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next stepsコミュの雑談トピ

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はじめましてから始まる話、ちょっとした話、ちょっと聞きたいことなど、ご自由にどうぞ。

コメント(32)

Rayさんの自己紹介の中に、外面がよい、社会的地位がある加害者のことが書いてありましたが、厄介な相手だと思います。本当のことを言っても、名誉毀損や業務妨害と訴えられる危険性があります。同じ業界の権力者なら、その業界で生きていけなくなるときもあります。
加害者と離れたり別れたりするために、形を取ることがあり、形を取るには理由が必要だったりして、社会的にどういう理由で別れることにするか、被害者は悩むんですね。

勇気や覚悟があるなら、一矢報いるなり、全面対決するなりするのもいいでしょうが、それだけの勇気と覚悟がないのなら、「聞かれたら本当のことを言う」というスタンス、お勧め。「言うつもりなかったけれど、嘘もつけないので…」といって本当のことを話すのです。喋りすぎないのがコツ。ずるい?
加害者は国会議員、弁護士、医者、警察官、教師などが多いと聞きます。私の加害者もある求人情報誌の編集長ですし。

相手はストーカーのように私の周りをうろうろしていたので、今年5月、勇気を持ってメールを書きました。「反省している」と返事はありましたが、今までの行動からして信用出来ないので、自分の身の回りの人たちにはそのことを話し、加害者のメールに返信はしていません。それは証拠として残してあります。全面対決は私の場合、FTM(female to male)同士で警察はあてにならないのでするつもりはありません。向こうの思うツボかも知れませんが。
国会議員、弁護士、医者、警察官、教師というのは、権威(パワー)を付与され、相手をコントロールするのが仕事という面があります。夫とか、親とか、上司だとかいうのも職業というのではないけれど、同じく、パワーが与えられ、コントロールすることを要求されている立場です。
そういう人たちが、自分の立場に無自覚だと、権威の乱用、パワーとコントロールの乱用に走りやすいってことなんでしょうね。

コミュの管理人というのも同じかな。
既に参加者を振り回しているような…。自戒、自戒。
ジョナさんじゃないけど、皆さんツッコミよろしく。
あ〜、雑談トピ、いいですね〜〜〜。コーヒー

加害者が社会的地位が高く、外面がいいことが多いというのはホントに良くありますよねぇ。

今の社会の中で成功しているというのは、そのままでパワーゲームに勝利してきたということでもありますよね。それだけのパワーとコントロール能力を持った人なんですよね。

いなばさん、しゃべり過ぎないってgoodだと思います。
私たち(ってくくってしまいますが)ってついつい相手に理解してもらいたいと思って、説明をしすぎることが多いのかもしれません。パワーゲームの勝利者は「理解しない」というスタンスを取らないと勝負に不利になるので私たちの「理解してもらいたい」という願いは最初から無効なんですよね。

ちなみに、私はぜんぜん振り回されてるって感じはしてないですよ。
「え〜い、やっちゃえ〜」ってのも割りと好き。ウインク

Rayさん、はじめまして!
ストーカーのような振る舞いは怖いですよね。
身の回りの方たちにRayさんが恐怖を感じていることを知っておいてもらうのはいいことだと思います。
難しいお立場で大変な思いをされてこられたRayさんだからこそ見えてくるものもたくさんあるのだろうと思います。そんないろいろを少しずつでも話してくださるのを楽しみにしてますね。
Rayさんの本借りてきて読んだのですが、注釈が書いてあって、分りやすかったです。自分はFTXかな、などと思いました。
チャットしていて、オデッセイヤからモノガミーとポリガミーの話になったら、「家にはガミガミーが居ます。モノガミーではガミガミーが一般的です」ときたので、「ポリガミーはメガミー(女神ー)ですか?」 と返したら、「一夫多妻ならメガミーでしょうね。ポリガミーの甲斐性のない奴はヒガミーなのです。イガミーも増える」と返されて、返しきれずに笑いこけていました。
コントできそう。
いなばさん>
>喋りすぎないのがコツ。ずるい?

突如被害者として喋り始める、コーモリの如きズルイわたしですが、わたしの経験の中ではそれしかやりようがなかったなぁ…。

相手は攻撃力があるだけあってそれなりの様々なパワーがあり、かつ、それを滅多に外に現さない。
先に動いた方が負けだってのは、はっきりと分かったしなぁ…。

今でもこのコミュで盛んに発言している事を表沙汰にしたくないのは、何らかの形で、加害者にそれが伝わる事を恐れているからです。

自分でもずるいなぁ…と思うのですが、…過剰防衛かなぁ……。
6:いけださん
実は私、密かに心配してたんです。
いけださん、かなりご自身のことを開示されてるけど、大丈夫かなぁって。
はい、余計なお世話ってことは自覚してます。あせあせ(飛び散る汗)

私はずるくないと思います。

誰に、どこで、何を、どれだけ、どのように、話すかは自分自身で決めていい。
そして、自分で決めたことは自分で変えてもいい。


う〜ん、私が自分で確認するための書き込みになっちゃいました〜。
いなばさん、
>オデッセイヤからモノガミーとポリガミーの話になったら、「家にはガミガミー>が居ます。モノガミーではガミガミーが一般的です」ときたので、「ポリガミー>はメガミー(女神ー)ですか?」 と返したら、「一夫多妻ならメガミーでしょう
>ね。ポリガミーの甲斐性のない奴はヒガミーなのです。イガミーも増える」と返>されて、返しきれずに笑いこけていました。

