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映画のトリビア、グーフ探しコミュの映画のグーフ(間違い)探し

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たとえば「ウエスト・サイド物語」を見てください。
冒頭のジェット団とシャーク団のいさかいの部分で、ラス・タンブリン(ジェット団の頭)靴に注目を。この靴のメーカーは、という着目の仕方はトリビアへどうぞ。
ここでは靴の色の違いに注目します。
タンブリンの履いている靴が白かったり黒かったり。

もちろんこのプロローグは、何日にもわたるいさかいの積み重ねですから、これだけではグーフではありません。
しかしクラプキ巡査たちに止められて、“ジェットソング”を歌うところまではおなじ一日、というか数分です。
その数分の間で靴の色が変わっているというのは、明らかにグーフ。

まあ「ウエスト・サイド物語」ほどの作品ですと、こういうグーフもご愛嬌。というか、この映画が作られた時点では、映画は一過性のもの、リピーターも少なかったわけです。
しかしこの「ウエスト・サイド物語」はリピーターという現象を生んだ。東京のピカデリーではロングランし、2度目の正月を迎えたほどです。←これはトリビア。

コメント(136)

dimさん、どうも。
時計がデジタル時計だと目立ちますね。アナログの時計でも“針が進まない”というグーフの申告がいろいろあるようです。

とはいえ、何度も何度もリテイクを重ねるのが常のアメリカ映画(テレビも基本的に変わりないと思います)ですから、時計を動かしておいたほうがむしろ問題が起きてしまうのでは。
つまり編集者がどのテイクを使うかの許容範囲を広くしておくために止めてあるのではないでしょうか。
「ダウト 〜あるカトリック学校で〜」を見ていたら、老シスターに扮したアリス・ドラムンドがキリスト生誕の置物を並べている場面でグーフに気づきました。

一つ一つていねいに新聞紙にくるんで箱にしまってある人形を、これまたていねいにひとつひとつ取り出すわけです。
ドラムンドを正面にとらえた画面でひつじの置物を取り出し、カットが変わって羊の置物を置く。なにも問題がないと思われるのですが、よく見ると取り出したカットで持っていたのは立っている羊で、置く場面に手で持っているのは座った羊です。

しかし厳密にはこれはグーフではありません。というか、グーフというのはかわいそう、というやつ。

つまり、製作者サイドはちゃんとひとつひとつ取り出すシーンを(少なくとも羊の置物の場面は)正しく撮影していたと思うのです。その証拠に、取り出すシーンではひとつも置いていなかった羊の置物が、置くシーンではすでに1個置いてあって、それが立っている羊なのです。

おそらく撮影では、羊の像を2つ取り出すところを順番どおり撮影したのですが、それをそのまま見せると冗漫になると編集者が判断し、いわゆる“中抜き”をやった。その結果、僕みたいな人間が気づいて“グーフ”となる、とまあそんな具合です。

こういう中抜きの結果によるグーフは、けっこういろんな映画に登場します。
「ブライト・スター」というジェーン・カンピオン監督作を見に行きまして、冒頭のタイトルでアレっと思ってしまいました。
“Jan Campion production”と出た気がしたのです。そしたら製作者が“Jan Champion”でした。

こういう読み間違いをしたのには理由がありまして、「セルピコ」などに出ていたコーネリア・シャープ“Cornelia Sharpe”という女優さんの名前が、ときどき“Sarp”と、“e”抜きでつづられていたことがあるからです。
それも雑誌とか宣材とかの誤植ではなく、タイトルのクレジットにあったのでした。
コーネリア・シャープは、ファミリーネームがSharpeですから、eがあるのが正しいようです。

ところでクレジットタイトルでの表記間違いというのはほかにもあって、なんとあの大女優のキャサリン・ヘップバーンが間違われたそうな。題名は忘れましたがグーフを集めた本に載っていました。
キャサリンではなくキャスリンとクレジットされていたそうです。

その点、バーブラ・ストライサンドやデブラ・ウィンガーは、雑誌での誤植程度しか間違いはないようです。
シドニー・ルメットの「セルピコ」で、仲間から憎まれて身の危険を感じたセルピコが、14発装てんできる拳銃を買うシーンがあります。

あとでその拳銃で射撃練習をしているのですが、発射音が15発連続して聞こえます。おかしいなと確認するために見直したら、最初の発射音は前の場面に音だけかぶさっており、発射シーンの一連のカットでは14発しか撃っていない。つまりグーフではなかつたわけです。

しかし同じ射撃練習場の前の場面で、警官たちがずらりと並んで撃っているとき、左から2番目のアレイがアウト・オブ・オーダーとなっています。標的側からのショットでは2番アレイのテーブルが上げられているのですが、射撃している警官たちを後ろからとらえたシーンではテーブルが下がっていました。
こういう“間違い”はいろんな作品にありますが、たいていの場合、中抜きによって別のシーンをつないだためと考えるのが“正解”のようです。

