敏郎)から診断してみろと言われて「胃がん」と答えるが、赤ひげは「違う。同じがんはがんでも、ダイキリールつまり膵臓に発生したがんだ。膵臓は動かない臓器だから、痛みを感じるときには腫瘍(しゅよう)はすでに転移している。従って治療法はない」と言い放つ。

「治療法がないのですか!?」即座に「ないっ!あらゆる病気に対して治療法などない!」と険しい顔で断言する。

このシーン、実は11歳のボクが生まれて初めて自分だけで知り得た医学知識であった。

「医学と言っても情けないものだ。多少生命力の強い個体には手を貸せることもあるが」に続けて、「出来ることは貧困と無知に対する闘いだが、政治は何もしないではないか。」

「かつて人間を無知と貧困のままにしておいてはならぬ、という法令が出たことがあるか!」と真情を吐露(とろ)する。

この映画のテーマはまさにこれで、その根底にあるものは“生命への畏敬”そのものである。

この吐露は青二才であるが純粋な保本を自分の後継者と赤ひげが見込んだことを観客に理解させるシーンとなる。

六助は入所以来一言も口を利かず、病気の陰には恐ろしい不幸が隠れていると赤ひげは喝破(かっぱ)する。

そして、ひとの一生で臨終ほど荘厳(そうごん)なものはない。よく見ておけというのである。

だが、保本には、その意味が分らない。死がただただ醜悪で恐ろしく見えるのだ。

だが後に六助の娘が訪ねて来て着いて、六助が凄すさまじい不幸を抱えながらも、じっと堪えた人生を送ったと分ったとき、保本の脳裡に浮かぶ六助の臨終の横顔はもはや醜悪なものでなくなっている。

人はどう死んだかではなく、どう生きて、その果てにどう死んでいくかだ、ということだろう。

続いて、職人・佐八と女房・おなかの死が綴つづられるが、保本と同時に観客もまた,彼らの死に秘められた例えようのない哀(かな)しみと、死によってもたらされる安堵(あんど)を学んでいく。

ボクは職業柄多くの患者さんの臨終に立ち会ったが、いつもその死が荘厳に感じられるかを模索している気がしてならない。

強くあるべき医師もまた患者さんから学び、少しずつ成長していく。医師であるボクにとっても、赤ひげは永遠の憧れなのである。(続く)(1月24日掲載)


【 ?清濁併せのむ魅力・黒澤人間愛への凱歌 】

小石川療養所とは享保年間に幕府直轄で設営された公立の施薬院である。

赤ひげ(三船敏郎)は病気を診ると同時に、その心の中に抱えている不幸も分るという超人的医師だが、それを観客に容易には覚(さと)られないように、黒澤は赤ひげを聖人君子には描かなかった。

美食と怠惰な生活の挙揚げ句、高度肥満による呼吸循環機能障害に陥った大名からは罵倒(ばとう)に近い生活習慣指導の末に高額の治療費をふんだくる。

豪商からも同様に請求し、たまりかねた相手から「医者の仕事は治療の結果は預かり知らないといいますが…」と嫌味を言われると、「それはそうだ。それぐらいでなければ金持ちの提灯(ちょうちん)医者は務まらん」とバッサリ。

それで得たカネを貧しい患者の経費に回していく。

罪を犯した子持ちの女には、町奉行に妾(めかけ)問題をほのめかして、母子の放免と生活費まで出させる。

「わしは卑劣な手段を使った。実にイヤな奴(やつ)だ」と独白させるが、清濁併せ飲む魅力的な人間として観客に迫ってくる。

やっつけられた方からの訴えがあったのか、幕府は通い治療(往診)の禁止と経費の三分の一削減を通告してくるところなどは時代劇でありながら、切り口は現代そのものだ。

その怒りのためか、岡場所(遊郭)から病気の少女を養生所に連れ帰ろうとしたとき、彼らに凄んできたゴロツキたちを瞬時に叩きのめす。

この少女こそ、保本登(加山雄三)を一人前の人間として医師として脱皮させることになるおとよ(二木てるみ)であった。

絶望という名の少女は受動的な立場に終始していた保本に初めて任せられる患者となった。大人たちの強欲に翻弄(ほんろう)され虐げられた魂を蘇生させる治療は、そのまま保本の屈折を解きほぐし本来の真っ直ぐな視線を甦らせる。

「体も病んでいるが、心がもっとやられている。やけどのように爛(ただ)れているんだ」と言わしめたおとよの再生には、気の遠くなるほどの献身と慈愛が不可欠であった。

映画『赤ひげ』はワンシーン・ワンカットにこだわった黒澤の人間愛への凱歌(がいか)であり、あらゆる年齢層の観客が、その年齢によって心動かされるシークエンスがその都度変化していくという稀有(けう)な作品である。

ボクは医師になるまでに劇場で四十回以上見たが、いまでも「心が衰えてくると」見返している。

その青臭さはまた、黒澤ヒューマニズムによって人生の洗礼を受けた人間には仕方ないことだろう。
(この項・完)(1月31日掲載)

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