これイケてますね〜!面白過ぎ!こう言う言葉遊び大好きです!
7.かのんさん>
交互に会話が飛び交い、井戸端会議みたくなってきましたなぁ。これも面白し。

ご心配ありがとうございます。
え〜。わたし、このコミュに入る時、意図して開示してゆこうと決意しております。

孤立無援の感覚がわたしにもあって、今まで誰にも離す事がなかった事をじっくりと時間を掛けて、心がOKサインを出したら、少しずつ開示して行く心算です。

それがわたしの30年以上に渡る孤独な闘いに終止符を打つ事にはならないとは思いますが、サバイバーにはそれぞれに孤立無援感があるんじゃないか?
この場がその孤立無援感に閉ざされた心を少しでも開く場であって欲しいからです。

最も新しい経験に照らし合わせてみると、わたしは加害者でした。けれど、それ以上に被害者であったし、また、被害者であったにもかかわらず傍観者として何も出来なかった体験はわたしを苛みます。

出来れば平凡な人生を送りたかったと言うのがわたしの本音。
けれどそうした人生や生活を完全に破壊し、不可能にしてしまうのがDVやモラル・ハラスメントだと思うのです。…それだけではないにしろ……。

しかし、いなばさんのチャットは本当に面白いなぁ!わたしも気に入りました。声を出して笑ってしまった。
検索で引っかかったサイト、
「トラウマの雑学」と「『心的外傷と回復』ダイジェスト版」どちらも読み応えがありますね。
土曜日に行きつけの図書館で、紹介されていた「心的外傷と回復」や斉藤学さんの本などを借りてきたんですが、期日までに、四冊も読めるかなぁ?
こういう分野の本を乱読していた時期があったのですが、どの本に書かれていたか忘れてしまっていることも多いです。「スライバー」という言葉にまた会えて嬉しかったですね。どこかに、ザパイバーに対比されて何とか言う良い言葉があったなぁ、という記憶しかなくて、思い出せなかったのです。
私はスライバー化してきたんでしょうか? 前、読んだときは自分に遠いと思ったのですが、本を読むより、まとまっているのでサイトから…。
http://dissociation.xrea.jp/disorder/trauma/index.html
1から7までは、なんとか○付けていいです。いい線行っているよ、ジブン! と褒めていいでしょう。ただ、8は×。自分はリアルの世の中に受け入れられているという感じがしません。世の中に必要とされているとも、愛されているとも感じられない。いまだに世間はよそよそしく、冷たく感じられます。
しかし、最近、息子には必要とされているし、気を使われている感じがしてきました。

「感じ」というのがミソでしょうか? 必要とされていると「感じ」なければ、利用されている、あるいは消費されていると感じられて、心の栄養にならない。「感じ」られれば、それが酵母のような働きをして、心の栄養になるのでしょう。

まだまだ、虚血で青く萎びた心臓のような気がします。脈も弱い。でも、自由に走り回れなくても、日常生活を楽しめるまでに回復した、と自分では考えています。
いなばさん>
>こういう分野の本
知識を深めるより先に何かを始めてしまえ!とばかりにトピ立てしたり、書き込みをしたりしていましたが、少しノーミソを整理しようと、わたしも読み始めています。

それで良いのだろうけれど、心理学や精神医学など、様々なアプローチがあり、その中でもかなり細分化されているのでややこしい…。

トラウマという言葉も意味するところが少しずつ違う。

このコミュに参加し、先ずいなばさんの本を読み、今はマリー=フランス・イルゴイエンヌさんの『モラル・ハラスメント─人を傷つけずにはいられない』を読み返しています。共にインパクトのある良い本だと思います。

古本屋さんで何冊か「こういう分野の本」を買ってきました。その中には斎藤学さんの本も含まれて居ます。同じ本もあるかな?以前購入したものもあるのですが…。

>自分はリアルの世の中に受け入れられているという感じがしません。
これはわたしも同じだなぁ。
受け容れられていないと言うより、現実に参加出来ないと言った感覚のほうが近いのですが、どこにも自分の居場所が無い。

けれど、Blogなどを再開して感じたのですが、わたしも以前より遥かに改善されてきたように思っています。

以前は利用されていると感じても、自分の中で「利用されるだけ、価値がある人間だと言う事だ」などと合理化していたのですが、必要とされている自分を感じると「わたしはここに居ていいんだ」と安心感が持て、身体も自由になって行く気がします。
「わたしはわたしの思うように生きてもいいのだ」と。
>必要とされている自分を感じると「わたしはここに居ていいんだ」と安心感が持て、身体も自由になって行く気がします。

ここ、とてもよく分ります。「利用」と「必要」、似ているようだけれど、そこが違うのですね。必要とされていると感じると、気が楽になって安心できるんです。
「スライバー」の1〜8、私はどれも○を付けられませんでした。バッド(下向き矢印)

よく考えたら、私って未だサバイバーにもなれてないんだから、当然といえば当然かも。

「心的外傷と回復」はホント読み応えがあります。ダイジェスト版のサイトはありがたいです。あと、わたし的にすごく印象的だったのは「犯罪被害者支援とは何か―附属池田小事件の遺族と支援者による共同発信 」です。回復とは何か、支援とは何かをリアルに脈打つような感じで考えさせられました。ここでも「心的外傷と回復」には何度か触れられています。

11:いけださんの感覚、いいですねぇ。ぴかぴか(新しい)
「わたしはここに居ていいんだ」という安心感。
私もこれをつかみたいためにいろいろともがいてるのかもしれません。
なかなか成功しないんだけど、それほどまで私は自分がその場で存在することを許せずにきたんですね。
勉強不足を痛感し『心的外傷と回復』を中心に精神医学や心理学の本を読んでいたら、余計わからない事が多くなり、深みにまんまと嵌りました。

中井久夫さんのエセー『アリアドネからの糸』を読んでいたら、中井さんがこの『心的外傷と回復』を訳したのは阪神大震災で心的外傷という現象に興味を持ち、勉強の為に訳したという事が書かれていました。

