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沖縄を考えるコミュの今蘇る林世功

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以前書いたものです。ずいぶんと手前味噌の所がありますが、林世功は僕の御先祖様に当たります。林世功のことを知るものは沖縄にもごくわずかです。彼の事がクローズアップされれば、尖閣問題にも影響を与えるでしょう。僕は独立論者ですが、彼の事を知ればその理由もなんとなく理解できる方が増えてくれるのではないかと思い、僭越ながらアップすることに決めました。長文ですがお手すきな時にでも。



明治維新、それは日本の歴史上まれに見る大変革の時代であったと思います。1868年、それまで300年に渡って続いていた幕府体制を一新した訳であり大変な改革でした。明治日本にとっては自力で維新を果たしたのですが、その陰で強要された維新があった事も歴史の二面性として知っておく必要があるのではと考えます。僕は林世功の事を思う時、いつもこういう思いに捉われます。

林世功は明治以降の沖縄で、ある面で一番知られた人物だと思います。今日の沖縄では知る人も極端に少なくなりましたが(僕も8年前まで知りませんでした)以下は京都の輿石さんという方が書いた林世功集より抜粋です;
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沖縄の歴史上血の気の失せる衝撃を与え得た人物といえば、この林世功をおいて他にいない。それほど林世功は名高い。
1880年11月20日林世功は中国北京の都で自らの命を絶つ、享年38歳であった。前年日本の明治政府の圧力により琉球は日本の1県沖縄県として日本に強制併合さえ、ここに長く続いた琉球王国は歴史上からその姿を消す。世に言う琉球処分である。
東南アジアから朝鮮、中国、日本に及ぶ一大海上交易に輝かしい名を轟かせた琉球王国も、江戸初期島津の侵攻を受け、その支配下に入る。島津支配下においても琉球国として独自の政体を持ち、明治5年に琉球藩と名目代わりはするが、尚巴志(しょうはし)の琉球統一以来数えても450年、琉球王国はここに幕を閉じた。琉球は中国の属国として中国に進貢する事により中国側から膨大な品物を賜与されてきた。これが琉球と中国の交易の形態(進貢貿易という)となっており、島津はこの利益を得ることを主眼としていた為に、琉球に侵攻した後も琉球が中国の属国として従属する事を認めた。そのため琉球は実質島津の支配下にありつつも琉球国として中国に従属する独立国という複雑な体制を持つ事にな
った。いわゆる両属国家である。国家概念が強まる明治期に入ると、琉球は日本の一部なのか、それとも中国清朝の1属地、琉球の持つ両属体制という曖昧さが許されず、琉球がどこに属するかという帰属問題が重要案件として浮上する。日本政府は琉球が日本に属している事を内外にも明らかにする為に、次第に琉球の日本への帰属策を本格化させていく。琉球王府自体は独自の立場を表明せず、旧来通り両属体制を繰り返すだけで、日本の圧力に抗すべく陳情使節を東京や中国に派遣するのが唯一の策であった(現在もまだ繰り返してますよね 笑)こうした中、林世功も密命を帯び、琉球処分の行われる二年前から中国福州に来て中国側に陳情活動を行っていた。中国と日本との外交交渉により、強まる琉球への
日本政府圧力をなくしてもらう、というのが陳情の目的であった。陳情の功もなく、琉球国がなくなり王尚泰が東京に連れ去られたとの報を受けると、監視のため福州に入っていた日本の密偵の目を逃れ、蒙古風に弁髪を結い中国人に変装し政治の中心地北の天津、北京へと陳情に向かう。李鴻章をはじめ中国外務省にあたる総理衛門の有力者に琉球救援の軍隊派遣を要請するのが目的だった。しかし彼はそこで日本と中国が琉球を分割する事で物事の決着を図ろうとしている事を知り、自分の命と引き換えに琉球国の再起を願って、自らの命を絶つ。
次の詩は林世功と共に北京に陳情に訪れた琉球漢詩人、蔡たいていによって記録された林世功辞世の漢詩である(現代語で書きます)

