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空春塾コミュのだから、その手を

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          chap.0   ハロー★



 ――ねぇ。孤独って、なんだか知ってる?え?知らない?じゃあ、いいや。それなら、アスペルガーって、なんだか知ってる?それも知らない?まぁ、無理もないか。今から話する話はね、僕がある一人の少女と出会ったひと夏の大切な思い出の話なんだ。なるべく飽きられないように話すから、ちゃんと聞いててね。





 8月6日。待ち合わせの駅前にあるパチンコ屋の前で、僕は待っていた。家までは、送り迎えをしてもらうことになっていた。
 僕、赤兎(あかと)は、××大学の経済学部3年生をしている傍ら、バイトで家庭教師をしている。今、2人の生徒を教えているのだが、今夏からもう一人教えることになった。

 他の生徒の授業報告をしていた時にふと見てみた先生募集欄に書かれていた条件に目を惹かれたのが、全ての始まりだった。
 生徒学年:中学2年生
 担当教科:国語、数学、理科、社会、英語
 応募条件:根気強い先生。リードしてくれる先生。優しい先生。アスペルガーに理解のある先生。
 最後の条件に僕は目を止めた。二度見に近い感じだ。
「アスペルガー?なんだろう」
 気になった僕は、すぐにパソコンで調べた。
 

コメント(18)

 
 調べた結果、アスペルガーとは簡単に言えば、自閉症に近い病気だということがわかった。
「へぇ」
 口でそう言いながら、僕はパソコンの前で、応募ボタンを押していた。何故だか、僕は少し胸躍っていた。ボランティアが特に好きだったわけじゃない。むしろ、嫌いなくらいだった。それなのに僕は何かを期待していた。前の2人の時もそうだったが新しい生徒に出会うというのは、なんだかわくわくする。
 確かにアスペルガーという単語が目につき、興味をそそられたが、特別な感情を抱いてはいなかった。

 斡旋協会から連絡が届き、応募が通ったらしく、後日生徒に関する更に詳しい情報を教えてもらうことになった。多くの条件があったにも関わらず僕が通ったのは、今まで着実と実績を積み上げてきたからだろうか。
 生徒の名前は、夏司千里(かし ちさと)。成績は、学内でトップクラス。□□町に住んでいるという。僕は、最寄の駅まで電車で行き、そこから彼女の親の車で送迎してもらえることになった。
 ここで、最初の話に戻る。僕は、待っているのだ。その車を。8月だったのに、照りつける太陽の光が、それでもどこかひんやり冷たかった。その感覚を拭うかのように、斡旋協会から貰ったアスペルガーの生徒への接し方の資料と自分でも調べた資料を僕は、もう一度思い出していた。
その1.寛大な心で接しましょう。
その2.我慢強く相手の話を聞きましょう。
その3.わかりやすく紐解いて説明してあげましょう。
その4.しっかりと計画を立てましょう。
その5.何でもポジティブに接してください。
 要するに、アスペルガーの子は、みんな素直過ぎるのだという。そして、俗に言う非言語コミュニケーションの類の物を読み取るのが、少し困難であるらしい。まぁ、アスペルガーの程度にも様々あるようだ。なにせ、症候群と名が付いているくらいなのだから。

 ふと我に帰ると視界の中で、一人の女性がこちらに近づいてくるのが、目に付いた。見た目は30代前半で、優しくもどこか悲しげな目をしているのが、少し遠目からでもわかった。目が合い、にこりとする彼女。つられて、僕も軽く会釈をした。
「平本(ひらもと)先生ですね?」
 お迎えが来たようだ。あっ、ポジティブポジティブ。
「はい。夏司さんですか?よろしくお願いします」
「ええ。よろしくお願いします」
 彼女は、また小さく笑った。凛とした姿は、母親というものを連想させた。
 僕がいろいろと考えてる間に駐車を済ませていたらしい。駐車場が目の前にあったのに、気づけなかった。案内されて、僕は車の後部座席に座った。藍色のミニバンだった。助手席には、誰かが既に座っていたようだ。バックミラーにそっと目をやると、そこには小さな少年がいた。
「お待たせ」
 彼女は、そう言ってちらりと少年の方を向き、それからシートベルトを締めて車を発進させた。ずっとバックミラーを見ていると、夏司さんと目が合った。逸らすように僕は、少年の方を見た。その瞬間、僕は言い様のない違和感を覚えた。その感情が思わず顔に出てしまったのか、エンジンをかけて少し経ってから、夏司さんが口を開いた。
「この子は、千里の弟の呂羽(りょう)です。生まれた時、病気ですぐに目が見えなくなったのよ。でも、そんなことより先生、千里を見たらびっくりするわよ」
 彼女は、小さく笑った。
「え、そうなんですか!?はは」
 僕もその声に合わせて笑う。
「ねぇ、おかぁさ〜ん。おねぇちゃんのせんせぇって、どんなひと〜?」
「ええ?とっても真面目そうなお兄さんよ」
 呂羽君が、へへと得意気に笑った。
 