ハリウッドの編集者たちは、つながりの細部より映画全体のテンポを重視するし、それは“正解”だと僕も思います。
「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」という作品を見ていたら、リスベットというドラゴン・タトゥーをした女が帳簿を調べるシーンがあります。そのとき1950年代から1966年まで、ということで借り受けた資料なのに、なぜかアップになった資料には1973年とあります。これについて字幕では何も説明がありませんでした。

ところでこの映画はスウェーデン製で、上映時間が2時間半を超えます。見ていて枝葉末節が多すぎてつまらない。でも、もしかしたら元はもっと長くて、それをはしょったためにこういうグーフとなってしまったのかも。
もっとも“完全版”があったとしても、僕は見ませんがね(笑)。
先日、沢村貞子の本を読んでいたら、若い女優が三味線の師匠の役をやるのに持ち方もできていない話がありました。
何度やってもサマにならず、監督とカメラマンがいろいろ工夫してとりあえず撮影が終わります。見かねた沢村貞子が、“少しでも三味線を習っておけばよかったわね”と言うとその女優が、“それは私の仕事ではありません。上手に見せるように演技をつけるのは監督の仕事だし、上手に見えるように撮るのはカメラマンの仕事です”と言い放ったとか。

これを思い出したのはバーベット・シュレーダーの「陰獣」を少し見始めたときです。
映画中映画でお茶をたてる場面があるのですが、女優さんが湯を汲もうとするその手が震えていました。手だけのアップは別の人なのでしょう、きちっとキマっています。
こういうのをグーフというのも恥ずかしいのですが、この女優さんも沢村貞子に言い返した女優さん同様、お茶のイロハも習わずに映画に出たのでしょう。

このあとブノワ・マジメルの前で芸妓さんが舞を舞うのですが、その女優さんの着物になんとも不自然なシワがあり、動きもとても日本舞踊とは思えません。
そんな映画で“日本調”を売るというのはいかがなものかと思い、グーフに取り上げました。
バーベット・ロシュレーダーには「モア」といういい作品があるだけに、こういう汚点はイヤになります。
「ライトスタッフ」をスクリーンで見て、おやっと感じたのですが、実際に調べるまで書き込む自信がありませんでした。
それは、ガス・グリソムが宇宙へ持っていったコインの話です。

ガスは飛行前にバーで、バーの女の子にコインを示し、“この10セント硬貨、欲しいか”と聞きます。女の子は“10セントなんか要らない”と答えるのですが、ガスは“これは宇宙飛行を体験するんだぜ”と言うと女の子も“欲しい”となる。
しかし“ハッチの故障”でガスの飛行は“失敗”におわり、コインはその失敗の象徴となってしまいました。

そのバーの場面で僕は“おやっ”と思ったわけです。
なぜかというと、テーブルに置かれているのはダイム(10セント)ではなく、ニッケル(5セント)硬貨だったから。
僕にはニッケルのウラにある建物の図柄がはっきりと確認できました。ただ、それがダイムの図柄だったのかニッケルの図柄だったのか自信がなかった。

ここに写真を掲載しておきますので、これから「ライトスタッフ」をご覧になる方はご確認ください。
まだimdbにも載っていないグーフです。
よくあるグーフのひとつに、カメラの影が映りこむというものがあります。
西部劇などでこれがあると(たとえば「胸に輝く星」にあったと思う)、せっかくのタイムトリップがワヤになる。
現代劇でも、感情移入していた矢先にこれだとがっかりしますね。

ニコラス・ローグ監督の「美しき冒険旅行」でも、主人公たちが道路を見つけた場面で、道路にカメラの影が映っていました。もっとも僕はこの映画と“距離を置いて対峙”していたお陰で、それほど鑑賞気分を害しませんでしたけど。

カメラは被写体である登場人物に向けられることが多く、当然人物にライトを当てる必要があります。つまりロケしていたらカメラは太陽を背にすることが多い。だからカメラの影が映りこむ場合が多いと思うのです。
もちろんNGですから、スタッフが気づくなり編集でカットするなり、なんらかの手を施します。

ところがこの「美しき冒険旅行」は、いまどき珍しい(1971年の製作当時でも珍しい)画面比率が4:3となっています。つまりビスタでトリミングしたら、カメラの影はカットされてしまう可能性が高い。ということで編集マンも見逃したのではないかと考えます。