昔から今日まで忠孝を尽くしえた人間は何人いるというのか
国を憂い家を思い続けていつしかもう5年 この上は死を賭けて国家の存続を期待するしかない 御両親よ賢明なる兄弟諸子に頼られよ

二十歳ともなれば父母に孝を尽くして当然なのに 逆らってばかりの二十年 世界一の大罪人と自覚している
老いた両親はいつも涙を流し この親不孝者の為二人そろっての白髪頭 さらに今 私の死を耳にしたならば その心の嘆きはどれほどのものだろう

蔡はこの詩を北上雑記という北京の陳情の日々を記録した書に書き残しているわけだが、さすがに林世功の自害は衝撃が大きかったらしく、自害して果てたその年にはこの詩の記録はなく只次のように記録するだけである。

林世功、この人物が都で世を去った事を記録する。享年38歳
ここに次のことを記録する。死と言うのは聖山泰山よりも重いというが、しかし林君は国家の存続だけを思い、1880年11月20日、すでに自ら書いた訴え状を中国管使に渡し、自らの死と引き換えに国家の回復を懇願したのである。中国管使は大いに嘆き、まことのに忠臣であり、まことに同情に耐えないとして白銀二百両を悼み賜り、棺を整え葬儀の費用に当てるようにとの事であった。20日間、遺体を乗せた柩車を引き葬儀を終え、張家湾に埋葬した。ああいたましいことだ。涙が止まらないのは、ひとえに忠節のために死んだからである。まことに林世功君の行いは古人に勝るとも劣るものではない。100世にわたりこの誉れは語り継がれ、万代の鏡となるであろう。
異国北京城市の者でさえこれを耳にし、目にした者は潔き行いを嘆かない者はいない。ましてわが祖国の者は耐えざる思いに涙を垂れる。ここにわずかばかりの言葉を綴りこれを記しておく

林世功は、23になった年に国王が変わるごとに4人の留学生が選抜され(試験により)北京の最高学府国子監に学んだ琉球国最後の官生でした。林から世忠という世功の従兄弟も選抜されましたが、後の3人は志半ばで病死してしまったのです。
この時に恐らく厳しかったであろう異国での同士の病死に無念を感じていたのでしょう。
琉球処分、王様は東京に幽閉され、首里城の臣下は次々と毒殺され、残った者は方々へと逃げたのです。琉球の精神世界の象徴であった聖地やモニュメントは次々と破壊され尽くし、琉球語を禁じられ、学校においては琉球語を話すと首から札のような物をかけられ罪人の様な扱いまでして子供たちに大和語を強要したのです。また苗字を大和の姓に変えるよう命じられ、文化を奪い文字通りひとつの民族を完璧なまでに滅ぼした。。それが琉球処分でした。
世功は北京にいる間、嘆願書を出し続け、当時の最後の国王であったふぎがまだ年少だった為、すべての国政を取り扱っていた李鴻章が入門する場所で待ち伏せしてひれ伏し、嘆願書を何度も手渡していたのです。しかし彼はこう言われています。いったい琉球人は兵を送れと嘆願するが、果たしていったい何人の人たちが体を張って戦ったのか?一人としておらぬではないか?それなのになぜ中国が犠牲を払ってまで兵を送らねばならぬのか?彼は恐らく苦悶したでしょう。誰もそのような人はいなかったからです。結局このことが最後に世功の脳裏を掠めたのです。密偵がある日やってきて、中国と日本の間で密約が交わされて、宮古、八重山が中国領土、そして琉球本島以北は大和の領土と取り決めがなされた
のです。後は調印がなされるだけのところまで来ていました。これを聞いた世功は、もはやこれまで、どうかわが命と引き換えにわが祖国を引き裂いてくれる事無きように最後の嘆願書にそれを記し、自らの死と引き換えにと38年の生涯を閉じたのでした。北京市民をはじめ官僚も王府もこれを知り嘆き苦しみました。とりわけ李鴻章にとっては大きな衝撃でした。この事があってか彼はその後、孫文の辛亥革命へと加わり行方をくらませますが、琉球大学の教授は李鴻章の足取りを今も研究中なのです。
そして中国は突然この琉球分割案を放棄し、手を引いたのです。僕はこのことは林世功の死がもたらした物と信じております。その時に歴史が動いたのです。そして今の琉球弧の島々が存在しています。