 車が、僕の知らない道をすいすい進む。車外に見える景色が、嫌にスムーズに流れた。
「おかぁさん、ぼく、きょうがっこでえをかいたんだよ。おっきなひまわりのえ!」
「へぇ。すごいわねぇ。後で見せて」
「うん!いいよ〜。よこにおかぁさんとおねぇちゃんもかいたんだよ」
「あら、嬉しいわ」
 僕は、会話に聞き入っていた。これだけ単調な会話でも、長い間親とまともに喋っていないことを思わされるには、十分だった。
「先生は、こちらに来られたことがあるんですか?」
「いいえ。初めてです。でも、いい町ですね。僕は、学校の近くに住んでいるんですけど、駅が近いので、人がたくさんいるんですよね。だから、こういう穏やかな街には、すごく憧れます」
 横目に小さな公園が過ぎる。呂羽君くらいの子供4,5人が、球蹴りをしていた。窓に反射した彼の顔を覗き込んでみても、その瞳は閉じたままだった。彼は今まで、心の目でどんなものを見てきたのだろう。その白い肌が、ずっと夏の熱にやられて色褪せるなんてことがなければいいのに、と僕は本気で思った。
「先生は、今までに女の子の生徒って、受け持ったことがあるんですか?」
「ええ。一昨年に1ヶ月の短期を1人、去年は高校受験生を1人担当していました」
「へぇ。そうなんだぁ。じゃあ、もう大分慣れてらっしゃるんですかねぇ」
「いやぁ、そんなこともないと思いますけどねぇ。やっぱり、仕事の時はいつも緊張しちゃいます」
「ふふ、そうなの」
 学生指導者に対するこういう保護者の敬語雑じりの言葉遣いが、僕は大好きだった。学校の先生と親のように遠くもなく、かといって親子のように近くもない。この時、そんな微妙な距離感をこれ以上表すことができる物は、他には存在しなかった。
「先生って、どこ出身の方なんですか?」
「ああ、僕は北陸です」
「あら、そうだったの?てっきり地元の人だと思ってたわ」
 先程から流れているポップミュージックが、彼女の言葉の軽快さを際立たせていた。少し聴き入るようにして、僕は会話するのを忘れた。そして、赤信号で車が停車すると同時に僕も目を閉じてみた。

 「着きましたよ」
 はっとして目が覚めた。寝てしまっていたらしい。夏司さんが笑っていた。呂羽君の手を引くその姿は、どこからどう見ても母親だった。
 僕は、慌てて車を出る。一瞬見上げてしまう程、大きくてきれいな家だった。玄関へ上がる階段の横にスラロープがあったにもかかわらず、2人は階段を使った。ほんの2,3段しかないのだが、呂羽君が寄りかかるようにして10秒ほどかけて、両足を揃えながら1段ずつのぼった。
 僕は、意外にも早かったなと思った。きっと毎日階段からのぼっているのだろう。学校から1人で帰った時もそうなのかな。考え事ばかりしていたら、僕が階段に躓きそうになった。
 
 
 「ちいちゃん、先生が来たわよー!」
 扉を開けて、夏司さんがすぐに言った。先に呂羽君が靴を脱ぐ。僕は3番目、緊張を掻き消すようにゆっくりと家に上がる。廊下の床が、ひんやりと冷たくて気持ち良かった。広いリビングに通され、指示された通りに椅子に腰掛ける。
 すると、誰かが階段を駆け下りる音がした。音は、ドアの前でぴたりと止み、そーっとドアが開いた。顔を覗かせたのは、小学生くらいの女の子だった。僕は、千里の妹かなと思ったが、その推測が外れだということが、すぐにわかった。
「ほら、ちいちゃん、先生に挨拶しなさい」
 女の子は、部屋に入ると、小さくお辞儀をした。その姿が、先程の夏司さんと似ていて、僕はなんだか可笑しかった。
 千里が僕の対面に座るのと同時にお茶が出てきた。そして、夏司さんは彼女の横に座った。呂羽君は、自分の部屋に戻ったようだ。毎回、初回授業の最初は、こうやってオリエンテーションの時間を15分程設ける決まりになっていて、もう5回以上も経験しているのだが、僕は慣れなかった。なんとか声が裏返らないように慎重に切り出した。
「初めまして。平本赤兎です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 千里が、弱々しい声で答えた。
「では、早速今後のスケジュールに関してなんですが、週3回ということもありますし、まだ2年生ですので、もう1度中学の基礎からじっくりやっていこうと思うのですが、どうでしょうか?」
「はい。それで、お願いします」
 間を空けずに、夏司さんが言った。
 毎回こうして例外なく1分程で、オリエンテーションが終わってしまう。そこから、僕はいつも相手の出方を窺うようにしている。生徒のことについて雑談が始まることもあれば、そそくさと生徒の部屋に案内されて、授業が始まることもあった。
 今回は、前者だった。夏司さんが、千里の小学校時代のこととかを少しだけ話してくれた。自分で調べた資料に載ってたようなエピソードは、千里にはなかった。小学生の例だが、そんな子はうちの子じゃありません、と叱られて本当に戸籍を調べたりする子がいるらしい。
 とにかく言外の意味を汲み取ることが苦手なのだと書いてあったが、千里はその症状が小さいらしかった。それらしいエピソードといえば、小さい頃「それはちょっと・・・」と夏司さんに言われ、ちょっとの続きをずっと待っていたということくらいだった。
 千里は、頭が良かった。とても、良かった。雑談の後、2階の千里の部屋に案内されて、勉強を始めたわけだが、このペースなら1週間程で1年の復習は終わりそうだ。区切りのいいところで終えると少し時間が余ったので、僕は少し数学に関する面白い話をしてあげることにした。

