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島津義久(島津家留守居役)コミュの最近の島津義久関連

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一番の大きな動きといえば桐野作人氏の
「島津義久」(PHP文庫)発刊でしょう。
これまで義久関連の本といえば筑波本「島津義久」
か、「大将・島津義久の苦渋」でしたが、かたや
とうの昔に絶版、かたや入手困難と認知度はほぼゼロ。
あちこちのブログを見ると、評判はさほど悪くはないよう
ですね。

コメント(64)

ジュラムさん>>
史実でも一度は義弘に家督委譲を示唆していますね。
(「伊勢守日記」にも記述あります)。桐野作人さんも
その事を書かれていますが、秀吉の九州平定その他のド
タバタで流れてしまった経緯があるのと、義弘派閥の人々
から見れば「嫡子がいない義久の後継者は当然義弘様!」
という気持ちはあったのでしょう。
伊集院忠棟の下りはいろいろな妄想ができそうですね。
伊集院の島津家当主への野望と見るか(時々言われますが)、
そこに付け入った秀吉が敢えて伊集院忠棟を厚遇することで
島津家臣団に楔を打ち込んだとみるか、或いはお家騒動を避
けるために伊集院忠棟に支藩を作った、とみるか(可能性は
とても低いですが)。或いは・・・・
関ヶ原という天下分け目の戦というドサクサの為か、結局うやむやになってはいますが、逆に言うと、天下が動いている時に
ドサクサに紛れて事なきを得てしまう島津家の歴代の当主って
すごいなぁ・・と思います(笑)

カゴシマニアさん>>


今年は台風の当たり年でしたね^^;
史跡の多くは野外にあるので、土砂崩れや暴風による被害を
心配していたのですが、何もなかったようで、まずはひと安心
です。
吹上温泉には、天正2年(1574年)に島津義久が入浴されたと伝えられているそうです。
↓こちらのサイトに載っておりました↓
http://www.kagoshima-kankou.com/asiyu/spa/02.htm
情報源を確認してみたいと思いますが、難しそうですね^^;
天正2年に義久がとった行動の中では、
天正2年9月29、30日で薩摩春山や伊作、田布施後比良で狩をした(「伊勢守日記」)というあたりでしょうか。
某巨大掲示板にて、(島津義久公かもしれない)と
目される肖像画がアップされておりましたね。
鶴峯神社から見つかったもの、という割には光久公より
前の時代の肖像画、かつ、島津家当主であり、現存する
歴代当主の肖像画にあまり似ていないことから義久公の
名前が挙がったのでしょうが、これが本当なら嬉しい事^−^
明治時代に焼けてしまった木像さえ現存していれば比定
できたでしょうにね・・・(;_;)
で、こちらが問題の写真です。
いかがなものでしょうかねぇ^^;
 おはようございます。
 11月20日に長野県松代の「真田宝物館」へ行きました。
 そこの展示品(道具箱)を見ていたとき、日向国佐土原藩島津家より真田家に嫁いだ…(名前を忘れてしまった)とありました。江戸時代末期、第9代真田幸教の妻です。その時代は嫁入り道具として、衣類・化粧箱・絵巻などをしたためてくるのですが、その道具箱の家紋はまさしく、「丸に十文字」島津家の家紋でした。
 松代藩にも島津家ゆかりの方がいらっしゃったのですね。結構松代真田家も彦根藩井伊家や伊予伊達家から養子をもらったり、他藩との交流があったみたいですが、遠く今の宮崎県から嫁いだご婦人がいたとは、とても嬉しい限りです。
かわちゃんさん>>
はじめまして^^宜しくお願い致します。
真田宝物館は私も今年のGWに行ったのですが、夫人の嫁入り
道具の家紋には気づきませんでした^^;(汗)。
島津家も、20代目の綱久の奥さんが有名な吉良上野介の娘
だったり、黒田家に養子を送ったりといろいろあるようです。
もゅはくさん
こんばんは。ちょっと勘違いしていましたが、真田家に嫁いだ方の名前がわかりました。第10代真田幸民の第三夫人であられる真浄院輯子(しんじょういんおさこ)様です。明治30年ごろ幸民に嫁いできました。
黒塗りの箪笥には間違い無く、丸に十文字の島津家の家紋でした。輯子は薩摩第11代藩主島津斉彬公の異母兄弟久光の養女であらせられます。彼女の使っていた団扇に書かれた和歌は島津久光直筆です。
島津家も様々な大名と行き来があったんですね。12月なので季節的にも島津綱久公の奥様が吉良上野介の娘というのはある意味親近感が沸きます。
もゅはくさんは長野県にも来られる様ですね。上田は私の地元ですので是非寄ってください。
かわちゃんさん>>
お返事有難うございました^−^
長野県には史跡散策の関係でよく伺います。
上田や塩田平には素敵な史跡が多いので、
またお邪魔しようかと思います。
はじめまして。
こちらに加えさせて下さい。小生、桐野作人と申します。
島津義久や拙著のことが話題になったので、寄せてもらいました。
小生もmixiやってます。
でも、島津のかけらもないのですが、こちらのコミュニティに刺激されて、少し島津ネタを書こうかなと思っています。
近々、島津義弘を書く予定にしております。
今後ともよろしくお願いします。
ダンダンさん>>