中井さんはギリシャの詩も訳されていて、かなりの言語感覚の持ち主。このような人にこの本が訳されたという偶然は、それ自体がドラマなのだと感じさせられました。

調子に乗って中井久夫さんの『徴候・記憶・外傷』(みすず書房,2004)を今読んでいるのですが、この本も内容が広大で、深遠。精神医学を学ぶ人以外にも薦めたいけれど…難しい……

いやー、それにしてもこころの科学は奥が深い。
人の心ってホントに難しいものですね。

ハラッサーに精神的に翻弄されている人がやっと自分におきている理不尽さに耐え切れず、ハラッサーから距離を置くようになっても、ハラッサーのちょっとした言葉でいとも簡単にハラスメントの関係に戻ってしまう。

好きと言う気持ちに素直になりたい…とか
もう一度彼を信じたい…とか

そういう言葉で。

それはもちろん当事者の選択で、外からどうこう言えることじゃない。
でも、がっくり…凹む…。

でもでも、よーーーーーく考えると彼女は自分に起きていることがハラスメントと言う意識はまだないのかもと思えてきました。傍からみていると非常に辛そうなんだけど、彼女にとってその辛さはハラスメント被害ではなくて、恋の辛さに見えているのかも。ハラッサーと距離を置こうとしたのは相手の言動を理不尽と感じたからではなく、他に気持ちを向けるものがたまたまそのときあったからだったのかも、と言う気がしてきました。

お相手のこれまでの不誠実極まりないコミュニケーションパターンを思うと、たぶん、それほど日数をかけず、彼女の心はまた翻弄されるでしょう。

私は彼女のカウンセラーではない。
彼女の今の選択は私が何も関与するものではない。

わかっちゃいるんですが、すごくすごく気持ちが騒ぐんです。
無力感もある。でも、どこかで怒りも沸いてくる。
ハラッサーに対してだけじゃなく、彼女に対しても、自分に対しても。

彼女の「わかってるんです」は私が無理やり言わせた言葉だったんだよなぁ。


一年の終わりだって言うのに、凹んでます。バッド(下向き矢印)
ふわふわしてつかみ所のない方のようですね。

マインドコントロール下の枠組みでは、自分がマインドコントロールされていることもハラスメントを受けていることも見えない。このあたりのことをいけださんが、「選択的不注意」と言っています。相手が正しいはずなのに自分は苦しい。だからその人はその理由を探している。そして、かのんさんに出会った。かのんさんは「それは、ハラスメントです」という枠組みで見直すように提案した。しかしかのんさんが提示した枠組みでは、「好きと言う気持ちに素直になりたい」「もう一度彼を信じたい」という自分の気持ちを同じく「選択的不注意」で見ないようにしないといけない。それが辛い。そんなところなんじゃないでしょうか?

おそらく真実というものは枠組みのないところにある。しかし、個はその雑多さに押しつぶされるので、個として主体的に生きるには何らかの枠組みを要します。

かのんさんが落ち込むのは、三角関係にされているからでしょう。彼女の人生に責任を負う立場に居ないから、本当は三角関係にされると困るのです。彼女は彼の枠組みを棄てて、かのんさんの枠組みを選ぶのではなく、自分の枠組みをつくらなくちゃいけない。

私は長いこと迷い続けた人間ですが、相談員に自分を大切にするようにいわれて、そこから始めたのが良かったと思っています。自分を大切にすることには、自分の身体、自分の心(感情)、自分の意思を大切にすることが含まれています。

「好きと言う気持ちに素直になりたい」「もう一度彼を信じたい」というのは、今現在の彼女の気持ちです。総体として自分を大切にするために、棄てないといけない、自分の感情や夢もあります。何を棄てるのかは彼女が決めることです。

ただ、多くのサバイバーたちが、些細なきっかけで、別れること等を主体的に選べたと言います(私は臨界点に達したんだと言います)。カタツムリが這うような試行錯誤の上で、ある日突然転機が訪れるのです。それはその人が、自分の枠組みを作りあげた時だと思います。

自分の枠組みを作るために、私にはその相談員との出会いが必要でした。自分の枠組み作りの手伝いをしてくれる人が必要なんです。

かのんさんは三角関係にされているだけで、無駄なことをしているのではないと思います。
ここは心理学の学びの場ではないので、言葉を限定して使う必要はないと思いますが、わたしが使っている選択的非注意は、ちょっとニュアンスが違います。

選択的非注意は傍観者の側に起こる。わたしはそう考えています。
ちなみに「選択的非注意」で検索してみたのですがあまり芳しい結果を得る事は出来ませんでした。それよりもむしろ「selective inattention」で検索してみた方が良いかも知れません。

これは中井久夫さんの『アリアドネからの糸』(みすず書房,1997)─「いじめの政治学」の中で出てくる言葉で、いじめを説明する文脈の中で出てきますが、DVなど、他のハラスメントにも適用する事ができそうなので紹介しておきます。中井さんはあくまでもいじめという言葉を使っていますが、それをハラスメントに置き換えます。

いじめは何故分かりにくいか?或いはハラスメントは何故分かりにくいか?それは多分ハラスメントが「透明な」現象だからだと思います。透明な現象に至るまでには一定の順序を経て進行し、その順序は極めて政治的に巧妙です。