「昔々、アキレスと亀が競争をすることになりました。アキレスは伝説に残るような俊足の持ち主でした。まともに競争をしたら、亀は勝つことができません。そこで、亀はアキレスにハンディをくれるように頼みました。アキレスは、その要求を快く引き受けます。その時、亀は突然、これで負けないぞ!と叫びました。驚いたアキレスは、いくらハンディをつけても私が亀に負けるはずがない、と言いました。すると亀は、次のようにアキレスに説明を始めました」
カメ:アキレス君、君が僕を抜くには、まず僕がスタートした地点まで来なくてはならない。そして、そこまで来るのには時間がかかっている。いいかね?
 僕は、少し声色を変えて、なるべく棒読みにならないように努めた。
「アキレスは、分かりきっているという顔で返事をしませんでした」
カメ:アキレス君、わかってるよね。君が僕のスタート地点に来るまでの間に僕だって前に進んでいるんだ。いいね。
 千里は飽きずに、ずっと僕の目を見ながら話に聞き入っていた。
「アキレスは、少し怒るようにして返した」
アキレス:しつこいなぁ。そんなこと当たり前じゃないか。
カメ:いいんだね。アキレス君が僕のスタート地点まで来たとしよう。その時、僕は君より先にいる。アキレス君はその時、またも僕のいる時点まで来ない限りは、僕を抜くことなんて出来ないんだ。
「アキレスは、自身満々にこう返しました」
アキレス:それがどうしたんだ。勝手なことを言ってるがいいさ。私がカメに負けるわけがない。
「そこで、亀はにやにやしながら、アキレスにこう言いました」
カメ:君も案外、お人好しなんだね。いいかい。君が僕のスタート地点まで来たら、今度は、その時僕がいた地点まで来なくちゃ僕を抜けないんだ。そして、これはどこまでも続くから、アキレス君は僕を抜けないんだよ。
「きょとんとするアキレスに亀は、図を描いて説明しました」
 言って、僕もノートに図を描き始めたが、千里はそんなものがなくてもわかるよといったような少し不満気な顔だった。
「説明を聞いたアキレスの自信は、揺らいでいました」
アキレス:私は、君を絶対に抜けないということなのか。
「アキレスが、おどおどと亀に言います。亀はアキレスのあまりに不安そうな声に笑い転げてひっくり返り、起き上がるのにアキレスに助けてもらわなくてはいけないほどだったとさ」
「その亀、とっても意地悪なのね」
 半ば反射的に千里が言った。
 
 
「でも、本当に追いつかないと思う?」
 僕は、千里に訊いてみた。
「いいえ。普通にアキレスが勝つんだと思うわ」
「そうだね。普通に考えれば、アキレスが勝つんだ。だけど、この問題は難しい数式を使うと証明できなくなるんだ。というか、追いつけないことになるんだ」
 僕は、その発展的な数学の話はしないでおいた。
「今の君だって、同じだよ。ただひたすら勉強すればいいってもんじゃないんだよ。勉強ができるからって、何が1番大事なのかがわかるわけでもないんだ。これからは、何の為に勉強してるのかを、まず考えることだよ。ああしたいから勉強する、こうなりたいから勉強する。勉強は目的じゃなくて、手段なんだ。自分を助けてくれる手段でしかないんだよ。いいね?」
「ふふ。先生、意地悪な亀みたい」
 千里は少し茶化すように笑った。

 授業を終え、階下へと降りるとリビングに呂羽君と夏司さんが居た。呂羽君が両手を大きく広げて、画用紙いっぱいに咲いたひまわりを夏司さんに見せているところだった。ひまわりは、呂羽君の半分以上の大きさがあって、横に描かれている夏司さんと千里が呂羽君の手と同化していた。呂羽君の笑う顔は、そのひまわりに負けないくらいとても夏らしくて、すごく……素敵だった。
 僕は軽く今日やったことを報告して、また夏司さんに駅まで送ってもらった。数時間前に見た景色が、逆再生されてるみたいで、僕は少し気味が悪い感じがした。だけど今思うと、緊張のし過ぎで、単に車に酔っていただけだったのかもしれない。
「今日は、どうでした?」
 見るからに上機嫌な夏司さんが僕に問いかけた。
「いやぁ、驚きましたよ。ここまで頭のいい生徒は初めてだったので、今夏はものすごくやりがいがありそうです」
 夏司さんが更に上機嫌になるのがわかった。少し疲れていたが、それからも駅に着くまでの間、ずっと会話を続けた。主にこの仕事で経験したことを僕が話すような形だった。
「では、先生。明後日もよろしくお願いしますね」
 車を降りて会釈する僕に、夏司さんはにっこり微笑みながら軽く手を振ってくれた。



 
 翌日になって、僕はサークルに顔を出した。
 
 
          chap.1   磯野ー!野球しよーぜっ!!



「中島ー!野球やろーぜー!!」
 大きな声とともに勢い良くドアを開けたが、返事はなかった。
「中島君なら、今日はバイトで来ないわよ」
 返してくれたのは、4年生の友美(ゆみ)さんだ。このサークルには、現在部員が僕を含めて5人いる。副部長の友美さんに部長の春樹(はるき)さんの4年生が2人、3年生以下は今のところ1人ずつしかいない。2年に中島(なかじま)って奴がいて、1年生には由宇(ゆう)ちゃんって女の子がいる。春樹さんと友美さんは、僕が入学した時から付き合っていた。彼らの1つ上の代には、男の部員が1人いて、僕が1年だった時の4年生には、部員が5人いた。
 荷物を乱暴に椅子の上に置いて、もう1度顔を上げてみると、春樹さんと友美さんが一緒に1枚の絵を仕上げているところだった。人魚のように水しぶきとともに海面から上がる水着姿の少女の絵。その2人から少し離れて、由宇ちゃんは独り本を読んでいた。
「何読んでるの?」
 僕が近づいて訊いてみると、彼女が少々驚いたようにはっとして
「えぇと、短編集です!夏なので、少しホラーの混じった奴を」
 と、なんだか気恥ずかしそうに返した。
「赤兎さん、今日はバイトないんですか?」
「いや、午後からだよ。昨日とは、また別の生徒だけどね」
「そうなんですか。働き過ぎじゃないんですか」
 由宇ちゃんが、クスリと笑った。
「学校が始まると忙しくなっちゃうからね。夏は時間あるし、楽しいから全然苦じゃないよ」
「赤兎君、この絵どう?」
 話を割って、友美さんの大きな声が聞こえてきた。
「すごく動きがあって、本物っぽいっすねぇ」
 僕は2人の方に近づきながら答えた。
「何よそれ。小学生じゃないんだから」
 友美さんが大袈裟に笑う。同じタイミングで、春樹さんも笑い出す。
 春樹さんは、僕よりも背が高いけど、腕が細くて一見すると女性にも見えてしまう程だった。でも、サークルの中で誰よりも優しかった。
「だって、俺全然絵のことわからないですもん」
 友美さんがまだ笑っている。その亜麻色の長い髪を微かに揺らしながら。
「赤兎君に聞いた私が間違いだったわ。さ、気を取り直して作業に戻るわよ、春ちゃん」
 少し理不尽な気もしたが、2人が再び描き始めたのを見て、僕は席に戻りノートを取り出して自分の作業を進めることにした。