なんと、ご本人様でいらっしゃいますか^0^)ノ
どうぞ今後とも宜しくお願い致します。
長い間島津義久公の小説を待ち望んでいた身としては
南日本新聞に「桐野さんが島津義久を主題とした小説を
執筆中」という記事が出て以来ずっと待ち望んでおりました^^。
「島津義久」執筆中に発見した面白いエピソードなぞござい
ましたらお聞かせ頂けましたら幸いです。

義弘公が主人公の小説、とても楽しみにしております。
あくまで個人的な願望ですが、「義久」では嫌な貴族と
して登場されていた近衛前久さんとの仲がだんだん良く
なっていくあたり(晩年では義弘さんと下ネタのやりとり
までしている仲にw)があると嬉しいかななんて思って
しまいます(笑)
チェスト関ヶ原豊久さん>>

豊久公の小説も見たいですね^^。
というか戦国島津一族で単行本を一冊づつ・・(オイ)

例:

シリーズ戦国島津一族
第9弾:島津忠長〜島津家の危機を2度救った男〜
チェスト関ヶ原豊久さん、もゅはくさん、はじめまして。

早速のご挨拶痛み入ります。

私、鹿児島県出身ですが、じつは伊作島津家の宿敵だった薩州島津家の地元である出水市の生まれです。

島津氏については歴史雑誌などにはよく書いたことがあったのですが、著作としては昨年の「島津義久」が初めてです。

10年ほど前、関ヶ原の退き口120キロ(義弘陣所跡から大坂城まで)を実際に踏破してみて、島津氏を書くのが自分の使命だなと感じた次第です。実現するには時間がかかりすぎましたけど(笑)。

踏破の途中で、豊久の最期の地である烏頭坂、そして瀕死の重傷を負った豊久がたどり着いて息絶えたという瑠璃光寺(だったかな?)にある豊久の墓も詣でました。
また、その近くに義弘の身代わりとなった長寿院盛淳の墓もあります。
豊久といえば、父中書家久を忘れてはなりませんね。私も折に触れて家久はすごいと雑誌などで書いてきましたが、だいぶ認知されてきたように思います。機も熟してきたので、来年くらいにはぜひ家久も書きたいです。豊久も組み入れたいですね。

拙著「島津義久」、じつは文庫本だったので軽い気持ちで引き受けたのですが、書き出したら中途半端には止められず、最終的に1200枚という大作になり、泣く泣く200枚以上削りました。削ったのは、主に大隅合戦部分。菱刈氏との戦いや、肝付・伊地知氏との戦いなどです。