中井さんはその過程をとりあえず「孤立化」「無力化」「透明化」という三段階に分けて説明しています。


立ち直る機会を与えず、持続的にハラスメントの標的にするためには孤立させる必要がある。ある人物を孤立させる最初の手段は、誰かがマークされたと言う事を周知させる。マークされなかった人はほっとして標的から距離を置く。距離を置かなかった場合は、それが損であり、身の破滅を招くかも知れない事をちらつかせる。
そして標的が何故標的に値するかがPRされる。これは「自分より下」の存在がいるということを知らせる事によって、なりたくてもリーダーになれない者に権力への飢餓感を多少軽減する。また、傍観者には傍観の許しを与える。
更に被害者にとっては自分はハラスメントの標的になっても仕方がないという気持ちを次第に染み通らせる。孤立化は無力化を含んでいる。

「無力化」はそれだけでは終わらず「反撃は一切無効である」という事を教え、被害者を諦めさせるまで続く。その為に反撃は懲罰的な過剰暴力を以って行われ、その際に誰も味方にならない事を繰り返し味わわせる必要がある。

ここは加害者にとって大きな山場で、この時に強力なサポーターが現れるなどして、被害者に味方が現れると、加害者が逆に孤立化し、下手をすると自分が被害者の側に転落しかねない。

したがって最も酷い暴力が振るわれるのは、この被害者を無力化させる段階であるかも知れない。
加害者はいつも世論を気にして行動している、だからこそ、被害者を最初に孤立させておく。

この辺りからハラスメントは次第に「透明化」し始める。一部は傍観者の共謀による。
>古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、
>そして善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように
選択的非注意によってハラスメントは、それが自然な風景の一部としか見えなくなる。或いは全く見えなくなる。要するに足を踏まれているものは痛いが、足を踏んでいる者は痛くない。踏んでいるということも自覚できない。

この時期に被害者の内面に起こることはいなばさんの仰る事と整合的です。

被害者は孤立無援であり、反撃、或いは脱出の為に無力である自分がほとほと嫌になっている。
加害者との対人関係だけが内容のある唯一の対人関係であって、加害者のいない空間が現実感のない空間になる。
他の人たちは別世界の住人のように見えてくる。

いじめの場合、被害者は大人の前で加害者の末席に連なる。

この段階では被害者は救済の手を差し伸べられても激しく否定し、しばしば怒り出す。家族である場合など暴力を振るう事もある。それは「何を今更」「もう遅い」という意思表示でもあるかも知れず、或いは、自分の事は自分で始末をつけたいと言う、最後のイニシアティブ感覚を介入によって明け渡してしまう喪失感を先取りする為でもあるかも知れない。

>明け渡す事によって得るものが期待できないのに自分の中に残っている最後のパワーを
>むざむざ明け渡して失ってしまうという、この喪失感は、
>多くの幸福な大人の理解し難いものであるが、ぜひ理解しなければならない。


殆どは「いじめの政治学」の要約ですが、引用した部分には引用符(>)を付けました。
この為、本文にはない改行があります。

多くの重要な記載を省略した事も付け加えておきます。

また、単なる紹介だけではなく、この要約した文章はわたし自身が共感した文章でもあります。
いけださん>
私の不注意な引用を訂正ありがとうございます。選択的不注意でなく、選択的非注意だったんですね。
いけださんがいじめのことを書いていらして、この言葉が出てきて、こういう選択的な盲目は被害者の中でも起きていると思ったので書いてしまいましたが、誤字+拡大解釈だったようです。

?昔、ヒステリーで目が見えない患者が危険物だけは巧みに避けるという記述をよんで、ヒステリーや集団ヒステリーに興味を持ちました。
?また、一連の犬から猫へと変化する絵を見せて、それが何か聞いていく実験をしていて、どうしても猫としかいえないものまで、友だちが犬と言ってしまうのに驚きました。

このあたりの心理が、DVやイジメなどのハラスメントにあるように思います。

?被害者も加害者もハラスメントという都合の悪いところは見たくないから、見ないようにしようと思います。するとヒステリーのような心の働きで、実際に見えなくなります。いじめのようにこういう現象が集団で起きることがあります。そこに第三者が入ると、なぜ皆が見えない振りしているのか不思議になるのですが、聞いてみると一斉に激しく否定の声が上がるので、その人はショックを受けて亡霊を見たような気になります。その人は亡霊を見ないように“注意”して、そのうち見えなくなります。

以前、初めての職場で、障碍者に対してあまりにひどい言動があるのでびっくりしていると、「いつものこと。気にしなくて良い」「悪気があって言っているのではなくて、良くしようと思って注意している。あの子もそのことは分っている」等と言われました。それを真に受ければ、他の人と同じように、その障碍者が時々、傷ついていること、怒っていること、悲しんでいることがまったく見えなくなるのだろうと思います。

?犬から猫へ変わっても分らないという話は、先入観とか、自分が言ったことにどこまでこだわっているかを調べる心理学実験です。先入観が強い人や、頑固な人はなかなか気がつきません。

人は、最初に会った時に良い人だと思うと、ずっと良い人だと思いがちです。段々変わってきても分りません。これを利用して、ハラッサーは初めて合う人や傍観者に親切にして良い評判をとります。それから、ハラスメント対象の悪い噂を吹き込みます。するとその人は「良い人が言うことだから本当だ」と思い込んで、いくらおかしなことでもそのようにしか見えなくなります。←ハラッサーはこういう素直な人が大好きで、効果的にハラスメントをするのに徹底的に利用します。被害者から言えば、利用されている人はもともと善意の人なので、ハラスメントの前面に立っていても攻撃できないのです。首謀者は手を汚さずに後ろに控えているわけで、とても狡猾で陰湿です。

イジメがないと言っている関係者を見ると、私は、どう見ても猫の絵を犬だと言い張っている友人を思い出します。彼らが、見えずにいたハラスメントが見えるようになって先ず見えてくるのは、いかに自分が被害者を無視してきたか、無視しながらもハラスメントに参加していたか、ということでしょう。このハードルが高すぎて、多くの人は無意識で逃げる(忘れる)ことを選ぶようです。大人なのだから、自分のやったことだけは責任持ってくれ、と言いたいけれど。


