【司法卿】江藤新平【佐賀の乱】
幕末維新激動の時代に、近代日本のグランドデザインを描きながらも、大久保利通の姦計に遭い、志なかばにして死地についた江藤新平。
江藤の短い生涯を辿りつつ、急速な近代化の中で見失われた江藤の「理想」とその功績を検証します。
<江藤新平プロフィール>
天保5年、佐賀藩(肥前藩)の下級武士の子として誕生。実家は貧しく、苦学しながらも藩校・弘道館では成績優秀。
文久2年、倒幕に消極的な藩の意向に嫌気がさし、脱藩。上京し、長州の桂小五郎などと接触するも、2ヶ月で帰郷。藩主・鍋島直正(閑叟)の直裁により脱藩の罪である死一等を減じられ、永蟄居に処される。(後に罷免)
王政復古後、佐賀藩より新政府に派遣される。戊辰戦争時、岩倉具視へ江戸への遷都を献言する。(のちに明治天皇の行幸で実現)
一旦、佐賀藩へ戻るも再び中央政府へ参加。のちに司法卿、参議などを歴任する。
特に司法制度の導入に尽力。民法編纂、裁判所の設置等に取り組む。
持ち前の正義感から、「山城屋和助事件」(山縣有朋)、「尾去沢銅山事件」(井上馨)といった新政府内の汚職事件を徹底的に追及する。
明治6年、「征韓論」に端を発した「明治6年の政変」では西郷隆盛、板垣退助らと共に下野。翌7年1月に民選議院設立建白書に署名し、愛国公党を結成。
しかし翌月、副島種臣らの説得に耳を貸さず、故郷・佐賀へ帰郷。不平士族に首領として祭り上げられ、「佐賀の乱」が勃発するも大久保利通率いる政府軍に制圧される。
敗走先の高知県にて捕縛。大久保の姦計により、十分な審議も行われぬまま、除族の上、斬首・梟首される。享年41歳。
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