あるいは、日本版のプリントを“間違えて”フラットネガから起こしたままのものを使用してしまったとか。
なかなか裏事情を想像すると面白いグーフでした。
「コッポラ 胡蝶の夢」を見直しました。
3年前にアメリカで見たとき、小型マイクがグーフではないかと書きましたが、今回は手術用の薄いゴム手袋が気になりました。
第二次大戦中に、すでにああいうゴム手袋をしていたのかどうか、です。

たしかに見た目は、「ER緊急救命室」などでおなじみの、極薄使い捨てゴム手袋ではなく、もう少し厚手でした。
とはいえ、ああいうゴム手袋が1938年に実用化されていたかどうか。

日本軍の医師などは、手袋なしでしたね。だから「静かなる決闘」の三船敏郎は、戦地で病気をもらってしまう。
もっとも物資の不足している日本と、ヨーロッパを同次元に考えてはいけないのかもしれません。
アメリカへ行く機内で「ナイト&デイ」を見ました。こういうアクション映画はスクリーンで見るべきものだとは分かっていますが、機内で気軽に見るという効用もあります。「白いリボン」もやっていたけど、英語字幕を読みきれないからリタイア(笑)。

冒頭、キャメロン・ディアスがボストン行きの飛行機に乗ろうとしたら“オーバーブッキング”を理由に入れてもらえません。これはFBIがトム・クルーズをつかまえようとして借り切ったわけですが、ディアスとクルーズが接触していることから搭乗を許可されます。
で機内に座ったとき、ガラガラの機内をおかしいと思わないのか、というのが僕のつっこみ。
ま、マンガを相手にマジで突っ込む人間がバカなのですけど。

でも、imdbのグーフには、“ディアスが少なくとも40発以上撃った銃の銃身をクルーズがすぐつかんでいるけど、あれじゃやけどする”というのがあるから、僕もヤボとは知りつつ突っ込んでみました。
「十三人の刺客」のオリジナルを見直していて、ふと気づきました。
物語は弘化元年(1844年)という設定で、明石十万石の大名行列が江戸を発つのが十月下旬。木曾上松で、“尾張領内通行まかりならん”と追い返され、11月半ばに落合宿へと現れます。

ところで、この時代の月は旧暦ですよね。西暦が使われるようになったのは明治5年ですから、まだ先の話。ということは落合宿に着くのは現在の12月半ばから下旬にあたります。何が問題かというと、上松で月形龍之介が一行を通らせなかった場面で、稲穂がたわわに実っていたのです。いかに山岳地域とはいえ、それはないでしょう。そしてラストシーンは、稲刈りが終わって切り株だけの田んぼに水が引いてある。

ま、映像としては“いい絵”なので、グーフということで騒ぐ必要はないのですが、ちょっと気になりました。
「バスビー・バークリーの集まれ!仲間たち」で、イーディ(アリス・フェイ)がビビアン(シーラ・ライアン)の部屋に入ってくるとき、壁にマイクのブームスタンドの影が映りました。
ビスタサイズで公開した映画をビデオ化したとき、フラットネガから起こすためマイクが見えるということがよくありました。
デブラ・ウィンガーの「マイクス・マーダー」でマイクが見えたら、シャレにもならない。

そんな発見をして以降、ちらちらと気を配っていますが、こういう古い映画ではあんまり見つかりません。ハリウッドのクラシックは特にそう。どんどん撮り直しますからね。
今回は、バズビー・バークレーも“戦時国債拡販”という目的があったのであせっていたのでしょう。
フィリップ・シーモア・ホフマン監督・主演による「ジャック、舟に乗る」でグーフを見つけました。
ジャックが同僚夫婦の家で食事をしている場面です。そこへ夫婦がジャックに引き合わせようとしている女性コニーが来るという設定。コニー用の皿もテーブルにあります。

コニーは来るのですが、別の用件があるという断りだけ。3人はコニーを送り出してテーブルに座ります。そのときコニー用においてあった皿が消えてました。

こういうグーフは結構あります。しかしこれは、間にあった別のシーンをカットしたから起こったのではないかと僕は考えています。スクリプターがそういう簡単なミスをするわけがない、というかするスクリプターはクビでしょう。
たぶん、何らかのやり取りのあと皿を片づけるカットもあった(あるいはその時間経過を示すカットがあった)のですが、それを入れると全体のリズムが悪いからカットした、というのが“事情”だと僕は思います。
110のマイクバレですが、僕がよく覚えているのは、スティーヴ・マックィーン晩年の渋い作品『民衆の敵』です。
全編にわたって、何度もフレームの上にマイクが。
堂々と存在を主張しているんです。
ラッシュを観て、何故気付かなかったのか?
撮影機材、および試写映写機のフレームが完全(100%)でなかった(つまり”ケラレ”が出ていた)のでしょうか?
再撮影するにも、NGカットが多すぎたのか? 予算の問題でしょうか?