>この段階では被害者は救済の手を差し伸べられても激しく否定し、しばしば怒り出す。家族である場合など暴力を振るう事もある。それは「何を今更」「もう遅い」という意思表示でもあるかも知れず、或いは、自分の事は自分で始末をつけたいと言う、最後のイニシアティブ感覚を介入によって明け渡してしまう喪失感を先取りする為でもあるかも知れない。

ギクりとしました。私へのハラスメントで板ばさみになって、一週間で5キロも痩せて、加害者の末席に加わることにした人の、その転機に、激しい怒りをもって私に言った言葉が、「もう遅い」と「何を今更」だったからです。
なんだか、みなさんがコツコツと理解し積み重ねてこられたものをちゃっかり見せてもらってるような、すごく申し訳ない気分だけど、めちゃくちゃラッキ〜手(チョキ)

「選択的非注意」って言葉を紹介していただいたのは私には年の始めのお年玉みたいです。

「選択的非注意」は傍観者の側におきる防衛反応みたいなもののような気がします。他人から攻撃を受ける存在が自分とは遠いものにしておくために、「注意を払うな」「見るな」と心が感覚に指令を与えるのかも。それがそこには無いものだとすることで自分を「攻撃を受ける存在」から遠ざけておこうとしてるような感じがします。この辺が「差別」というものに繋がるように感じます。

「見えなくなる」「見えなくする」って反応は被害者自身にも起きますね。
16:いなばさんの書き込みを読んでいて、件の彼女はまさに「見ない」でいる人なんだなぁと思いました。彼女の抱える感情は怒りであったり、悲しみであったり、不信であったりするのですが、その感情は「見ない」で愛や優しさや信頼といった口当たりのいい言葉でマスキングされてしまうのですね。ここにはジェンダー枠組みや生育暦などががっちり絡んでいるみたい。私は彼女自身の感情を見つめてほしいけど、「見ない」というところで流れていきます。でも、今は「見ない」という行き方が彼女には必要なのかもしれません。

ふわふわしているようで、どんな提案をしても必ず「見ない」というところに戻る、この点では一貫して動かない人です。ある意味ではこれは彼女の力とも言えます。いつかどこかで彼女自身が自分の枠組みを獲得したら、生き生きと自分の人生を切り開いていかれるかもしれません。

いつの間にか彼女を挟んでハラッサーと私が三角関係になっていたのだなぁと思いました。
「そこにいちゃダメ!」って彼女の手を引っ張っていたような気もします。てか、引っ張ってました。バッド(下向き矢印)あせあせ(飛び散る汗)

いなばさん、ホントにありがとう!ハート
いなばさん>
『アリアドネからの糸』は専門書ではなく、エセーなので用語に関しては厳密に使われていない可能性があります。選択的非注意は、selective inattentionの中井さんの訳なので、この語を選択的不注意と訳してもそれ程問題は無いのではないかと今のところわたしは考えています。わたしならば選択的無関心と訳したいところです。いずれにしてもどの訳で検索してもこれと言ったサイトがヒットしてこないところを見ると、もっと別の言葉があるのかも知れません。

わたしがちょっとこの語にこだわりたいのは、いじめやハラスメントが見逃されやすいメカニズムをこれ程端的に言い当てている言葉が他に見当たらないからなのです。

『アリアドネからの糸』の中では
>…「選択的非注意selective inattention」という人間の心理的メカニズムによって…
と書かれているので、中井久夫さんだけが用いている概念では無さそうなのですが、他の心理学関係の本の中で適当な用語が見付かりません。

かのんさん>
殆ど根拠がないのですが、被害者に起こる心的現象は、選択的非注意とはちょっと違うのではないかと、わたしは考えています。選択的非注意はやはり傍観者に起こる特定の現象に限定した方が混乱が無さそうです。

J.L.ハーマンの『心的外傷と回復』の序、それも書き出しの部分に
>残虐行為への通常人の反応はこれを意識から排除することである。
とあります。この文脈の中で「否認 denial」という用語が出てきますが、こちらの方がより一般的かも知れません。これにヒントを得て、否認のメカニズムは脳科学でもかなり研究されているようなので、ちょっとそちらを調べています。

けれど、用語は瑣末な事。

加害者がどうかは考えがまだ上手く進んでいないのですが、
「見えなくなる」「見なくなる」「見えなくする」という反応は傍観者だけではなく、被害者にもあることは確かだと思います。そして

>今は「見ない」という行き方が彼女には必要なのかもしれません。

という指摘はある程度妥当だと、残念ながら認めざるを得ません。

けれど(やはり)『心的外傷と回復』に戻ってしまうのですが、

>残虐行為はしかし埋葬を拒否する。残虐行為を否認したい欲望と同程度に強力なのが<否認はうまく働かないはずだ>という確信である。

と言う言葉に、わたしは希望を繋ぎ止めたい。

かのんさんが仰っている事例は、中井さんの言う「透明化」の段階まで進んでしまっているのだと思います。だからこそ、そこに選択的非注意、または、否認のメカニズムが強力に働いている。けれど、
>否認はうまく働かないはず
だと思うのです。

何故ならば、否認はあくまでも非現実であって、わたしたちは現実の中にしか生きることが出来ない。

ふわふわしているように見えるのも、現実を現実として肯定できていないからだと、わたしは感じます。

個人的な体験を一般化してしまうのは大変危険な事ですが、わたしはかつて、似たようにふわふわした人の手を、言葉で、そして行動で、強引に引っ張った事があります。…上手く行きませんでした。彼女は一旦その場を離れても、非現実─物語や幻想も一緒に連れてきてしまった。