林世功最後の訴状文 (輿石氏、林世功、世忠集 より)

琉球国陳情通事林世功、謹んで訴え申し上げます。我が死と引き換えに皇帝閣下の御慈悲を泣請いたします。速やかに我が国王を救い、我が国土を復され、臣下としての私の願いをどうか叶えられますように。ひそかに私、林世功は国主辱められ、国家滅亡に瀕した為、すでに昨年旧暦9月、前進貢使正使耳目官毛精長等(もーい親方?)に従い剃髪改装し入都いたしました。何度も高官各位の車下に拝し、救済を賜らん事を願い出ました事はすでに訴えましたとおりであります。思いますに、これ以外いかなる策がありましょうか。しかしながら今日まで論旨を被られずにおります。その為、昼夜肝は焼かれ、寝る事も食べる事も出来なくなりました。苦しみ思いますに、私林世功王命を奉り福州の地に至り危急を
訴え出てすでに三年を経過いたしました。我が国は惨めにも、日本人の蹂躙に遭い日々の狼藉極まる所を知りません。1に我が宗社を破壊し、2に国王や世子(王子)を東に連れ去り、さらに人民に毒虐を施したのであります。私林世功は何もできず、ただ痛嗚咽しひたすら救済を願い出るのみであります。まことに日本の罪は死に処しても余りあります。しかしながら国王はまだ解放されず、世子も拘留されたままであります。この雪辱を晴らさんと恥を忍び命を長らえて今日まで、その機会を窺がっていましたが、一命を投じ責務を遂げる機会は訪れず、今回北京に上がり、必ず願いを果たさんものと意を決しておりました。悲しいかな、また一年過ぎ去ってしまいました。まだ願いを遂げる事が出来ずにおります
。一体どうやって臣下の証を立てればよいのでしょうか。考えまするに、この上は只我がこの命と引き換えに大臣及び大官諸氏に涙の訴えをいたすのみです。どうかお許しいただきたい。余りの状況につぶさに訴え申し上げます事を、北京に駐する日本公使を呼び、御伝授下さい。大義に基づき彼を論し、諸氏の威厳によって彼を圧し、よろしく処置されよ。我が君主を帰し、我が国土を回復し、我が臣下としての思いを聞き届けて頂きたいと。この願いが叶えられますれば、たとえ私林世功死すとも、なんの恨みがありましょうか。
謹んで訴え申し上げます。

輿石氏は最後にこう結んでいます。
林世功、あたかもそれは、白い珊瑚の浜を南国の強い陽射しがキラキラっと光を照射し、あらゆるものを幻に変え去るように、静かな沖縄の大地に突如として現れ、突如として消え去った稲妻であったのかもしれない。1998.4月19日。

私は彼の子孫として命日になるたびに思いを馳せるのです。
死にゆくとき、次第に遠のく意識の中で彼が何を想い何を見ていたのか。それはもはや遠く離れてしまった生まれ故郷、幼い頃に遊んだ海辺そして残してきた親兄弟。。そして自分の帰りを、今かと待つ妻と娘。琉球を発つとき、ひざに抱かれて離れようとしなかった我が娘の事。すまぬ!だがこうせずにはいられなかった。。許しておくれ。。あとは任せたよ。。琉球の誇り高き民よ。。。あとにつづいておくれ。。そして。。。

あれからどのくらいたったのでしょう。歴史は悠久の時を刻み、そしてこの沖縄も変わってきました。

もし、この我が先祖の事が皆様の心に何かすこしでも気づきにつながるものがあったとしたら、これは僕の至上の喜びとし、皆様の御記憶の中に多少なりとも御留めする事が出来ましたら幸いでございます。長文で失礼しました

コメント(1)

本当に、とても勉強になりました。
ありがとうございます。

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