そのほかのエピソード(というほどじゃないですけど)もまた書きますね。忠恒のことなど。

今後とも、みなさんといろいろ楽しいお話ができればと思います。質問や疑問などがありましたら、私の知る範囲でお答えしたいと思っています。
ではまた。
おお、桐野作人さんですか!
『島津義久』、楽しく拝見させて頂きました。
正直「やられたな〜」と思ってしまいました。
あの内容で島津前半の諸合戦を描くと大変なことになりそうですね。

島津の一族は皆魅力的ですね。
私も家久→豊久→忠恒(家久)の視点から島津家を描ければ面白いのではないか、と妄想していました。特に島津義弘を父に持ち、本来継ぐはずでなかった島津本家を継いだ忠恒は色々と描けそうです。

何分にもまだまだ修行中の身…。いろいろと貴重なお話など伺えれば、と思っております。よろしくお願いします。
ジュラムさん、こんにちは。桐野です。

コメント有難うございます。
そうですね。家久→豊久→忠恒(家久)の線は面白いです。
ただ、忠恒が若干異質な存在ではないかと。
拙著では忠恒は悪役でしたが、あくまで義久の視点から見た場合です。島津氏の状況を客観的に見たとき、義久の考えと忠恒の考えのどちらに妥当性があったかといえば、もしかしたら忠恒だったかもしれませんね。

義久は中央権力からより遠くにいて、大名の独立性を確保しようとしましたが、その分、家中統制は戦国大名的で大名権力が分散傾向にありました。
その状態のまま、江戸時代になったら、島津氏は改易された最上氏や伊達騒動が起きた仙台伊達氏のような運命をたどったかもしれません。
忠恒は一門や宿老の力をできるだけ削減して大名権力を確立させたともいえ、近世島津氏の基礎を築いたという見方もできるかもしれませんね。もっとも、その方法がかなり強引だったとは思いますが。

ジュラムさんも何かお書きになっているのでしょうか?
またお話ししましょう。
こんにちは。
育児をしているうち、すっかりご無沙汰してしまいました。

ダンダンさん、はじめまして。
夫に薦められて『島津義久』を読みました。
日本史はあまり好きではなかったのですが、
この本では島津一家が魅力的に描かれていて
どんどん読み進めることができました(^^)
ハネムーンで鹿児島に行ったのですが、
また行きたくなりました(笑)。
次回作も楽しみにしております〜。
塔子さん、こんばんは。ダンダンこと桐野です。

コメント有難うございます。
拙著を読了されたのですね。私のまわりの人間は十数頁で挫折したという人が多くて(笑)。薩摩の独特な地名や人名だけで、目が回るようだと言われました。それなのに、「魅力的」だというのは過分な褒め言葉で恐縮です。

ハネムーンは鹿児島でもどのような所に行かれたのでしょうか?

そういえば、取材中に撮った島津関係の写真があります。とくに観光地からはずれたものをいくつかアップしますね。

左は、塔子さんも興味を持たれた義久の長女於平のお墓です。義久の隠居城だった富隈城の近くにありました。

右は、義久の叔父で廻城の戦いで壮烈な討死を遂げた島津忠将の墓です。

これからも楽しくお話しできたらいいですね。
ダンダン様
はじめまして信州上田に住むかわちゃんと申します。どうぞよろしくお願いします。「島津義久」わたしも1月末までに500ページ全部読破しましたよ。何しろ鹿児島の戦国史を読むのは始めてでしたから、最初は結構名前を覚えるのと全体の流れをつかむのにだいぶ苦労しました。
沖田畷の戦いや島津の九州統一戦ぐらいから竜造寺隆信や高橋紹運、立花宗茂など他の大名との絡みが出てきて、スムーズに読み進みました。
島津方の武将でもっともすごい武将だと思うのは、川上忠堅です。沖田畷で竜造寺隆信を鑓の一突きで討ち取り、鷹取城の戦いでは筑紫晴門と相打ちの末討ち死にしましたね。彼は全国の武将の中でも個人武だったら5本の指に入るだろうと思います。
「ちぇすと島津」コミュの中で大河ドラマにするには桐野さんの「島津義久」はボリュームがありすぎて一般の人には難しいんじゃないかという大変失礼極まりないコメントを書いてしまいました。すみません。。。。。
鹿児島は真田幸村が島津家久公に助けられて退きも退いたりの伝説がある場所でもあるので、どうぞこれからもよろしくお願いします。
かわちゃんさん、おはようございます。ダンダンです。