以前、テレンス・リアルの本の題名を引き合いに出して、かのんさんの日記に「男はプライドのいきものだから」と冗談交じりに書き込んだことがあります。

プライドは個人の存在を支えます。けれど、そのプライドが非現実に基いたものである場合には、ある程度支えにはなるかも知れませんが、現実の中の人間関係を疎遠にし、結局その個人を孤立させてしまう結果にもなりかねない。そのことと似ているような気がします。

こんな風に偉そうに語っているわたしも、ご存知の通り、回復への長い道のりの真っ只中に居ます。そして、最近感じるのですが、「見たくない」つまり「見ない」事にしていた現実を肯定し、承認する事から、その回復は徐々に始まるような気がしています。

『心的外傷と回復』の中では、回復のための道のりが具体的に定式化されています。定式化されたことで、治療や支援は非常に合理的になり、やりやすくなった。この事は事実です。けれど、具体的なケースの中で、被害者は被害者であり続けようと抵抗しますし、その為ならどんな手段もいとわない場合すらある。なかなか難しいと、具体的な作業に従事していないわたしなのですが、やはり、思わされます。
いけださん>
「選択的非注意」や、「見えなくなる」「見なくなる」「見えなくする」という反応は「防衛機制」のジャンルに入るんじゃないかと思って、調べていました。防衛機制については↓(このサイトとてもいいです)
http://www.nutshell.jp/mind/2004/11/015.html

>防衛機制とは、心の安定を図るための自我による無意識の調整手段。自我がイドや超自我、外界の要求やその間の葛藤を処理し、不安や不快の発生を防ぎ、人格の安定を得るための諸機制とされる。

>防衛機制には、抑圧、逃避、退行、置き換え、昇華、反動形成、否認、同一化、投影、合理化などがある。

抑圧や逃避、否認に関係しているかな?
問題なのは「自我による無意識の調整手段」なので意識しにくいこと。
防衛の手段なので、これを意識化する(つまり見えないものが見えるようになると)と、攻撃に晒されて、自我が危機に瀕すること。
外的・内的攻撃の方を何とかしないとタッチできないのでしょうね。

>彼女は一旦その場を離れても、非現実─物語や幻想も一緒に連れてきてしまった。

これ、私なりにイメージできました。被害者を強引に加害者から別れさせても、夢を引きずって、激しい後悔にさいなまれたり、別れさせた人たちを恨んだりすることがあります。だから、その人が夢から醒めて、自力で別れを選べるまで待つ方が良いと思うのです。ただ、離れるのは薦めます。離れて直接的な攻撃を受けなくなると、防衛機制も弱まって、それまで見えなかった、事実や自分の感情が見えてくるからです。

ところで、新約聖書を読み直して、人類史上最大のモラル・ハラスメントは、イエスが受けたと思うようになりました。
人々は、イエスを神を冒涜したという罪で死刑にしたのですから。
私は、不完全さ故に、モラハラを受けると考えていたのですが、不完全でなくてもモラハラは成り立つのですね。
モラハラ怖れるべしです。
罪がないものを罪人にできる秤(モラハラ)で、量られて、罪人にならない者はいません。モラハラした人たちは、やがて同じ秤で自分が量られることになるでしょう。死んだ後からかもしれませんが…(-_-;)
いけださん、いなばさん、ありがとうございます。

心理学的なアプローチは事態を少し身を引いて見つめなおせるので、自分自身が落ち着けます。

いなばさんの紹介してくださったサイト、すごく参考になりますね。
私も被害者側が「見えなくなる」「見なくなる」のは防衛機制じゃないかと考えていました。

防衛機制は心を守るための安全弁でもあるので、歯痒くても被害者自身に現実を受け取る準備ができるまで待つしかないのかなと思います。

それでも、いけださんのおっしゃるように「残虐行為はしかし埋葬を拒否する。残虐行為を否認したい欲望と同程度に強力なのが<否認はうまく働かないはずだ>という確信である」という『心的外傷と回復』の一文が希望になります。あちこちで目にする多くの被害者が <否認はうまく働かないはずだ>という思いをどこかで感じているという印象は受けます。

必死で「否認」するっていうことは実は心のどこかでそれを意識しているということでもありますものね。

ただ、援助者側が防衛機制から抜け切れない被害者を見続けることに消耗するのは悩ましいです。どうしても「迷うこと」や「現実を直視しないこと」などを「悪いこと」って意識から自由にはなれないんですよね。

イエスがモラハラ被害者というのはすごいですねぇ。
モ、モラハラ恐るべし…。
あー、キリストの迫害がモラハラだというのは分かるわ。俺は無意識的な嫉妬という観念で捉えていたんだけど、同じことを違う言い方しているのかも。

する側とされる側の差異について深く考察するトピきぼんぬ。

俺は立てないけど(笑)
ジョナさん>

嫉妬というのはピンポンかも。

総督ピラトは、イエスが「死刑にあたるようなことは何もしていない」ことも、人々や祭司長たちが「イエスを引き渡したのは、ねたみのため」だということも分っていて、釈放しようと訴えるのだけれど、祭司長らに扇動された人々は十字架につけろと騒いで聞かないのです。そして死刑にすることが決まった後に、イエスは幾多の辱めを受けます。

嫉妬によるハラスメントは、人々の「検閲」を刺激して野火のように連鎖し、ブレーキが効きにくい感じがします。

律法学者やパリサイ人たちは「偽善者」だと書かれていますが、モラハラッサーを鑑みると、やはりこれらの人の正体は「偽善者」なんだと思います。
偽善者は、律法の条文を悪用して、不正を働く人です。言っていることは正しいけれど、行いが間違っている人たちです。モルハラッサーたちは、言っていることはもっともですが、イエスさえ罪人にするような不適切な適用をしています。

