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地震と予知と全国の異常報告コミュの大地震を体験された方々の生の声

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このトピは、大地震を経験された方々が経験談を語るトピです。雑談などは禁止です。

大地震とは、多くの死者が出た地震に限らせてもらいます(阪神淡路・新潟中越・奥尻大津波・スマトラなどなど)。

経験された方の生の声を聞くことで、震災をリアルにイメージすることが出来、防災意識が高まることで対策や行動などについても理解が深まるかと思います。

全国の大地震を体験された方がいましたら、ぜひこのトピに書き込んで欲しいと思います。 経験されたことや、困ったこと、対策や今でもやってることなどなど、みんなに知らせておきたい、知って欲しいことなどお綴り下さい。

当時の苦い経験を思い出したくない方もいらっしゃる中、震災の状況を詳細に描写してくれた方々には、深い敬意と感謝を申し上げずにはいられません。ありがとうございます。

コメント(63)

阪神を西宮で経験しました。震度7東端になりますが。私の地区でも死者や避難者が市内で2番多い地域でした。あまり知られてないですが小学校の体育館に1200人と校庭に80台の車でごったがえした記憶があります。
まさか自分の家の近くや知人が亡くなるなんて思わへんやん。
あの日から13年経って始めて慰霊祭に参加するようになりました。
いまできること。
それは、「生きる」
もうこれしかないと思います。
生きて伝える。
いろいろつらいことあるけど、1・17は改めて生きるって大切なことなんだと感じさせられる日です。

学校が明石の方だったので三宮の街中を平気で片道3時間頑張ってたけど、今おもえばマスクしとけばよかったなぁって思います。
当時、アスベストの怖さなんて知らなかったからなぁ。
中皮腫の恐ろしさが今になってわかってきたことに後悔してます。
みなさんの体験談を拝見していまして感じる事は 本当に襲われた時 どんな対応が出来るだろうかという恐怖です。

町を歩けば 頭上には電線が網の目のように存在し、自宅では電気・ガスを始め文明の利器に覆われた現実の生活。
交通手段、ライフライン、実際の日常生活など 不安がよぎります。
いつ起きてもおかしくないと言われる 東海大地震や東南海、南海大地震・・・
今できる事は?
阪神淡路被災者です。
自宅は明石より西だったので
あちこちひびは入りましたが、
ライフラインは無事でした。
会社が神戸の和田岬で、
震災の次の週から出勤でした。
JR須磨まで電車が開通したのです。
そこから片道1時間15分歩きました。
朝は良いですが、夜は信号も消えている
くらいなので、懐中電灯が要ります。
鞄はリュックになり、
地面はデコボコなので
靴はスニーカーです。

自転車で通勤していた部長が、
段差に気付かず転倒して
顎を骨折していました。
やはり自転車は整備された
道でこそ役に立ちますね。
会社のトイレは工業用水を
ひしゃくで汲み、流していました。
今センサー式のトイレが多いですが、
停電すればただの部屋です。
エレベーターは動かないので、
高層ビルは1階まで崩れかかった階段を
降りて用を足す。
寒い冬に辛かったです。

水道が復旧した時は、
そんなに水を流さなくていいのに!
と思ったものです。

ボランティアがおにぎりを
配ってくださったりしましたが
腐りかけのものもありました。
あれが夏ならもっと酷かったでしょう。
電化されオートマチックや自動制御など より便利になって行く生活の中で
一旦地震に襲われれば 全てが逆に不自由な物となるのですね。

水洗トイレでは水が流れず。
携帯電話は充電もままならなくなる。
中継基地に電気が通じなければ 電波そのものが止まってしまう可能性も・・・
ストーブも 温風ファンなどのタイプは石油は有っても役立たずで、
高層マンションやビルはエレベーターが返ってネックとなり

