概念の発達を歴史的=論理的にとらえていけば、それに感性的な手がかりがむすびつかなければならない必然性がつかめるのだが、それをとらえていくことのできない学者にとってはこの感性的な手がかりは単なる【存在】として、人間が社会生活の中でいつの間にか頭の中に【獲得】したものとして、とりあげられるだけである。そしてこの存在は、言語表現と密接な関係があって、この存在の聴覚映像は音声言語とつながっているし、この存在の視覚映像は文字言語とつながっているのだということだけが、経験的につかめるのである。それで、学者たちが、これらの映像を【言語から導かれてはいるがこれらは言語ではないのだ】と理解するのではなく、人間は【頭の中に言語を持っているのだ】と解釈するふみはずしをやりかねない。現に、われわれは概念を運用して思惟するときに、この感性的な手がかりを使うから、自分でも頭の中につぎつぎと聴覚映像や視覚映像がならべられていくのを自覚する。「この問題はよく考えてみないととんでもないことになるぞ」と思惟していくと、頭の中にこれらの音声がつぎつぎとひびいてくるのを感じるわけである。これは頭の中で観念的に音声言語による表現がなされているかのようにも思われるし、感性的な手がかりと言語表現との区別と連関を理解していないと、頭の中に言語があるいは記号そのものが存在している証拠のようにも思われてくる。それでピアジェのように「思考とは記号を用いた探索である」と考えることにもなるし、認識の発展を分析できない・経験主義で言語のありかたを分析しようとする・学者たちが、音声言語や文字言語のほかに【思考言語】が存在しているのだとか、表現された外部の言語だけでなく【内語】もあるのだとか、主張することにもなる。行動主義的心理学を提出したワトソンも、思惟は「音声に出ない言語」(subvocal speech)だとか、「潜在的言語活動」(implicit language behavior)であるとか解釈している。ソ連の学者ヴィゴツキーも、この問題についてはワトソンに追従して「内語」説を支持し、単に「内語」の成立過程についてワトソンの主張を修正して「外語――自己中心的言語――内語」であると主張しているにすぎない。この「外語」と「内語」との区別は、「他人のためのことば」と「自分のためのことば」との区別だということになっている。