 あまりもの眩しさに目が覚めた。僕は寝てしまっていた。風に揺らされたカーテンの隙間から差し込む陽が、ちょうど僕の目の辺りを照らしていた。軽く目を擦り、周りを見渡してみたが、由宇ちゃんと春樹さんの姿はもうなかった。
 まだ絵の中の太陽に色を足していた友美さんに声を掛けようとして、僕はその後ろ姿に一瞬見とれてしまった。窓から漏れる隙間風に乗って流れるその亜麻色の長い髪が、絵の中の女性とダブって、後は背景に空があれば、その海の代わりに僕の心が弾けてしまいそうなくらいだった。
「あら、やっと起きたの?」
 友美さんがこちらに気づいて、ぼぉーっとする僕に声を掛けてきた。
「春ちゃんと由宇ちゃんなら、ちょっと出掛けてるけど、もうすぐ戻って来ると思うよ」
 にこりとする彼女と目を合わせるのがどことなく照れ臭くって、僕は目を逸らした。
「あ!もうこんな時間だ。やっべ」
 視界に飛び込んだ壁の時計に刻まれた時間は、13時3分。
「すみません。俺もうバイトの時間なんで、ちょっと行ってきまーす!」
 慌てて荷物を持って、部屋を出ようとする。
「あら、そう。じゃあ、またね」
 微笑む友美さんに軽く会釈をして、僕はさっとドアを閉めた。
  

 バイトを終えて、僕は下宿先の近所にある居酒屋へと向かっていた。先輩と飲む約束をしていたからだ。サークルのOBで、今は院生で毎日機械をイジっている。機械をイジっていたのは、院に入る前、学部生の時からそうだったが、お陰でみんなからは電気(でんき)さんと呼ばれていた。
 電気さんは見るからに体育会系のがっしりした体格と顎鬚が特徴的で、懐も深く飲む酒の量も多かった。僕は月に1度は、この人と酒を飲んでいた。
 
 少し遅めに着いて、勢い良く店のドアを開けた。真っ先に飛び込んだのは、焼酎を飲む電気さんの姿だった。
「おーう、赤兎ー!!遅かったじゃねーか!」
 電気さんはもう既に軽く酒が入っているようだった。
「電気さん、また時間より早く着いて、先に飲んでたでしょ」
「うはは。そんなこたぁどうだっていいじゃねえか!」
 向かい側に腰掛けて、電気さんのテンションに追いつこうと出されたビールを一気に喉の奥へと通した。
 10分もしないうちに僕も気分良くなって、いつものようにバイトのこととか日々のことを話し始めた。
「今日、小林(こばやし)君に言われたんすよ。暗記が苦手なんだって。それで、何かいい方法はないかって」
「で、何て答えたの?」
「いやぁ、たくさん書いて覚えるしかないよ、としか言えなかったですね。あはは」
「まぁ、そうだわな」
 頷いて、電気さんが豪快に笑う。
「あ、小林君ってのは、僕が受け持ってる生徒の名前なんですけどね」
「その情報は、まだ覚えてるよ」
 自分のグラスに酒を注いで、電気さんが続けた。
「じゃあ、ここで記憶に纏わる話をしてあげよう。日常的な出来事や、勉強して覚えた情報は、海馬の中で一度ファイルされ整理整頓されて、その後、大脳皮質に保管されるんだ。まぁ、つまりは、新しい記憶は海馬、古い記憶は大脳皮質にってことだな」
 言い切って、電気さんはまたお酒を口に運ぶ。僕は、ずっと静かに聞いていた。
「それとは別に、記憶には頭で覚える記憶と体で覚える記憶とがあって、頭で覚える物は陳述的記憶と言われていて、体で覚える記憶は手続き記憶と呼ばれているんだ。漢字とか公式のように海馬を通して覚える物が陳述的記憶で、自転車の乗り方とか泳ぎ方とかを覚えるのが手続き記憶ってことだな」
 説明に手振りが加わる。
「陳述的記憶は忘れやすいんだけど、手続き記憶は何年経っても忘れない。なんでか。それは、手続き記憶が脳のずっと奥にある大脳基底核と小脳に記憶されるからなんだ。体を動かして何回も練習するうちに覚えられていって、忘れないものとなるんだよ。だから、書いて覚えるってのは、大事なのかもね」
 僕は工学部じゃないから、なんだか難しい話のようにも感じられたが、自然と納得していた。
「やっぱり、そうですよねぇ」
「少し脱線するけど、人の脳と呼ばれる大脳皮質には前頭連合野って部分があって、そこでは脳のあちこちにファイルされている記憶をかき集めて、一時的に保存することができるんだ。そうして集めた情報を組み合わせたりばらばらにしたりするような場所なんだ。自分の意志で何かを計画し、それを行うためのプランを立て、成功するために働き、反省もする脳の最高司令官のような場所でもあるんだ!」
 この脱線した話が、1番熱がこもってるような気がした。
「この前頭連合野の働きが黒板みたいだから、心の黒板だとも呼ばれているんだけど、その心の黒板の働きのことをワーキングメモリーって言うんだ。脳の情報処理の最も高度な働きでもあるから、このワーキングメモリーは人間の大きな特徴とされているんだ」
 電気さんに近いペースで飲んでいたから、僕もこの辺りで眠気が限界に近づいていた。
「自閉症の子なんかは、このワーキングメモリーの容量が少ないとされてるな」
 この後の会話は、よく覚えていない。朝、遅く起きたが、少し頭が痛かった。
 