拙著を読破されたとか。有難うございます。
やはり三州統一までが県外の方には難しいようですね。
祁答院とか飫肥、新納院高城、都於郡……何て読むの? とみな思いますよね。
あと、登場人物の多さと、同一人物の異なる名前。とくに義弘は史実に沿って5つも使い分けてしまいました(汗)。読者への負担が大きくなるはずです。申し訳ない。
少し言い訳させてもらえれば、改名にも背景があり、とくに政治的背景があることを知ってもらえたらと思ったからです。とくに義珍なんて、ほとんどの人が読めませんが、これも将軍足利義昭との関係と密接に関わっていることを強調したかったがためです。

拙著はボリュームがあるというのは本人も自覚しておりますので、妥当なご指摘です。お気になされませんように。

あと真田幸村伝承、豊臣秀頼を連れてきたという例のものですね。すでにご存じかもしれませんが、これについては、地元の郷土史家が秀頼の墓とされるものを詳しく調査して結論は出ております。
まあ、伝説を楽しむのはファンの自由ですしね。義経北行伝説や鎮西八郎為朝の伝説と同様ではないかと思っております。また、赤穂浪士の一人、寺坂吉右衛門の墓とされるものも鹿児島にはあります。
個人的には、宇喜多秀家の鹿児島隠棲が影響を与えたかもしれないと思っています。秀家は2年ほど隠れ住んでおりましたし、何と言っても豊家の御曹子ですからね。もっとも、秀家の隠棲地は大隅の敷根で、伝秀頼墓のある谷山とはだいぶ離れていますが。

私も信州上田は何度か行ったことがあります。上田城はいいお城ですね。大きな石垣があったのを覚えています。
また、歴史雑誌の取材で、真田家発祥の地と言われる松尾古城や真田本城にも行きました。戸石城にも登りました。長い馬場のような曲輪が印象的でした。そのときはずっと奥の温泉に泊まりましたが、近くに猿飛佐助が修行したという場所がありましたけど、何という温泉でしたかねえ?

またよろしくお願いします。

添付写真は義久の隠居城、富隈城の石垣です。加藤清正が送ったという大きな石もありました。桜島の眺望が最高でした。
ダンダンさん、おはようございます。
早速のお返事ありがとうございます。

於平さんの宝筐印塔、とても美しいですね。
貴重なお写真をありがとうございます。
ハネムーンでは、鹿児島市と国分市に行きました。
義久さんのお墓にお参りしてきました。
少し寂しい場所にあったのですが、
落ち着いた雰囲気でそれはそれでよかった気がします。
いろは歌の石碑(?)が飾られていたので、
町の人々に随分慕われているんだなぁと感じました。

かわちゃんさんへのコメントを拝見して、
義弘さんの呼称が何度も変わっていくので
そのたび、夫に『〜って誰だっけ?』と聞いていたのを
思い出しました(笑)。
おかげで呼称があまり変わらなかった歳久ファンになってしまいました(^^;

なんだかまた興味がわいてきたので読み返してみます♪
>塔子さん

またコメント有難うございます。
ハネムーン、国分に行かれたということは、舞鶴城に行かれたんですね。現在は観覧車がある山頂の山城跡にも行かれましたか?
じつをいうと、拙著の最後のほうで、病床の義久が舞鶴城から桜島を見るシーンがあるのですが、山頂からは見えるのですが、麓の館からは山があって見えません。つまり、その……フィクションなのです(汗)。
やはり改名が多いと、読む方も感情移入がしにくいというか、別人格と思ってしまうというか、逆効果ですね。今後の課題にします。ご意見有難うございました。

