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沖縄を考えるコミュの入れ墨について

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最近、入れ墨(TATOO)の話題が多い。


"タトゥー批判"に泣いて反論する小森純。「後悔しないといえるの? 」と冷静な江角マキコ。
http://japan.techinsight.jp/2012/03/komorijyun_esumimakiko1203231515.html


「職員採用後の入れ墨、狂っている」橋下市長明言
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120305/waf12030511370008-n1.htm

こんなかんじだ。


どうも色々読んでいると、日本人の多くが「入れ墨はイケナイ」と思っているらしい印象を受ける。
俺にはさっぱり意味が分からない。
いったいこれはどういうことだ。
またやってのんのか日本人は。
入れ墨入ってようが何だろうがどうでもいいだろが。
まったく、くだらない。
入れ墨を見せびらかしてカツアゲするようなバカは、1回ちゃんと裁判にかけて反省させるべきだと俺も思う。
でも、入れ墨を入れること自体は、別に悪いことでもなんでもないだろ。
どうも、日本の多くの人が感じている「入れ墨への嫌悪」は、日本の排他的な民族主義から出ているように思うのだ。
あるいは近視眼的な恐怖か。
俺は大いに違和感があるので、そのあたりの話をちょこっと書くよ。



俺が「入れ墨」と聞いて一番最初に思い浮かべるのは「ハジチ」だ。

※ハジチの画像検索画面
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%83%8F%E3%82%B8%E3%83%81

「ハジチ」とは、沖縄で昔から行われていた、入れ墨のことだ。
過去、沖縄では、ほとんどの成人女性は入れ墨を入れていた。
なぜ俺がそれをすぐに思い浮かべるのかと言うと、俺の祖母もその入れ墨を入れていたからだ。

沖縄では古来、女性は両手の甲に入れ墨を刺した。
それは「針突き=ハジチ」と呼ばれ、民間にも広く行われた風習だった。
ハジチには呪術的な意味もあったが、多くの女性はファッションとして受け止めていた。
今流行りの柄がどうなのか、女性たちは「ハジチャー=入れ墨を刺す人」に聞いて、自分に掘る柄を決めた。
俺のおばあちゃんにもハジチがあった。
というか、俺が少年の頃には、沖縄に住むほとんどの老女にはハジチがあった。

沖縄の「ハジチ」は、そもそも日本にも古来からあった入れ墨文化とその源を同じにするものである。
あの有名な邪馬台国のヒミコの伝説を記した『魏志倭人伝』には、「男子皆黥面文身」と書いてある。
「黥面」とは顔への入れ墨。「文身」とは体への入れ墨のことだ。
※ちなみに日本のゴッホとも呼ばれた東北の天才画家「棟方志功」の作品では、古代の日本人は全て入れ墨姿に描かれている。それはとても美しいと俺には感じるよ。

俺は、俺のおばあちゃんを、そのハジチによって立ち入り禁止にする公衆浴場があったら、全く腹を立てたことだと思う。
最近では変わってきているらしいが、過去、生命保険などでも、入れ墨を刺した人は入れなかった歴史もあるらしい。
そんな生命保険はこっちから願い下げだから、その生命保険会社を批判したいとは思っていないのだが、俺には不思議でならない。
入れ墨を入れているのは江戸時代には罪人に多かったかもしれない。
それ以降は、ヤクザに多かったかもしれない。
でも、うちのお婆ちゃんはヤクザでも犯罪者でもないぜ。

これは沖縄だけの話ではない。
アイヌも入れ墨を入れていた。
海外に目を向ければ、ミクロネシア・ポリネシアには入れ墨の風習が今も残っている島が多い。

仮定の話をしよう。
ニュージーランドのマオリ族の青年がいたとしよう。
彼は信心深く、親孝行で、勤勉な青年だったとしよう。
彼はマオリの歴史を愛していたから、マオリの伝統に従って入れ墨を入れたとしよう。
その後、彼は日本人の美しい女性と出会い、結婚したとしよう。
2人の話し合いの結果、その夫婦は日本に住むことになったとする。
彼は勤勉で、日本でもう一度高等教育を受けたいと思って東大を出たとしよう。
その過程で彼は日本を愛し、日本国籍を取得したとしよう。
彼が東大卒業後、官僚になりたいと思ったとしよう。
海外で生まれ育った彼には、日本の素晴らしさと共に、日本の抱える矛盾が明瞭に理解できると感じたのだ。
彼は善良で、能力があり、問題意識と使命感を持ち、日本国民として、官僚を目指す。
ところがある日、政治家が言うのだ。
「入れ墨をしてる人は公務員として採用しません」と。

これはあくまで仮定の話だ。
けれど思わないか?
このマオリ族の青年は、実力さえしっかりと伴っているのなら、官僚になってもいいだろう?
入れ墨を理由に彼の採用を断るなんてナンセンスだと思わないか?



さて。

「個別のケースには色々あるだろう。けれど、全体として見たとき、入れ墨はやはり、この日本においては反社会的な行為であるというのは、一般常識である」

というような意見の持ち主がいる。
これはどうもけっこうたくさんいるらしい。

この意見の誤りは、「日本」をそのまま「大和民族」だと思っているところにある。
アイヌが自らの誇りのために刺す入れ墨は、決して反社会的ではない。
俺の婆さんが入れていた入れ墨も、決して反社会的ではない。
入れ墨を非難する人は、「ヒューマニズム」は無視して、自分勝手なローカルなルールで、自分が安心できればいいと思っているだけだ。
「日本」というものを、大和民族の国だと曲解している人だ。
おい。
この国には様々な文化がある。
それはこの国の宝なんだぜ。
とても大切な宝物だ。
そして考えてみてくれ。
入れ墨を否定することは、入れ墨を大切にしてきた民族の文化を否定することにも繋がるんだぜ?
そして、そもそも、入れ墨とは、日本の文化でもあるんだぜ?
日本には、アイヌもいれば、琉球もいるんだぜ?



人によっては、文化的な入れ墨と、今の若者が入れているファッションタトゥーとは別のものだと言う人もいるかもしれない。
けれど俺は知っている。
ハジチにもトライバルにも、流行がある。
過去の沖縄でも、現在のニュージーランドでも、入れ墨を刺す若者たちは、ファッションとしての「かっこ良さ」を常に気にしている。
かっこよくしたいと思って何がいけない?
俺は断言するね。
そこらへんの頭の悪そうな少女が刺している入れ墨と、ハジチと、本質的には特に何が違うもんでもないよ。

俺はアインシュタインが入れ墨してたとしようが、スティーブジョブスが入れ墨してたとしようが、
夏目漱石や伊藤博文が入れ墨してたとしようが、別にどうでもいいと思う。
俺はロックンローラーだから、友人の半数は入れ墨を入れている。
どってことはない。
俺の婆ちゃんも入れてたぜ、入れ墨くらいはよ。

俺には意味が分からん。
入れ墨と白髪染めは何が違う?
入れ墨と永久脱毛と何が違う?
入れ墨にまつわる、日本の文化史はどう捉える?
入れ墨にまつわる、世界の文化史はどう捉える?