 昼食も食べ終わった頃に、僕は準備を済ませてバイト先へと向かった。一昨日ぶりに夏司さん宅へと向かう。

 パチンコ屋の前で5分ほど待つと、あのミニバンがやって来た。今日は、呂羽君は向かえに来ていないようだ。もう同じ景色を見ても、僕は違和感に感じていなかった。自分の対応力の高さには、いつも驚かされる。
 もう一度あの立派な豪邸を見ても、特に驚くことはなかった。またリビングに通されて、3人でこの前の報告をもう一度した。呂羽君は、横のソファーに座って、教科書を読んでいるようだった。
 時間をかけるようなことでもなかったので、少し話して立ち上がろうとした時に、ガシャンッと何かの割れる音がした。目をやると、呂羽君がコップを割ったらしかった。千里は少しはっとしたが、夏司さんは特段驚いた様子はなかった。
「ごめんなさぃ。じゅうすをのもうとして……」
 呂羽君が、今にも泣きそうな顔で謝ったが、夏司さんはすぐに駆け寄って
「大丈夫よ。気にすることないわ」
 と言って、彼の頭を何度も撫でていた。僕も一緒になって、欠けた破片を拾っていると
「ごめんなさいね」
 と一言申し訳なさそうに言ってくれた。
 一段落して、千里の部屋に行こうとすると僕を夏司さんが呼び止めた。
「先生。言い忘れていたんだけど、今日からこの子のこと、ちいちゃんって呼んでくれないかしら。その方が、千里も慣れてると思うので」
「あ、はい。いいですよ。わかりましたぁ」





 エアコンの風にあっという間に時間が溶けていった。僕が宿題の話をしようとした時、ちーちゃんがそれを遮って、先に口を開いた。
「ねぇ、先生。どうして、どうして呂羽君は、生まれた時から目が見えないのかなぁ」
「え!?」
 意表を突かれて、僕は戸惑った。ちーちゃんは、僕が言葉に詰まったのを知ってか知らずか続けた。
「神様は何を思って、呂羽君を選んだの?先生、知らない?」
「乗り越えられる人にしか、神様は試練を与えない。って言葉をよく聞くけど、正直、僕にはわからない」
 彼女は、僕が何を言っているのかわからないといった顔で、こちらを覗き込んでいる。
「ゆりかごから墓場までって有名な言葉があるんだけど、これは昔イギリスで、あなたが生まれてから死ぬまでを国が保障しますよってことを謳った文句だったんだ。だけど、その保障は散々なものに終わった」
 僕は、もう一度ちらりとちーちゃんを見た。
「だから、僕はそんなに大差のないようなものだと思ってる。誰だって、100年もしないうちに土や空に帰るし、誰だって生まれた瞬間から体のどこかが麻痺してる。僕だって、いつ目が見えなくなるかわからないし、いつまで生きてられるかわからないんだ。幸せが保障されている人なんて、世界中どこにもいないんだと思う。」
 僕は、ちーちゃんの様子を気にせず続けた。
「2年前に成人式に出た後、中学の同窓会に出た。その時、成人できなかった友人が2人いることを知ったんだ。1人は僕が中1の時の事故だったから、知ってたんだけど、僕が大学に入った後にもう1人交通事故で亡くなっていたのをその時知った。周りのみんなは知ってたから、そんなに悲しんでいる様子もなかったんだけど、僕はなんだか悲しかった。心に小さな穴が開いてるような感覚になって、それを埋めるようにその日は、たくさん飲んだよ」
 また思い出して、僕は勝手に切なくなっていた。
「僕はラッキーな方だと言えるのかもね。だけど、誰だってそれぞれ背負っているものがあるし、それに重さも大きさもないって思ってるよ。みんな何かに苦しんでるってのは同じ。それをどう感じるのかが違うんだ。本当は、試練なんてどこにもないんだよ」
 
 帰宅後、何気なく調べてみたら、新しくわかったことがあった。生まれた時から目が見えない人の見る夢は、音しかないらしい。耳の聞こえない人が見る夢では、本当に吹き出しが見えているらしい。少ししか触れていないからこそ、想像がしやすかった。呂羽君がどんな格好でいつも食事をしているのか、どんな顔をしていつも布団に入っているのか。
 だけど、それは想像でしかない。結局のところ、僕は何も知らなかった。そのことが少し悔しくて、すごく悲しかった。
 
 
 土曜日は、サークルで朝から大学近くの河原に来ていた。特に何か目的があってここに来たわけではなく、所謂ピクニックというものだ。
 水の近くにいると、やはり涼しい。空も夏真っ盛りといった感じで、水面に反射して映る日光が余計に眩しかった。