余談ですが、国分市は市町村合併により、昨年、霧島市と名称が変わりました。民謡「おはら節」にも唄われ、大隅国府と国分寺があったことを示す歴史的な地名だったのですが……。

拙著を読んで下さった方の感想で、歳久のファンになったとか、最期が悲しいけど立派だという声が多くありました。著者としてもうれしい限りです。
で、とっておきの写真を2点アップしておきます。
平松神社(旧心岳寺)にある歳久と家臣の墓は有名ですが、これはその後の歳久子孫の家となった日置島津家の菩提寺のほうの墓です。
左が、歳久。
右が、根城坂合戦で討死した養子の忠隣の墓です。
忠隣は於平の子です。ご存じかと思いますが、義久後に島津宗家となった忠恒(家久)の嫡男光久は義久と於平の血が入ってますね。

なお、日置島津家の墓所は現在、西郷隆文氏(西郷隆盛の曾孫で、島妻愛加那さんの系統)が守っておられます。

当日、雨で暗くてストロボ撮影になりました。
ジュラムさん、ダンダンさん、塔子さん、かわちゃんさん>>

コメント有難うございます。

於平さんの宝筐印塔は、私も鹿児島旅行の中で
行きそびれた史跡のひとつです(つ_;)
写真で伺う限りでは、福昌寺の島津家代々の墓
に用いられているものとだいぶ素材が違うよう
ですね。(石の材質自体は全くの素人で分からな
いのですが^^;)。
福昌寺の宝筐印塔に使われている材質は優雅な印
象を受けます。そして、彫刻も素晴らしく、江戸
時代になっても他の地方のように流行に流されず
に、火輪(笠の部分)が開いてしまわない典型的
な西国型の中世期宝筐印塔の形を保っている所が
好きです。
島津忠将公のお墓は地図を見ると、思いっきり山
の中にあるんですね。しかも層塔とはかなりレア
なものですね^^。

がーん・・・国分市は合併でなくなってしまった
のですか・・・・・・気がつきませんでした(ショック)
2004年の義久公入城400周年記念祭が行われた
後での合併でまだよかったですが(←オイ)、「市報
こくぶ」の歴史ページをいつも楽しみにしていた身と
してはとても残念です。そういえばしばらく見ていな
かった・・・・。
大隈国府跡は舞鶴城跡の近くに確か巨大な石造物が
あったように記憶しております。近所のママさんバ
レーの方に写真を撮ってもらった(笑)記憶を思い
出しました。
また国分といえば、尚古集成館が管理しなくなった
(というか所在不明扱いになっていました・・涙)、
妙蓮夫人のお墓に今もちゃんと墓守の方がいらしゃ
って自主的に管理をなさっているのに感動した思い出
があります。
そして、本日は島津義久公のお誕生日でした^^

☆★☆★☆★☆★473回目のばんざーい☆★☆★☆★☆★

天文2年の2月9日なので、西暦に直すと1533年3月4日
のようですが、細かいところはさておきましょう(汗)
>ダンダンさん
お返事ありがとうございます。
舞鶴城跡には残念ながら行きませんでした。。
観覧車なんてあるのですね。行けばよかった・・(^^;

日置島津家のお墓の写真、ありがとうございます!
立派なお墓ですね・・!
次の鹿児島旅行の際はぜひ行ってみたいと思います。

そういえば、薩摩言葉も印象的でした。
実際、こういう感じで会話がされていたのかなぁと
思うとどきどきします。
私は大分県人なので九州弁が好きなのかも(^^;