出来が良い映画ではなかったんですが、渋いシリアスなお話しで、好感は持てたのですが・・・・なにしろ画面の上(マイクバレ)ばかりが気になってしまって、映画が台無しでした。公開も、マックィーン物にしては、小規模でしたね。
残念!
YAS.さん、どうも。
僕はこの「民衆の敵」を見ていないのですが、もしかしてDVDかビデオでご覧になったのでは?
スクリーンのビスタサイズだとフレーム外にあるマイクが、ビデオソフトになったときは堂々と画面の中ということがいくつかありました。

スクリーンでマイクが見えていたのなら、もはや何もいう言葉がありませんね。確認しようと思ったらそもそもソフトを持っていませんでした(苦笑)。
劇場で公開時に観ています。
それが、チラリと見えたのではなく、かなりしっかりと写ってるんです。
その当時、もう自主映画で撮影を担当していたので、余計に気になって。

観たのはその一回だけですが、マイクばれを気にせず、もう一回観てみたいです
劇場で見ていてマイクが見えたら、それこそ興ざめですよね。
公開も結構不遇(つまり単館)でしたけど、だからといってグーフが許されるわけではない。もしかしてシネスコのつもりで撮影していたりして。←それじゃ笑い話ですがな。
「アメリア 永遠の翼」をimdbで調べていて、次のようなグーフがありました。
いわく、アメリアがジョージをダンスに誘うとき、ラジオのスイッチを入れるとすぐに“ムーングロウ”が流れるが、当時は真空管だから音が出るまで時間がかかる、と。

そりゃそうなんですけど、それを言ってしまうと、バスタオル一枚で聞いていたアメリアが、隣の部屋かもしれないけどジョージの部屋に行って、ガウンを脱いだらちゃんとパジャマを着ているわけで、それにもかかわらず“ムーングロウ”が長く続いているってのはどうよ、という感じですね。つまりこれはイメージシーンだから、真空管でもトランジスタでもない、ラジオは単に音楽が出る装置、なわけです。

やはりグーフの指摘って、ヤボはイヤですね。
それとこの曲1934年の作で、二人が寝るのは1928年とあったけど、それは確認しないと。回想シーンがフラッシュバックするので、なかなかどの場面が何年だったか覚えていないんです。あれはジーン・ヴィダルと仲よくなった後だから、1934年以降だと思うけど。
僕は映画の中の荷物の重さがとても気になります。
たとえば岩井俊二という監督が注目されたとき、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」という作品で、家出をしてきた少女が鞄を振り回すのを見てがっかりしたものです。それに対して「ディープエンド・オブ・オーシャン」のラストの鞄は、本当に重そうだった。

先日、津川雅彦が溝口健二を回想していた番組では、「山椒太夫」で“後ろにひっくり返りそうになる重い荷を背負わされた”と話していました。役者に完璧なまでのリアリティを求めた監督ならではの逸話でした。

と、こういう話を思い出したのは「ギャング」とそのリメイク「マルセイユの決着」を見たからです。同じ原作(台詞も同じジョゼ・ジョバンニ)ですから、当然同じような金塊強奪(「ギャング」はプラチナでしたね)がポイント。その強奪シーンで、木箱に入った金塊を、どちらの映画もわりあい軽く持ち上げているのが気になりました。とくに「マルセイユの決着」は軽すぎる。

金は比重が19を越えていますから、水1リットルの体積で20キロ程度あります。20キロという荷物は、大人の男が1人で持つにしても、かなり腰をしっかり入れて持たないと持てません。
だから両手で持ってその状態で体を回すなんて不可能。

「スリー・キングス」という湾岸戦争を扱った映画でも金塊を鞄に入れるシーンが出てきて、鞄を持ち上げようとしたら底が抜けるというギャグをかましていました。しかしすぐあとで、そんな鞄を両手に持って走るという、とてつもない怪力男たちばかりの映画でした。

でも、あんまり気にしないように。しょせん映画ですから、リアルである必要はないのです。あんまり気にすると、こういうアラばかり目について映画どころではなくなりますよ。
「ヒューマン・トラフィック」というテレビのミニ・シリーズで、久しぶりにマイクが映りこんでいるシーンを見つけました。
ドナルド・サザーランド扮するICEの上役が、部下のミラ・ソルヴィーノとオフィスで話をしている場面で、サザーランドの頭の上をマイクがすっと走ります。その直後にカメラがサザーランドに寄るので、マイク・ブームの担当者がちょっとタイミングを早まったんでしょう。

