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言語学コミュの[ 「あそこに子どもがある」「彼女には子供がある」goo 辞書〈2〉] の迷妄

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今回のお題は先にも取上げた千年一日のブログに見る迷妄です。
今後も「千年一日BL.」として折に触れ取上げていきたいと思います。

「あそこに子どもがある」「彼女には子供がある」goo 辞書〈2〉
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12810498645.html

ここでは、

>>基本的な考え方はかわっていない。
 すでに書いたように〈あまりむずかしく考えても仕方がない〉と思うし、〈辞書がこれだけ苦慮する難問なんだから、明快な回答などないのかもしれない〉とも思う。

と述べ、明快な回答、解明がないままに千年一日の何の進展もない議論が繰り返されています。一体、どこに問題があるのでしょうか。

これまでに何度も指摘してきたように、言語は話者の認識の表現で対象の捉え方が異なれば表現も異なります。つまり、対象は立体的、重層的な構造を持ち、話者はその一面を抽象し表現するのであり、言語表現を対象自体の在り方と直結して理解し、あれかこれかの発想で正しい、誤りと決めつけること自体が根本的な誤りであるということです。ここでは、

>>個人的にはそのほうが自然だと思う。

>>これだって「異を唱える人もいる」とも言える。個人的にはそのほうが自然だと思う。 
 ちょっと擁護するなら、「この説には反対意見もある」なら自然な気がする。これは「この説には反対意見をもつ人もいる」ってことだろう。

と個人的、主観的感想が並べられているだけですが、これは当然〈あまりむずかしく考えても仕方がない〉という非論理的諦念の結果に他なりません。ならばグダグダ言わなければ良いのですが!!

もう少し具体的に発想の誤りを見ましょう。

>> ちょっと特殊な例を考える。婚期を逃しかけている娘を母親が責める。娘をかばう父親が言う「結婚というのは〈相手のあることなんだから……〉」。具体的な相手を想定せずに、一般論として言っている。これならアリだろう。もちろん、「結婚というのは〈相手のいることなんだから……〉」とも言える。個人的にはそのほうが自然だと思う。

「ある」と「いる」の使い分けは対象の在り方自体ではなく、話者による対象の捉え方の相違と何度も指摘していますが、ここでも「一般論として言っている。これならアリだろう。」と正しい理解をしながら、次には個人的なBLG.の主観を持ち出し「いる」の方が自然だと思うという主観的感想が並べられています。要は、結局

>>〈あまりむずかしく考えても仕方がない〉

と思考放棄をしているだけです。と云うより、言語表現という概念による規範を媒介とした特殊な表現を捉え、理解する論理を持っていないということです。これでは論理的、科学的な解明など望むべくもありません。

それゆえ、

>> ただし、元々の例文は違う。「彼女には子供がある」で、きわめて具体的な話だからあてはまらない。これをどうやったら「抽象的」「客観的」「一般化」と解釈できるのだろう。無理でしょ。

とピント外れな誤読が提示されることになります。ここで言われている「きわめて具体的な話」というのは対象自体の在り方で、話者の認識ではありません。「彼女には子供がある」という時の話者の「子供」の捉え方は具体的な遊んでいる誰かではなく、親子関係という普遍的、抽象的な関係認識としての子供でしかないということです。

>>これをどうやったら「抽象的」「客観的」「一般化」と解釈できるのだろう。

というのは対象を取違えた誤認、誤読でしかないということです。

このように言語表現の過程的構造を捉えられないままにピント外れな議論を繰り返し、〈あまりむずかしく考えても仕方がない〉などと遁辞を繰返しても何の進展もなく、表層的な現象理解を千年一日の如く積上げることになるのは論理的必然であることがご理解いただけるのではないでしょうか。■

コメント(7)

三浦つとむは次のように論じています。

不特定の人物と特定の人物に「ある」と「いる」を使いわけることがあっても、それは対象のちがいから直接に規定されるのではなく、認識のちがいから規定されるのだということを教えている。