霧島市になっちゃったのですか・・。
全く存じ上げませんでした。
なんだか市町村合併でどんどん歴史的な土地名が消えていって
寂しくなりますね。。

またよろしくお願いします。

>もゅはくさん
お誕生日でしたかぁ。
おめでとうございます!
鹿児島の地では何かお祝いイベントがあるのでしょうか・・?
>もゅはくさん

宝篋印塔など墓石や石材にお詳しいですね。
福昌寺のお墓は全体的にクリーム色というか黄色みがかった石材が多かったように感じます。軟らかい泥岩系でしょうか。
それに比べて、於平の宝篋印塔は風化しているせいかもしれませんが、少しザラザラした砂岩系かなという気もします。
そういえば、前回アップした於平の墓の案内板も添付しておきます。写真をダブルクリックすると少し大きくなるので、説明文も見えるかも知れません(見えないときはごめんなさい)。

廻城の近くにある島津忠将の墓はたしかに入口が見つけにくいところですね。現在も当時の幹線だったと思われる日州街道が通っています。といっても、山道ですけどね。肝付勢はこの道から攻めてきたと思われます。忠将が入ろうとした馬立の陣跡も碑がありましたので、アップしておきますね。この陣跡の奥の高台に忠将の墓と、一緒に討死した家臣たちの陪塚があります。


>塔子さん

何度もお付き合いいただき有難うございます。
舞鶴城の山頂には行かれませんでしたか。ここは麓の館の詰の城(有事の籠城用)でして、曲輪や土塁などの跡が少し残っていますが、公園化されたため、だいぶ城址が破壊されています。
その公園の目玉が観覧車ですね。写真をアップしておきますね。今では市民の憩いの場になっております。

義久が海に近い平地の富隈から要害の舞鶴城に移った時期は、婿の忠恒(家久)との関係悪化と重なっていることから、想像をたくましくすれば、鹿児島方(忠恒)から攻められるという最悪のケースを想定してからかもしれません。
関ヶ原後の島津家はそれほど険悪でした。

拙著の鹿児島弁、地元の方が読んだら変かも知れません。本人もわかりやすいようにと、標準語にある程度妥協していますし、何よりだいぶ忘れております(笑)。郷里を出てからの方が人生長くなってしまったものでして。

塔子さんは大分ご出身なんですね。
島津家や義久が結局元の木阿弥になったのも豊後攻めがきっかけですもんね。何かと因縁があります。
豊後府内に攻め入った島津家久(義久の弟の方)が城下を焼いてしまったのが惜しまれます。とくにキリシタン関係の建築物は壮麗だったのではないかと思います。
私も大分は取材を含めて何度か行きました。大友宗麟の隠居城だった臼杵城とか、墓のある津久見。有名な戸次川合戦の地にも行き、討死した長宗我部信親の墓も詣でてきました。
そういえば、宗麟の息子吉統も、私の郷里の領主である薩州家の忠辰も、ともに朝鮮陣のとき、秀吉に改易されております。お仲間ですね(笑)。

考えてみれば、中学校の修学旅行が別府温泉でしたし、その後、湯布院や国東半島の磨崖仏も行きました。熊本から豊肥線で入ったこともあります(この鉄道好きです)。
本当にいい所ですよね。仕事とは無関係にまた行ってみたいものです。

ではまた。
ダンダン様
猿飛佐助が修行したと言われているのは真田町にある角間温泉です。真田本城にも行かれているんですか。そこから見下ろす真田町の里はいい景色です。真田一族のふるさとで周りの自然も豊かでいいところですよ。またぜひお出かけください。
かわちゃんさん

お返事有難うございます。

角間温泉でしたか。ここに泊まったときは冬で、露天風呂に入ってたら雪が降り出してきて、とても雰囲気がよかったです。
旅館の裏の断崖を登っていくと、猿飛佐助修行の地というのがありました。たしかに険しいところでしたが、さて史実かといえば、?ですね(笑)。

