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言語学コミュの「内語」という誤り ―  機能主義的発想の陥穽

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「内言語機能」 皆川 泰代(慶應義塾大学) 

 内言語機能は音声や文字を伴わない言語活動であり、一般的な言語(外言語)の形を伴わない言語以前の思考や概念、あるいはそれら思考の体系である。言語が表出される以前の過程については、言語学者により考え方も様々であるため、ソシュールの「ランガージュ」やチョムスキーの「I言語」など異なる内言語機能の定義がある。内言語機能は言語発達にも重要な役割を担っており、例えばヴィゴツキーは、子供が自己の欲求などに基づく自己中心語により欲求調整、思考の整理を行う過程を通して、内言語機能が発達し、内言語と外言語が分化すると考える。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%86%85%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%A9%9F%E8%83%BD

 ここでは、機能を実体化し音声や文字を伴わない言語活動を言語と呼ぶ誤りを犯している。これは機能と本質の取り違えである。言語は表現であって頭の中にある音声表象や文字表象のついた概念それ自体は言語ではない。ソシュールのように言語規範を<言語>とよぶと、この規範にも概念が結び付いているので言語と認識は不可分だという主張になる。こうした機能主義的な発想の誤りは既に60年代に指摘されているが、未だにこの誤りが理解できず粗雑、安易な発想が繰り返されているのが現状である。 以下に、三浦つとむによる批判を引用しておく。

 概念の発達を歴史的=論理的にとらえていけば、それに感性的な手がかりがむすびつかなければならない必然性がつかめるのだが、それをとらえていくことのできない学者にとってはこの感性的な手がかりは単なる【存在】として、人間が社会生活の中でいつの間にか頭の中に【獲得】したものとして、とりあげられるだけである。そしてこの存在は、言語表現と密接な関係があって、この存在の聴覚映像は音声言語とつながっているし、この存在の視覚映像は文字言語とつながっているのだということだけが、経験的につかめるのである。それで、学者たちが、これらの映像を【言語から導かれてはいるがこれらは言語ではないのだ】と理解するのではなく、人間は【頭の中に言語を持っているのだ】と解釈するふみはずしをやりかねない。現に、われわれは概念を運用して思惟するときに、この感性的な手がかりを使うから、自分でも頭の中につぎつぎと聴覚映像や視覚映像がならべられていくのを自覚する。「この問題はよく考えてみないととんでもないことになるぞ」と思惟していくと、頭の中にこれらの音声がつぎつぎとひびいてくるのを感じるわけである。これは頭の中で観念的に音声言語による表現がなされているかのようにも思われるし、感性的な手がかりと言語表現との区別と連関を理解していないと、頭の中に言語があるいは記号そのものが存在している証拠のようにも思われてくる。それでピアジェのように「思考とは記号を用いた探索である」と考えることにもなるし、認識の発展を分析できない・経験主義で言語のありかたを分析しようとする・学者たちが、音声言語や文字言語のほかに【思考言語】が存在しているのだとか、表現された外部の言語だけでなく【内語】もあるのだとか、主張することにもなる。行動主義的心理学を提出したワトソンも、思惟は「音声に出ない言語」(subvocal speech)だとか、「潜在的言語活動」(implicit language behavior)であるとか解釈している。ソ連の学者ヴィゴツキーも、この問題についてはワトソンに追従して「内語」説を支持し、単に「内語」の成立過程についてワトソンの主張を修正して「外語――自己中心的言語――内語」であると主張しているにすぎない。この「外語」と「内語」との区別は、「他人のためのことば」と「自分のためのことば」との区別だということになっている。

 「外語は、思惟を語に移すこと、すなわち思考の物質化と対象化であるが、内語では、この過程は逆転される。すなわちことばはそこで内向きの思考に移される。当然に両者の構成は相違しなくてはならない。」(ヴィゴツキー『思考と言葉』)

 思惟それ自体が物質化して外へ出ていったり、逆にこの物質化したものが頭の中へ入って来てまた思惟に変わったり、するなどということはもちろんありえない話である。子供はその生活の中で他の人びとの言語表現を理解するようになり、そこから自己の概念に感性的な手がかりを与えて運用し思惟することも可能になる。この感性的な手がかりが、他の人びとの「外語」を通じて与えられることを、過程の逆転と見、ことばそれ自体が思惟に変わって「内語」になったものと解釈しただけのことである。ここでいう「外語」は、精神的な交通のための表現であるから、他の人びとからの条件から規定されてくるけれども、「内語」は自分が思惟するだけであるから、感性的な手がかりの使いかたも異なってくる。【思惟の場合には何も文法に忠実な概念を並べていく必要はない】。それに、感性的な手がかりを使うのは概念を運用するためであるが、思惟の展開は概念だけでに限られないから、「内語」をならべていくかたちの展開と思惟全体の展開とは同じではない。ヴィゴツキーはこの二つの過程が同じものでないことを経験的にとらえはしたものの、「内語」の本質もつかめず、この二つの過程の結びつきおよび全体の構造を明らかにすることもできなかったのである。
 思考言語説ないし「内語」説の正しさを根拠づけるものとして持ちだされる現象は、われわれが表現するときに筋肉を動かす習慣が身について、思惟するときにもやはり発声器官を無意識的に動かすという事実である。言語表現のときには、まず頭の中に聴覚映像を思い浮かべて、これを現実の音声で模写するのであるから、これが習慣づけられると、頭の中で思惟するときに聴覚映像を概念の手がかりとして役だてていても、反射的に喉や舌が動くことが多い。熟練者はこれを読みとって、何を思惟しているかを推察することさえ可能である。現象的にこれを音声言語と比較すれば、たしかに「潜在的」な言語活動としか思えない。【読心術】という看板をかかげて興行しているものは、その大部分がトリックでしかないが、中にはトリックでないものもあるらしい。相手に頭の中で聴覚映像をゆっくりとつぎつぎにならべさせ、そのとき唇の動くのを読みとっていくという方法をとるのである。(『言語過程説の展開』「第三章 四 「内語」説と第二信号系理論」)■

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