俺は思うんだ。
日本人はさ。
この国に住む人間が大和民族だけじゃないってことを、そろそろちゃんと理解した方がいいよ。
この国は、歴史的にはアイヌと琉球と大和の国だ(細かく言うともっといるけど、文脈上3つにまとめるぜごめんよ)。
そして今では、世界各国の人が暮らしてる。
なんでいつまでも、大和の理屈で、同化圧力で、物事を解決しようとするのかね?
なんでいつまでも、同胞に対して無知のままで無視を決め込んでいるのかね?

俺はお前を愛してる。
ここは俺やお前やあいつらの、みんなの国だ。
色んな考え方や色んな文化があるけど、仲良くやっていこうぜ。
大切なのは、少なくとも、決して、入れ墨入ってるかどうかではないよな?
それくらいは、頼むから分かってくれ。




さて。
勢いでウワーッと書いてしまったけど、分かってくれるかな?

入れ墨の話題ひとつからでも、「日本人の単一民族的思考」を見て取ってしまう俺は、どこかの誰かからは気違いに見えるんだろうが、
なあ、日本はいつか、いつか変わらなきゃいけないんだぜ?
日本は琉球・アイヌ・大和連邦なんだ。
それは残念ながら、無視できないんだぜ?
「日本=大和」という考え方が、色んなところでちょこちょこ顔を出して、問題の答えを全く普遍性のないものにしている。
あいつらの頭の中で。

よう。
ヒューマニズムで行こうぜ。
フェアで行こうぜ。

まあ見てくれ。
ハジチは美しいだろ?

コメント(73)

>30 ウルズさん

>私のスタンスについて
私は、社会や常識やルールについて語っています。
それは個人の経験によらず、普遍的に考えなければいけません。
ですから、私に入墨があるかどうかは、この話には全く関係がありません。
また、もしもあなたが比喩がいけないと考えているのであれば、
それは世界中の人間の常識に反しています。
比喩は、個人の経験には全く関係がありません。
よって、私のスタンスを云々するあなたは間違っています。
あなたが私を嫌いになるのは自由ですが、それは論理的ではありません。

>私の表現について
私の表現手法がイケてないと思うなら、それは自由です。
ただ、私は、自分の表現は、あなたよりはイケてると思っています。

>浮世絵、タトゥー、泡盛などについて
私にも言いたいことはたくさんありますが、
それはキリがないのでやめておきます。
ただ、あなたが私に対して、「この人は自分より勉強してるかもしれない」という可能性を考慮せず、
自分の知識で、簡単に私のことを「知識不足・リサーチ不足」と断定したことは残念だと思っています。


加えて、私からあなたへ、あなたの議論に対する姿勢について、注意があります。
あなたが何かを読んでいて、疑問に思うことはいい。
それが間違いだと思うことも自由です。
しかし、人の話に反論を加えるときには、普遍的なルールがあります。
あなたは以下の2つのルールが理解できていません。
せっかくなので覚えてください。
1、議論では自分の考え・立場を明確にすることが必要である
2、議論では常に、疑惑を持った側に証明責任がある
この2つです。

1の理由は、あなたの考えが分からないと、論点が整理できず、議論が成立しないからです。
2の理由は、疑惑は無尽蔵に生み出すことができるが、その疑惑が存在できないことを証明するには多大な労力を必要とするからです。

今後、誰かの話に反論する場合は、少なくとも、この2点を思い出してください。
この2つを守らないことは、多くの人にとって迷惑ですから。
>35

共通した部分があるからこそ、それは社会的なルール(道徳)としても機能しています。
私たちの社会では、僧侶の仕事着はだいたい袈裟だ。
銀行員はだいたいスーツ姿をしている。
多くの人が葬式では喪服を着ている。
これは常識として、ルール的に機能している。
しかし、海外ではそうではない場合もある。
これは「社会」というものに対する認識が、それぞれの経験(環境)によって違うことを意味します。

>つまり、育った経験(環境)によって、「社会」への認識は変わります。

制服とルールは違う。
制服はルールを守るためのツールであり個人を無くすためのツールにしか過ぎない。
特に喪に服しているという場合は状況であり、それを打ち破った人物は世界中を探しても織田信長くらいしか思いつきませんが?

>私は、『「若者のタトゥー文化」を老人が批判する』という図式

必ずしもそうなのだろうか???
と考えませんでしたか?それを根底としているというならわかりますが、突発的に議題に上げられるのはおかしいと思いますよ。

>●他者の経験を考慮し、
>●その判断がどれだけの広さの「社会」に適用できるのか、
を意識することが、とても大切なことだと思います。

私自身のハジチを復活させようという経験の話を無視して他者の経験を考慮するわけですね。
都合のいい解釈されたと受け取ってよろしいですか?
とこういう判断をとらざるを得ませんよ?

>33
>34にてリサーチ不足とおっしゃったので追窮します。
>育った地域によっても違うし(沖縄のハジチだけでなく、刺青だらけの漁師町もあるかもしれません)、
職業によっても違います。

実際ありました。
沖縄の糸満ではなく、安全な針入れ且つ衛生的な刺青を打つ町があり、今でもその書物は残っております。
ちなみに徳之島などの関西より西の方が多いという形になりますが、実質的にそういう漁師町が存在しておりました。
リサーチ不足というのはハジチにこだわった話の展開をした事こそが問題でしょうね。
世界的な〜と仰るなら最初からタイとかインドネシア、ポリネシア諸島、ハワイ諸島での違い、シャーマニズムの伝承の話も交えるべきでした。
最低限それをすることが話の筋として通ります。

>あなたが私に対して、「この人は自分より勉強してるかもしれない」という可能性を考慮せず、
自分の知識で、簡単に私のことを「知識不足・リサーチ不足」と断定したことは残念だと思っています。

特にどう思ってるとかはありませんが、基本的に話べただとは思いますが、個人批判はしないスタンスですけどね。
基本的に議題に対して突っ込んでいるだけです。

>1、議論では自分の考え・立場を明確にすることが必要である
>2、議論では常に、疑惑を持った側に証明責任がある

しつこいようですが、ソースを提示しろと言われても最低限は提示しているはずですが?
こちらも商売がらみで提示が難しいのは話さないし、無駄な論議だと思ったらすぐに手を引いてます。
しかし、おじーの又聞きをソースとするなら単なる噂話やゴシップもソースになるのではないでしょうか?

>31

おそくなりましたが、失礼。

>彫る意思も無い人がまともそうなことを話をしているんだけど、信じられるのだろうか?
と考えてしまうわけです。

こういう考えだと当事者以外は何も語るなってことになりませんか?


最終的には知らぬが仏という事ですよね。
そもそもボディーペイントやデコレーションというのも考え方によってはメタモルフォーゼ(違うものへの変身)する意味合いではタトゥーと同義と捉えていいと思いますよ。
日本というのはそういう進化を促してきたことも事実なのだと個人的には思っております。
やらない人の意見ほど不毛と言うのは、技術を進展させたりあるいは促す力を持っていないからです。

「私はこう思うんだ!だからいつかAという事象を証明したい!」あるいは「私は将来これをやりたいんだ!」

という言葉を叫ぶ人がいたとして、どう言葉を投げかけるのか、どういうアクションを起こしたいと思うのかじゃないでしょうか?