以前にも何本かマイクが映りこむシーンに出くわしています。
学生時代には「しのび逢い」という1968年の恋愛劇で、マイクが画面に現れているのを発見しました。
また、デブラ・ウィンガーの「マイクス・マーダー」という映画にマイクが出てきましたが、これじゃしゃれにならない。
ただ後者の場合、ビデオですから、マスキングしていないフラットネガをビデオ化したという可能性もあります。
フランソワ・オゾン監督の「しあわせの雨傘」は、1977年が舞台となっています。僕にしてみれば“最近”の1977年ですが、現実にはもう33年前ということになりますね。
そんな中で、当時走っていたなという車がいろいろ出てきました。といいつつ、車の名前を知らないので具体的に言えないのが残念。

こういう30年から40年前の時代設定をした映画を見ていると、やはり車や風俗などが気になります。衣装などは写真などを基に作ればいいのですが、車は実際に走る必要があります。そんなわけで、昔の時代設定の映画に出てくる乗用車は圧倒的にベンツが多い。大衆車はあんまりありませんね。やはり“消耗品”として使い捨てされているのでしょう。

そんな中で「しあわせの雨傘」は、乗用車の時代考証が行き届いていると感じていました。ところがそれは、“車オンチ”の僕だからでしょうね。いろいろ新しい車が画面に映っていたらしい。
あるいは、あの時代のフランスでは、ヘッドライトの明かりの色が白ではなくて黄色だったそうです。そういう事実を指摘されると、グーフというよりその時代が感じられて面白いですね。
グーフでよく見かけるのが、マイクのバレです。「グリーン・ホーネット」にもありました。
セス・ローゲンがカーテンを開けたときに、ブーム・マイクの影らしきものが映りこんでいます。

もっともこの映画は、リムジンの中でLPレコードを聴くなんていう、実際にはありえない(車の揺れで針飛びを起こすため聴けない)設定がいくつも出てきますから、あんまり細かいグーフは意味がないのかもしれません。
そのLPレコードに関して言えば、ラストで「ゴールドフィンガー」のアストン・マーチンよろしく飛び出した座席の後ろでレコードが回り、高らかに音楽が鳴り響くわけですが、アンプとスピーカーはどこにあるねん、と突っ込みたくなりました。
またまたマイクが見えるグーフです。
ジョン・フランケンハイマーのシネラマによるF1ドラマ「グラン・プリ」で、ベルギーGPにおけるイヴ・モンタンの事故シーン、事故後呆然としているモンタンのところへ、息子を轢かれた父親が殴りこんでくるのですが(このあたり今のF1ファンとしては、ありえない)、そのときマイクブームが見えていました。

ベルギーのコースは僕も大好きなコースで(要するに覚えやすい)、スタートしてすぐのオールージュの坂道とか、下ってきてのグランシュマン(“大通り”ですね)など、今よりもずっと狭いので驚きました。バスストップ・シケインもない。←またなくなったんでしたっけ。

モンツァはオーバルのコースを使用しているし(このとき危険だとドライバーが語っています。そのため使わなくなった)、いろいろとなじみのある場所が出てくるだけでもすてきでした。マイクブームが“バレた”ぐらいなんでもない。
クリント・イーストウッド監督の「愛のそよ風」で、監督のイーストウッドがちらりと顔を見せています。
ケイ・レンツが綿菓子を持ってウィリアム・ホールデンと海辺を歩くシーン。
イーストウッドは手すりにもたれて海のほうを見ています。

ところが海側からのカットではイーストウッドの隣に二人の女性が立っているのですが、カットが変るとイーストウッドはいますけど二人の女性はいない。代わりに男女のカップルが。なんらかの都合で“中抜き”した結果、こういうグーフになったんでしょう。

イーストウッドといえば、テッド・ポストを監督に起用した「奴らを高く吊るせ」のラストシーン、スタジオのセットの向こうにある現代の建物がパームツリーと共に画面に映っていました。
細かいことを気にしない監督さんのようです。←「奴らを高く吊るせ」は監督作ではありませんけどね。
石上三登志さんと西部劇の話になり、石上さんから“「リオ・ブラボー」のタイトルにハリー・ケリー・ジュニアと出てくるのはなぜなんだ”という質問がありました。僕はタイトルに名前があったことにすら気づいていませんでした。そこで早速見直したのですが、たしかにハリー・ケリー・ジュニアは出てこない。こういう“タイトル・クレジットのグーフ”はほとんどありえません。

ということでimdbを調べたら、ハリー・ケリー・ジュニアは当時アルコール依存症で、監督に対して“ミスター・ホークス”ではなく“ハワード”と呼びかけていたためホークスの逆鱗に触れ、出演場面をカットされたそうな。しかしオマージュとして名前だけクレジットしているとあります。

そしたらハリー・ケリー・ジュニアの上に名前のあるマルコム・アターベリーはどうなんでしょうね。駅馬車の御者役とまでimdbに記されていますが、そもそもこの映画に駅馬車が出てこない。僕はアターベリーの顔を知らないから、酒場のどこかにいても分かりませんけどね。