「先輩!エコーって妖精の名前だったって知ってました?」
 草の臭いが臭いなと思ってた瞬間、隣に由宇ちゃんが来た。
「え?どういうこと?」
「エコーって、由来はお喋り好きな妖精の名前だったんです。ある日エコーは、ゼウスの妻ヘラの怒りに触れてしまい、相手が喋った言葉の最後以外は話してはいけないという罰を受けてしまうんですよ。これがエコー、つまりはこだまで、語源となっているんですよ」
「へぇー」
 僕は素直に頷いていた。由宇ちゃんは、読書家で博識だった。
「後、Good-byeって、God be with youが縮まってできた言葉なんですよ。私もこの前知りました。と言っても、使いどころは特にないんですけどね」
 無垢に笑う彼女の純真さを、一昨日より短くなった髪型が際立たせていた。落ち着いた内面とのギャップに僕は少し胸躍らせていた。
「髪、切ったんだ。何かあったの?」
「いいえ。短い方が似合うと言われたので」
 恥ずかしがりならが言う彼女は、また可愛かった。
「誰に?」
「内緒です」
 由宇ちゃんは、言いながら逃げるようにして部長の元へと向かって行った。なんだか悔しくって、気持ちを紛らわせようと僕は持ってきていたグローブとボールを取り出して、中島を誘った。
「中島。野球しようぜ!」
 まぁ、野球と言ってもキャッチボールくらいしかできないのだが。
「いいっすよ」
 
 眼鏡姿に似合わず、中島のボールは速くて重かった。流石、野球部だっただけのことはある。ずっと坊主頭だったからか、髪に関心がなくいつもボサボサ頭だった。学部が一緒なので、言葉のキャッチボールは勉強の話から始めた。
「どうだった?前期の成績」
「まぁまぁですね」
「そうか。俺の貸したコンエコのノートは、役に立った?」
「はい!お陰で、あの授業は大丈夫そうです」
「それは良かった」
 他愛のない会話を繰り返してくうちに手がじんじんと痛み出していくのがわかった。やっぱり、子供にやらせるならサッカーがいいと思う。僕は球の速さを徐々に増していった。それを受け流すかのように中島は、決して力を入れては投げなかった。
 飽きずに投げ続けていたら、太陽が夕陽に変わろうとしていた。僕が止め時を探っていたら、先に尋ねられた。
「これ、いつまで続けるんですか?」
「いや、俺もそろそろやめようと思っていたところだ」
「それなら最後は、本気で行きますよ」
 僕はグローブを叩いた。
「よし。来い」
「俺、由宇と付き合うことになったんですよ」
 言い終わると、中島は大きくゆっくり振りかぶった。あの二人はずっと仲が良かったから、そんなに不思議なことではなかった。中島の速球は今日1番速くて、グローブに収まった時の音が僕の中でずっと鳴り響いていた。

 日も落ちて、みんなでメインイベントの花火をすることになった。ロケット花火はほとんどなく、線香花火ばかりだった。由宇ちゃんの持っていた花火が、誰よりも長く燃えていた。
 その光を見て、僕はまた呂羽君のことを思い出した。星空に響くみんなの笑い声は、もう僕に届いていなかった。こういう時、ワーキングメモリーは邪魔だ。損得勘定を繰り返して、自分の思い通りに行かないと何かに当たろうとしてしまう。いつか自分の想像力を飛び越えて、人を愛せるようになりたいと思った。
 
 
          chap.2   手を繋ごう


 
 それから何事もなく、3日分が過ぎてった。13日になり、ちーちゃんに勉強を教えるのも、もう4回目になっていた。初めて出会ってからもう1週間も経っていたのか、そう思うと、今年の夏はなんだか有意義に過ごせているなと思えた。

 授業を終えて、時計を確認した時にいつもと違う何かが増えていることに気づいた。
「先生、この花なんだか知ってる?」
 勉強机の上の段に小さな鉢が加わっていた。
「んー。花には詳しくないから、全然わからないや」
 笑って誤魔化す僕を彼女は可憐にかわす。
「ジャスミンよ。この花の香りが癒しに効果があるんだって。おばあちゃんに貰ったの」
 話を聞けば、ちーちゃんのおばあちゃんは、花屋をやっているのだという。小さい頃から花に触れていたお陰で、ちーちゃんは花のことについてとても詳しかった。それから、面白い花言葉や季節の花々の話を少し聞かせてもらった。
 途中途中に家族の話も出てきて、父親は弁護士をしているということがわかった。しかし、事務所が他県にあるため、よく単身赴任をしていてあまり帰って来られないということも教えてもらった。僕は、今度来た時にちーちゃんにスノードロップの花をあげようと思った。
 
 



 そうこうしてるうちに、間に1日を挟んで次の授業の日がやって来た。僕がちーちゃんに花を渡すと、彼女はとっても喜んでくれた。僕は、それだけで幸せだった。

 授業も難なく終わり、彼女が花を見つめながら言う。
「先生。私もいい物を見せてあげるわ」
 そう言って、ちーちゃんはタンスから小さな箱を持ってきた。
「何の箱だい?」
 ふふと笑って、彼女が蓋を開けると、それと同時に音が鳴り出した。
「オルゴールか」
「そうよ。何の曲だか、わかる?」
 どこか懐かしい曲。絶対聞いたことがあるはずなのに、曲名がなかなか出て来なかった。ミーーレードーーードミーソーーラーソーファーソーー 強くなれる気がしたよ。
「ささやかな喜びを つぶれるほど抱きしめて」
 いつの間にか、僕はメロディを口ずさんでいた。音を鳴らしたままにしながら、ちーちゃんがまた話し始めた。
「これ、お父さんに去年の誕生日プレゼントで貰ったの」
「そうなんだ」
 今日1日、彼女が笑顔を絶やすことはなかった。
「この曲を聴いていたら、全然寂しくないの。それにそばには、お母さんと呂羽君がいつも居てくれるし」
 僕は、1回だけちーちゃんの頭を撫でた。偉いね、って言おうとしたけど、寸前で出かかった言葉を飲み込んだ。誤魔化すように、また小さな声でオルゴールの奏でる音をなぞった。
「いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい」
 
