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言語学コミュの時枝誠記の入子図解釈に見る機能主義的誤り

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 時枝誠記はソシュール言語論を原子的構成観と呼んだが、これは言語の語と語の連結を煉瓦の積重ねと同様に捉える煉瓦的構成観の一種である。しかし、時枝自身も機能主義的な言語観を脱することができずに、詞辞の引出しを重ねた風呂敷型統一型式の入子型構造を「詞が包まれるものであり、辞が包むものである」と解釈している。そして、

 これを更に言語主体の立場に於いて見るならば、辞は客体界に対する言語主体の総括機能の表現であり、統一の表現であるということができるのである。
  (『国語学原論』「第3章 第2篇 ロ 詞辞の意味的聯関」)

と機能主義的な解釈を展開している。この点の限界、誤りを指摘したのが三浦つとむである。この入子型構造を認識構造の反映として理解し、

 いま、この認識構造を図式化するために、時枝の「風呂敷型統一形式」を借りることにしよう。但し時枝にあっては、この統一は機能主義的に解釈されていて、辞は風呂敷に、詞は風呂敷の内容にたとえられ、主体の側が客体を「包む」ものということになっているけれども、前述のように「包む」という解釈はとらず、【対立する両者が統一されている】というだけの意味で使うことにする。

と注意している。こうした発想から生まれる誤りの具体例として、

 (彼は学生)〔だ〕。  (彼は怪しまれ)〔き〕。

という図式化の誤りを取りあげている。ここでは、時枝は、過去の<助動詞>の認識構造を反省できず、踏み外してしまっている。「学生だ」、「怪しまれき」の「だ」も「き」も<助動詞>として同じ辞であり「包む」という機能を果すため、「学生だ」は世界が一重であるが、「怪しまれき」は世界が二重であることを見落としてしまっている。「怪しまれ【き】」は「{(怪しまれ)■〕}き」と過去の世界の肯定判断の零記号に対応しており、「き」は現在の世界に対応している。この話者の過去の認識の世界から現在の認識の世界への移行を捉えることができていない。

 また、時枝は語を内容で<詞>と<辞>に二大別するから、【形式がどうであろうと判断の表現をすべて<辞>に入れ、差別待遇はしなかった】。否定の助動詞「ず」「ない」について、

  (1) ここに本がある。  ここに本がない。
  (2) これは本である。  これは本でない。

で、(2)の「ある」は「単純な肯定判断を表す」<助動詞>で、「ず」「ない」は打消しの<助動詞>だと正しく規定した。ところが、『国語学原論』で、「あらず」の「ず」の「あら」は「零記号の陳述と同価値と見ることができる」といったのに、『日本文法・口語篇』では、「寒くは【あらず】」の「あらず」は全体として否定の辞としての役目をしている」とか、「流れは【しない】」の「しない」は「打消助動詞と同じ資格になる」とか、「あら」や「し」の価値を無視した説明を行っている。はじめは「あらず」の「あら」を一応区別してか価値を認めておきながら、結局あらず全体を一体化してしまったのは<カリ活用>の「ざ(ずあ)りき」の「ありき」全体を一体化した発想と、同一のふみはずしである。「しない」の「し」は<抽象動詞>「し」が判断の助動詞に転化したものであることを、時枝も認めるが、「あらず」も「しない」も肯定判断プラス否定判断の表現で、世界の二重化を反省してはじめて正しく理解できる構造である。世界の二重化をとりあげられぬ時枝としては、「あらず」「しない」全体を否定判断と「同じ資格」に平面化して矛盾の存在を抹殺し、【なぜここに肯定判断の表現が加わっているかについては口をつぐまないわけにはいかなかった】のである。原理の正しさはその適用の正しさを必ずしも保障しないという科学の性格は、言語学についても指摘できるわけである。  
  (三浦つとむ「形式主語的文法論の吟味」より)■

コメント(1)

なお、

否定の認識構造と入子図 
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=100862813

も参照下さい。■

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