特定の人物ならば、対象が狭いから、その人物のありかたも具体的につかまれている。これに反して、不特定の人物のときには対象が広いから、それらの人びとがたとえ目の前にいたとしても特定の人物のように具体的につかまれない。個々の人物はそれなりにダイナミックに動いていても、全体としてはスタティックに近いものとしてしかつかまれない。ましてや自分の目の前にいない不特定の人物を対象としたときには、そのありかたをつかみたくても具体的につかむことはできない。

(三浦つとむ 〔「ある」と「いる」のちがいの問題〕『日本語の文法』189p)より

このような話者の認識の相違を正しく理解することなく、

>>〈あまりむずかしく考えても仕方がない〉

と遁辞を並べていては「いる」と「ある」の使い分けを解明することは論理的に不可能という他ない。■
「あそこに子どもがある」とは言えないにも関わらず、 「彼女には子供がある」と言えるのは、なぜです
2023-08-29 08:03:30
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12817044170.html

で相変わらずの解釈を披歴されています。

>> 当方の考えはNo.15に書いたとおり。
1)古い言い方が残っている
2)所有のニュアンスがある場合はOK

〈辞書がこれだけ苦慮する難問なんだから、明快な回答などないのかもしれない〉とも思う。NHKのサイトもかなり苦慮している。//


このブロガーは辞書の解釈を寄せ集め御託を並べるだけなのでこういう他ない結果になっている。

* 私には慈愛深い母があります。

など所有のニュアンスなどないのは明らかである。結局、次のように結論している。


>>「抽象的」とか「客観的」とかはちょっと違うのでは。「一般化」あたりのほうがわかりやすい。
 ちょっと特殊な例を考える。婚期を逃しかけている娘を母親が責める。娘をかばう父親が言う。
「結婚というのは〈相手のあることなんだから……〉」
 具体的な相手を想定せずに、一般論として言っている。これならアリだろう。もちろん、「結婚というのは〈相手のいることなんだから……〉」とも言える。個人的にはそのほうが自然だと思う。
 ただし、元々の例文は違う。「彼女には子供がある」で、きわめて具体的な話だからあてはまらない。これをどうやったら「抽象的」「客観的」「一般化」と解釈できるのだろう。無理でしょ。

●漠然と有無を問題にする場合(『日本国語大辞典』)
『日本国語大辞典』の用例は(おそらく)「兄弟が三人ある」。
 これは用例がおかしくないか?
 全然「漠然」ではない。
 おそらく、『デジタル大辞泉』の「異を唱える人もある」ならアリ。
 これだって「異を唱える人もいる」とも言える。個人的にはそのほうが自然だと思う。 
 ちょっと擁護するなら、「この説には反対意見もある」なら自然な気がする。これは「この説には反対意見をもつ人もいる」ってことだろう。// 


ここに引用された、辞書やそれに依拠するブロガーの欠陥はTopiの最初にも指摘した通り、対象自体ではなく話者による対象の捉え方の問題であることが全く理解できないためである。

>>娘をかばう父親が言う。
「結婚というのは〈相手のあることなんだから……〉」
 具体的な相手を想定せずに、一般論として言っている。これならアリだろう。

というのは正しい理解であるが、「これならアリだろう。」としか捉えられないところに限界がある。「具体的な相手を想定せずに、一般論として言っている。」というのが正に話者が対象を抽象的に捉えているということなのであるが、話者の認識と云うものを捉えられないために単に「アリだろう」などという結果の判断しかできないのである。そのため、

>>『日本国語大辞典』の用例は(おそらく)「兄弟が三人ある」。
 これは用例がおかしくないか?
 全然「漠然」ではない。

などという妄言が続くことになるのである。これも兄弟という抽象的な関係を捉えただけで具体性は問題にしていないために「ある」を使用しているのである。この、話者の認識の相違による表現の相違という因果関係を理解できないところに辞書の説明の欠陥があり、それに依拠する他ないブロガーの限界を露呈しているのである。■

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