 
 日曜日は、また電気さんと飲みに行った。訊かれるまでもなく、この前のピクニックの話を肴にした。
「いやぁ、夏もすっかり暑くなってきましたねぇ」
「今年は、まだいい方だよ」
 今日は電気さんより先に来ていたので、二人ともまだゆったりとしたペースで飲んでいた。
「最後に線香花火したんすけど、線香花火って東日本と西日本とで、違うらしいですね」
「へぇ。そうなの?」
「はい。西日本の方が、見た目ちょっぴり線香っぽいんすよ」
「見た目かいっ!」
 この人とは、もう大分多くの会話をこなしてきた。2人ともお互いに次にどんなことを言うのか、わかってしまうくらいに。気づかないうちに、時間は過ぎていく。

「それにしても、中島と由宇ちゃんが付き合うらしいですね」
「若いなぁ。赤兎も最近どうなんよ」
「いやぁ、僕は全然っすね」
「そうか。21の祭り誰かと行くの?」
「いや、それも全然相手がいないんすよ」
「じゃあ、俺と行こうや」
「考えときます」
 2人して、豪快に笑う。グラスとグラスのぶつかる音が、ずっと清々しかった。





 翌日になって、いつものようにバイトに出かけた。夏司さんのところへ行くのは6回目で、夏の授業ももう半分を回っていた。
 勉強の方も、とっくに1年の復習が終わっていて、2年の予習の部分に入るところだった。特に模試をしたわけでもないし、夏休みだから試験もなくて成績が上がったかどうかなんて数字として表れなかったが、僕は確信していた。ちーちゃんは、僕が教える以上のものを吸収していってた。

「明日は、8月19日ってことで、俳句の日だよね」
 僕のくだらない冗談に、ちーちゃんがくすりと笑う。
「僕が中学の時も、詩とか俳句とかの宿題があったんだけど、ちーちゃんのところはどう?」
「詩の宿題が出てるよ。でも、明後日はお母さんの誕生日でもあるから、プレゼントできるものを書こうと思ってるの」
「それは、いいアイディアだね。きっとお母さんも喜んでくれるはずだよ」
「もう大体の内容も決まってるの」
「へぇ。どんな?」
「やっぱり、感謝の気持ちを伝えることって大事だと思うの。少しでも伝わればいいなぁ」
「そうだね。想いは、伝えられる時に伝えた方がいいよ」
 心の底から本当にそう思っている。小さい頃からおんぶに抱っこだったから、生きることの大変さも少しわかってきた今だから、ありがとうの1つでも言いたいと思うのになかなか会えないでいる。久々に会っても、いざとなると恥ずかしさが先行して言葉に詰まってしまう。
 このままじゃ駄目だ、いつまでも元気でいられるわけじゃないんだ。頭でわかっていても、口で言うほど簡単なことじゃなかった。今までの自分を壊すほどの勇気が、僕にはなかった。それだけのことかもしれないが、それだけのことじゃないかもしれない。
 
 
 俳句の日、僕は昔の文集を取り出していた。そこには確かに僕の詩も俳句も載っていた。今まで、自分に文才があると思ったことがないと言えば、嘘になるが、僕より素敵な文章を書く人をたくさん見てきた。
 文章を書くプロに憧れていた時期があったわけでもないし、いつも気分転換として書いているだけだったが、ちょっとした文章を書く時でも、自分の中に眠っている何かが目を覚ますような気がして、気分が良かった。






 20日になって、時間より少し早くバイト先へと向かった。どれだけ早く着いても、ミニバンは定刻にしか現れないのに。
 今日は、久しぶりに呂羽君も向かえに来てくれていた。にこやかな雰囲気だったので、僕は今なら言えると思った。
「この前、ちーちゃんから聞いたんですけど、今日、お誕生日らしいですね。おめでとうございます」
「あら、ありがとう。もうウン十歳だわ。ふふ」
 その後、授業前に少し訊いてみたのだが、ちーちゃんはまだお母さんに見せていないらしかった。
「どうしても、初めに先生に見てもらおうと思って」
 そう言って逸る彼女をよそに
「授業が終わったら、じっくり見せてもらうよ」
 と自分を落ち着かせた。本心は、この子がどんな物を書いたのだろう、とそのことばかり気にしていた。
 気持ち早く終わらせて、心の準備をして詩を見せてもらった。


                 在る場所

私が生まれた時 私は独りではなかった
お父さんやお母さんは 泣き笑い
どんな声を上げていただろうか

ほどなくして 弟が生まれた
お母さんはその時 私に
ちゃんと弟を愛してあげてね
と言った

学校に行っても誰も教えてくれない
愛するということ

私には おじいちゃんとおばあちゃんもいる
おじさんおばさん 従兄弟もいる
私は独りではない

しかし 私には腕がふたつしかない
だから みんなと同時に手を繋ぐことはできない
せいぜいできることと言えば
お母さんが おばあちゃんと私を繋いでくれたのと同じように
私も お母さんと自分の子供を繋ぐことぐらいだろう

でも それでいい
それで十分だ
私を産んでくれた命と 私が産む命
その間(ま)ん中に私がいることが
愛なんだ


 きっと夏司さんは、泣くかもしれない。僕はちょっぴり女の子が羨ましくなった。
「すごいね」
 それ以外言葉が出なかった。
「先生、明日一緒に祭りに行ってくださらない?」
 ずっと詩を見つめていた僕に気を遣うかのようにちーちゃんが言ってくれた。だから、僕はそのおかしな言葉遣いに突っ込むようなことはしなかった。
 
 
          chap3.   だから、この手を

 