「だから自身で実験を積み重ねてAという事象を証明する。どれくらいかかるかはわからない。」

「だから誰か実験台になってくれよ!Aという事象を証明する礎になってくれ!」

あるいは、

「私は将来これをやりたい!だから勉強や修行をがんばろうと思う!」

「私は将来これをやりたい!だから今は寝て待つ!」

さて、どちらに投資をしたいですか?
という問いかけに似ているんだと思います。

当事者以外は何も語るな。。。まぁ、結論からするとその通りでしょうね。
しかし、問題に対して突っ込む事というのは基本的に当事者にならなければなりませんよね?

最後にプロファイリングの第一人者であるロバート・K・レスラー氏が言った言葉で今回の議題のスタンスというのが非常に重要と取れる一説を送ります。

犯罪者を追い詰める優秀なブレーンは常に犯罪者と同じ立場に立たなければなりません。その壁を隔てるのは実行するかしないかの違いであり、根本的に犯罪心理学者と犯罪者の心理というのは根本的に一緒にならなければならない。
>ウルズさん

私に何をどうして欲しいのですか?
分かりません。

1、泡盛を飲む人が戦後減った
2、それによって、複数の酒造所が廃業した

私が出したこの2つの話が、そんなに嫌だったのですか?
でも、これはウソではありませんよ。
しかも、これは本論には関係がない、ただの例です。

上の1及び2がウソだと言うなら、
あなたが、ソースを示して、これがウソであることを証明する必要があります。
証明の義務は私にはありません。

しかも、私は、一応、岡本太郎の文章を引用して示しました。
本を開いて、該当箇所を探して、引用文を打つには、労力が必要です。
その労力をあなたの疑問のために使いました。
しかも、それ以上の労力をかけるのが正直面倒だったので書きませんでしたが、その他にも、私の知っている様々な事実が状況証拠として揃っています。
この状況証拠を合わせて示せば、1と2が事実であることは証明できると考えています。
しかし、あなたに対して自己弁護するために、
多大な労力を使って証明を作り、提出することは私の義務ではありません。
特にあなたのような方には、特別に気を配って論文を書かなければならない。
なぜ私がそんな面倒なことをしなければならないのですか?
私はあなたのために働かなければならないのですか?
本論と関係ない「例」のひとつが事実であることを示すために?

36では、泡盛以外にも、更に私が何か重大な事実誤認をしているかのように主張しているみたいですが、更に論点を増やし、その全てに私が答えるべきだと本当にあなたは思っているのですか?

私の方こそあなたに聞きたい。
答えてください。
あなたがこの質問に答えてくれれば、私も反論します。

質問です。

1、太平洋戦争後10〜20年の間、泡盛飲酒人口が戦前より減っていない証拠を示してください
2、戦後10〜20年の間、泡盛の酒蔵所が減らなかった証拠を示してください

あなたは私のことを「リサーチ不足・知識不足」と言った。
では、あなたが証明する必要があります。
まさか根拠もなく、こんなことを言ったのではないですよね?
根拠があるのですよね?
示してください。
きちんと私のウソ(無知)を証明してみせてください。

それに答えて頂けない限り、私はあなたの質問に答えるつもりはありません。
>38 E-nakajoさん

そのハジチの調査は面白いですね。
私の見た状況は、もう20年以上昔の風景です。
もしかすると、ハジチをしたお婆さんの人数は、私の予想より圧倒的に少ないかもしれないですね。
しかし、オバーのハジチを見て、それと似たような入墨を少女が入れているかもしれない。
今後、入れる人も出てくるかもしれない。
(実際、私の妻は、沖縄に帰ったら、ある人にハジチを入れてもらうつもりのようです)
私はそれを「反社会的である」とは思いません。
最近の若い女性の刺青も「反社会的である」とは思っていません。
私は、いかなる状況においても、刺青自体が「反社会的である」とは思いません。

私は、「入墨・刺青自体は反社会的とは言えないこと」を示すために、ゼロポストで
ハジチ、トライバル、そこらへんの頭の悪そうな少女が刺している入れ墨、等を並べました。
私自身、「バシチ」のみに、こんなに話題が集まるとは思ってもいませんでした。
あくまでも例のひとつだったからです。

実際に「ハジチ」というものが存在します。
そして、おそらく、ハジチの文化は、まだ死んでいないと思う。
(ここにもハジチ文化を再興しようとしている方がおられるみたいですし)
ですから、これは本論の例として、機能しています。
また、重大な事実誤認をしているとも思えません。

>沖縄の文化が日本全土で認められるべきとの趣旨の発言をする方が、全く持って不用意な発言です。
>現在の全島などお祭で行われる見せることに特化したといわれるエイサーの様子を擁護したつもりかもしれませんが、
>エイサーという旧盆の行事が死に絶えた事実は一切ありません。
>旧盆の村で行われるエイサーは上っ面な文化でしょうか?

すみませんが、何か誤解をしているようです。
「沖縄の文化が日本全土で認められるべき」とは思っていません。
ちょっと、どういうふうに受け取っていらっしゃるか、私には分かりませんが、私の経験を話します。

私は那覇市首里石嶺町で育ちました。
石嶺町では、町のお祭りのようなものは、少なくとも、私が15歳くらいまでは存在していませんでした。
(首里文化祭はあったけど…)
何年か前、地元に帰ったとき、地元の友人が祭りの話をしていました。
私「ぬーそーが? 石嶺に祭りなんかあったか?なかっただろ?」
友「最近また復活してるばーよ。オジーオバーの時代にはあったみたいで、その話聞きながら、また祭りを復活させようとしてるらしい」
私「やしが、エイサーも石嶺でやってたば?ゆくしだろ」
友「知らんけどやってたあんに?いいやし。楽しいし」
こんな会話をしたことがある。
そして、私が育った期間には決して行われていなかった「昔ながら(と主張されている)の石嶺町のお祭り」を見ました。
皆に聞いたら、沖縄中、色んな町で、こんなふうに過去の祭りを復活しているという話を聞きました。
実際に町名を出して答えてくれた人もいましたが、すみません、私は町名までは覚えていません。
ああ、そういえば今帰仁村祭りもいったん途絶えていました。それも覚えています。私の母方の故郷です。
考えてみるに、20年ほど前には、コザのエイサー祭りが大きくなっていく中、
エイサーが一度途絶えたけれど、また復活させて頑張ってる部落がある、といったニュースも流れていました。

私は、石嶺のお祭りが上っ面だと思っていません。
今、祭りを復活させようと頑張っている人達を素敵だと思う。
そんな意味で「エイサーも、一度は死にかけた」という表現を使いました。
戦前はエイサーしてたけど、戦後はやめた部落は多かったようですよ?
それが戦後、時間をかけて、現在のような状況になっている。
私はそれを「上っ面だとは思わない」と言っているんです。
そしてもちろん、戦前・戦後にかけて、エイサーやその他大切な部落の祭りを守り継いできた方に、私は特別の敬意を持っています。

これは、「一度廃れた文化が復活してもそれは上っ面のもので意味がない」というウルズさんの主張に対して提出した話です。
私は終始、「上っ面ではない」と言っているんです。
もう滅茶苦茶なんだけど。

論議をするも何も、
>しかし、あなたに対して自己弁護するために、
多大な労力を使って証明を作り、提出することは私の義務ではありません。
特にあなたのような方には、特別に気を配って論文を書かなければならない。
なぜ私がそんな面倒なことをしなければならないのですか?
私はあなたのために働かなければならないのですか?
本論と関係ない「例」のひとつが事実であることを示すために?