真田本城は下から見ると、尾根に階段状の曲輪がくっきり見えますね。私も登りました。
眼下にたしか戸石城が見えました。すごく眺めがよかったことを覚えています。
有名な神川が意外に小さな川で驚いた覚えもあります。
かわちゃんさん、ダンダンさん>>

いつもコメント有難うございます。
真田町は塩田平、上田など近くまで
行く事がしばしばあるのですが、
通り過ぎてしまっておりました^^;;;
今度は是非訪れたいと思っております。
実は島津義久公だけでなく、武田信玄公も
好きなので・・・・
そういえば、武田家中興の祖、武田信武も
薩摩に所領を得ていますね。薩摩武田家と
いうのがあったらしいですが、戦国時代に
は一体どうなったのでしょうか・・・・。
>ダンダンさん
お返事ありがとうございます!
舞鶴城の公園、のどかですね。
ほんとに行くべきでした〜。
大分の臼杵城に行かれたことがあるのですね。
嬉しいです。
でも特に何も残っておらず、舞鶴城と同じような感じですよね・・

私の写真にもしている岡城は城構えも石垣も結構立派に
残っていて見応えがあるのですが、
何せ行きにくい場所ですのであまり人気がないようですね(汗)。
島津家久が敗退したのがよくわかりました(!?)。

鹿児島の方の修学旅行が大分なのですかぁ。。
ちょっとびっくりです。
別府温泉や湯布院は今でも人気がありますよね。
でも本当はダンダンさんが行かれたような磨崖仏や
冨貴寺などのほうが大分ならでは・・なので
もっと有名になって欲しいのですが。。
塔子さん

臼杵城は石垣や櫓が残ってましたね。といっても、宗麟の時代ではなく、江戸期の稲葉氏が作ったものでしょうけど。

そうそう、城内に宗麟がポルトガルから入手した大砲「国崩」のレプリカが置いてありました。等身大でなかなかの迫力でしたね。
この大砲が寄手の島津軍に火を噴き、柳の木だったか楠だったかを吹っ飛ばして多数の兵士をなぎ倒したので、驚いた島津軍は大砲の射程外まで退却したそうです。
あのレプリカは島津軍の陣所の方を向いていたのかな?

岡城……。
前から行きたいと思っていた所です。高くて立派な石垣で有名ですよね。滝廉太郎の「荒城の月」の舞台とも言われていますね。
次の機会があれば、ぜひ行ってみたいです。島津方が攻めあぐんだという史実を肌で実感したいものです。

中学の修学旅行で行ったのは、もう何十年も前です。今でしたら、中学生でも九州の外に行くのではないでしょうか。
それでも、血の池地獄を見たり、高崎山の猿を見たりしたのはよく覚えていますよ。
塔子さん、ダンダンさん>>

書き込みありがとうございます。

臼杵城の国崩しのレプリカ、私も見にいきましたよ^^。
大砲の前で撃たれるポーズのオマヌケな写真が残っています
が、恥ずかしいのでUPしません(笑)。
あと、何故か靖国神社内の遊就館という所に、義久公が鹵獲
したという、この国崩しのレプリカが置いてあります。
なんでしょうかねぇ・・・・^^;;
もゅはくさん、こんばんは。


靖国神社の遊就館に展示されている国崩のレプリカ、私も見たことがあります。ほんとに島津方が鹵獲したものでしょうかね?

あのような仏郎機砲は江戸時代になると、多数輸入され、大坂の陣や島原の乱でも活用されています。また国産砲もあったようですから、それらのうちのどれかがモデルになったのではないでしょうか。
ひょっとして、遊就館のと臼杵城のとは同じ鋳型で造られているのではないですか?
 みなさん、こんにちは。

 鹿児島の島津義久公の墓参りをしてきました。。。
あっこちゃん@六文銭様
鹿児島の旅お疲れ様です。福昌寺に行けば、島津義久公のお墓に参ることができるのですね。神々しいお墓だと思います。
写真アップありがとうございます。なかなか薩摩は遠くて行かれないので、こうして写真を拝見するだけでもありがたいです。
 サキさん
 かわちゃんさん