>する側とされる側の差異について深く考察するトピきぼんぬ。

する側は、自分はしていないのに(←ここ重要)、ターゲットにしている他人に自身の言動と噂の完璧なコントロールを要求していますね。(←できねぇつーの!) される側は人を問わないと思いますが、モラルに従って生きたい良心的で真面目で素直な人ほどダメージが深いでしょう。
トピですか…。何を考察するのか分りにくいですよ。ポイントが絞れてきたら、ジョナさん自分で立てられると思いまーす。


かのんさん>

イエスがモラハラで死刑にされたと置いたとき、私の中に安堵感が生まれました。それまで私は、どうにかすれば、社会的な死刑を避けられたのじゃないかと反省する思いがあったのですが、それがなくなった…。

律法学者やパリサイ人、祭司長たちはイエスに失言させようと、何度となく律法を利用した罠をしかけますが、イエスは巧みに避けるのです。避けられたことで怒りを増幅させて、彼らは、群集を利用してイエスを死刑にすることにしました。

失言と失敗の利用、群集の利用、それは今日のモルハラでも顕著に見出せます。イエスほど賢ければ、失言と失敗はしないですんだかもしれないけれど、群集の利用は避けられなかった…。モラハラの的になり、社会的に死刑にされること(放逐・村八分・仲間はずれ等)を恥じる必要はないと思えるようになりました。

>ただ、援助者側が防衛機制から抜け切れない被害者を見続けることに消耗するのは悩ましいです。

加害者も被害者も生活習慣病の患者のようですね。生活習慣を変えろと言われるのが薄々分っているから、よほど不都合なことがないと医者に行かないし、行っても抗う。でも通う人は不都合に困っているし、“一番楽な方法”でなんとかしたいと模索しているんです。
ただ、医者の考える“一番楽な方法”とその人が考える“一番楽な方法”はしばしば食い違って、患者の病気を治したい医者ほど、疲れてしまう…。
いなばさん>
何故か年末年始に聖書を読んでおりまして…けれどイエスがモラル・ハラスメントの被害者だと言う発想は無かったなぁ。

指摘されて腑に落ちるところが多々あります。

先ず、「偽善者」を
>律法の条文を悪用して、不正を働く人
と、明確に定義付けた事は快挙です。

しばしば善くあろうとして、善に辿り着けない人が偽善者と呼ばれてしまう。

この事は善くあろうとする行為自体がモラル・ハラスメントの標的になりやすいことも示しています。

だからこそイエスの受難があり、キリスト教徒の迫害があった(極め付けで単純化しています)。まさしくこれはモラル・ハラスメントそのものです。

また、群集と言う存在をクローズアップされている。この事に感心しました。
群集とは匿名の集団です。傍観者である事に安心を求め、傍観者でありつつ加害者の側に位置している。
「群集」の存在なしにモラル・ハラスメントは成立しない。何故ならば、1対1の関係の中では被害者はまだ充分に加害者に対して抵抗する事が可能だからです。

この位置取りに関しては、センシティブである必要があるでしょう。そしてまた、(これも『心的外傷と回復』に書かれていることですが)第三者が「群集」化しない為の装置、「第三者を支えてくれる社会環境」が大切である事も示しているように思います。

既に、多くの反論がわたしの中で渦巻いています。具体的な歴史はあまりにも無視されていないか?など。にも拘らず、イエスの受難とモラル・ハラスメントを結び付けて戯画化したことの意味は大きいと感じます。
いけださん>
イエスがモラル・ハラスメントの被害者だという言い方は、しっくりしません。イエスを死刑にしようと謀ることで、当時の宗教的指導者たちが、偽善者(モラル・ハラスメントを行う人)であることが証明されたというほうが、イエスが来た目的から言って良いように思います。

偽善と善は似ています。イエスほどの善人でなければ、尻尾を出させることができないほど、偽善者たちは自分たちを善く見せかけていた…。

モラル・ハラスメントは新しい言葉だけれども、モラル・ハラスメントという行為は、ずっと昔から、人と人との間にモラル(決め事)が生まれた時から存在していたはずです。しかし、偽善と善を分ける秤は何時の世でも在りがたい。
イエスが偽善者たちを糾弾する言葉の中に、その秤があるように思います。

異教徒のピラトは宗教的指導者たちと群集が間違っていることが分っていましたが、偽善者たちは自分たちの手を汚さないために、群集を扇動し、ピラトにイエスを殺させようとしました。ピラトはイエスを殺さないと自分の身が危ないと思って、殺すことにしました。

権力者や理解者の利用もモラル・ハラスメントでよく見受けられる光景です。しばしば、権力者や理解者が止めを刺すのに利用されます。この光景を見知っていた私は、同じことがイエスの時代にも起きて、そのやり方や動機がきちんと書かれていることに驚いたのです。

>しばしば善くあろうとして、善に辿り着けない人が偽善者と呼ばれてしまう。
>この事は善くあろうとする行為自体がモラル・ハラスメントの標的になりやすいことも示しています。

その通りですね。いけださんに指摘されて、このところ、善について考えていたのですが、不完全な人間が善人でありきることは不可能でも、試行錯誤したり、躓いたりしながらも、善くあろうとしている人は善人と呼んでいいのではないでしょうか。そういう人の過ちを指摘して、偽善者だとハラスメントするほうが罪深い。

>「群集」の存在なしにモラル・ハラスメントは成立しない。何故ならば、1対1の関係の中では被害者はまだ充分に加害者に対して抵抗する事が可能だからです。

DVの場合、1対1の関係であることもあります。でも被害者は抵抗できない。これは何故か考えていたら、加害者が「群集」を背負って発言しているからだったり、被害者の中に「群集」がいたりするからだと思いあたりました。加害者は、普通、誰だって、皆、○○(しばしば親族や友人・敬愛している人)もそう言うと「群集」をちらつかせて、自らの発言を権威付けします。それに呼応して、被害者の中にも「群集」が、他人の目とか超自我に組み込まれて、止むことなく、被害者を責め続けることになります。それゆえに、1対1であっても被害者は抵抗できなくなるのでしょう。