そもそも自己弁護と書いた時点で自分が間違ってますという証明に直結しました。
積み手です。
ちなみに、論文を書く必要はまったくありません。
無理に論文を書くよりも話し言葉でネットに書き込み、意見討論を行った後で論文を書くのが書きやすくなります。
本末転倒していませんか?

1、泡盛を飲む人が戦後減った
2、それによって、複数の酒造所が廃業した

1、太平洋戦争後10〜20年の間、泡盛飲酒人口が戦前より減っていない証拠を示してください
2、戦後10〜20年の間、泡盛の酒蔵所が減らなかった証拠を示してください

両方の質問に対して矛盾点が存在しています。
結論としてスターさんは過去の遺物のような人なんだと自ら言ってます。過去の人たちが老人を批判するというのは何かのブラックジョークですか?
冗談めかしくいっているわけではなく、真面目に咬まして言いますが、現在を生きる人の考え方は出来ないと思想が証明していませんか?

泡盛製造業者一覧
http://homepage1.nifty.com/takeishi/okinawa/awamori/index1.html

ハジチ資料その1
http://homepage2.nifty.com/ryukyuko/html/syoseki-rekishi,minzoku2.htm

徳之島のハジチ
http://www16.ocn.ne.jp/~shiokaze/osamu6.html

資料としても当たり障りの無い程度ですけどね。
ちなみに製造業者に関しては、先日も話したとおり一族経営です。
株式や有限会社化して会社を守るつもりが無ければ、戦後だろうと戦前だろうと現在だろうと生き残ることが出来ないのは当たり前の話です。
あ、それより以前の琉球王朝時代の話だったのでしょうか?
ついでに
http://www.okinawa-awamori.or.jp/history/09.html

泡盛の消費量で検索したらいろいろと出てきましたが、簡潔に書いてあるサイトです。
04年からは下がり続けています。ガチで。

ごめん、シキナ酒造でした。
140年もの、120年物はこちらが保管しているということです。
http://www.e-awamori.co.jp/enc/makers.php?gid=3

新聞は当てにならないという証明にこれでなりましたね?
>ウルズさん

1、泡盛を飲む人が戦後減った
2、それによって、複数の酒造所が廃業した

これは私の意見。
あなたはそれをウソ・無知だと言うのですから、
それならば↓を証明しなければなりません。

1、太平洋戦争後10〜20年の間、泡盛飲酒人口が戦前より減っていない証拠を示してください
2、戦後10〜20年の間、泡盛の酒蔵所が減らなかった証拠を示してください

あなたが41、42で示したリンクは、その証明になっていません。
>ウルズさん

ていうか、ちょっと気になったので真面目に読んでみようかと思って見ていたら
あなたの示したリンクにも、私の主張と同様のことが書いているじゃないですか(笑)。
笑ってしまったじゃないですか!

>http://www.okinawa-awamori.or.jp/history/09.html
>泡盛の消費量で検索したらいろいろと出てきましたが、簡潔に書いてあるサイトです。
>04年からは下がり続けています。ガチで。

↑このあなたが示したリンクを読んでみてください。
あなたが示したリンクですよ。

「沖縄県内では1980年代にウイスキー全盛時代から泡盛時代へとの変遷を迎えていましたが〜」

という一文があります。

分かりますか?
沖縄では戦後、泡盛文化が廃れ、その代わりにウイスキー全盛時代が訪れました。
それが時を経て、また復活していったのです。



あなは11でこう言っています。
>仮に、民族的な部分を主張したとしてそれが認められたとしても、それは上っ面のみのものでありすぐに廃れてしまうのではないでしょうか?
>(中略)最近県内ではここ10年ほどから「県民は〜、県は〜」という主張が増えた気がします。
>民族的なコンプレックスは否定はしませんが、主張し続けると某半島の人たちのように全世界から嫌われることになるんだろうなぁと個人的には思います。

それに対して私はこう答えました。

>例えば、日本人は近年まで、浮世絵の価値に気付かず、危うくそれを捨て去ってしまう寸前まで行きました。
>(中略)それらは、海外の方からの指摘によって、その価値が再発見されました。
>(中略)沖縄もそうです。
>沖縄文化の多くが、一度死にかけました。
>ほんの20〜30年前は、泡盛を置いてる飲み屋すら少なかった。ジョニ黒が珍重されていた。
>泡盛製造会社の多くが潰れました。
>(中略)しかし彼らは泡盛を再発見した。
>それはコンプレックスから生まれたのではありません。
>むしろ、コンプレックスに気付き、無化し、すんなり、自然に、過去に回帰しただけです。

するとあなたはこう返した。

>スターさんがおっしゃるのなら潰れた会社があるのでしょう。
>銘柄や会社名は?
>差し支えなければその会社名や銘柄を書くべきではないでしょうか?
>泡盛文化に触れたのかもしれませんが、私自身少し酒造会社と関係もあったりしますが、ここ10年の間で急激な品質の改善と種類が増えておりますね?

私は「ほんの20〜30年前は、泡盛を置いてる飲み屋すら少なかった」と言ったのですが、
あなたは「ここ10年の間で急激な品質の改善と種類が増えております」と言っている。
あなたはここでこう主張しているのです
1、(潰れた泡盛製造会社があるなんて信じられないから)潰れた会社名を示せ
2、この10年増えている(だから、20〜30年前に減ったという事実は信じられない)
あなたの文脈だと、この1と2の意味としか理解できません。
この上記の1と2があなたの展開した主張です。
この1と2を補強するために、22では
>古酒は瑞穂酒造が120年物を保管しています
と言っています。

分かりますか?

上記を理解した上で、あなたが42で示したリンクを見てください。
「沖縄県内では1980年代にウイスキー全盛時代から泡盛時代へとの変遷を迎えていましたが〜」
と書いています。
1980年代までは泡盛は廃れて、ウイスキー全盛だったのです。
これは事実です。

ですからあなたがいくら頑張ったとしても
1、太平洋戦争後10〜20年の間、泡盛飲酒人口が戦前より減っていない証拠を示してください
2、戦後10〜20年の間、泡盛の酒蔵所が減らなかった証拠を示してください
この証明はできません。
そんな事実はないのですから。

つまり私のことを
>知識不足は否めないのでしょうが、それに対してもリサーチ不足であるなぁとは感じます
というのは間違っています。

さあ、どうします?
私に謝罪しますか?
それとも無視しますか?
あるいはまた、別の話に論点を移しますか?
まあ、もうなんでもいいです。

しかし、本当に笑ってしまったじゃないですか!
面白かったので、私はもう怒っていません。
おやすみなさい。
〉44

だから貴方は過去の遺物なんだ。

80年代と90年代とでは違うよ状況がね。
しかも90年代と00年代とでも全く状況が違う。

中身が無いのは、常に結果論しか見ていなくて、途中経過や企業努力への着眼を全くしていないじゃないですか。

注釈してしただいた部分の「04年からは〜」という記述に目を向ける事もないわけですか?