地震に備えては 如何にアナログ的な物を用意できるかが重要なのですね。
阪神大震災 小5の時に伊丹在住で震災を経験


恐怖をはじめて感じた年頃だったと思います



おやじがガラスまみれの中、裸足でかけつけ靴を持ってきてくれて、スムーズに避難できました。



その後、おばあちゃん家に安否を確認するため

車で向かう中、

信号機も壊れて声を掛け合い、

お互いが相手の気持ちを思いながら、道路をゆずりあうことを子供ながら学びました。



車の中での生活や、友人など仮設に何ヵ月も住んでるやつもいました。


地域住民で協力しあったおかげで、困難が続く毎日も乗り越えたことを覚えてます。


その時、生きることの大切さと助ける思いやりを学びました。



今回、自分は東京で小さな被害で住みましたがテレビで被災地を映像を見るたび

心が痛く、当時のことを思い出します。



今回の震災でなにができるかわからないですが、


節電など少しでも協力できればと思います。


震災経験者がもし少しでも見てるなら

はじめての大きな地震で不安な身のまわりの人や友人など気づかってあげてほしいです



お友達や大切な人もその気遣いで恐怖心が和らいだり安心して冷静な行動ができるし、

大切な人であれば、やってあげるべき思いやりだと思います


みなさん、ぜひ協力しあいましょう。
宮城県より。
ちょうど3月9日の夜にこの体験談を読んでなるほどと思っていたら翌々日に被災しました。

地震の時は仙台市内の友人宅にいました。9ヶ月の息子を抱いて、果てしない揺れにじっと耐えるしかありませんでした。

まるでぐるぐる回るような長い長い揺れの後、すぐに大きな余震が立て続けに起きるなか、タクシーに乗車して塩竈を目指しました。

通常30分ほどのみちのりが3時間半以上かかりました。

ラジオでは大津波警報を告げていました。
塩竈は海の近く、そんな中タクシーを走らせてくれた運転手さんに感謝します。

津波の際には車で逃げるのは危険ですが、その時は実家の両親に会いたい一心でした。

途中、45号線扇町で車が動かなくなり、脇道に入りましたがすでに水道管が破裂、小さな用水路付近は遡って来た津波の後がありました。

なんとか田子〜新田〜岩切を経由して浮島から実家へ。

もちろん地震の最中から停電でした。真っ暗な中、ロウソクの灯りのもと、暖房無しで一夜を過ごしました。

今日やっと水道が復旧、ライフラインは整いましたが、余震は終わりそうにありません。

必要なものは
懐中電灯・乾電池・ラップ・ビニール袋・お米・カセットコンロ・燃料・ウェットティッシュ・チョコレート(飴やコンデンスミルク)・ラジオなどです。
あと、現金。

うちはプロパンガスなので次の日から温かい食事が取れましたが、オール電化の場合はカセットコンロ、都市ガスの場合はホットプレートなど必要かと思います。

この地震を経験して、ガラス製品は極力家から撤去しようと思いました。

落ち着くまで実家にいて、東京に戻ったら家の無駄なものや危ないものの片付けを真っ先にしようと思います。

この書き込みの間にも2回余震が…げっそりげっそりげっそり
タンスや食器棚などが動いたりしないように金具で壁やタンス同士を留めておくと倒れるのが防げますよ。
100均の地震対策の金具でも十分にもちました。
上は軽いものを置き下には重いものにしておくだけでも落下物の被害を防げます。
青ビニールシートを用意しておくと屋根瓦が破損したときに雨漏りから防ぐことができます。

ガラス戸には紙を4つ折りか8つ折りにしたものを挟んでおくと揺れにやって割れるのを防ぐことができます。

以上ですが、ガラクタは捨てておくと後片付けが楽にすみます。
今回の大震災で危うく死にかけました。まず地震そのものが異常…一度止まりかけて再び揺れ出し、合計六分にも及ぶ揺れ、その時点で普通じゃないと気付くべきでした。家は川沿いですが海からは遠い、気がつけば黒い濁流と共に下流にあった釣り船がミサイルのように…

家の屋根に上がり難を逃れましたが場所が少し違えば間違いなく助かる事はなかったでしょう。
3月11日に福島県で地震にあい、現在千葉県に避難中です。

地震当日、職場の老人ホームにて勤務中でした。

いつもなら、家の食器棚のガラス戸を開けっ放しの私ですがその日は、全部閉めてました。
おかげさまで食器類は棚の中では割れていても外には飛び出していませんでした。
あとは、電気照明特に蛍光灯の下は危ないと改めて感じました。
最初の大きな揺れが少し落ち着いた時に、近くにいた利用者の真上に吊り下げタイプの蛍光灯があったので移動した瞬間また大きな揺れ。
同時に蛍光灯が落ちて来ました。
揺れながらも、急いで利用者と外へ避難しました。
阪神の時から余震には敏感です