被害者の中に自分を責める「群集」がいたら、加害者と離れても、安全にはなりません。被害者は、自分を責める「群集」ではなく、ありのままの自分を受け入れる「群集」に出会い、そのなかで自らを再構築する必要があります。
自分を受け入れてくれる「群集」は、身近な人だけでなく、ネットの向こうにいたり、一冊の本であったりすることもあります。
25:いなばさん
イエスの死刑にモラハラが作用していると見ることでいなばさんの中に安堵感が生まれたと言うことが私はすごく重要だと思いました。
今更ながら、モラル・ハラスメントという概念が提示されたことの意味の重さを感じます。

被害者を硬直させるものが彼(女)を責める「群集」と見るとすごくわかりやすいですね。社会規範とか罪悪感とか、そんなふうに考えるよりも被害者の中で被害者を責めてくる「群集」と考えると、イメージとしてつかみやすく感じます。我ながら単純だけど…。

ありのままのその人を受け入れるって難しい…。
援助側の中にもやっぱり「群集」はいて、人助けをしようなんて人に限って、えらく潔癖な「群集」がたむろしてたりしますものね。

そういう私もどう見てもまずい方向へふらふらと漂っていこうとする人を見ると、私の中の「群集」がザワザワと騒ぎだします。こいつらはこれまでも私をガンガン糾弾してきてるヤツらなので、何とかしたいとは思ってるんですが…。w

お久しぶりです!

防衛機制のことをつらつらと考えていて、投影同一化という言葉に出会って「あ!」と思いました。
私におきていたのはこれだったのかもと。

相手に話した内容がまったく違った受け止められ方をされて、それによって非難されたとき、私は「それは違うよ」と相手の誤解を解こうと必死になりましたが、まったく通じませんでした。

私の説明がまずかったのかと、何度も思い返しても、どうしても彼女の受け止め方が不可解にしか思えませんでした。まるで私の話した言葉をバラバラの単語にして並べ替えたみたいでした。

私は言葉の行き違いだとばかり思ってたけど、この通じなさや彼女の受け取らない態度はなんだか異様で、すごく戸惑っていました。

でも、彼女に投影同一化がおきていたと思うと納得できます。
言葉の行き違いではなかった。私の説明がまずかったのでもなかった。
起こるべくして起きていた攻撃だったんだなぁ。

彼女の中の「投げ出したい」とか「押し付けたい」って気持ちがいつの間にか私が彼女に対して「投げ出そう」とか「押し付けよう」としていることになっていたのかも。

だからなに?と言われると困るんですが、身の回りで起きたトラブルで何度も何が悪かったのか考え続けて煮詰まってましたが、私にはどうしようもないことだったのかもと思うと少しそのトラブルから身を引いて考えられそうです。

まずは話の内容をすり合わせようなんて、無駄なことに労力は割かないでおこう。もっと実際に処理しなくちゃいけないことを考えようと思います。
適応って言うけれど、適切に適応しているんじゃなくて、先送りするだけだったり、弊害の方が大きかったり、他人に迷惑をかける適応もあります。例えば、すっぱいブドウだとあきらめられても、その人がすっぱいブドウだと言いふらしたら、そのブドウは困るわけです。どちらかといえば、すっぱいブドウの適応より、甘いレモンの適応の方か害が少ないかな。レモンも喜ぶし。

でも、レモンが加害者だとしたら…、迷っちゃうなぁ。
こんな夜更けに。。。

一昨日フラバ激しく命の危機。
もう25年、分かれて8年も経つのにフラバです。

なぜかというと、私は大学の友達と会うことがご法度だったのですが、ついに30年ぶりに同窓会へ行くことを決意。京都ですが。

で、新幹線や宿泊先の予約や一部の支払いをしたら、怒涛のウツへ突進。
だって、8年くらい前に北海道に無理やり旅行したのが(実に苦痛だったトライアル)最後で、後は癌の手術のために神奈川に行ったのみ。
元夫を養うための仕事での出張以外は、外泊禁止の20年近く。

はっきりいって、現在の進行がんの統計からして、来年の夏に新幹線に乗れる可能性は半分以下。っていうか、生命のカウントダウンだろうね。

だから、今年、30年ぶりに同窓会に行こうと思ったけど、新幹線料金の支払いした途端に意識不明ってか。意味不明な罪悪感で、何がなんだか・・・状態。

今頃わかったこと。

最近、無理やり吸わされていたタバコを止めたことで罪悪感。
自分の楽しみのための旅行決意で罪悪感。

以上、二つは、まったくもってDV夫の洗脳によるものでした。

別れて7〜8年、別居もあわせると10年過ぎても、未だに洗脳が残っていて、苦しくて苦しくて、どうしていいか分らないほどつらかったです。

もしかして、「あれは、DV?」的な、しんじられない気分を引きずってます。
セラピーでも行政でも警察でも国連でも、DVと認定されたのに(笑)、自分で、この25年がDVだと認識しきれないのです。感情も伴って。

次の日曜日に、25年ぶりに(元夫と一緒になって以来)初めて、自分の楽しみのために東京を出ます。
ほんと、命のカウントダウンが始まるまで、別れてもなお、自分に旅行の自由があるとは思っていなかったようで、自分でも仰天してます。

DVの後遺症、恐るべし。

愚痴で、みなさん、すみません。
吐き出させてください、って甘えます。

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