 レス有難うございます。福昌寺跡はとても広くて、しかもかなり雨が降っていたので、全部は回れませんでした。
 島津の各家の系統ごとに、墓の場所が違います。
 そのほか、義久の親兄弟の墓も撮ってきましたよ。
 転勤で鹿児島に来て鹿児島の観光スポットと温泉にハマり、鹿児島の観光スポットと温泉を紹介するHP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
を運営している者です。歴史が好きなので、鹿児島はとても楽しいです。

 鹿児島市内の観光スポットはどうも幕末明治維新期に比重が偏よるような気がしているのですが、島津義久とその兄弟が活躍した時期もキラキラと輝いているので、市内の観光スポットでは、戦国時代に焦点を当てたものがあっても良いのにな、と思います。また、歴史が売りのこの街で、廃仏毀釈で寺院が全滅したのは残念です。福昌寺も廃寺になっていなかったら、市内の主要な観光スポットになれたのにな、と思います。写真右側が福昌寺跡にあった往時の福昌寺の絵図の看板です。
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKAN56.HTM
 私も福昌寺跡に行ってきました。上述HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」内に、福昌寺跡の訪問記も載せております。

当コミュの県外の方で福昌寺跡の場所や交通アクセスをご覧になりたい方は、上述訪問記に地図付きで案内も載せております。
皆様、書き込みありがとうございます。

ダンダンさん:
なるほど、鋳型が一緒のものだったら面白いですね^^。
今度行ったときにまた確認してまいります。

あっこちゃんさん:
福昌寺跡、行かれる時に迷われませんでしたか?
私は玉龍中学・高校という目印があったのにも関わらず
方向音痴の為に迷いました(^^::::)。
島津久保の墓に猫がずっとよりそっていたのが印象的でした。
Wikipediaによると、福昌寺には再建計画があったようですが
頓挫してしまったのですね。本当に残念・・・・
写真は桐野作人氏の「島津義久」にも登場する、正妻かつ
実の叔母さんこと花舜妙香夫人のお墓です。
義久公はいわゆる政略結婚をしていないのが興味深いです。

サキさん・かわちゃんさん・Haegyeongさん:
来鹿の折には是非行かれる事をお薦め致します(^^)。
ちなみに島津斉彬公の墓所は義久公の比ではない巨大ぶり
です(笑)
ちなみに関西圏にお住まいの方は京都・新熊野観音寺や
高野山に義久公の逆修塔、本能寺に妙蓮夫人(後妻)の
お墓があります。はじめは「何で京都の、しかも本能寺に
お墓が?」と思いましたが、妙蓮夫人が種子島家出身で
あり、本能寺が当時の日蓮宗の一派の総本山だったという
話を聞いてから納得がいきました。

カミタクさん:
ご丁寧に有難うございます(^^)。
義久公のお父さん・島津貴久公の菩提寺・南林寺は墓地だけ
を遺して廃寺に(墓地には調所広郷のお墓がありました)、
大中寺にのこっていたといわれる文書などは戦災で焼けて
しまったそうです(お寺さんに伺った話から)。とても
残念ですねぇ(;;)。
義久公関連の墓石を3つばかりUP致します。

1 京都新熊野観音寺境内にある、島津義久・平田増宗
  ・山田有栄仲良し3人組の逆修塔です。

2 同じ境内にある、島津家とは浅からぬ仲の近衛家の
  お墓です。

3 通称、石塔3姉妹(笑)。一番上にあるのが妙蓮夫人の
  ものです。下の宝筐印塔の火輪には菊の紋が入っていて
  お洒落ですね。中の多宝塔には、どこからの宝筐印塔の
  火輪から上が後補されているようです。
はじめまして、大河ドラマ馬鹿のどぶそんCHです。
桐野先生の本、私も読みましたよ☆
大河で義久やるなら、絶対桐野原作っしょ。

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