 急いでバイトを終わらせて、僕は帰って準備をした。祭りへ行く準備を。

 昨日、ちーちゃんに誘われた時、僕はあまり返事に迷わなかった。近くで待ち合わせてから、一緒に入った。出店が並ぶ。祭りに来たのは、久しぶりだった。
 入り口付近では、りんご飴、ヤキソバ、ホットドッグなどの食べ物の屋台が揃っている。まだお腹は空いていなかったから、足早に通り過ぎて行った。
「あ、あのお面可愛い」
 まだお面1つでも、目を輝かせるんだ。そういう一面に少し驚いたけど、なんだか嬉しかった。金魚掬いの前で立ち止まり、2人でやろうということになった。
「何年ぶりだろう。全然、捕まえられる気がしないや」
「大丈夫よ。私も苦手なの」
 言葉とは裏腹にあっという間にちーちゃんのボールに2匹の金魚が飛び込んでいった。こんなところで、世界の不条理を感じるとは、夢にも思わなかった。

 その後も1時間近く歩き回ったが、金魚掬い、射的、ヨーヨー釣りと僕は何をやっても駄目だった。気を取り直して、綿菓子を買ってあげると、ちーちゃんが喜んでくれた。
 僕にとって、夏祭りの味と言えば綿菓子だ。全てが甘く溶けていく。せめてこれだけは溶けないようにと、綿菓子を持っていないもう一つの手をしっかりと握り締めた。
 一通り回り、また折り返してく。その前に少し休憩がしたいというので、袖の石段に座りちょっとしてから、また立ち上がった。もうお店は回り切っていたから、和太鼓を見に行くことになった。
 ちーちゃんの浴衣姿は、妙に大人びていた。深い紺色が今にも闇夜に吸い込まれてゆきそうで、結ばれた長い髪の隙間から見え隠れする淡い首元だけでも守ろうとしたけど、オレンジ色の照明がいくつあってもその願いは叶わないような気がした。





「ねぇ、先生。孤独って何だか知ってる?」
「え?」
 その問いに対する返事をするには、その時の僕はあまりにも幼過ぎた。
「孤独って、本当はどこにもないんだよ。みんな独りが怖くって、自分の中に作っているだけ。だから――だから、この手を離さないでね」

「うん」
「ずっとそばにいて」
「うん」
 右腕を除いて、全身からすーっと力が抜けていく感覚がした。
 
 
「千里!!」
 振り返ると、肩で息をする夏司さんがいた。
「千里!帰るわよ」
「え?」
 ちーちゃんは、勢い良く袖を引っ張られた。
「どうしたの?何が……」
「ごめんなさいね、先生。今日はありがとうございました」
 ちーちゃんに目もくれず、夏司さんが畳み掛けた。
「ちょっと急用ができたので、今から千里を連れて帰ります」
「ちょ、ちょっと待ってよ!ちょっと待ってってば」
 あっという間に2人は僕の視界から消えて行った。何があったのだろう、と気にせずにはいられなかったけど、夏司さんの勢いに圧倒され、訊く余裕もなかった。

 煮え切らない一夜が明けて、何事もなかったかのようにバイトへ行こうとした所へ電話が1本掛かってきた。今日の授業は休みにして欲しい、とのことだった。なんだか怖くって、理由を訊けなかった。本当に自分がそこに居ていいのか、本当にそこに自分が居る必要があるのか。僕らの仕事ってのは、そういう意味では、とても不安定だと思う。





 そんな不安な週末を過ごしつつ、日曜に確認の電話を入れたら、月曜日は普段通りに来て欲しいと言われた。
 僕は、何かに焦るように30分も早くパチンコ屋の前に着いていた。今日は、呂羽君が迎えに来ていなかった。車の中での会話もほとんどなくて、僕は窓の外だけをずっと見つめていた。今日もまた少年達がサッカーをしている。このままいつまでも夏司さん宅に着かないんじゃないんだろうかと思った。

 授業を始めようとしても、ちーちゃんはどこか悲しげで何も身に入らないといった感じだった。僕は堪え切れなくなって、何があったのかを訊いた。
 呂羽君が交通事故に遭ったのだという。あの日、母親と夏祭りに行く途中、夏司さんがちょっと目を離した隙に道路に飛び出してしまったそうだ。幸い命に別状はないそうだが、後遺症で歩けなくなる確立がかなり高かった。
「ねぇ、先生!」
 よく見ると、ちーちゃんの目は少し赤かった。きっと僕が来るちょっと前まで泣いていたのだろう。
「どうして呂羽君ばかりこうなるの?どうして怪我したのが、私じゃなかったの?」
 僕は何も返す言葉がなかった。
「どうして神様は、こんな酷いことをするの。呂羽君は、何も悪くないじゃない」
 そう。呂羽君は、何も悪くない。この世の中に本当の神様が居たならば、みんなもうちょっと笑って過ごすことができたんじゃないだろうか。ちーちゃんは、繰り返し泣いた。僕は彼女を抱きしめてあげることしかできなかった。
 
 
          chap4.   笑美里(えみり)








 ――今日話すのは、ここまでにしよう。君がお母さんと同じ所で泣き出すなんて、ちょっとびっくりしちゃった。お母さんに似て、泣き虫なんだね。でも、今だけは泣いてもいいんだよ。君のお母さんは、今君を産んだばかりで、きっと疲れて眠ってしまっているだけなんだ。代わりにこれからは、僕が君をずっと守ってくからね。だから、今は好きなだけ泣いたっていいんだよ。もう、この手は離さないからね。





 

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