たまに小さな揺れもキャッチします
昨日の余震関西にもきました
あの余震は揺れてるなでテレビつけたら
まさにニュースしてました
震度1でも観測出来そうです

阪神の時は前晩に淡路島いました
私が学校あるからと帰ってきたのが不幸中の幸い

あの時
学校休みたいと強く念じたからかなって…顔(げっそり)未だに考え込む私ですげっそり
3.11は松島の職場に居ました。
あまりの揺れに立つ事も出来ず,色んな棚やらプリンターやらがバタバタと倒れてきて,怖すぎて地震がおさまる頃には気付いたら泣いてしまってました泣き顔

すぐに津波警報が鳴っていたのですが,
大量の顧客情報を扱って居る仕事なので,
それらを持って避難するかどうか,マニュアルにある避難時の持ち出す書類項目を職員同士で確認し,話し合って居たら,

局長が一刀両断衝撃

そんなもの持たなくて良いから,早く逃げろ逃げろexclamation ×2

と言ってくれたので,

ひたすらに内陸に向かって局長の車(セダン)に乗せられて逃げましたわーい(嬉しい顔)

海に近い他の支店の人たちは数十人亡くなりました涙

被災時の持ち出し項目なんか見てる場合じゃなかったんだなと改めて感じてます。

松島も他の地域と同じくらい津波被害に遭っていたら,
局長の一刀両断がなければうちらはみんな死んで居たと思います失恋
時と場合によってはマニュアル通りにしなくても良い時があるんだと初めて知りました冷や汗あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)

その,時と場合を見極めるのは難しいけど,命より大事なものはないなと思いました。


また被災して,電車が動かなくなって,しばらく帰れなかったのですが,水と歯ブラシは持ち歩くべきだと思いました冷や汗
被災して食料が少ししかないのに虫歯とか歯ぐきが痛くなって食べれなくなるとか大変だと思います冷や汗
口が爽やかになっただけで,気分転換にもなりますからわーい(嬉しい顔)水がなくても歯ぐきをマッサージする事も大事ですわーい(嬉しい顔)
歯ブラシはずっと持ち歩くべきだと思いますわーい(嬉しい顔)

あと,被災してから最初の3日間だけは食料を手に入れることがとても難しかったので,
家には常に最低3日分は食料,水を備蓄しておくべきだと思いましたわーい(嬉しい顔)
もう15年以上前になりますがグアムに家族で旅行に行った時にM8.3の地震に遭遇しました。当時私は高校一年生でした。

グアムについて2日目の夕方、海辺にあるBBQの店に行きました。そして座った瞬間隣に座った従妹が貧乏揺すりをしてるんだと思って注意しようとした時でした。

大きな音と大きな揺れ。もはや椅子に座ってもいられないくらいの揺れでした。
そうなんです…
貧乏揺すりではなく、小さな縦揺れから始まった大地震でした。

色んなものが落ちる音…。
すぐ後ろにあるホテルのプールの水は大きな波を立てるようにバシャンバシャンと右へ左へ溢れていました。

BBQのお店の人は柱にしがみついていました。


もう何が起こったのか、何が何だか分からなかったけど恐怖を感じました。見えてる全てが地獄の様でしたから…。

揺れが止まり、とりあえずすぐそばのホテルへ非難しました。海辺だった事もあり津波が心配されました。

ホテルの配慮で地下に食べ物を用意したとのお知らせがありましたが津波の心配がある中、地下に行くなんて考えなれなくて私たち家族は下には行きませんでした。

夜になる前に自分たちの宿泊しているホテルに戻るべくバスが出るとの事だったのでそれに乗ってホテルへ戻りました。

ロビーではたくさんの人達が集まっていた。ホテル側から毛布を一枚と500mlの水を配給されました。

部屋は6階で父と母だけが荷物を取りに階段で一度戻りましたがトイレは逆流し、TVは落ちてベッドもグチャグチャに動いていたそうです。

余震のある中ほとんどの人達が寄り添うようにロビーで寝ました。靴は絶対脱いではいけないと両親から強く言われました。また大きな余震があったら夜中でもすぐに逃げれる様にです。