〉45

あ、やはり各メーカーによって主張がまばらなのは仕方無いですね…。
ありがとうございます。
>ウルズさん

あなたは何も分かっていません。
過去の遺物?
何が言いたいのか、全く分かりません。

沖縄の泡盛が歩んできた歴史を知ることが、沖縄を知るということです。
なぜ、泡盛は飲まれなくなったのか。
なぜ、泡盛はまた飲まれるようになったのか。
泡盛文化から、見えてくることがたくさんあります。
一度廃れた文化を再興するために、業界関係者がどんなに努力してきたか。
一度廃れた文化を再興するのが、どんなに大変なことなのか。
それを知ることは、ハジチの未来を考える上でも、大きな示唆を与えてくれます。

>古酒は瑞穂酒造が120年物を保管しています。
>断じて違います。

↑あなたはこう言った。
しかしもし、古酒がずっと作られ続けてきたと思っているなら、それは間違いです。
あなたが泡盛業界に関係があるなら、ぜひ知っておくべきです。
関係者がどんなに苦労してきたかを。

いいですか?
120年前は戦後ではありません。

戦後、長い間、沖縄では古酒は仕込まれませんでした。
だから100年以上前の古酒はあっても、55年モノ、60年モノ、65年モノの古酒はありません。
もしあったとしても、それは本物の古酒ではありません。
55年モノ、60年モノ、65年モノの古酒があったとしたら、それはニセモノです。

泡盛を古酒にするためには琉球南蛮甕の荒焼の甕に保存しなければなりません。
荒焼の土に含まれている鉄分・カルシウム・マンガン等の金属成分が甕から溶けだして触媒作用し、泡盛の熟成を促進させるのです。
また、荒焼の甕でないと、泡盛が呼吸できず、熟成が進みません。
だから「本物の古酒」を造るためには、まず琉球南蛮甕の荒焼の甕が必要です。

しかし、戦後長い間、荒焼きの甕が作られることも、新たに古酒が仕込まれることもありませんでした。
だから55年モノ、60年モノ、65年モノの古酒はないのです。
当時、そもそも荒焼の甕がなかったからです。

荒焼は、専用の窯で焼かなければ荒焼になりません。
戦前には壺屋にその専用の窯(荒焼窯)は40基を超えたといいますが、
戦後はそれがわずか2基になります。38基が、失われました。
※現在残っている当時の荒焼窯は南窯(ふぇーぬかま)のみ。現在ではガス窯などで荒焼を再現するのが主流のようです
酒造用に荒焼の甕が作られるようになったのは、近代の泡盛ブームの後と言われています。

ちなみに荒焼きについては、下記のリンクを探しておきました。
参考にどうぞ。
http://www.awamori.co.jp/kame.html

分かりましたか?
戦後、新たに古酒が仕込まれるようになったのは、近代泡盛ブーム以降なのです。
だから50年、60年を超えるような古酒は、唯一、識名酒造に伝えられた戦前の酒のみなのです。



ちなみに、私が新聞で見たという人は以下の記事に出てくる「おもろ」のマスターかもしれません。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-02-21_3764/
「おもろ」の話は見つけることができませんでしたが、しかし、この記事でも分かるように、
復帰後しばらくの間は、泡盛は不遇だったのです。
「各メーカーによって主張がまばら」ということもありません。
当時を知る人は誰もが泡盛の不遇時代について語っています。
そしてこの「おもろ」の遺志を継いだ土屋さんは、記事にもあるように、今、100年古酒を作ろうとしています。
土屋さんの泡盛百年古酒の取り組みは1997年から始まっていますが、
わずか15年ほど前の1997年の時点でも、この取り組みは大きな注目を集めました。
※http://www2.urizn.gr.jp/pages/kameire/1997/1997.P2.gif


泡盛に関して、業界関係者の尊敬すべき努力と、
それがあったからこそ、文化を再興することができた事実を
全く知ることもないまま、どうして泡盛の現在や未来を語ることができるのですか?

過去を学ぶ私が「過去の遺物」なら、私は言います。
過去の遺物にしか、現在を知ることはできないし、
過去の遺物にしか、見えない未来があります。


あなたは私の話を的外れな根拠で無知・ウソと決め付けますが、間違っています。
あなたの指摘は、他のものも、的外れなものばかりだと感じます。
だから、もし私の主張のどこかがウソと思うなら、
あなたが証拠を示し、私のウソを証明し、そして自分の意見を明らかにすることから始めてください。
おつかれさまでした。
>c a c a z さん

とても良いリンクですね。
泡盛の歴史が詳しく分かります。
戦後、ゴザの切れ端から麹を取り出した話なんか、感動的だと思いました。
ありがとうございました。
刺青や泡盛で文化を語ってるんですよね?

たとえば、私の地域で言うと「オトーリ」がありますが
「オトーリ」がこんなに頻繁に行われるようになったのは
1980年代ぐらいからと比較的新しい風習らしいです。

しかし、今日では「オトーリは文化・伝統」と言われるようになり
宮古島と言えば「オトーリ」的な感じになっていますよね。

オトーリが流行るきっかけとなったのは、「時代がバブルで裕福になってきたから」とか「泡盛の消費量を増やすために酒造メーカー側がかかわっている」とかも言われますが、どっちにしても流行ってしまい定着してしまいました。

でも、なかにはこのオトーリが嫌で島を離れる人間もいますし
オトーリがあるから島に帰らないって人間もいます。
オトーリを無くそうと言う運動までありますし・・・。

私個人としては、オトーリ自体に肯定も否定もしていません。

やはり、物事って色んな側面がありますし
全てをフェアにしようと言うのは難しいかもと考えます。

刺青においてもいろんな考え方や、スタンスがあっても良いと思いますが
現代社会においては、否定的な意見が多いのは仕方がない事かと思います。

これから先の社会で刺青やハジチが受け入れられてゆくのであれば
それは、時代の流れにマッチしたと考えればいいですし
そうしたければ、そう言う運動を活発的に行ってゆけばいいと思います。

それまでは、まぁ何を言われても目くじら立てず笑って流せるぐらいの気持ちのほうが楽かもしれませんね♪


長々とすみませんでした。

論外でしたらお許しください。





刺青=入れ墨=ハジチ

昔の人 女性は


奄美諸島(琉球)〜与那国島 
までハジチを入れてたね!

安室も入れてるね!

愛する人のために入れる

ハジチ


我が輩は


そう言う昔の文化は

良いと思いますね!

(b^-゜)
>50 たつひさん
オトーリは、昔から普通にみんながやっていたのだと思っていました。
知らなかったなあ。勉強になりました。
私はオトーリに参加したことが何度かありますが、
トイレに行くと言って逃げるテクニックを身に付けました(笑)。

ガスバーナーという宮古出身のバンドがあって、
そこのメンバーは、ちょくちょく私の店に食べに来るので、
今度来たらオトーリの話を詳しく聞いてみます。

>イレズミへの偏見
まあ、簡単に社会が変わるとは私も思っていませんが、
こうして発言し続けていくことには意味があると思っています。
あと、文章では私が怒ってるみたいに感じるかもしれませんが、
実際は、いつも笑顔の絶えないナイスガイなので大丈夫です^^

>52 マーキーさん
ハジチ、きれいですよね。
私は好きです。
こんなカッコイイ文化のある島が故郷でよかったと思っています。

>53 E-nakajoさん
ちょっと待ってください。
私は「死に絶えていた」と言っていないと思います。
気をつけて書いたんだけどなあ。
どこかに書いています?
「死にかけた」
と書いたと思っているんですが…
タイプミスがあったのかな?
もしあったとしたら、お詫びして訂正します。

しかし、石嶺の資料、よく見つけましたね。
面白い。
私が城北中学校の体育館の裏で隠れてタバコ吸ったり、
石嶺公民館の裏で隠れてタバコ吸ったり、
弁ヶ岳の森の影で恋人とキスしたりしていた間に、
しっかりと、エイサー文化は受け継がれ、伝えられてきたのですか…。
タバコ吸ったりバイク乗ったり恋愛したりしている駄目な私でしたから、
全然分からなかっただけなのかもしれないですね。
しかし、あんな小さな町で、どこでエイサーしてたんだろ?
細々と、どこかでやっていたのかもしれないですね。

いずれにせよ私は、エイサーが死に絶えたことがあるとは思っていないですよ。
けれど客観的に見て、昔のように行われなくなった(=死にかけた)時期があったと認識しているだけです。
泡盛も決して死に絶えたことはなかったです。
同じように、昔ながらの文化が一度廃れかけて、また復活した、というふうに認識しています。
生まれ育った者の実感として、そう感じているのです。
事実誤認なら、お詫びして訂正しますが、E-nakajoさんは、ずっと同じように盛んに受け継がれてきたという認識ですか?
私の認識がおかしいのかな?

