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言語学コミュの言語はどんな矛盾を含んでいるか  【1】 言語の二重性

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言語は見たところは極めて単純でありながら、昔から謎とされ、現在も「心理の作用」や「相手に理解させる活動」というようにその本質が明らかにされたとは言い難いのが実状です。それは、言語にはさまざまな矛盾が立体的に結びついているためで、しかもその重要な部分が認識の矛盾として音声や文字の背後に存在しているため、それを正しくたぐっていくことが困難なためということができます。

言語表現は人間の精神活動の一環を形成し、言語はその精神のありかたを伝えあうために創造されたものです。人間が精神と精紳とを交通させようという場合、以心伝心ということは不可能です。精神は何らかの物質的な存在に表現しこれを媒介としないかぎり、他の人間の精神に訴えることはできません。このために、他の人間の耳や目に訴えるために創造されるところの、空気の振動すなわち音声が、あるいは紙の上にインクで記された文字列やPCのディスプレイの画面に表示された文字列が言語と呼ばれることになりました。言語というのはこの物質的な表現を指す言葉であって、それ以外に言語呼ぶべき存在はありません。

これらの音や文字は自然に発生したものではなく、目的的に声帯を振動させたり、インク瓶の中のインクを紙の上へ運んだり、PCのキーボードから入力したりすることによって創造されたものであって、人間の実践の所産に他なりません。精神は頭の中に存在するかぎり、他人が外部からうかがい知ることはできません。言語に表現することによって他人にとっても理解できるような客観的な形態をとるわけです。すなわち、物質的な形態に対象化された意識ということです。

この言語が「意味」を客観的に含んでいることは、誰でも経験的にに認めるところですが、ではその「意味」はいったいどこにどういうふうに存在しているのかと聞かれると、誰もが困った顔をします。言語学者の説明も一定していないし、中には主観的なものだなどという人もいます。経験的には、音声や文字そのものが「意味」を持っているような気がするにも拘わらず、それを目で見たり手で触れたりすることはできません。空気の振動やインクの線の隙間や、DSPの画面に透けて見える訳でもありません。だから結局主観的なものだなどというところへ持っていく学者もある訳ですが、実はやはり音声や文字そのものが「意味」の担い手なのです。ただ、音声や文字が感覚で捉えられるのに対して、「意味」は「クィックリー夫人とちがって」捉えどころがないというだけです。それで、言語は感性的であると同時に超感性的であるという【二重性】をそなえているということになります。これは一つの矛盾ですが、我々はこの客観的な矛盾を承認しなければならないことになります。言語を取り上げるに当ってまずこの二重性を矛盾としてしっかり掴み、ここから奥へ入っていくことが必要になります。

しかも、この超感性的な側面は、人々の神秘的な幻想を誘い出し易いといえます。同じインクの汚点でも、誤ってペンの先から落ちた一滴が作り出したものは何ら二重性を意識しませんが、丁寧にハガキに記された文字には「精神」が潜んでいます。それゆえ言語には目に見えない「霊魂」があり、特殊な力をそなえているものと考え、この力を恐れこれを崇拝することが行われます。即ち物神崇拝(フェティシズム)が生まれることになります。

現在の西欧言語論、日本語学が依拠する形式論理ではこの客観的な非敵対的矛盾、調和する矛盾の存在を捉えられないために、言語学は形式/機能に依拠した蒐集と分類の学問の段階をあまり出ていないということになります。

矛盾といわれるものの重要性を、最初に指摘したのはヘーゲルですが、すでにギリシャ哲学がゼノンのパラドクス他として提起し、中世スコラ哲学全体を貫く最も重大な問題は類や種から得られる「普遍」の実在性の問題で、実在論と唯名論による普遍論争が戦わされています。

ヘーゲルは「ゼノンのパラドクス」に対し次のように正しい回答を与えました。

矛盾は単に此処または彼処にたまたま現れるといった異常性と見られるべきものではない。それは本質的規定の中にあるところの否定者であり、否定者の叙述の中にのみあり得るところの【自己運動の原理】である。すでに外面的な感覚の運動そのものが、この矛盾の直接的な定有である。或るものが運動するのはただ、それがこの今の瞬間において此処にあって、他の今の瞬間には彼処にあるというためではなくて、同一の今の瞬間において此処にあると共に、また此処に存在しないことによるのであり、また一定の此処において同時にあると共に、ないことによるのである。我々は古代の弁証法論者が運動について指摘したところのいろいろの矛盾を認めなければならない。しかし、そのことから〔ヅェノンの論ずるように〕、故に運動は存在しないという帰結は生じない。却って、そこからは、【運動は定有する矛盾である】という帰結が出て來るのである。
(ヘーゲル『大論理学』第二巻本質論第一編第二章C)

この観念論的な弁証法の論理を唯物弁証の論理として展開したのがマルクス/エンゲルスの唯物弁証法の論理です。エンゲルスは次のように述べています。

対立――なにかある事物が対立を背負っているとすれば、それは自己自身と【矛盾】しているわけで、そのものの思想的な表現も同様である。例えば、ある事物が、あくまでも同一の物でありながら、しかも同時に不断に変化していること、それ自身に「持続」と「変化」との対立をもっていることは、一つの【矛盾】である。
(エンゲルス『反デューリング論』のための準備労作から)

言語の解明のためにはこのよう矛盾の解明が必要だということになります。■

コメント(5)

>>[1]

>>“感性的”、“超感性的”って

感性的というのは目や耳、手などの視覚、聴覚、触角など具体的な感覚に訴える存在ということです。絵や音や物の表面の凹凸などです。

これに対し、超感性的というのは意味や概念など感覚では捉えられない抽象的な存在のことです。■
この言語が持つ矛盾を捉えることができないと、形式論理的に形式と内容を分離し、形式あるいは内容を機能として平面化し論じることになります。

認知言語学に依拠する、田中茂範(慶應義塾大学名誉教授、PEN言語教育サービス)氏は、

連載『言語の役割を考える』
第1回 意味の問題をめぐって
https://www.arcle.jp/note/2019/0039.html

で、「言語は、情報・知識の共有を可能とするメディアである。」と機能を述べ、その本質を提示することができずに、<音あるいは文字として表現された言語を「コトバ」とカタカナで表す>と形式の側面を「コトバ」と言い換え、

>>コトバにある意味が所与として備わっているのではなく、コミュニケーション行為のその都度、意味はつくられるという立場

を表明される。結局、コトバと文、文章、そして言語との関係を明らかにすることができないままに終わっている。

そして、意味とは何かを明らかにすることができない現状を露呈している。■
最初の、

言語表現は人間の精神活動の一環を形成し、言語はその精神のありかたを伝えあうために創造されたものです。人間が精神と精紳とを交通させようという場合、以心伝心ということは不可能です。精神は何らかの物質的な存在に表現しこれを媒介としないかぎり、他の人間の精神に訴えることはできません。このために、他の人間の耳や目に訴えるために創造されるところの、空気の振動すなわち音声が、あるいは紙の上にインクで記された文字列やPCのディスプレイの画面に表示された文字列が言語と呼ばれることになりました。言語というのはこの物質的な表現を指す言葉であって、それ以外に言語呼ぶべき存在はありません。//

という言語本質が理解出来ずに内(言)語や脳内言語などというのは妄想の類である。■

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