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言語学コミュの言語はどんな矛盾を含んでいるか :  【2】 認識の矛盾と表現の矛盾との相互規定

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先に【1】を提示しましたが、これは、

三浦つとむ「言語はどんな矛盾を含んでいるか」(『レーニンから疑え』芳賀書店,1964)

の〔1.「資本論」の論理と言語の論理〕を話体にし適宜加削改変したものです。以下も同様ですので、原論文は同書を参照下さい。以下は「2 認識の矛盾と表現の矛盾との相互規定」を話体にし適宜加削改変したものです。

いわゆる機能的言語観では、言語は思想を伝達する機能をもつ、と主張しています。又古くから言語道具観といわれる、言語は思想を伝達する道具である、という考え方が広く支持されています。このような規定は、たしかに一面の真理を持つにはちがいありませんが、「伝達」とか「道具」という概念は言語のありかたに即して充分慎重に検討されなければなりません。常識的な「伝達」や「道具」の概念で考えていくと、言語の論理をゆがめて解釈することになってしまいます。

言語が思想を伝達するということは、電線が電流を伝達するというのとは全く違った論理構造です。第一に、電線は電流と関係なしに工場で作られ、その後で電流を伝えるために使われますが、言語は思想と関係なしに話されたり書かれたりするものではなく、まず思想が存在してそれに対応するものとして作り出されます。それゆえ常識的な「伝達」を言語に持ち込むと、前後関係が転倒されてしまいます。思想と関係なしに言語が作られて存在し、その後で話し手、書き手が思想を伝えるためにこれを道具として使うのだという解釈になってしまいます。第二に、電線の場合には金属の表面を実際に電流が流れていくのですが、言語の場合には音声や文字の上に実際の思想が乗り移って運ばれていきはしません。思想は脳の働きで、脳から離れて思想そのものが存在するということはありえません。それゆえ、常識的な「伝達」を言語に持ちこむと、話し手書き手の思想が音声や文字の上に乗り移って運ばれ、聞き手読み手の耳や目から入り込むという解釈にもなりかねません。いうまでもなくこれは観念論であり、言語が霊魂を担っているという神秘主義的解釈に通じています。

「伝達」ということを実際の言語のありかたに即して取り上げれば、話し手や書き手は思想を展開しながらそれに対応する音声や文字をつくり出し、聞き手や読み手は音声や文字に接してその背後にあった思想の展開を推察するというだけのことです。音声や文字それ自体には、推察するのに必要な【手がかりが】与えられています。私たちはこのような、手がかりを持った音声や文字それ自体を、言語とよんでいるのです。言語に示され耳に聞こえ目に見える手懸かりの背後には、直接捉えることのできない過程的な構造が隠れており、それは話し手や書き手の認識活動です。だから言語とその過程的構造とは、関係においては切り離せないと同時に、存在においては独立しています。いいかえるなら、『源氏物語』や『ファウスト』を読む者は、その文章をあくまでも作者の紫式部やゲーテの認識活動との関係で理解しなければならず、それを忠実に受けとめるように努力しなければなりませんが、それと同時に他方では作者が認識活動をやめたりこの世を去ったりした後でも、文章という形をとったこれらの言語は存在し続けていることを承認しなければなりません。【切り離せないと同時に独立しているというのは一つの矛盾です】が、この異なった二つの面のうち一面だけを形而上学的に不当に強調するならば、言語観は一面的になってしまいます。言語道具観は現象にひきずられて、存在として独立している面を不当に強調しています。時枝誠記の言語過程説は過程的構造を強調しており、この点で大きな優越を示していますが、その強調がいき過ぎて存在を過程あるいは活動に解消し、言語イクオール言語活動だと規定する「勇み足」をやってしまいました。

言語には話し手や書き手の思想が投影しているから、言語は表現の一種だと言って良いことになります。表現にもいろいろあって、絵画とよばれる表現と言語とよばれる表現はその性格を異にしています。絵画が感覚を表現するのに対して、言語は概念を表現します。肖像画は対象の持っている感性的な在り方を伝え、言語の「人間」は対象についての概念を表します。ここまでは、現在の言語学でもどうにか承認している訳ですが、それではこの概念はどのようにして形成されどのように発展していくのかといえば、それは認識の問題であって言語学の領域ではないといいます。認識論には、唯物論の立場に立つものも観念論の立場に立つものもあって、どちらの立場に立って概念の形成を説明するかで当然に言語学の性格も変わってきます。現に、カント的な認識論の立場に立った言語学もあるし、認知などを引っ張り出してくる言語学者もいるという状態です。マルクス主義言語学者は、唯物論的な認識論の立場に立つというでしょうが、唯物論といってもいろいろあって、概念を唯物論的に解釈すればそれでいいというものではありません。概念の形成される論理構造を明らかにし、そこにおける矛盾の展開を取り上げなければなりません。ソビエトのマルクス主義認識論はこの矛盾の解明が不十分であって、この認識論の弱点がまた言語論にとって大きな制約となっています。

言語が概念を表現していると、経験的に結論づけただけでは、言語学としては不十分です。やはり、表現の論理構造を明らかにし、そこにおける矛盾の展開を取り上げなければなりません。ここから、【概念の形成につきまとう矛盾と、概念の表現につきまとう矛盾とが、たがいにどう規定しあっているか、どう結びついているか】を、立体的な構造において解明していかなければなりません。現に今も、切り離せないと同時に独立しているという客観的な矛盾の存在を取り上げましたが、言語ではそれこそ至るところに矛盾がウヨウヨしているのであって、この矛盾を正しく処理できないときには理論の展開が阻止されたり、間違った方向に踏み外してしまったりすることを予想しておかなければなりません。しかもこれらの矛盾は、いわゆる非敵対的矛盾ですが、現在の世界の言語論はもとより、官許マルクス主義の教科書にも非敵対的矛盾の説明などありません。直接にはレーニンがマルクス主語の矛盾論を修正してしまったためです。そしてこの矛盾論の修正が、言語の論理構造を解明しようとするマルクス主義者の足をも引っ張っているわけなのです。■

コメント(7)

現在の言語学では、

表現の論理構造を明らかにし、そこにおける矛盾の展開を取り上げなければなりません。ここから、【概念の形成につきまとう矛盾と、概念の表現につきまとう矛盾とが、たがいにどう規定しあっているか、どう結びついているか】を、立体的な構造において解明していかなければなりません。

という矛盾の論理の理解が根本的に欠落しています。■
冒頭の、

いわゆる機能的言語観では、言語は思想を伝達する機能をもつ、と主張しています。又古くから言語道具観といわれる、言語は思想を伝達する道具である、という考え方が広く支持されています。

という現状は、この論文が発表されてから半世紀以上経過した現在でも変わっていない。

言語が感性的な形と超感性的な概念との対立物の統一、対象→認識→表現という過程的な構造を止揚した調和する矛盾の実現であることを論理的に捉えられない形式主義、形而上的な発想では機能や媒介である規範を実体視しこれを道具として捉える言語道具観に陥る他なくなる。

唯物弁証法に基づく調和する矛盾の理解が重要である。■
>>[3]

ご理解いただき何よりです。

何せ、意味不明のピント外れな応答が散見されるので心を痛めております。■

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