うーん。
なぜ、「死にかけた」という表現を使ったかについては、ちょっと、別に文章書いてUPしますね。
またのちほど。
> スターさん

石嶺公民館とか、自治会の裏はいつの時代も隠れてタバコ吸ってる中学生がいるんですねww

自分も石嶺小・中、出身で小学校はスターさんの後輩になるんですが、中学の時だけ、ちょいちょいエイサーやってたんですが、石嶺には青年会が2つあって、石嶺伝統は「北翔」あと自分がやってたトコは「城東」で城東の方はまだ歴史が浅かったっと思います。
>SAMUELさん

ほほー。
聞いたことないわー。
しかし、今は盛んなのですねえ。
なんか、時代を感じます…。

私もオッサンになったんだなあ。
まあ、タバコ吸えるポイントは変わっていないようだけど(笑)。
私が「日本は変わるべきだ」と思うようになったのは最近です。
それまでは、ただ、スネていただけでした。
けれど、3年ほど前、このコミュである人に言われて、
それから3年ほど考えて、最近になって「変わるべきだ」と思うようになりました。

以前、私は沖縄の歴史についてのトピックを作りました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10400939&comm_id=27238&page=all
(※注意! とにかく長文なので、携帯からは開かない方がいいです)

このトピックの31〜33、35、37で、私は思兼さんという方とやり取りをしました。
そのやり取りの最後で、思兼さんはこう言いました。

>間違ってたら申し訳ないんですが、自分が思うにそれは、沖縄にとって「日本=ヤマト」であるのか「日本≠ヤマト」であるのか、という話に帰結していくのではないかと思います。
>自分は後者だと思っているのですが、前者だという国家観と現実はやはり根強い。
>ズルいようですが、自分はぶっちゃけ、その辺は曖昧にしてまず沖縄が日本の中で自己主張していけば、その結果として、日本という国はそのどちらであるのかが浮き彫りになってくると思っているんです。
>それが結局「日本≠ヤマト」という国づくりになっていくのかなとも思うわけです。
>つまり自分の話に繋がるのかなと。もちろん、逆に「日本=ヤマト」だったと日本を見限って、沖縄独立という選択肢も出てくるのかもしれません。
>でも、それはあくまで沖縄の選択なので、自分はあれこれいう立場にはないわけです。
>ただ、沖縄の異質性、尊厳というものをヤマトの側から尊重する立場でありたいと思っています。

日本が、日本人が、「我々は日本人である」という意識を持つようになったのは、
おそらく明治の頃だったのだと思います。
それまでは、それぞれがそれぞれの郷土を故郷だと思っていた。
それが、明治になって、ポンッと広がった。
例えば「我々は薩摩人である」から「我々は日本人である」になったわけです。
しかし、そこで私は、沖縄はどうだったのだろうと考えました。
琉球の時代に、貴族は別として、庶民は「我々は琉球人である」と思っていたでしょうか?
いや、たぶん思っていないだろうと思う。
「私は首里人である」とか「私は浦添人である」とか思っていたのだと思う。
つまり、「琉球」というアイデンティティーが生まれたのは、実は琉球がなくなってからなんじゃないかと私は思っているのです。
これは裏付ける資料も証拠もありません。
ただ、そう感じるのです。
そうでないと、あんなに達観した時代主義と、占領への従順さが説明できない。

沖縄が、本当の意味で沖縄としてのアイデンティティーが生まれてきたのは、
復帰前後の1960年代後半〜1980年代前半だったんじゃないかと思う。
そもそも、それまでは、一部を除いた多くの県民は、「民族性」とか「アイデンティティー」とか、
そんな面倒なことは、あまり考えていなかったのだと思う。

それが、ジワジワと、アイデンティティーが生まれてくる。
その契機のひとつが、岡本太郎や柳田國男や柳宗悦の指摘だったんじゃないかと思う。

そうして、アイデンティティーが確立されていく中で、かつての沖縄が持っていた「民族の文化」が浮かび上がった。
ああ、あれだ。
あれが「我々」なのだ。
あれが「沖縄」であり、我々の故郷なのだ。
きっと、沖縄県民は、そう思ったのだと思う。

まったく示唆的なことに、例えば11でウルズさんが言う。
>沖縄のためを考えるというコミュですが、最近県内ではここ10年ほどから「県民は〜、県は〜」という主張が増えた気がします。
>民族的なコンプレックスは否定はしませんが、主張し続けると某半島の人たちのように全世界から嫌われることになるんだろうなぁと個人的には思います。
そう。
そうなんです。
1980年頃から始まったアイデンティティー復興の気運は、今も盛り上がり続け、
まさにここ10年ほども、更に盛り上がっていくばかりだ。
実際にヤマトでは、一部でそれに対する嫌悪感が生まれている。

(つづく)
(つづき)

沖縄は今、かつて失われかけた文化を再度復興させることで、
自らのアイデンティティーを確立させようともがいているのだと思います。
それが1960年代後半から始まり、1980年代に本格化し、今も続いているのだと思っています。
だから私は「一度死にかけた文化がまた復活することには意味があるし、上っ面ではない」と言うのです。

沖縄は、いま、もがいている。
その「もがき」は、ついにヤマトをも巻き込もうとしている。
私個人の力は、本当に全くの微力ですが、私も、その歴史の中で、自分にできる仕事がしたいと思っています。
私は、沖縄が独立したら、ヤマトが可愛そうだと思う。
沖縄がヤマトに注文を付けるのは、沖縄のためになるのと同時に、ヤマトへの恩返しになると思う。
日本を変革して、その新しい日本の中で、お互いにアイデンティティーを持ったヤマトと沖縄として、
新しい歴史を始めることが、きっと、理想的なのだと思っています。
それはきっと日本全体の利益になる。

私は、入墨で騒ぐテレビや新聞を見ながら、そんなことを思ったのです。
沖縄の若い娘がハジチ入れてもいいじゃない。
それくらいの方が面白いじゃない。
沖縄は行けるところまで行けばいいじゃない。
もう、沖縄は、ひとつの民族としてのアイデンティティーを持ってもいいじゃない。
いつかそれがもっと広がって、日本というアイデンティティーに、アジアというアイデンティティーになれば、かっこいいじゃない。