とまあ、それだけでグーフというのはなんだなと思って見直していたら、ありましたよグーフが。
ワード・ボンド扮するウィーラーさんが撃たれて、その犯人を追ったディーン・マーティンとジョン・ウェインがバーデットの酒場に入るシーン。カウンターに残ったビールのジョッキに血が滴り落ちますね。あのジョッキの取っ手の位置が、最初にカウンターに置き去りにされたときと、血が滴っているときで違います。飲んでいた男たちはカウンターを離れているし、ディーン・マーティンが触るわけがない。ということはバーテンのチャーリー(ウォルター・バーンズ)が動かしたのか? それもありえません。

さらにカウンターには2人いたので、もうひとつウイスキーのグラスも残っていますが、その距離がカットが変わると少し違っています。こういう場面でも、何度も撮り直しているんですね。びっくりしてしまいます。

ところで撃たれるウィーラーさんに扮したのはワード・ボンドではないそうです。ボンドはテレビの「幌馬車隊」の撮影でこの映画の現場にいなかったそうです。だからロングショットしかない。
「結婚しない女」を見ていたら、終盤アラン・ベイツとジル・クレイバーグが床に向き合って座り語り合っているシーンで、カットが変わった瞬間クレイバーグのスカートの位置がずれていました。
つまり、背中から映っているシーンではヒザ小僧が見えているのに、ベイツの肩ナメのカットになるとスカートがひざを隠しています。

こういうカットつなぎの不連続というグーフはよくあり、この映画でも食事のテーブルから娘のパティが立ち上がる場面など、一瞬つながりがよどんだりします。それを避けるために最近はカメラを複数台数回すことが常識になっていますが、1970年代だとなかなかそうは行かなかったようです。まずステディカムが一般化していなかったし。←しかしこの「結婚しない女」の冒頭、ジョギングする夫婦を追うカットはステディカムみたいでした。

それと、かなり長回しでやりとりを撮影していた場合、編集段階で途中をつまんでしまうため、こういう不連続が生じたりします。今回もそうだったのではないかと想像します。
とくにこの映画では、そのグーフが映画そのものを阻害するわけではないので、作り手もグーフを承知でOKを出したのでしょう。
ファニー・アルダンとエマニュエル・ベアールが共演した「恍惚」という映画の中で、アルダン扮する妻が、夫ジェラール・デパルデューの携帯に残されたメッセージを聞くシーンがあります。

フランス語なので分かりませんでしたが、おそらく日本語字幕のグーフだと思います。つまり携帯の伝言は電子音声で“○月○日○時○分”という知らせがあって、それから録音したメッセージが始まると思うのです。しかしこの映画の字幕は、“昨日のメッセージ”と出る。ということは、消さずに置いてさらに24時間たつと、“一昨日の”と電子音が変わるのでしょうか。そんな面倒なプログラムは使用しないと思うわけです。

これは字幕制作者が文字数を稼ぐためと、その携帯の場面より前に日付を入れて置く字幕がなかったことの両方を解決するために取った手段だと思いますが、そういう字幕が出ると僕は“ギョッ”としてしまいます。←字幕担当者は僕の知らない名前の人でした。

もしかしてフランス語でもそう言ってたんでしょうかね。
昨年、愛染恭子&いまおかしんじ共同監督による「白日夢」を見たとき、愛染監督が“誰も気がつかなくてもいいから”と言いつつ歯医者のロビーにかけてある絵を取り替えていたという裏話を聞き、僕は愛染監督という人を少し見直しました。
だから「新釈 四畳半襖の下張り」をWOWOWで放送したので、いちおう鑑賞してみたわけです。

しかし残念ながら、30分ルール適用となりました。理由は、遊女が寝るときの枕が、現在のような平たい枕だったこと。舞台は昭和7年ですから、そして遊女は髷を結っていますから、ここは箱枕であるべきでしょう。少なくとも丸枕だと思う。それが今のような平たい枕だなんて。←こういう枕が一般化したのは昭和40年代だという説もあるほどです。僕の家でもそうだった。

もっとひどいのは、昭和8年の家に、どうみても古いテレビのような家具が置いてあること。画面の前に葉布をかけているからテレビだという確証はないわけですが、あんな家具はテレビ以外にないと思う。日本でテレビが一般化するのは、現在の天皇が皇太子時代に結婚したときですからね。およそ四半世紀も早い。

ま、こういう作品にグーフを言っても始まらないのですが、僕の見る気をそぐのに十分なグーフでした。
「大いなる西部」を劇場のスクリーンで見直したわけですが、これにはグーフを確認するという“任務”もありました。かつてある本に、“ラストシーンに撮影用のカートが見える”とあったもので。
しかしラストシーンの荒野に、カートらしきものは見当たりませんでした。

