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言語学コミュの言語とは何か?(1)

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 先に橋本文法(学校文法)の形式主義的性格について触れましたが、言語学、文法論で何が問題になっているのかが分からないと、この問題提起の意味が理解できないのではと考え、この点を明らかにしたいと考えます。

 文法を論じるにしても言語とは何かを明らかにすることなしには論じることができません。ましてや、言語を科学的に論じようとするのであれば言語の本質を明らかにすることが、まず第一に求められます。

では、現在の言語学はこれを明らかにしているのでしょうか。否です。この点の理解がすべての言語論、文法論の評価の分岐点になります。

 本コミュニティ「言語学」のトップにポートレートを掲げられている「近代言語学の父」といわれているフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857年11月26日 - 1913年2月22日)は、何と答えているでしょうか。本トピでは、まずこの点を取り上げましょう。

 良く知られているように、彼の晩年の3回に亘る連続広義を弟子たちが纏めたのが『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)です。弟子であるシャルル・バイイとアルベール・セシュエが1916年に纏めて刊行したものです。日本では、1928年にソッスュール述『言語學原論』として岡書院から出版されています。

 そこでは、言語活動をランガージュとよび、次のように述べています。

 ランガージュの理論を作ろうとすればたちまち、このような最初(ラングとパロール)の分岐点にでくわすことになる。そして、2つの道を同時に取ることはできず、別々に進んでいくしかなので、どちらかを選択しなければならない。
 いざとなれば、これら2つの分野のそれぞれに言語学の名称を保持して、パロールの言語学を考えることもできるだろう。しかし、パロールの言語学を本来の意味での言語学での言語学と混同してはならない。言語学は本来ラングを唯一の対象とするものだからである。
 だからこれからも我々は、ラングの言語学だけに取り組んでいくし、もし論証の途中でパロールの研究による知見を借りることがあったとしても、ラングとパロールという二つの領域を区別する境界を消し去ることがないように努めるつもりである。(『新約 ソシュール 一般言語学講義』町田 健 訳:研究社 2016年9月1日初版発行,41p)

 ここでは、「言語学は本来ラングを唯一の対象とする」とされ、現在の言語学も基本的にこのパラダイム下で展開されています。しかし、先にも記した通り、これはソシュール自体が著述したものではなく、弟子たちによる編集がされているため、異論が出されています。

 1996年になり夥しい量のソシュール自筆草稿が発見され、学生の聴講ノート自体も出版され、ソシュール文献学が進展し、この成果に基づき、松澤和宏は「ソシュール的恣意性の深淵とラングの言語学」で次のように述べています。


『講義』では「ラングを唯一の対象とする本来の言語学」のみが強調される形に改竄されており、歴史的な誤解を生む一因となっている。  ……………
 
 ラングの言語学の樹立が優先的な課題となったのは、もっぱら歴史的な文脈による。一方では19世紀の後半に、音声学や史的音韻論の発展過程で語の単一性は、形態素や音素に事実上解体されていき、後景に退きつつあった。他方では、音変化の研究の陰で軽視されてきた心理的側面や意味の変遷を自立的に扱おうとする心理学や意味論が擡頭してくる。ソシュールの記号概念の歴史的意義は、19世紀後半のニ大潮流に抗して、音声と意味という二つの異なるものの結びつきそのものを言語の本質として捉えようとしたことに求められよう。
 そしてラングの言語学からは除外されたもの、すなわちディスクールとその状況、指示対象などは、第三回講義第三部で予定されていたパロールの言語学の対象となる筈であった。

 言語(ラング)は言述(ディスクール)のためにのみ作られている。だが何が言述を言語から引き離すのであろうか。様々な概念がそこで、言語のなかで用意されている。「牛」「湖」、……「赤」……「見る」のように。これらの概念は、いつの時点で、あるいはどのような操作によって、<相互の間で成立する>どのような働きによって、<どのような条件で>言述を構成するのであろうか。
 これらの語の継起は、それらが喚起する観念によって、いかに豊かなものであっても、ある個人が、それらの語を発音することによって、人に何かを意味しようとしていることを指し示すことはけっしてないだろう。言語のなかにある語を使って人が何かを意味しようとしているという観念を我々が抱くためには、何が必要なのか。それは言述とは何かということと同じ問いである。……言語は概念をあらかじめばらばらに実現することしかしない。こうした概念は、思考の意義が存在するために、互いに関連付けられるのを待っているのである。(ソシュール自筆草稿からの引用)

 ソシュールはディスクールの語用論的次元を第三部で取り上げることにして、喫緊の課題であるラングの言語学の対象から方法論上の理由で除外したに過ぎない。『講義』の編著者は、こうした第三回講義の文脈を考慮しなかったために、ラングの言語学が一人歩きする結果となったのである。
(松澤和宏 編『21世紀のソシュール』75〜77p:水声社,2018.1.30)