だから靴を履いたまま皆で寝ました。

断水が一番困りましたね。トイレはみんな溜めっぱなしですし、手も洗えない。真夏の8月です。

外国のため、情報は何も入らず一体震度いくつだったのか、被害はどれくらいだったのか、何も分からずただただ大きな地震があったとだけしか分からなかったのが不安で仕方ありませんでした。


無事に日本に戻ったのは地震から3日後。

シャワーを浴びれた事が一番嬉しかった。手を洗えたのが嬉しかった。歯を磨けたのが嬉しかった。


水の大切さをこれでもかと言うくらい知りました。
東日本大震災のとき、宮城で被災しました。
もう震災から一年以上が経ちましたね。

あの日私は家族と家にいて、お茶を飲もうとしていたところでした。お茶が熱いので冷めてから飲もうとソファに寄りかかっていたとき、小さく揺れ始め、また地震か・・と思った数秒後、テレビの画面の下の方に緊急地震速報とテロップが出され、携帯からも地震速報のアラームがなり、揺れは急に大きくなっていきました。

私達はただ大きくてずっと続く揺れの中、寄り添って座っているしか出来ませんでした。
テレビは勝手に消え、食器棚からは食器が飛び出し床に落ちてガシャンガシャンと大きな音を立てて、あちこちから物が落ちる音がしました。
揺れが収まる頃には悲惨な状態。ガラスが飛び散り、物が散乱していました。

その後はすぐに、『これは水が止まるな』と思い、お風呂や空いたペットボトルに水を貯めたので、これがだいぶ便利でした。
私がこの行動を出来たのは、宮城県で数年前に配られた地震に備えるための冊子が好きでよく読んでいたからでした。
その日から約1ヶ月は急な余震に備え、懐中電灯とスリッパを寝るときに近くに置いて寝ました。

次の日から大変だったのは食料です。
お店は大行列。でもお店の方も無料で配って下さったり、とてもありがたかったです。

水も電気も無いので、カセットコンロが役に立ちました。ただし使うときは地震でガス漏れしていないかどうか確認をしてからです。
お皿は洗えないのでお皿にラップをしくと良いですが、熱いものだとラップが溶けてしまったりしました。その場合はお皿にコピー用紙をろうとのような形に折って入れると良いです。

今、復興したというより、やっと片付いてきたという程度です。津波がきたところなんかは地平線が見えるほど何もありません。
そして、田のあったところはまだ海水が溜まってあり、本当にひどい震災だったと実感します。
今でも道路の電光掲示板には「相馬以南通行禁止」と書かれています。これは原発のせいですが‥。

東海・東南海やアウターライズ地震などこれからも地震には備えなければいけないです。
3.11ですが、自分は夜勤のため寝ていたらガタガタと揺れ初め次第に揺れが大きくなるなか、飛び起きてテレビを押さえながら柱にしがみつき耐えている最中台所では食器が割れる音、棚から物が落ちる音、ベランダの下が駐車場なのですが車が心配になりベランダに見に行くと車の直ぐ横にあるブロック塀は見たときも無いくらいに波打ってました。
その最中に停電になり2日位続きました。

勿論断水です。浄水場の配水管の根元が破壊されて1ヶ月ほど断水が続きました。

その間は実家の近所が井戸水を汲み上げてるのでその水を使い風呂、洗濯、食器洗い等をしていました。

今は殆んど復旧して街は綺麗になっていますがまだ自分の見えない場所では進んでいない場所も有るのかなと、又、
東北程では無いですが一被災地として報道等をされなかったことを遺憾に思います。

今回の震災では、御近所付き合いは大切だなと、都市ガスよりプロパンの方が震災では強みだなと強く思いました。

それからは飲み水は3〜4ケースは常に確保してあり、カセットコンロや電気を使わない石油ストーブ、懐中電灯を揃えました。

>>[23] 凄い体験ですね。きっと守られているんですね。

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