エイサーの話で思い出しましたが、
私は17歳のときに、伊是名島で、伊是名祭りに参加しました。
本当に、とても素敵なお祭りで、痛く感動しました。
部落のウガンジュを、みんなで一斗缶をガンガンかき鳴らしながら、歌いながら、泡盛をガブ飲みしながら、廻りました。
100人以上はいた。
部落のオバサンたちが、ガブガブ酒をラッパ飲みしながら、歌っていた。
まったく熱狂的な興奮状態で、そのうちに、私も自分が何なのか分からなくなった。
なんとなく、神様を見た気がした。
真夜中の、街灯もない、真っ暗な部落から、満天の星空が見えました。

ウガンジュを廻った後に、部落の広場で、相撲大会がありました。
私も参加した。
すると対戦相手の高校生と組んだときに、耳元で「ナファンチューには負きららん!」と言われた。
なんだか、ずいぶん悲しくなった覚えがあります。

しょうがない。
分かるよ。
俺もお前の立場だったら言うかもしれん。
けど、そんなの、面白くないさあ。

相撲が終わったあと、私は海辺で1人泣きました。

なんだか、どうも、何を言いたいのか、自分でも分からなくなってきました(笑)。

沖縄は、たぶん、取り戻そうとしています。
私は、それでいいと思っています。
でも、たぶん、沖縄が取り戻そうとしているのは、本当は、大昔の日本そのものなのかもしれない、と思うのですよ。
ちょっと無茶苦茶な文章でしたが、私は、そんなことを考えているのです。
いや、取り戻そうとしているんじゃなくて、
過去に回帰しながら、新しい何かを生み出そうとしてるんだなきっと。

訂正しときます。
>60
うん。
みんな、ずいぶんいなくなってしまいましたねえ…。
>スター、c a c a z

あのぉ、まぁ、反論する側意見としてですけど。。。
まぁ、途中からこいつら人間として駄目だろうなぁとレッテルを勝手に貼らせていただいてますが。。。

お二人の話し方の特徴として単純に負けず嫌いなだけなんでしょうねぇ。
話してて気持ち悪いなぁとか、普通じゃないとか、ここはこうじゃないだろとか結構感じますが、まぁ、ストレートに言わないと伝わらないのは、おそらくウチナーンチュとしての悪い部分が前面に出ているんでしょうね。

・・・さて、途中からレッテルを貼った理由。
討論する相手にもならないという意味なんですが、反論する側が資料を提示したとき、自己弁護に回っちゃいかんね。
それ自体が人としての駄目さが上乗せされている事と、まぁ、男らしくない。
言ってることが二転も三転もしていると認めるなら構わないのですけれども、実社会において社会では絶対にやってはいけないことなのでは?

まぁ、完璧にディスカッション不足。お二人ともの経験不足が災いしております。

はい、冷静に引っ掻き回させていただきましたが、知識と経験だけが必ずしも大事ということではなく、見せ方も大事という証明が貴殿らの発言で証明されました!

以上。
ハジチかぁ。沖縄の文化を残していきたい、残さないといけない、って気持ちはわかる。んで、入れ墨に対する現代常識を考えると、やっぱりデメリットを考慮しないわけにはいかないわけで。



んでね、やっぱり何事も否定からじゃなくて、どうすれば認められるようになるのかっていう、前向きな話し合いができればすごく素敵なことなんじゃないかなーって思うんだよね。


いや、実際は難しいと思うんだよね。否定する材料なんてたくさんたくさんあるのよ。てかハジチを現代常識に浸透させうる肯定的材料の方が乏しい。cacazu氏も言ってたけれど、文化的側面と社会的側面の着眼点の差異は埋めがたい隔たりがあると思う。



んでね、文化的側面をシャウトしながら社会的側面でアプローチせなあかんっていう難しさというか、ジレンマというかね。


そこの例えで泡盛だったりエイサーであったり、実例を出してハジチのこれからの可能性を問題提起したスター氏の真意にさ、もうちょっと誰か乗っかってもいいんじゃないかなーと思うんだよね。いや、俺が乗れよって話かもしんないんだけどさ。スマホで議論トピック参戦てなかなか現実的じゃなくてさ。


泡盛の人はまぁちょっとアレだからどうでもいいんだけど、なんか、もうちょっとこう、なんていうのかね、「俺はこうしたらハジチは認められると思うぜ!!」 とかさ、「ハジチは認められない。何故ならこうだから、だからこの部分の話をしようぜ!!」 みたいな話ね。


ちなみに素人意見ですが、ネイルタトゥーとか、ウチナーT シャツのデザインとか、肌に入れるよりもハードルの低いファッションから文化的ファッションとして発信してみるのもアリあんじゃないかなーなんて思います。



ハジチ、いいですねー。亡くなった親戚のおばーもしていたので、肌に直接でなくても、何らかの形で現実に合わせた様式で残ると嬉しいですねー(^^)
> E-nakajoさん
私は、沖縄の伝統文化が過去に廃れていったことを指摘することには意味があると思っています。
実際に、文化が絶えることがないように頑張ってきた人がいることは承知していますし、その人達を傷つけることは私の本意ではありません。

しかし、現在の沖縄の伝統文化の状況や、未来の沖縄文化の在り方を考えるとき、沖縄の各種のユニークな伝統文化がどんな過去を辿ってきたのか、県民の伝統文化に対する態度や考え方がどのように変化していったのかを考えることは重要だと思うのです。


私が本論で伝えようとしているのは、沖縄の伝統文化が未来に伝えられていくことを含めた、沖縄のアイデンティティ確立が、日本全体にとってどのような意味を持つのかということです。

エイサーの例で言えば、エイサーが沖縄の各地でまた復興していくことに、どんな意味があるのか。
県民の中にも「なんでエイサー文化を守らないといけないの?」という意見はあるかもしれません。
私には、エイサーをなんで守らないといけないのか、明確には答えられません。
各論の答は分からない。
ただし、エイサーの復興が沖縄のアイデンティティ確立の流れに属するものであることは分かる。
そして、全体として、その沖縄のアイデンティティ確立の流れが将来、日本全体の利益になるはずだと考えているのです。
私はそのことを、このトピックで論証したいのですよ。
> 正統派異金児さん
ハジチ、かっこいいですよね。
という話はさて置いて。

私には、沖縄の伝統文化を未来に伝えて行きたい、という気持ちはあります。
しかし、私が考えているのは、そのことにいったいどんな意味があるのかということです。
ただ単に文化だから、素晴らしいから残していくべきだというのでは思考停止です。

何年か前、私はこのコミュニティーでウタキについて論争したことがあります。
そこであるシマンチュが
「ウタキなんか興味ない。ウタキなんかどうなってもいい」
と言いました。
私はそこで、考えこんでしまいました。


沖縄が文化を守ろうとしたり、復興しようとしたりすることの意味はどこにあるのでしょう?それはアイデンティティ確立なのか?
アイデンティティ確立なら誰がアイデンティティ確立を望むのか?
沖縄諸島の住民が民族意識を持つことは、そもそもいいことなのか?
あるいは他方には文化の復興は単に観光資源の開発としての意味しか持たないと考えている人もいる。
更には、沖縄の伝統文化など捨て去ってしまった方がいいと思っている人もいる。