僕は以前これを読んだとき、ファーストシーンの間違いではないだろうかと思い、手持ちのビデオを確認したものです。するとマッケイを乗せた駅馬車が町に入る辺りの遠景で、町の中に動く物がありました。当然これも意識していたので今回確認したのですが、それは撮影用のカートではなく、ちゃんと馬車でした。

というように、いろんな本のいろんなグーフには、いろいろ間違いがあります。僕が参考にしているimdbのグーフでも、それは例外ではない。
たとえばimdbに、
Just before the duel between McKay and Buck Hannassy, Leech says to the Major that they haven't heard a single shot. Yet Rufus Hannassy shot at Buck to prevent him shooting an unarmed man not five minutes earlier.
とあるのですが、ルーファスが発砲するのが2時間25分のところで、スティーブが少佐に告げるのはその2分半後ですから、何も間違いはありません。これは発見者が見たとき巻を間違えて上映したのかもしれませんね。

しかし、マッケイがサンダー号に乗るとき、振り落とされて頭に枯れ草がつくのですが、それを振り払った次のカットでまだ枯れ草が頭にあるというのは本当でした。やはりグーフについて書く場合は、DVDなどで確認した方がいいですね。
「シャム猫FBI/ニャンタッチャブル」で、ヘイリー・ミルズの彼氏という設定のトム・ローウェルが、彼女の家の台所に入り込んで勝手にサンドイッチを作って食べるというキャラクターです。最初のほうのデート後、ヘイリー・ミルズはもう床につくと言ってるのに、彼氏は今に寝そべってサンドイッチをパクつきテレビを見ます。
このときサンドイッチが、カットを切り替えるたびに大きさが違います。かじった後にしゃべったセリフをOKテイクにしたら、連続性がおかしくなったんでしょう。1965年には、まだこういうグーフがよく出てきます。さすがに1980年ごろからはビデオが一般化してくるので、より注意を払うようになりましたけど。
小林正樹監督の「からみ合い」は、公開当時中学生だった僕には敷居が高く、今回WOWOWで放送されて初めて見ました。内容はともかく、タイトルでびっくりしてしまいました。

まずはその他大勢の中に、今をときめく演出家の蜷川幸雄の名前があったら。
その次にびっくりしたのが、次のクレジットのトップにも蜷川幸雄の名前があったことです。

てやはや、60年近く映画を見てきましたが、出演者のクレジットに2回名前が出る人は初めて。誤植とか何とかではないからすごいですね。

蜷川幸雄は、川津祐介らとつるんでいる不良学生グループの一員を演じていました。
こちらのページではキャプチャー写真をアップできないので、“写真館”にアップしておきます。
溝口健二の「雨月物語」でグーフ発見。それは森雅之扮する源十郎の背中にかかれた魔よけの経文です。京マチ子たちが目にする書き文字と、兵士たちにとらえられたとき源十郎の背中にある文字との並びが違う。
とはいえ当時の映画はビデオで繰り返して見るなんてことを想定していませんから、グーフというのは酷かも。

むしろ蝋燭の明かりに照らされたときキラキラと反射するラメのようなものが加えられている、その効果を褒めてあげるべきかもしれません。こういう細部まで、溝口組のスタッフは気を遣って映画作りをしていたんだなと感心しました。これも田中徳三助監督の手柄か?

こういう作品を見ると、「1911」で指を切り落としたはずのジャッキー・チェンの右手に“指が生えてきている”グーフは、ばかばかしくて取り上げる気にもなりません。
「タクシードライバー」を見直したら、グーフ発見。
ひとつはセリフで、トラビスが両親にカードを送るときのボイスオーバーですが、“7月はママの誕生日と父の日が両方ある”と言ってます。でも父の日は6月ですね。

そしてもうひとつは、マーティン・スコセッシ監督が演じる“シルエットを見つめる男”が代金を払ってタクシーを降りる前、料金は2ドル75でした。降りた後トラビスを後部座席からとらえたショットでは初乗り料金の65セント。早くも次の客を拾って走り出したということで、その客を拾うシーンをカットしたのか?