 このように、最新の文献学的研究によってソシュール自身のラングとパロールに対する評価、考えは明らかになりましたが、本来の言語であるパロールの本質も、ラングの本質も明らかではないというのが現状です。この辺の事実認識に誤り、異論等があれば是非ご教示いただきたいと思います。■

コメント(2)

 前項で明かなように、ソシュールは言語活動、ランガージュの理論を作ろうとしています。ソシュールを批判した時枝誠記も、言語を表現行為と捉え、言語主体の行為、実践としてのみ成立すると述べています。

言語の本質を行為、活動、実践とするのは、音楽を音楽活動、絵画を絵画活動とするのと同じで、過程としての実践や活動自体を本質とするのは論理的な踏み外しであり、誤りと云わなければなりません。

行為や実践、表現過程とその結果を混同する誤りで、表現とは何かが正しく捉えられておらず、その出発点にまず問題があります。音楽、絵画、言語の本質は、結果としての表現そのものとして正しく捉えられなければなりません。その背後の過程を止揚した表現そのもが音楽であり、絵であり言語であるということになります。

 それは、作者、話者の対象認識を感性的な物質による形として表現したもので、受け手はこの表現を追体験により理解することによりコミュニケーションが可能になります。表現とその受容、理解は分けて考えなければなりません。音楽表現と音楽鑑賞、絵画表現とその理解は明らかに異なり、言語もまた表現と理解は異なった段階であり、これを一纏めにするのは誤りです。

このような過程、活動、実践を実体化してしまうところに、次にその本質を捉えようとしても、歪みを生まざるをえない根源を見なくてはなりません。

 ソシュールはこの活動、ランガージュを本質とし、それをパロール、ラングに二分しています。たとえ、「ソシュールはディスクールの語用論的次元を第三部で取り上げることにして、喫緊の課題であるラングの言語学の対象から方法論上の理由で除外したに過ぎない。」にしても、このような本質理解からは、パロールとラングの相違と関連を正しく展開できないことは論理的必然ということになります。

 このように見てくれば、「『講義』の編著者は、こうした第三回講義の文脈を考慮しなかったために、ラングの言語学が一人歩きする結果となったのである。」というのは、ソシュールパラダイムを肯定する発想から生まれた贔屓の引き倒しでしかないことが判ります。

 「これらの語の継起は、それらが喚起する観念によって、いかに豊かなものであっても、ある個人が、それらの語を発音することによって、人に何かを意味しようとしていることを指し示すことはけっしてないだろう。」という発想も、表現とその理解という現実のあり方を正しく捉えたものではなく、現在のチョムスキーらによる生成文法も言語活動を捉えようとし、普遍文法を求めようとするのは、同様の発想によるものと考えられます。

 現状の言語論が、生成文法のみならず、認知言語学もまたこうしたソシュールパラダイム下にあることを暗示しています。■
 さて、先にソシュールパラダイムと記しましたがこれを具体的に考えて見ましょう。

 まず、音韻変化を問題にしてきたそれまでの言語論を引き継ぎ、音声を第一とし、文字はその書写映像とする音声第一主義の言語観があります。これは、表現とは何かを捉え、そこにおける言語表現の特殊性を捉えられない発想の誤りで、文字表現も、点字も手話も言語表現の一形態でしかありません。

 一番の問題は、「言語活動をランガージュとよび」、「ランガージュの理論を作ろう」とするその出発点にあります。

 言語事実の観察からは、言語とは表現そのものであり、活動ではありません。この点が音声第一主義の欠陥に結び付き、さらに、ここから「最初(ラングとパロール)の分岐点にでくわす」ことになります。言語はあくまで表現であり、この表現を平面的にラングとパロールに二分するのは、「ランガージュの理論を作ろう」とする発想の結果であり、この論の出発点の誤りからの必然的な結果と言わなければなりません。しかし、言語表現の実態からラングとパロールという異なる側面を見出した事実は高く評価されねばなりません。時枝はラングを否定しただけで、その実体を明らかにすることが出来ず、また言語を表現として捉えながら、同時に言語を活動そのもとする所へ踏み外し次のように述べています。

 私は、言語の本質を、主体的な表現過程の一の形式であるとする考えに到達したのである。言語を表現過程の一形式であるとする言語本質観の理論を、ここに言語過程説と名付けるならば、言語過程説は言語を以って音声と意味との結合であるとする構成主義的言語観或は言語を主体を離れた客体的存在とする言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声或いは文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。(『国語学原論』「序」:岩波文庫 上 13P)


このように、「言語は、思想内容を音声或いは文字を媒介として表現しようとする」ものとする媒介的、立体的な言語表現の本質に到達しながら、それを「活動それ自体」とする逸脱を免れていません。

 しかし、先の松澤和宏 編『21世紀のソシュール』の各論者や、『新約 ソシュール 一般言語学講義』の訳者である町田 健を始め、認知言語学者や生成文法、日本語論、日本語文法を論じる人々は、「言語活動をランガージュとよび」、「ランガージュの理論を作ろう」とするソシュールパラダイムの下で、言語を解釈しようとしているのが現状です。■

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