私は、自分が沖縄の伝統文化の素晴らしさを語るとき、そこにどんな意味を、どんな未来を見ているのか、改めて深く考えさせられてしまいました。


何年か、考えました。
そして分かった。
まず1つは、沖縄が今まさに民族意識を確立しようとしているのは、客観的に見ても非常に確からしいこと。
大きな時代の流れが、沖縄が民族意識に目覚めるように動いていること。
これは止められない流れであること。
そして2つ目は、沖縄はその民族意識の確立の先に、3つほどの選択肢しか持たないこと。
沖縄はこの先、民族意識の高まりを抑え、文化復興を観光資源開発程度に留め、おとなしくするか、日本から離脱して独立することを目指すか、日本を変革するか、いずれかの選択肢くらいしか持っていないことです。
私は日本を変革する選択肢がベストだと結論しました。
それがより多くの利益になると思う。

私は以上のような思索から、入れ墨のニュースについて考えていました。
だから本論は日本の単一民族的思考を批判し、日本が変わるべきだと結論づけています。

ちょっと続きます。
さて。
私自身はハジチを美しいと思っています。
しかし、ハジチが美しいからと言って、ハジチを復興させるべきである、とまでは思っていません。
ハジチがまた生きた文化として取り戻されるかどうかは、
結局のところ、1人1人の県民の考え方によると思っています。
例えば今ここに県民の少女がいたとして、
その子がハジチを入れるかどうかは、慎重に考えるべきだと思う。
その女の子にとって、それが幸せであるかどうかが最も重要ですから。
私自身はハジチを差別する気持ちは一切ありませんが、
現在の世の中には入墨全般に対する不理解というものが厳然としてあります。
例えばハジチをした少女は大手都市銀行には入社できないでしょう。
このような状況を知った上でハジチの復興を叫ぶことは、私には、ちょっと出来ません。
それは、少し無責任な気がします。
様々な可能性を考慮した上で、本人が覚悟をもってハジチをいれるなら、
それは、もちろん応援したいと思っています。



私はゼロポストから今に至るまで、一度も「ハジチを復興すべき」とは言っていません。
ただ、社会がハジチをも許容するような方向へ変わっていくべきだと思っているのみです。
ある人は私が「ハジチを復興すべき」と言っていると勘違いして、
私のスタンスを批判しましたが、私はそんなことは最初から主張していません。

私は社会を変革すべきだと思っていますが、
そのためにハジチを入れたがる少女を利用したいとは思っていないのです。

沖縄県が、今後も新しい民族意識の確立に進んでいくのは歴史の必然です。
その中でハジチが見直されていくことも、大いに有り得ると思っています。
そんな沖縄の民族意識の確立の先に、私は「日本」という国の国家意識の変革があると思う。
そうでなければ、沖縄は日本から離脱しなければならなくなると思う。
日本は、国家意識変革のチャンスをそれで失ってしまうと思う。
それは、もったいない。
沖縄は民族意識を確立し、日本全体の国家意識の変革を目指すべきだと思う。
そこが、私の本論の基調となる思想であり、テーマです。

以上です。


ちなみに、66で言ったウタキの論争は
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10220203&comm_id=27238
これです。
そして私が、私の若いセンチメンタリズムが崩れたのが↑の41と42でした。
あのときはショックでしばらく動けなかったなあ。
もう、6年前のことなのか…。

当時は私は「琉球時代にはすでに沖縄には独自の民族意識があった」
という前提で話をしていましたが、現在では「沖縄の民族意識は1960年代後半から生まれた」と思っています。
それ以外は、考えていたことは、あんまり変わっていないようです。
当時の私はウタキへの信仰が失われつつあることを深く憂いていたようです。
若かったなあ…。

まあ、こんな議論なんかもあって、色々と考えて、
今日のような論調になっていたりする訳です。

しかし、本当に過去ログは皆さんにとっても勉強になると思いますよ。
私は、ずいぶん、このコミュニティーで学びました。
沖縄のアイデンティティー、スターさんの伝えたいことはとても理解できます。

私の話を引き合いに出して恐縮ですが、私はハジチではなく、伝統芸能の琉舞から沖縄のアイデンティティーを考え始めました。


スターさんの言いたいこと、伝えたいことというのは、琉舞を現在の社会的位置付けまで格式を高めた先人の想い、まさにそのものです。


今でこそ、芸大があり、タイムスや新報のバックアップがあり、じかたが育ち、重要無形文化財に指定され、人間国宝もいますが、琉舞も泡盛と同様に辛酸辛苦の時代がありました。


そこから、琉舞を伝承する、ためだけではなく、沖縄のアイデンティティーの確立を模索していく歴史を直に聞くことができました。


まぁ琉舞とハジチを全く同列に語ることはナンセンスですが、琉球文化に対する想いと、これからの沖縄へのアプローチの方法として、スターさんの意見はとても共感できました。


ただ、ハジチは琉舞と違って、格式を高く求めるよりも、若者への文化的ファッションとして裾野を広げる方が受け入れやすいのかなと


ハジチにしろ琉舞にしろある程度の社会基盤が整わないことには民族意識もクソもなんも主張できないだろうと、そう思うわけです
俺の日本語はボロボロだなぁ(笑)

やっぱりスマホで長文は無理ですね(´Д`)
相手の話を咀嚼できた、という内容と、それを踏まえての自分の意見、というのを文章にする作業がPC の何倍も労力でやってらんない(笑)


スターさんすげぇいいこと言ってんだけどなぁ
>正統派異金児さん

日本語ボロボロじゃないですよ(笑)。
琉球舞踊かあ・・・。
あれはなんか格式が高くて、ロックンロールな若者だった私は、
その昔は反発心しか湧かなかったんですが(笑)、
どうなんだろ、今見たら違うのかなあ・・。

私のつたない話が少しでも役に立ったようなら幸いです。
こちらこそありがとうございました。
橋下市長、また言っているみたいですね。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120514-00000385-yom-soci

橋下市長「組織として異常、免職も」入れ墨職員

読売新聞 5月14日(月)11時43分配信

 大阪市環境局の職員約3200人のうち約50人が、同局の調査に「入れ墨をしている」と回答したことを巡り、橋下徹市長は14日、市役所で報道陣に、「組織として異常だ。すぐ懲戒免職は難しいが、分限(免職)はあり得る」と述べ、人目に触れる部位に入れ墨をしている職員の分限免職を検討する考えを示した。

 大阪市では、橋下市長の指示で、全職員を対象に入れ墨の有無を調査中。橋下市長は、「(民間企業でも)大方は入れ墨を許していない、というのが僕の感覚。身分保障に甘えた公務員の世界だから、横行している」と指摘。「市民の目に触れる公の職員が入れ墨をして、市民サービスをやるというのはおかしい」と主張した。



民間企業の大半が入れ墨を許していないのは私も知っています。
しかしその常識(?)がなぜ公務員に適用されるべきなのかは分からない。
入れ墨をした人が市民サービスを行うことがなぜ「おかしい」のか分からない。
職務遂行上で問題がある場合は理解できますが、
入れ墨の有無が清掃局の職務遂行にどのように関係するのか?
もしも裁判になるならば、そこが争点になるでしょうね。
ちなみに私が働いていたリクルートでは、入れ墨をした人もいました(笑)。

まあ、私が問うているのは「日本の常識」なので、
大阪市のこの問題は直接は本論に関係ないです。
しかし、示唆的だとは思う。
入れ墨は、沖縄の文化とオジィから聞きましたよ!違うのかな?

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