似たようなことが、トラビスがアイリスを“買って”ホテルの部屋に入ったときにもあります。こちらはトラビスが料金を払わずに部屋を出る感じになっています。スポーツが“金は女の子に払え”と言ってたのに。
でもこちらは、トラビスがドアで入り辛そうにしていて、ぽんとカットが変ってアイリスが“もう6分半たってるよ”と言ってますから、いわゆる“中抜き”でしょうね。
「荒鷲の翼」を見ていたら、冒頭のあたりでモーリン・オハラが、低空飛行したジョン・ウェインらの飛行機の風で日傘の骨を折っているのですが、その次のカットでは骨は大丈夫でした。こういう連続性については、ビデオが登場するずっと前の作品ですから、かなりいい加減であってもしかたがない時代でした。

同時に、ジョン・フォードにとって、メジャー・スタジオに戻っての仕事は、いろいろと不自由を感じさせたようで、細かい作りにまでは気を遣わなかったという気がします。経済的には満たされても、アーティストとしての部分は満たされないわけですね。

この映画にはさらに、第二次大戦前にはなかった飛行機が登場したりして、グーフにはことかかないようです。そういうグーフは専門家にお任せしましょう。
「ヤング≒アダルト」というシャーリーズ・セロン主演作品で、セロンが元カレのパトリック・ウィルソンを訪ねるシーンがあります。そして元カレの現在の妻が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて出てくる。このとき、奥さんが右側に赤ん坊を抱いて出てきたのに、奥さんの背中からのショットでは赤ん坊が左側にいます。もしかしたら、もう少しシーンが長かったものを“中抜き”したのかもしれませんね。このグーフについては、まだimdbに記載されていません。

imdbに記載されているグーフは、よくある飲み物の分量(テイクの違う映像をつなぐとこうなります)と、フリーウェイのサインが違うというものですが、マーキュリーという町が架空の町ですから、地理的な間違いを指摘してもなぁ。これを指摘するのなら、「80日間世界一周」の横須賀の港に着いたカンティンフラスが鎌倉の大仏を見てすぐ平安神宮に行くあたりを突っ込んでやれよと思いました。
「暗黒街の女」という1958年のニコラス・レイ監督作を見ていたら、シド・チャリッシがロバート・テイラーの家で執事と話をしている場面で“不連続”が。

執事が台所で冷蔵庫に物を入れているところへシド・チャリッシがやってきて、執事は冷蔵庫の扉を開けたまま少し後ずさりし、冷蔵庫の前にチャリッシが立つわけです。そして執事のセリフを受けたチャリッシのアップになると、冷蔵庫の扉が閉まっていた。カットを切り替えて撮影しているため、途中で扉を閉めてしまったのでしょう。あるいはもう少しセリフがあり、扉を閉めるカットも撮影したけれど、冗長になるとカットしたのかも。セリフはアフレコですから、よどみなくアップにつながっています。だから余計に、ドアの開閉が気になってしまう。

それにしてもアメリカ映画では、しょっちゅう冷蔵庫のドアを開け放して会話してますね。僕はそれが気になってしかたがない。そんな雰囲気で見ているから、こういうグーフに気づくのでした。
ブレイク・エドワーズの「グレート・レース」を再見して、この映画の時代背景はいつなんだろうと思いました。ロシアに渡って歓迎されているから1917年のロシア革命以前だと想像できます。そして皇太子の側近がルガーという拳銃を持っていました。マイミクのホッピーさんから、ルガー08という拳銃は1908年に出来たからそう呼ぶと聞き、1908年から1917年の間と限定できました。

特典映像を見ると、1908年に似たようなレースが行われたそうです。ということで年代は1908年と確定できました。

そのあと音楽をDVDから抽出していると、ナタリー・ウッド扮する記者がトニー・カーティスを取材に行き、カーティスのテントでシャンパンをふるまわれます。そこで流れている音楽が“The Desert Song”で、オスカー・ハマースタイン二世とオットー・ハーバックの曲でした。歌うのはシグムンド・ロンバーグ。
ところがこの曲は、1925年の作だそうですから、時代的にはグーフとなるのでした。

「グレートレース」のようなコメディーの場合、間違いと知っていて使用する場合が多いので、これを“グーフめっけ”と喜ぶのはどうかと思います。でも、自分のなかで整理するために記録しておきたいと思います。
ずいぶんご無沙汰してしまいました。久しぶりに書き込みます。
映画は黒澤明の「わが青春に悔なし」。

この映画で大学教授の娘を演じる原節子は、ピアノが弾けるということになっています。しかし引いている場面で激しくては動いているものの、鍵盤は全く下がっていません。エア・ピアノですな。

これをグーフというのは、ちよっとこの時代の製作スタッフには悪い気がします。つまり、映画はアフレコだから演奏は別人だというのが常識。原節子が鍵盤に触れなくても、そこは映画だから、という納得が作り手と観客の間にあったと思うわけです。
つまりチャンバラ映画で舞うように刀が相手の前を通過すれば、相手は斬られてばったり、というのと同じ。

このころは黒澤も、こういう映画の嘘を当然としていましたが、「用心棒」では斬れば血が飛ぶ、肉を斬る音がする。そうやって時代劇を大きく変質させてしまいました。そんな巨匠の、まだ若い時代のひとつの“あかし”のような気がしました。

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